中学校公民教科書の部落問題記述の問題点

中学校公民教科書の部落問題は大問題
-部落問題解決の到達点を無視、認識は同対審答申のまま-

2011.9.24.
柏木 功(大阪教育文化センター「人権と教育」部会)

1.はじめに

 中学校教科書の部落問題記述の問題点は、2005年8月に小牧薫さん(大阪歴教協委員長)が論評されている。
 今回、2012年から使用される中学校教科書の採択が行われたが、社会科公民(中学校3年生が学習)教科書の部落問題記述は、なんら変化なく、大きな問題がある。 “中学校公民教科書の部落問題記述の問題点” の続きを読む

大阪における同和教育終結への課題(1998)

大阪における同和教育終結への課題(1998)

 矢田事件以来吹き荒れた大阪における解放教育、運動団体と行政が加担した誤りの責任は余りにも重い。すべてを差別という視点に矮小化したところに誤りの根源がある。

「どの子も伸びる」1998年4月掲載

1.「解放教育」の発生と大阪

 1969年に引き起こされた大阪の矢田事件、それは部落排外主義の台頭のもと、「同和教育」を「解放教育」と改称し始めていた「解同」中央本部の方針のもとで、必然的に引きおこされた事件と言えるのではないだろうか。

 矢田事件とは「組合員の皆さん、労働時間は守られていますか。進学のことや同和のことなどで……」という組合役員選挙での挨拶状が一方的に差別文書とされ、記載者が「解同」府連幹部等二百人以上から脅迫、つるし上げを受けるといった事件である。

 裁判の結果は、結局、最高裁で「解同」幹部に有罪、また、差別と断定し強制配転、研修を押しつけた大阪市教委にも賠償命令が確定した。この事件の引き起こされ方一つを見ても、「解放教育」が、部落排外主義の部落解放運動の忠実な僕であったことがわかるのではないだろうか。

 それでは、裁判の結果が示したように、教育の分野で「解放教育」は正されているのだろうか。決してそうは言えない。大阪市教委はなお、矢田事件に対する謝罪を行っていないし、大阪府教委は解放教育研究会の編集による解放教育読本「にんげん」の無償配布を続けている。

2.解放教育読本「にんげん」と大阪

 雑誌「部落解放」第10号(1970年10月発行)は、解放教育読本「にんげん」の出発点を特集していて興味深い。まず、その中のいくつかの文章を紹介する。

 「にんげん」は全国解放教育研究会の編集によるものである。この「会」は部落出身教師と部落解放運動にかかわる教師・活動家によって組織されており、部落解放同盟中央本部教育対策部に属した研究組織である。だが、編集・作成にあたっては多様な要求が結集され、多くの組織が関係してすすめられてきた。

 現在の教育の内容と体制が、部落差別に全く無関心であるばかりではなく、明らかに差別を容認し、さらにこれを助長するものであることは繰り返し述べてきたところである。それは検定教科書のいずれを取り上げてもただちに指摘できる。学習指導要領はその内容において差別性をもち、その拘束性において解放教育創造のための教育現場 の闘いを圧迫し続けてきた。

 「にんげん」は権力によって他律的におしつけられたものではなく、逆に権力による不当な教育支配を打ち破る武器として積極的に活用できるものであり、すでにのべた通り、解放教育をすすめるために私たちが作成に参加し、その無償配布を要求したものである。  「にんげん」の内容は、教科の領域、集団指導の領域、部落問題、部落解放運動にかかわるものによって構成されている。それは、いずれも今日の解放教育の諸課題と解放運動の状況を、子どもの発達に即して教材化されたものである。

 これらの文章は、解放読本「にんげん」がつくられた出発点をよく表している。

 しかし、そもそも、部落解放の武器として行政に読本の無償配布を要求することが正しいことであったのだろうか。しかも、運動団体に所属する研究部によって編集されたものを。いくら教科書検定や指導要領に差別性と拘束性があったとはいえ。

 部落排外主義の糾弾路線は、府教委を屈服させ、無償配布をさせたのだが、これこそ教育の自由と自主性を奪っただけでなく、以後推進された「にんげん」実践は、部落問題の特殊化、肥大化の大きな要因をつくり出し、かえって部落問題解決への障害を生み出したのである。大阪ではまだ、それが是正されていない。

3.不公正・乱脈の同和行政と大阪

 同じ雑誌「部落解放」(第10号)のグラビアは、学校建設運動の成果として、○○○中学校の写真を掲載している。35人学級の普通教室、廊下は幅3・5メートル、LLの施設のついた英語教室、そして冷房付の講堂、その下に食堂という具合である。

 果たして、学校建設運動の成果と言えるのだろうか。同じ時期、77億円をかけてつくられた大阪市○○区○小学校には、1000人収容の大食堂やプラネタリュームまでがつくられている。(当時、普通の小学校の建築費は5億円前後)言うまでもなく、このあまりにも異様なコントラストを生みだしたものが、「窓口一本化」行政であった。

 「原罪論」「償い論」を武器に、「解同」が同和行政を自らの管理下においていった結果であった。

 それでは現在、そうした窓口一本化行政は是正されたのかと言えば決してそうではない。大阪府同和対策促進協議会(府同促)、各市同和対策促進協議会(市同促)方式のもとで、補助金、助成金、交付金が湯水のごとく使われているのである。

 1995年度の大阪府の教育にかかわる同和予算を以下紹介すると、同和加配人件費(約62億円)、「にんげん」購入費(約1億円)、府同教補助金(約1000万円)、全同教大会補助金(約1000万円)、部落解放研究所運営補助など研究事業費(約4000万円)である。

 市町村へいけば、市同和教育研究会への交付金、人権啓発協議会への交付金とあげればきりがない。
4.解放教育推進の大阪府同教と各市同教

 「差別の現実かち深く学ぶ」と称して運動を学校教育へと結合させ、「差別の現実に立ち向かい、それを変革していく子ども」と称して、解放の戦士を育てる取り組みが「にんげん」の配布とともに、大阪府同教と各市同教によって推進されている。

 大阪府同教は毎年、「にんげん」実践研究集会や府同教研究大会、そして夏期一泊研を開催し、月一回府同教通信を府下の教職員全員を対象にして配布している。その内容たるや、「同和教育を軸に、教育改革の大展開を」とか、「出会いとつながりを求めて」とか、これまでの「同和原点論」ひきずりながら、反差別だけでなく多文化、共生という視点を加えている。

 最も茶番に思えるのは、すべての研究費を大阪府に依存しながら、その府に対して「同和加配」交渉にのぞんでいることである。府同教通信には、「法のあるなしにかかわらず、差別があるかぎり施策は必要」という府教育長の答弁をかち取ったとはずかしげもなく写真入りで報告している。

 各市同教も府同教とほとんど同じ方針で運営され、法が切れた今年3月以降も、「人権教育の重要な柱として同和教育を推進する」としているところが多い。

 いずれにも共通して言えることは、人的にも財政的にもすべて府や市に依存しながら、府教委や市教委に自らの主張を押しつけているのである。府教委や市教委も心得たものでそれを活用しているのである。府教委から毎年出される「同和教育のための資料」や各市で発行されるパンフレットは府同教や市同教で報告された実践がそのまま載せられているのを見ても一目瞭 然である。

5.「人権教育」への転換と大阪

 1995年、第49回国連総会で「人権のための国連の10年」が採択された。それを受けた日本政府はいち早く反応し、翌年国内行動計画を策定した。この背景には、言うまでもなく、1997年3月末の同和事業法の期限切れから人権擁護施策推進法の成立へと移行する政府の動きがあった。一言で言うなら、解同の要求してきていた「部落解放基本法」の落としどころとして、国連十年、人権擁護施策推進法に軟着陸させたのである。

 文面を比較すればわかるが、国連10年の内容は人権に関する情報提供や包括的な人権について述べているが、国内行動計画では人権概念を差別意識の問題に倭小化し、しかも啓発や特別な人権教育を強調しているのである。つまり、国連の提起を、人権擁護施策推進法と似たものに歪曲したのである。

 この国内行動計画を全国に先がけて実施に移そうとしているのが大阪府であり、昨年三月に大阪府は行動計画を策定した。そこでは、学校や職場における人権教育の推進としてより体系的、実践的な人権プログラムの必要性と、対象者がより主体的に参加できる手法を求めている。  現に今、それに沿って「人権教育」を特別なものとしてカリキュラム化してきている学校が現れている。

 国連の人権10年は1995年から2004年である。国連の提起する人権の拡大のためにも、歪められた行動計画を批判し、同和教育の終結の取り組みをすすめることこそが大切である。

身分制度・部落問題の授業にどう取り組むか(2005年)

身分制度・部落問題の授業にどう取り組むか
  - 新中学校教科書の部落問題記述を批判する -

小牧 薫 2005年8月

1.2006年度用中学校用教科書の問題

 身分制研究の進展と部落問題の解決、同和教育の終結をうけて、教科書の記述は変わったのでしょうか?

 1972年の小学校教科書に「その他の身分」として「賤民」についての記述がなされ、74年の中学校歴史教科書には、「えた・ひにん」について詳しく記述されるようになりました。それから30年以上たつのですが、小・中の教科書は基本的には変わっていませんでした。その間、鈴木良さんが『教科書のなかの部落問題』(初版1989年、改訂増補班90年,部落問題研究所)で、小・中学校の教科書批判を展開されました。私たち歴史教育者協議会の会員も旺盛に教科書批判を続けてきました。そうした甲斐もあってか、2006年度用の教科書のなかには大きく改善されたものもあらわれました。しかし、まだ旧態依然たるものもありますし、政治起源説を払拭しきれないものもあります。帝国書院の教科書は、2002年度用で「ケガレ」説を書きましたが、今回の改訂でも、その内容は変わっていません。また、いくつかの教科書が「現代の課題」で、いまだに同対審答申を引用し、「部落差別は根強く残されている」というような記述をしています。

 現行の学習指導要領(99年版)の問題点については、すでに多方面で批判されています。なかでも社会科の内容は、科学性・系統性を無視して、「国土と歴史に対する愛情を育てる」ことが目標に盛り込まれたように、いっそうの改悪がすすみました。そのうえ、歴史修正主義者たちの攻撃や文部科学省による教科書記述に関する介入・干渉によって、教科書会社の自主規制もおこなわれ、日本の侵略戦争の実態、なかでも日本軍慰安婦、南京大虐殺、沖縄戦などの記述はおおきく後退させられました。97年以来、教科書問題というと、「つくる会」などの攻撃による教科書記述の改悪、「つくる会」の扶桑社版中学教科書の採択問題があげられますが、いまだに近代以前の身分制と部落問題についての記述は捨ておけない重要問題です。

 2006年度用の中学校教科書採択が終わり、「つくる会」の扶桑社版『新しい歴史教科書』の採択率は0.4%にとどまりました。市民の良識の勝利ではありますが、5000冊近くが子どもたちに手渡されます。日本の侵略戦争肯定、天皇中心の教科書で学ばされる問題もありますが、この教科書の身分制度と部落問題の記述も大きな問題をもっています。そして、採択率51.2%の東京書籍(以下「東書」)も、身分制度と部落問題に関する記述内容に大きな問題があります。

 本稿では、部落問題・民族問題についての記述がどう変化したのを明らかにするとともに、中学校の歴史や公民の授業でこの問題をどう扱うべきかを提起してみたいと思います。

2.2006年度用中学教科書の身分制度と部落問題についての記述

 前近代の身分制度と賤民身分に関わる記述は、「中世の文化」での、「河原者」、「江戸時代の身分制度」、「身分制のひきしめと差別撤廃を求める動き(多くは「渋染一揆」を記述)」の三ヵ所です。記述量の多いのは、大阪書籍(以下「大書」)と帝国書院(以下「帝国」)の二社のものです。一方で、日本文教出版(以下「日文」)は「河原者」について、扶桑社は「身分制のひきしめと差別撤廃を求める動き」について触れていません。

 「戦後の部落解放運動」も帝国と扶桑社は触れていません。「現代の課題」で部落差別について扶桑社と日本書籍新社(以下「日書」)は書いていません。

 このように教科書がとりあげる事柄についても、今回の改訂で大きな違いが出ました。それは執筆者の考えも反映しての結果とも思いますが、文科省による規制強化のせいだと思われます。文科省は、「つくる会」などの要求もあって、あらたに「検定結果の発表以前に白表紙本(検定申請本)を漏出させてはならない、もし、漏出が判明すれば教科書検定事務を中止する」という規則を、各教科書会社に通知しました。そのため、以前は、他社の白表紙本を検討し、書き直しをしていたことができなくなり、各社の判断で改訂作業をおこなった結果だと考えられます。また、文科省が、いわゆる「横並び」を求める検定をやめたことで、大きな違いが出てきたものと推測されます。

 いずれにしても、現在発行されている小・中学校の教科書の賤民身分についての記述は、分量が多すぎることと、内容も科学的な歴史研究を反映したものは少ないという問題を残しています。97年度用の教科書はどの社のものも300ページを超える分量でした。02年度用からは、200ページほどに薄くなりました。たしかに判型が大きくB5版となりましたが、写真や図表が大きくなり、左右に側注が付けられたため、1ページの文字数はどの社のものもほとんど変わっていません(扶桑社は06年度用からB5判に改訂)。ですから、文章は三分の一に厳選されたのです。ところが、身分制や部落問題についての記述量はまったくと言っていいほど変わっていません。「部落問題記述の特殊化、肥大化」と批判したことが改善されていないのです。特定の運動団体の要求や憲法・教育基本法に反する文科省の指導や検定が大きな原因だとは思いますが、教科書会社の営業政策や執筆者の自己規制も原因だと考えます。

3.身分制度・部落問題学習をどうすすめるか

 東上高志氏は「社会科と部落問題学習」(『別冊 教師のはぐるま 2』1975年)に、「部落問題学習の基本構想」を書かれています。そこでは、「教科書通りに、しかも資料を補強しながら、学習していきます。それが『封建社会の確立』まで進んだと仮定します。その学習のすんだ時点で、5時間か6時間を設定し」て、「部落は、いつ、誰が、何のためにつくったか」を教えることを提案されています。私自身も、「部落は、いつ、誰が、どのような必要性から、つくったのか、を科学的にとらえさせることはたいへん重要な課題である」と書いたことがあります(『部落』 366号 78年5月)。この考えが克服されるまでに長い時間がかかりましたが、今ではそうした教育実践が誤りであることがはっきりしています。

 東上氏も雑誌『部落』(554号 92年9月)で、「部落問題を正しく理解することは、本来、青年期教育や成人教育の課題であったにもかかわらず、それがストレ-トに子どもたちの学習課題にもち込まれたのである。ここから部落問題学習は新しい段階に入った」。しかし、その誤りが克服され、「小学校では部落問題を教えることはしない。教科書には部落問題を記述しない。現行教科書の記述を無視する。中学校においては部落問題だけをとりだした『特設単元』的なやり方はしない。ましてクラス担任がホームルームで特別な指導をすることは誤りである。」と書かれるようになりました。そして、私も出席した雑誌『部落』562号(1993年4月)の「部落問題学習をめぐって」の座談会で、勝山元照氏が「今日の部落問題は数学でいうたら微積分ぐらいむずかしい学習課題です。小学生は四則計算、中学生は関数というふうに習って微積分に進むわけでしょう。小学生にいきなり微積分教える人いてないでしょう」と述べ、前近代の賤民身分、近現代の部落問題についての学習は、義務教育段階で完結させる課題ではなく、高校生が社会問題について充分考えられるようになった段階で学習すべき課題だということで一致しました。

 部落問題という複雑な社会問題を学習するのは、青年期教育や成人教育の課題であるということをふまえたうえで、近世社会の学習において賤民身分のことをどうするかがつぎの課題です。

 私は、このことも小学校では教えない、教える必要がないと考えます。南部吉嗣氏は、「小学校社会科の部落問題学習について」(『どの子も伸びる』 1984年3月号)で、「とりたてて被差別部落の成立、歴史的経過、現状といった部落史を明らかにするということは目標にしない」としたうえで、小学校の歴史の授業の目標をつぎのように述べています。「(1)日本史全体をそれぞれの時代区分に従って大きくまとめ、その時代の具体的なイメ-ジを豊かに描き出させる。そのための教材の組み立てに工夫をする。(2)各時代を大まかに比較して、それぞれの時代のちがいがわかるようにさせる。(3)そのことを通じて、民衆のくらしやたたかいの方法が時代の発達とともに、進歩、発展していることが確認できる」と。

 小学校では、近世社会の成立で賤民身分については教えない。教科書の記述も無視する。秀吉の検地・刀狩によって、武士と農民が分けられ、住いも固定されたが、農民たちは長い間願っていた土地に対する権利を獲得し生産を高めることによって生活を向上させる道がつけられたことを教える。幕府や諸藩にとっても、生産が高まることは年貢収入が確実になるので、農業振興策をとるとともに、農民(本百姓)が没落しないようにさまざまな制限を加えたことを理解させる。これが近世封建社会成立期の目標です。

 中学校の歴史教育は、はじめて日本の歴史を世界の歴史と関連させながら学びます。人類の誕生から現代までを通して社会の変化・発展を学ぶ機会でもあります。

 ですから、階級とか身分ということを前近代の学習でつかみとらせることが大切です。日本民族の形成ということについても学ぶ必要があります。また、幕府権力が北海道から沖縄までを支配するようになったことも欠いてはならないことです。織豊政権から幕藩体制のもとで、百姓たちはどんなくらしをしていたのか、どんな願いをもって、どう行動したのか、それに対して権力は支配体制を維持するためにどんな政策を実施したのか、基本は、武士と百姓を中心にしてとらえさせることが目標です。そのためには、身分制社会についてわかることが条件になります。身分制度とは何かということは中学生にとっては、むずかしい課題ですから、そんなことは抜きにしてよい問題です。しかし、武士と百姓、町人、賤民というように身分ごとにわけて支配されたこと、そのおのおのがどんなくらしをしていたのか、身分と職業・居住地は一体のものとして固定されたこと、それに対するたたかいが日常の生産活動を含めて展開された事実を知ることが中学で学習するなかみだと考えます。このことを地域の資料をもとにして具体的に学びとらせるのが、中学の歴史教育です。

 高校では、はじめて被差別身分の成立についてより具体的に学習することになります。中世賤民のなかで非人と呼ばれた人々の一部がかわた・さいくなどという呼称で、百姓とは区別されて権力によって把握されたこと、かれらの職能と役務がどういうことであったのか、結婚・交際が禁じられたというが、百姓・町人との間に差別があったのか、なかったのか、事実に則して学びとらせるようにしなければなりません。そして、けっして時代をとびこえて、江戸時代の中・後期の身分差別を混同して教えないようにすることが重要です。また、身分制にこだわるあまり、基本的な生産関係である武士と百姓の関係を軽視して、賤民身分の学習に重点をおくような誤りも犯してならないことです。

 「部落差別の歴史的な起源、分裂支配という政治的目的でつくられたことを避けようとし、あるいは歴史的起源をあいまいにしようとするとして」「部落差別を残してきた行政の責任」を追及するために、いまだに政治起源説を主張したり、時代を越えた「ケガレ観」「差別観」などという意識や観念などを主軸にして「差別・非差別」の歴史をそのまま「部落史」に置きかえる考えなども出されています。

 「ケガレ観」「差別観」が、いったいだれのどのような観念なのかを解明せずに、「被差別民衆の歴史」を描き出そうとするのは、科学的な態度ではありません。

4.近代以前の身分制度の記述について

(1) 刀狩りと江戸時代の身分制度について

 新中学校教科書のなかでもっとも大きく変わったのは、大阪書籍(以下「大書」)です。「刀狩」と「江戸時代の身分制度」の記述は、つぎのようになりました。

※ 2006年度用 大阪書籍 『中学社会』〈歴史的分野〉

 刀狩 (前略)刀狩と検地によって、一揆などの百姓の抵抗を防ぎ、武士と百姓とを区別する兵農分離を進めました。さらに、百姓が田畑をすてて武士・町人(商人・職人)になることや、武士が百姓や町人になることなどを禁止し、武士と町人は町に、百姓は村にというように、住む場所も固定しました。こうして、武士と百姓・町人との身分をはっきりさせて、武士が支配する社会のしくみを整えていきました。

 江戸時代の身分制度 幕府は、武士と、百姓・町人という身分制を全国にいきわたらせました。治安維持や行政・裁判を担った武士を高い身分とし、町人よりも年貢を負担する農民を重くみました。

 さらに百姓・町人のほかに、「えた」や「ひにん」などとよばれる身分がありました。「えた」身分の人々の多くは、農業を営んで年貢を納めたり、死んだ牛馬の処理を担い、皮革業・細工物などの仕事に従事したりしました。また、これらの身分のなかには、役人のもとで、犯罪人の逮捕や処刑などの役を果たす者、芸能に従事して活躍する者もいました。このように社会や文化を支えながらも、これらの人々は百姓・町人からも疎外され、江戸時代の中ごろからは、住む場所や、服装・交際などできびしい制限を受けました。

 こうした身分制は武士の支配につごうよく利用され、その身分は、原則として親子代々受けつがれました。

 また、しだいに「家」が重んじられるようになりました。女性の地位は低くおえられるようになり、特に武家では、子どもを産んで「家」をたやさないことが役目とされました。

上の記述を下の97年版と比較してみてください。

※1997年版 大阪書籍 『中学社会』〈歴史的分野〉

検地と刀狩

 (前略)刀狩と検地は、農民による一揆などの反抗をふせぎ、武士と農民とを区別する兵農分離を進めるうえで、大きな役割を果しました。さらに秀吉は、農民が田畑をすてて武士・町人(商人・職人)になることや、武士が農民や町人になることなどを禁止し、武士と町人は城下町に、農民は農村に、というように住む場所も固定しました。こうして生活のすべてにわたり武士と農民・町人との身分をはっきりさせて、武士が支配する社会のしくみを整えていきました。

江戸時代の身分制度

 幕府は、武士の支配をいつまでも続けるために秀吉の身分制をひきついで、武士(士)と、農民(農)・町人(工・商)という身分制を全国にいきわたらせました。武士は、農民・町人よりもきわだって高い身分とされました。いっぽう、農民・町人のなかでは、年貢を負担する農民を重視し、町人と区別しました。農民のなかには、土地を持ち、年貢納入の義務を負った本百姓と、土地を持たない水呑百姓との区別がありました。町人には、地主・家持と、地借・店子との区別があり、また職人の親方と弟子、商家の主人と奉公人、そして奉公人にも、番頭・手代・でっちなどの序列がありました。

 さらに農民・町人の下に、「えた」や「ひにん」などの身分がおかれました。この人々は、生活条件の悪い所に住まわされ、服装や交際まで差別をうけました。「えた」身分の人々の多くは、わずかの田畑や小作地で農業をいとなみ、死んだ牛馬の処理や皮革業・細工物などの仕事も行いました。また、これらの身分の人々のなかには、役人の下で、犯罪者の逮捕や処刑などの役を課された者もありました。

 このような身分制は、原則として親子代々うけつがされ、農民や町人が、力を合わせて武士のきびしい支配に反抗しないようにするとともに、自分よりまだ下の者がいると思わせて、その不満をそらす役割をはたしたと考えられます。またしだいに「家」が重んじられるようになり、女性の地位は低く押えられるようになりました。

 大書は、90年代以後近代以前の身分制度の記述を部分的にですが改善してきました。それが、今回の改訂でさらに大きく変化しています。

 「検地・刀狩」 は、02年版とまったく変わっていません。97年版でも、「百姓」の用語を使わず、「農民」としたところだけの違いです。

 「江戸時代の身分制度」は、「百姓と村」「町人と町」の項の後に配置しています。たしかに賤民についての記述量が多すぎますが身分制度全体について書いています。本文では、秀吉の身分制をうけついだことを書いたうえで、基本的な身分である武士と百姓・町人について記述し、「えた」「ひにん」の記述につづきます。そして、「幕府は、武士と、百姓・町人という身分制を全国にいきわたらせました。治安維持や行政・裁判を担った武士を高い身分とし、町人よりも年貢を負担する農民を重くみました。えたやひにんなどとよばれる身分がありました」と、農工商の下に置かれた身分という位置付けではなく、それぞれの身分を幕府や藩が把握したというとらえ方に変わり、権力設定説・政治起源説を克服した記述になっています。

 また、97年版にあった「生活条件の悪い所に住まわされ、服装や交際まで差別をうけました」が「これらの人々は百姓・町人からも疎外され、江戸時代の中ごろからは、住む場所や、服装・交際などできびしい制限を受けました」に変わったことは、身分差別が社会的差別であることを明確にしていますし、部落差別が江戸中期以降のものであること、権力によって条件の悪いところに住まわされたのではないという記述に変わっていることは大きな変化です。さらに、仕事のなかに「死んだ牛馬の処理」も含めていたものが、「死んだ牛馬の処理を担い」と役負担であることが推測できるようになり、「役人のもとで、犯罪人の逮捕や処刑などの役を果たす者」とはっきりと役負担であることが書かれたことも肯定できます。

 もう一点、重要なことは小・中に共通するのですが、なぜこのような身分制度を定めたかについて、「分断して支配する」ことで、「不満をそらす役割」をという記述がなくなりました。他のほとんどの教科書はまだこの記述を残しています。そういうことから見て、大阪書籍の02・06年度の改訂は大きな改善だと考えます。

 上の教科書と最も大きくちがう3種(帝国と東書、扶桑社)の2006年度用教科書の記述は以下のようになっています。

※ 2006年度用 帝国書院 『中学生の歴史』日本の歩みと世界の動き

室町・戦国時代の 「いまにつながる生活・文化」の欄外コラム

● けがれと差別はどんな関係があるのだろう

 むかしは,天変地異・死・出血・火事・犯罪など,それまであった状態に変化をもたらすようなできごとにかかわることをけがれといいました。けがれをおそれる観念は,平安時代から強まり,けがれを清める力をもつ人々が,必要とされるようになりました。しかし一方で,かれらは異質な存在として,のけ者あつかいされるようになりました。

 なかでも,河原者とよばれた人々は,死んだ牛馬から皮をとってなめすことや,井戸掘り・庭園づくりなどを手がけていました。これらは必要な仕事でありながら,死や自然の驚異にかかわったり,特別な技能を発揮したりするためにおそれられ,差別されました。「天下第一」と賞賛された善阿弥をはじめとする,庭園づくりの名手も現れ,活躍しました。

 江戸時代の身分制度

 身分制度 江戸幕府や藩の支配が安定したもう一つの理由は、幕府が、豊臣秀吉の時代の武士と農民を区別する政策をさらに進めて、身分を武士と百姓と町人とする制度をかためたことです。そのため、百姓や町人が武士になることはできなくなりました。この過程で、百姓・町人に組み入れられなかった一部の人々が被差別身分とされました。

 〔コラム〕差別された人々 近世の社会にも、中世と同じように、死をけがれとするなど、人間がはかりしれないことをおそれる傾向が強くあり、それにかかわった人々が差別されました。もっとも、死にかかわっても、僧侶や処刑役に従事した武士などは差別されなかったわけですから、差別が非合理的で、都合よく利用されたものであるといえます。

 差別された人々は、地域によってさまざまに存在していました。このうち、えた・ひにんとよばれた人々などは、江戸時代中期から幕府や藩が出す触などにより、百姓・町人とは別の身分と位置づけられました。これにより差別は、さらに強化されました。

 えたとよばれた人々は、農林漁業を営みながら、死牛馬からの皮革の製造、町や村の警備、草履つくり、竹細工、医薬業、城や寺社の清掃などに従事しました。ひにんとよばれた人々は、町や村の警備、芸能などに従事しました。これらの人々も社会的に必要とされる仕事や役割・文化をになってきたのです。

さしえに「雪駄づくり」(大阪人権博物館蔵)を配置

 2002年版であらわれた「ケガレ」観にもとづく差別の発生という記述は改められていません。政治起源説が否定されるなかで、「ケガレ意識根底論」ともいうべき論がたてられ、一部で広まっています。この考えにもとづいた教科書があらわれたのです。

 この記述が2006年版でもそのまま残っています。この論は、ケガレ観念が差別の根底であるとして、社会的・政治的・経済的にみようとするのではなく、意識のみに着目して、ケガレ意識が根底にあって差別が発生したとするものです。

 この論では、支配者だけでなく一般民衆が差別者であり、今日でもキヨメ塩などの慣習と結びつけて死を忌みきらうなどのケガレ意識は、今なおなくなっておらず、部落差別が根強く存在しているという論に導こうとするものです。たしかに、「キヨメ」役を負わされた人々が存在したことは事実ですが、それが生業であったわけではありませんし、中世賤民の共同体からの排除を「ケガレ意識」だけで説明することはできません。また、中世以降「死穢観念」が広められるなかで、一部の賤民が共同体から排除されたことがあっても、「『天下第一』と賞賛された善阿弥」が「」特別な技能を発揮したりするためにおそれられ,差別されました」というのは無理があります。これでは、いつまでたっても「差別」の克服・解消は不可能です。(参考:井ヶ田良治「部落史学習をどのようにすすめるかー『ケガレ論』批判ー」雑誌『部落』676号2001年6月号を参照)

※ 2006年度用 東京書籍 新編『新しい社会 歴史』

 きびしい身分による差別 百姓・町人とは別にえた身分、ひにん身分などの人々がいました。えた身分は、農業に従事して年貢をおさめましたが,それだけでは生活できず、死んだ牛馬の解体や皮革業,雪駄生産,芸能,雑業などで生活しました。そして,役目として犯罪者の捕縛や牢番など役人の下働きを務めました。ひにん身分も,役人の下働きを務め,雑芸能や雑業などで生活しました。

 これらの身分の人々は,他の身分からきびしく差別され,村の行政や祭礼への参加もこばまれました。また,幕府や藩により,住む場所や職業も制限され、服装をはじめさまざまな束縛を受けました。これらのことは、えた身分,ひにん身分とされた人々への差別意識を強める働きをしました。

 東書も、「さまざまな身分とくらし」の節を「武士と町人」「村と百姓」「きびしい身分による差別」と配列しています。「士農工商」の身分差別の記述は消えましたが、その記述は旧態依然たるものであるだけでなく、いくつかの誤りを含んでいます。「えた身分,ひにん身分などの人々がいました」ではなく、かわた(のちに「えた」)やひにんが幕府や藩によって、身分として把握されたのです。そして、農業だけで生活できないから「死んだ牛馬の処理や皮革業,雪駄生産・・・」に従事したのではなく、斃牛馬の処理は役務であり、以前から従事していた皮革業や雪駄生産などの生業とは区別すべきです。後半部の「住む場所や職業も制限され」たのは、賤民身分の人たちだけではなく、この時代には武士も百姓・町人も制限されていたのです。「服装をはじめさまざまな束縛を受けました」ともありますが、江戸時代初期からこうした束縛があったわけではありません。藩が「触」を出すようになるのは江戸中期以後のことです。「これらのことは,・・・差別意識を強める働きをしました」もあわせて、明確に区別して記述すべきです。

※ 2006年度用 扶桑社『新しい歴史教科書』改訂版

 扶桑社本は、「35 平和で安定した社会」2ページで、「身分制度」「村と百姓」「城下町と町人」の3項目とコラムで「身分制度と百姓・町人」の説明をしています。この配列も不適当です。この節で大切なのは、江戸時代の村や町にはどういう人々がくらしており、まず、その人々の関係がどうだったのかを明らかにすることが順序です。支配者によって、強固な身分制度がしかれ、安定した社会が成立したと認識させたいために、このような記述にしたとしか思えません。そのうちの「身分制度」は、つぎのように記述しています。

 身分制度 秀吉の刀狩は、戦乱をおさえる効果をもたらしたが、江戸幕府はその方針を受けつぎ、武士と百姓・町人を区別する身分制度を定めて、平和で安定した社会をつくり出した。武士は統治をになう身分として名字・帯刀などの名誉をもつとともに、治安を維持する義務を負い、行政事務に従事した。▼ こうした統治の費用を負担し、武士を経済的に養ったのが、生産・加工・流通にかかわる百姓と町人だった、このように、異なる身分のものどうしが依存し合いながら、戦乱のない江戸期の安定した社会を支えていた。ただし、武士と百姓・町人を分ける身分制度は、必ずしも厳格で固定されたものではなかった。このほか、公家や僧侶、神官などの人々がいた。▼ こうした身分とは別に、えた・ひにんとよばれる身分が置かれた。これらの身分の人々は、農業のほかに牛馬の処理、皮革製品や細工物の製造にもっぱら従事し、特定の地域に住むことが決められるなど、きびしい差別を受けた。

 コラム 身分制度と百姓・町人  江戸時代には,「士農工商の4つの身分があった」といわれることがある。しかし,「工」(手工業者)と「商」(商人)のあいだには身分上の区別はなかった。

 「士農工商」は中国の古い書物にあるいい方にすぎず,江戸時代に実際に行われていた身分制度は,武士,百姓,町人の3つの身分を区別するものだった。

 江戸時代の身分制度は,職業による身分の区分であり、血統による身分ではなかったから,その区別はきびしいものではなかった。百姓や町人から武士に取り立てられる者も,反対に武士から町人などになる者もいた。武士の家でも,長男が家をつげば、二男・三男らは農家の養子になることもあった。

 町人は,城下町に住んでいる,武士以外のさまざまな職業の人をさし,百姓は,村に住んでいる人々をさした。したがって,城下町で営業する鍛冶屋は町人である一方,「村の鍛冶屋」は手工業者でも百姓でもあり,漁業や林業に従事する人々も百姓だった。だから,「百姓=農民」では必ずしもなかった。

 扶桑社も、文章がやさしくなり、中学生が読みこなせるものにはなりました。しかし、江戸時代を「平和で安定した社会」と見るのは一方的な見方ですし、えた・ひにんだけが「特定の地域に住むことがきめられ」と、事実に反する間違った記述をしています。また、「武士と百姓・町人を分ける身分制度は、必ずしも厳格で固定されたものではなかった」という記述をしていますが、それは百姓や町人が身分制度を切り崩していく動きを示したからで、幕府や藩がそうしたわけではありません。ですから、身分制度がゆらぎだした江戸中期以後身分制のひきしめがおこなわれ、民衆の間での差別が生じるのです。この点からも誤りです。

 中世賎民が存在し、そのなかの「えた」身分などが、近世社会になって権力によって賤民として把握され、武士と百姓・町人の身分制度が確立したのであって、江戸幕府が農民や町人の不満をそらすために賤民身分をつくったというのは、事実に反することで、目的と結果を混同しています。

(2) 渋染一揆の記述について

 渋染一揆については、扶桑社以外のすべての教科書に記述されています。しかし、江戸時代の身分制度の動揺については、大書以外は記述していません。70年代以降、この時期の記述にはえた・ひにんに対する身分差別の強化が強調されていました。また、封建支配の過酷さが強調され、子どもたちは、「江戸時代=悲惨な時代」との認識を植えつけられることになってしまっていました。90年代後半からは、そういった記述はなくなりましたが、一部には渋染一揆を特別に取り出して、賤民の人権獲得のたたかいを強調するものもあらわれてきました。いずれも不適切だと思います。

 生産と流通の発展によって人々のくらしが向上し、身分をこえた交流も含めて、封建的な身分制度が揺らいできたことをおさえたうえで、幕府や藩の反動的な支配政策に抵抗する百姓一揆や打ちこわしが頻発するようになることを学習します。これに対して、身分制度引き締め策の一環として賤民身分にたいする差別政策の強化が打ち出されてきます。ですから、渋染一揆を取り上げるとしても、江戸時代後期の百姓一揆のひとつとして学ぶこと、倹約令に付け加えられた5カ条が認められないというかわた(えた)身分の要求行動(平等の主張)によって、別段御触書の法令を空文化させたことを教えるべきです。中学校の学習で、差別への怒りや憤りをもたせるとか、立ち上がった人々に共感するなどのねらいはまちがっています。一揆後の逮捕者の処遇や人々の交流のなかで自然となされた「茶店のふるまい水」を「身分をこえた連帯」として強調することも必要ないと思います。そういう視点で新教科書を見てみると、大書の記述は渋染一揆でおさえるべき点を簡潔に記述していますが、清水の記述は大きな問題があると思います。

 大書は身分差別強化と渋染一揆について、107ページと136ページの2ヵ所に分けて書いています。

「幕府政治の改革と農村の変化」の欄外

 豊かになる人びとと身分制のひきしめ 「えた」身分の人々のなかにも、広い田畑を経営する者や、雪駄づくりの仕事を行って豊かになる者も出てきました。村の人口も増え、他地域との交易も広まりました。これに対して幕府や藩は、身分制のひきしめを強め、とくに「えた」や「ひにん」などの身分の人々に対しては、人づきあいや髪型・服装について、きびしく統制しました。その結果、人々のあいだに差別意識がいっそう浸透していきましたが、こうしたなかでも、これらの身分の人々は互いに助け合い、結束して生活を向上させていきました。

 (さしえに「雪駄づくり」〈大阪人権博物館蔵〉の写真)

 そして、「江戸幕府の滅亡」のあとの「歴史を掘り下げる」で、「幕府や藩の支配をゆるがした人々」の題で、大阪の国訴、渋染一揆、高杉晋作、久下玄瑞、坂本龍馬を取り上げています。そのなかの渋染一揆の部分は以下のように書いています。

渋染一揆の嘆願書

 わたくしどもは「えた」とはいえ、一般の百姓と同じように田畑を耕して、年貢もきちんと納めています。それなのに、衣服まで差別されては、農業にはげむ気持ちさえなくしてしまいます。わたくしどもは、一般の百姓たちがすててしまった荒れ地までも耕し、女どももぞうりづくりなどの内職にはげみ、少しでも年貢を多く納めるようつとめてきました。紋付の着物を着てはいけないといわれますが、わたくしどもは、新しい着物ではなく、安い古着を買って使っているから紋がついているのです。それなのに、なぜこのようなきびしい倹約令を出されたのでしょうか。ほんとうになげかわしく思います。(一部要約)

 差別の撤回を求めた人々

 1855年,岡山藩は,財政難を解決しようとして倹約令を出しました。とりわけ,「えた」身分の人々に対しては,「新しくつくる衣類は木綿で,しかも無紋・渋染・藍染のものに限る」など,きびしい風俗差別の命令になっていました。そのため,53か村の「えた」身分の人々が団結して反対し,翌年,嘆願書を出しました。しかし,嘆願書が差しもどされたため,20か村あまりから1500人以上の人々が集まって一揆を起こし,3日にわたる交渉の末,藩に嘆願書を受け取らせました。藩は,その後,これらの人々に対する風俗の規制を実施することができなくなりました。

 このように,19世紀の半ばごろから,社会の枠組みをこえて,自由な経済活動や平等な社会を求める動きが盛んになりました。

 清水は、「幕府政治のゆきづまり」に、欄外のカコミで、つぎのように記述しています。

 渋染一揆

 幕府の支配力が弱まってくると,身分差別が強められました。岡山藩では,農民に倹約令を出し,それを徹底させるために「えた」身分とされた人びとに対し,藍染めや柿渋で染めたもの以外の衣類を着ることを禁じました。

 人権をまったく無視した条文に対して藩内50あまりの「えた」身分の人びとが何度も話しあって嘆願書をまとめ上げましたが,期待に反して嘆願書は差し戻されました。話しあいを重ねるなか,ようやく嘆願書を受けとらせることができましたが,この行動は法度を犯すもので,藩の取り調べの結果,12人が入牢となり,そのうち6人も獄死しました。その後,牢内外の「えた」身分の人びとの嘆願運動により,6人は2年後に釈放されました。これは封建制度の時代にあって他に例を見ない人権獲得のたたかいであり,この人間としての尊厳を守りぬいたたたかいの精神は,いまも部落解放運動のなかに生きつづけています。

 清水は、岡山藩の倹約令の全体について触れていませんから、えた身分のものだけに倹約を強いたようにも読めます。そして、えた身分に対する倹約令を空文化させたことは書いていません。それなのに、きびしい刑罰について書き、この一揆を「他に例を見ない人権獲得のたたかいであり,この人間としての尊厳を守りぬいたたたかいの精神は,いまも部落解放運動のなかに生きつづけています」と最大級のほめ言葉でしめくくっています。渋染一揆のとらえ方の問題といい、その扱い方には大きな問題があります。

5.近現代の部落問題記述について

 部落問題は、近代日本の大日本帝国憲法体制の確立とともに成立し、戦後の社会に残存した社会問題です。天皇制絶対主義体制を支える縦系列の支配体制の一貫として、身分差別も温存されたのです。被差別部落民は、賤称廃止令を積極的に受けとめ水利権や入会権、祭礼参加などを実現し、部落改善運動から部落解放運動へと自覚的にたたかいを発展させました。そして、日本国憲法体制のもとで、労働者や農民と結合したたたかいによって部落差別を克服・解消させることができたのです。

 中学校の歴史学習で、とくに限られた時間のもとで、これらのことをすべて学ばせるのには無理があります。しかも、さきにも述べましたように、部落問題は複雑な社会問題で、中学生の学習課題としては無理があります。教科書に記述するとしても、その時々の社会問題と関連づけて、かんたんに触れる程度であるべきです。そして、なによりも大事なことは、長年の運動によって部落差別が克服・解消されたことを認識させることです。その観点から見ると、新教科書の記述内容にはまだまだ問題のある記述が残っています。

(1) 明治政府の身分制度改革について

 明治政府は、天皇を神格化し、1869年の身分制度の改革で、天皇の一族を皇族、公家と大名を華族、武士を士族、百姓と町人を平民としたことをまずおさえます。そして、1871年の賤称廃止令によって、「えた」「ひにん」の呼称と身分・職業・居住地の制限をなくし、平民同様としたことに触れます。さらに、この布告をよりどころにして、旧賤民の人びとが用水権や入会権、祭礼への参加や対等な交際を求める運動をすすめたことを学ぶべきです。不徹底な身分制度改革によって、旧賤民に対する差別がいっそう強まったというとらえ方はまちがっています。

 明治政府の改革では、どの教科書も身分制度改革について触れています。しかし、天皇・皇族・華族や平民について書いているのは、東書、大書、日文の3社で、他社のものは天皇・皇族について記述していません。

 扶桑社と清水の記述には大きな問題があります。

 扶桑社は、明治政府の政策を肯定する立場で、華士族平民だけでなく、旧賤民も平等な権利を保障されたかのように書きながら、旧賤民にたいする「社会的差別は、そののちも長く消えず,さまざまな形で残った」と、天皇制政府は善政をおこなったが、国民が差別を強化したととらえさせようと、具体性のない、差別を強調する問題の多い記述をしています。

四民平等の社会へ

 いっぽう政府は,四民平等をかかげ,人々を平等な権利と義務をもった国民にまとめあげていった。まず,従来の身分制度を廃止し,藩主と公家を華族,武士を士族,百姓や町人を平民とした。そして,平民も名字をつけることを許し,すべての人の職業選択,結婚,居住,旅行の自由を保障した。さらに, 1871年には解放令が出され,えた・ひにんとよばれた人々も平民となり,同等な地位を獲得したが,これらの人々への社会的差別は,そののちも長く消えず,さまざまな形で残った。

 清水は、「身分制度の廃止」を2ページで扱い、「四民平等」「徴兵令」「家禄の廃止と廃刀令」「残された差別」の4項目の記述をしています。天皇・皇族についての記述がないだけでなく、「四民平等」で「江戸時代に『えた』『ひにん』とされていた人びとを身分解放令によって平民とした」と書きながら、「残された差別」で、つぎのように書いています。

 残された差別 こうした一連の改革は、それまでの支配身分の特権をおおはばにけずり、廃藩とともに、社会のありかたを大きくかえるきっかけとなった。ただし、完全に平等な社会ができたわけではない。華族は国家の手厚い保護を受けつづけた。いっぽう、幕藩体制のなかでつくられてきた身分差別の観念は,身分制度の廃止後も人びとのあいだに根強く残った。とくにそれまで,『えた』『ひにん』とされていた人びとは,新しい職業についたり、住所を移したり,教育を受けたりする自由を,江戸時代とかわらず強く制限され差別されつづけた①。政府による公的な経済援助などがなかったこともあり,この差別問題は,いまも同和問題として残され,その解決の取り組みがつづけられている。

 (側注)① 差別されてきた「えた」身分(被差別部落)の人びとの生活をそれまで支えてきたしごとでも,その利益に着目した実業家などによってそのしごとがうばわれた。それに徴兵などの義務もくわわり,より生活に苦しむようになった。また,一部の農民のなかには,これらの人びとが自分たちとおなじ身分になったことで不利益をこうもると考え解放令反対一揆をおこす地域さえあった。

 上の文は、天皇と皇族について書いていないだけではなく、「身分差別の観念は,身分制度の廃止後も人びとのあいだに根強く残った」と、近代における部落差別を「観念」によるものとし、明治の身分制度改革の記述にあわせて戦後のことまで書き、「いまも同和問題として残され,その解決の取り組みがつづけられている」と問題のある記述です。それだけでなく、特殊な事例として、他社の教科書が書いていない「解放令反対一揆」についてまで言及しています。明らかな特殊化・肥大化です。

 それに対して、東書と大書は、皇族について書き、「解放令」をよりどころにした旧賤民の人々の動きについても書いています。

 大書の記述をつぎに掲げます。

江戸時代の身分制の廃止

 新政府は、江戸時代の身分制を改め、天皇の一族を皇族,公家と大名を華族,武士を士族,百姓と町人を平民としました。1871年には,「えた」や「ひにん」などの身分についても,これを廃止するという布告(「解放令])を出しました。また政府は,身分による結婚・職業・居住地の制限を廃止し,すべての国民は,名字(姓)を名のることができるようになりました。こうした政策を四民平等といいます。四民平等は,民衆の願いにこたえるものであるとともに,政府にとっても,納税や兵役などで,すべての国民の協力を得るために必要なことでした。

 しかし,もとの「えた」や「ひにん」などの身分の人々(4)に対しては,職業・結婚・居住地などでの差別も根強く残されました。そこで,「解放令」をよりどころに,山林や用水の利用,寄合や祭礼への参加,対等な交際の要求など,差別からの解放を求める動きが各地で起こりはじめました。

 (側注)(4)こうした身分の人々は,生活改善の施策も受けられず,これまでもっていた職業上の権利を失ったうえに,他の人々と同様兵役や教育費の負担を加えられていました。

 大書の記述も、百姓や町人も生活改善の施策が受けられなかったことについては触れていませんし、「職業・結婚・居住地などでの差別も根強く残されました」と協調していることなど問題は残っていますが、よりましな記述だと思います。

(2) 全国水平社について

 全国水平社の結成についても、全八社とも記述しています。ここで重要なことは、第一に、水平社の結成や水平運動を特別に強調して扱わないことです。第二は、民主主義的意識の高まり、社会主義思想も広まるなかで、全国的な労働組合や農民組合が結成され、小作争議や労働争議がおこされたこと、婦人解放運動が展開されたこと、日本共産党が創立されたことなどと結びつけて全国水平社を扱うことです。第三に、これらの運動が生活のなかに民主主義を実現しようとしたものであったことを位置づけることだと思います。

 全国水平社の結成については、各社とも、1920年代の社会運動の項で扱っていますが、ここでも、配列や記述内容、図版に問題があります。帝国は、「民衆が選ぶ政党による政治」で、「護憲運動」「政党政治と男子普通選挙」「女性参政権を求めて」「治安維持法の成立」のあとに、「都市の発展と社会運動」の節を設けて、「都市の発展と環境問題」「さかんになる社会運動」「解放を求めて立ち上がる人々」という構成で、全国水平社を扱っています。しかも、全国水平社の名前は出しても、日本労働総同盟や日本農民組合、日本共産党の創立は書いていません。男子普通選挙や治安維持法を学習したあとで、労働争議や小作争議、水平社の運動を学ぶのでは混乱してしまいます。

 本文に、日本共産党の結成を書いているのは、東書、日文、日書の三社で、大書、清水は側注にしか書いていません。扶桑社は、「第二次世界大戦の時代」の最初の節の「共産主義とファシズムの台頭」の側注に「コミンテルン日本支部としてひそかに創立された」と書いています。東書の「広がる社会運動」の記述は、先に述べた各界各層の社会運動が組織的に展開されたことを記述していますが、具体性に欠けます。それなのに、「水平社宣言」(部分)、「全国水平社創立大会のビラ」、「全国水平社青年同盟の演説会で、差別とのたたかいをうったえる山田少年」の三枚もの図版を配置しています。あきらかに肥大化・特殊化といわねばなりません。

(3) 戦後の部落解放運動と現代の課題

 戦後の部落問題について詳しく学習することは中学の歴史学習の課題ではありません。日本国憲法を暮らしにいかす運動の展開によって、同和対策のための特別法を制定させ、部落の環境改善が実現し、市民的交流もすすみ、部落内外を分け隔てていた障壁も取り除かれていきました。そうしたなかで、いまでは部落差別が克服・解消の段階にまで到達したのです。このことは、公民の平等権の学習で、具体的に学ぶにしても難しい問題です。ですから、戦後の社会運動の高まりを学習する際に、部落解放運動が再建されたことについて触れることはあっても、詳しく記述する必要はないと思います。

 戦後の部落解放運動と現代の課題の記述は、大きな違いがでました。帝国と扶桑社は戦後の部落解放運動について書いていません。現代の課題で部落問題について触れていないのが扶桑社と日書です。

 大書の「また、全国水平社の伝統を受けついで,部落解放全国委員会がつくられました」は他の運動の記述との関係でバランスを欠いたものだと思います。

 現代の課題で、扶桑社と日書は記述していませんが、他社はつぎのように記述しています。どの社も、「解決しなければならない課題」として、現代の状況を正しく反映した記述にはなっていません。それだけではなく、教出や清水の記述は「意識の問題」として取り上げるという問題を含んでいます。

 東書「部落差別の撤廃は,国や地方公共団体の責務であり、国民的な課題です。」(側注あり)

 大書「国内にも解決しなければならない問題があります。市民と自治の連帯を強め,部落差別,障害者や女性,在日外国人,アイヌの人々などへの偏見をなくし,あらゆる人々に公正で人権を尊重する社会を築くことが,21世紀を生きる私たちに求められています。」(側注あり)

 教出「人類は,長い歴史を通して,差別をなくし,人権と民主主義の確立を求めてきました。しかし、日本にはまだ差別や偏見が残っており,部落差別の撤廃は,国や地方自治体の責務であるとともに,国民の課題です。」

 日文「部落差別をはじめ、アイヌ民族や在日韓国・朝鮮人に対する差別,あるいは,障害者,男女差別の問題もなくなっていない。」

 清水「しかし,人権をたてまえではなく、実質的に保障するためには多くの課題が残されている。近年,物質的に豊かな社会にあって他人の痛みや権利をかえりみない風潮もある。同和問題の解決は,国および地方公共団体の責務であり,国民的課題として,長い間の部落解放運動の発展を基礎としながら, 1965年の同和対策審議会答申を受け,生活改善のための法律が制定されてきた。しかし,いまだ差別はなくなっていない。部落差別は,結婚や就職の機会均等などの市民的権利が保障されていないことにある。この日本固有の人権問題である部落差別解消の取り組みを礎として,実生活に残る性差別をなくすとともに,心身障害者や高齢者,在日外国人などの人びとが豊かで安心してくらせるための具体的な施策が求められている。とくに在日韓国・朝鮮の人びとについては,これまでの歴史の正しい認識をふまえて,差別や偏見をなくすことが必要である。アイヌの人々については,新たにアイヌ文化振興法が制定されたが,偏見をなくし,少数民族固有の伝統を守ることが重要である。」

 帝国「その一方で,日本国内にも解決すべき問題が多くあります。部落差別、アイヌの人々や在日コリアンへの差別,男女共同参画社会の実現などは、基本的人権にかかわる重大な問題です。」

6.中学校公民教科書の記述について

 中学校社会科公民的分野の教科書での部落問題の扱いも大きな問題があります。現に、同和対策(地域改善)の特別法が廃止され、部落問題が克服・解消された段階であるにもかかわらず、各社とも、40年前の「同和対策審議会答申」そのままの文章を残しています。公民教科書では、この部落問題記記述をなくすことが当面の課題だと思っています。

 中学校の公民の学習で、部落問題を取り上げるかどうかについても、十分検討する必要があります。私は、江戸時代の身分制度のなりたちから現代の部落問題解決の状況までを、概説するようなことはすべきではないと考えます。もし、取り上げるにしても、国民の運動によって、環境改善などの部落対策がすすみ、部落内外の交流の進展で、部落差別を許さない社会が築かれたことを学ばせるべきだと考えます。私は、和歌山県白浜町の同和教育読本を参考にしながら、「獅子舞ができるようになった」の資料を作成しましたし、就職差別や結婚差別がどのように克服されてきたかを具体的に学ばせることが大切だといってきました。日本国憲法の平等権学習で、子どもたちにとっての身近な問題は、性差別であったり、民族差別、障害者差別ではないでしょうか。教科書には、そうした問題をどのように解決してきているか、今後どういう問題を解決していかなくてはならないかを記述すべきだと思います。歴史教育者協議会や全国民主主義教育研究会の会員の実践でも、憲法第14条に示された平等権を実現してきた事実を学ぶことによって、憲法を暮らしにいかすことが可能になっていることを教えています。その点で、各社の記述を見てみると、どの社のものも問題の多い記述となっています。

 東書は「人権と共生社会」で、読み物資料をあわせて6ページの扱いです。下の本文にあわせて、側注に「部落差別をなくそう」のポスター、次ページに「読み物資料」として「義足の三塁手と義肢装具士」「友達が教えてくれたこと」(在日コリアンの作文)「アメラジアン」と、「差別をのりこえてー詩 お姉さんへ」で、結婚差別を克服していった姉のことを書いた中学生の詩をのせています。部落問題にかかわっての本文は、つぎのように記述しています。

 差別をなくすために 今日の社会でも,日本社会に固有の部落差別,アイヌ民族差別,在日韓国・朝鮮人への差別が根強く残っています。これらの差別は,根本的には人間の尊厳の原理に反するものです。このような理由のない不当な差別は,一日も早くなくさなければなりません。

 部落差別からの解放 歴史で学習してきたように、江戸時代のえた,ひにんという差別された身分は、明治になって法律で廃止されました。しかし明治政府は,差別解消のための政策をほとんど行わず,その後も、就職,教育,結婚などで差別は続いてきました。

 1965年の同和対策審議会の答申は,部落差別をなくすことが国の責務であり、国民の課題であると宣言しました。そして,対象地域の人たちの生活の改善が推進されてきました。また, 1997年からは、同和対策事業をさらに進めて,人権擁護の総合的な施策が行われています。人権教育などを通じて、差別のない社会が求められています。

 いまだに、部落差別を民族差別と同等に扱い、国の政策を列挙しています。これでは、部落問題が克服・解消の段階に達したことはわかりません。

 大書は、「等しく生きる権利(1)」で、「平等権とは、男女共同参画社会をめざして、障害者とともに生きる社会」について書き、「等しく生きる権利(2)」で、「部落差別をなくすために」「アイヌ民族への差別」「在日韓国・朝鮮人差別」について記述しています。  最初に、下の文章の上に、北九州市の高校1年生が書いた詩(「なぜ、なぜ、なぜ」)が掲げられています。その詩では、「なぜ私たちだけが差別されるのか 就職,結婚,いろいろなことに なぜ私たちだけが 苦しみ,傷つかねばならないのか」とあり、差別を固定的に見ています。そして見開き2ページには、「昔から伝わるアイヌ民族の祭り」(写真)、「全国高校ラグビー大会に初出場した大阪朝鮮高校」(写真)、「国立大学の受験資格が広がることを報じる新聞」(コピー)をのせています。

 部落差別をなくすために 部落差別とは,職業選択の自由や結婚の自由などの権利や自由が,被差別部落の出身者に対して完全に保障されていないことをさします。

 1922年に全国水平社が創設されて以来,被差別部落の人々を中心とする差別からの解放を求める運動がねばり強く進められてきました。その結果、政府の同和対策審議会は, 1965年,同和問題が人間の尊厳にかかわる問題であり,緊急な解決が国の責務であり,国民の課題であるという答申を出しました。この答申に基づき,同和対策事業特別措置法など(1)が制定され,対象地域の生活環境はかなり改善されてきましたが,就職や結婚などで差別がみられます。いっぽう,差別を許さない運動や,学校や社会において差別をなくす教育が進められて,差別に立ち向かう人々も増えています。

 (側注)(1)1982年に地域改善対策特別措置法が制定されるなど,さまざまな施策を経て,1996年には,人権擁護施策推進法が制定されています。

 「差別を許さない運動や,学校や社会において差別をなくす教育が進められて,差別に立ち向かう人々も増えています」と、他社にはない文章でしめくくっていますが、前半部分は同対審答申と特別措置法の説明であり、「就職や結婚などで差別がみられます」と問題のある記述をしています。

 扶桑社は、「29 基本的人権2〈平等権・社会権〉」の「法の下の平等」(1ページ)と「32 私たちの社会に潜む差別」(2ページ)の「社会に残る差別」の部分で扱っています。「社会に残る差別」は、【部落差別】【男女平等】【外国人】【障害者】からなっており、コラムで「『外国人』お断りの店」、「男女の賃金格差」のグラフ、「アイヌの人々」の写真、「DVの新聞記事」を配し、本文ではつぎのように書いています。

 法の下の平等 人間は顔や体格はもちろん,その能力も性格も千差万別である。しかし法はそのようなちがいをこえ,すべての国民に等しく適用されなくてはな らない。▼ 憲法は「すべて国民は、法の下に平等」(14条)であり,人種や性別,社会的身分などによって差別されてはならないと定めている。それは「すべて国民は,個人として尊重される」(13条)という憲法の精神に沿ったものでもある。▼ さらに憲法は,華族などの貴族の制度を否定するとともに,勲章などもあくまで個人の功績を認めるものであり,家柄などにつながるものではないとしている (14条)。▼ しかし,平等権は社会を秩序づけている役割分担や,個人の立場までなくそう としているのではない。▼ また,行き過ぎた平等意識はかえって社会を混乱させ,個性をうばってしまう結果になることもある。憲法が保障しているのは,絶対的な平等ではなく,不合理な差別は許されないということである。

 【部落差別】憲法が禁止する家柄や血筋による差別のひとつに部落差別がある。1965 (昭和40)年には同和対策審議会答申が出され, 1969年には同和対策事業特別措置法が制定された。これらにより同和地区に住む人々の生活はしだいに改善されてきた。また全国の学校や職場の多くでも人権・同和教育が進められてきた。しかし,今日でも結婚などに際して偏見に苫しめられたり,心ない落書きがあるなど,完全には解消されていない。

 社会に残る差別 これまで見てきたように基本的人権の考えに基づいた法や制度により,多くの差別や偏見が取り除かれてきた。しかし,国内には今なおあちこちに不平等なあつかいや不合理な差別に苫しむ人々かおり,その解決は国民的な課題となっている。

 まず、平等権と社会権を2ページで並べて扱うことが問題です。平等権というのは、自由権と社会権の両方にかかわるのに、そういう基本的なふまえないで、並列していることが問題です。しかも、華族制度の廃止以外具体的なことは何も書いてありません。それだけでなく、「社会秩序」の大切さを書き、「行き過ぎた平等意識はかえって社会を混乱させ,個性をうばってしまう結果になることもある」と、平等権の実現を求める動きを抑えにかかっています。これでは、人権学習は成り立ちません。

 もうひとつ、「アイヌの人々」の題で写真を掲げていますが、この写真については、旭川チカップニ・アイヌ民族文化保存会と同会会長の北川シンリツ・エオリパック・アイヌさんらが、「断りもなく本人と特定できる写真を無断で載せることは許せない。差別の項目に掲載するのはアイヌ民族を侮辱し差別する行為だ。」「行事は、実行委員会の要請で行われたもので、アイヌの伝統的なまつりではない」と、扶桑社に抗議と訂正要求をしました。ところが採択終了後も話し合いに応ぜず、ようやく12月になってからの協議で、写真の差し替えと謝罪文の掲示をおこなうという問題もありました。

 日書は、「平等なあつかいを受ける権利」で、「法の下の平等」「ほんとうの平等を求めて」の文と、写真と資料で絵画「フランス革命前の社会」、「女権宣言」について説明し、フィンランドの男女平等法、ノルウェーの「男女平等の本」の表紙を掲げています。さらに、「差別をなくしていく努力」で欄外に、「部落差別をなくしていくために」のコラムを掲げ、「現代社会と差別」「女性差別」「障害者差別」「まだある差別」の記述をしています。 

●部落差別をなくしていくために

 話は少し古くなりますが, 1975年に,全国の同和地区の所在地をのせた『部落地名総監』という差別図書が会社に出回り,入社の採用選考に利用されていることが発覚し,大きな社会問題となりました。

 大阪府では,この『部落地名総監』の売買を契機にして,部落差別につながる悪質な調査などをなくし,同和問題を解決するために, 1985年から「大阪府部落差別事象に係わる調査等の規制等に関する条例」を施行しています。この条例は,同和地区出身という理由で,結婚差別をしたり就職差別をしたりすることを防ぐためにつくられたものです。

 しかし,条例がすべてではありません。わたしたち一人ひとりが,あらゆる差別を「しない、させない,許さない」という人権意識を築きあげていく不断の努力をしていくことが,だいじなことです。

 本文はつぎのように書いています。

 まだある差別 法の下の平等にもかかわらずなお残っている差別も少なくない。日本で長く生活している韓国人,朝鮮人,中国人など定住外国人への差別はその一例である。彼らのなかには,かつて日本が植民地とした朝鮮,台湾から強制連行などで移住させられた人々の子孫もいて,日本で生活を続けているが,就職などで依然として差別を受けている。また,定住外国人には,選挙権をあたえられていないとか公務員になれないなどの制限もある(1)。こうした差別をなくし,制限についてもその実態を検討していく必要がある。

 部落差別 江戸幕府の身分政策でかためられた部落差別は,明治以後になっても残った。1922年の水平社結成以来,部落解放運動によって差別撤廃の運動が進められてきた。戦後は1965年に「同和対策審議会答申」が出され,69年には同和対策事業特別措置法」が制定された(2)。これによって、国や地方自治体の責任で被差別部落の環境改善がかなり進められてきたが,部落への偏見は,結婚や就職の際に依然として残っている。

 ◎話しあってみよう 差別したこと,されたことを,思い出して話しあってみよう。

 (側注)(1)最高裁判所は,日本に永住している外国人の選挙権については,地方自治体の選挙権では肯定的な見解をとり,国政選挙については否定的な見解を示している。

     (2)2003年をもって,この法律は失効し,国としての特別対策は終了した。

 カコミの「部落差別をなくしていくために」でとりあげている、大阪府のいわゆる「興信所条例」=「大阪府部落差別事象に係わる調査等の規制等に関する条例」は、「差別」の認定者、規制対象、解決方法などの点で問題が多く、条例反対運動があったものですし、制定後も差別克服に役立っているものとはいえない条例です。それなのに、内容についての批判抜きにこのように肯定的に扱うのは問題です。また、「部落への偏見は,結婚や就職の際に依然として残っている」という事実に反する記述をしています。

 以上、歴史と公民の身分制と部落問題の記述について詳しくみてきましたが、まだまだ問題の多い記述ばかりといっても過言ではありません。子どもたちに、身分制と部落問題についての正しい認識をもたせるためにも、いっそうの教科書批判が必要だと考えます。

(教科書本文・側注の○数字はJIS外字ですのでホームページ掲載にあたっては(数字)に変えています。)

社会認識の形成

どの子も伸びる研究会 めざすもの

1997年2月 月刊誌「どの子も伸びる」掲載

社会認識の形成

 社会科は、戦前の教育が非科学的な歴史をもとに人間の尊厳や人格を否定し、侵略戦争を遂行するための人づくりであったことに対する厳しい反省のもとに発足しました。そして、子どもたちに自分が生きている社会を見つめ、考えさせながら、主権者国民として育っていくために必要な科学的な社会認識を育てることを中心課題としてきました。

 子どもたちが人間の労働やくらしを見つめ、生産や文化について歴史的・社会的に学ぶことは、先人たちが生活や労働の権利を拡大しながら、生産を高め、くらしを豊かにし、平和を愛し、社会を発展させてきたことを知ることであり、子どもたちの身近にいる父母や地域の人々がそれをしっかりと受け継いでいるのだという事実に触れるこ とです。

 子どもたちは、この学習の過程で、自分のものの見方、考え方を育て、価値あるものは何なのかを判断できる力を培っていきます。そして、価値あるものを引き継ぐ主体が自分であることが自覚化されていくとき、人権認識が形成されていきます。

 日本の教職員は、子どもたちに社会のさまざまな事実を学ばせ、科学的な社会認識を形成していくことが「主権者としての国民」を育てていく基礎になると考え、実践を積み重ねてきました。

 私たちは、科学的な社会認識を子どもたちの発達に即して、系統的に育てるために、次の実践上の課題を重視したとりくみをすすめます。

① くらしの現実を重視するとりくみ

 社会科のこれまでのとりくみの中でもっとも大事にされてきたのは「本当のことを、くらしと結んで・どの子にもわかるように」ということでした。「くらしの現実」から親や家族の労働のきびしさを把握し、その中で「願いや要求」を学び合い、社会認識の基礎を育ててきました。現在、子どもたちは自然とのかかわりや家事労働を含めた 生産労働の体験が乏しく、親の労働を具体的に把握しにくくなっています。それだけに、生活綴方と結んでくらしの事実をとらえ、社会認識を育てる実践を大切にします。

② 地域に根ざした学習を重視するとりくみ

 地域には人々の生活があり、文化があり、歴史があります・したがって、「地域の学習は、単に小学校中学生の学習課題とするのではなく、全学年の学習の中に地域の教材を生かして実践することが大切です。他の地域との比較やさまざまな例証を地域に求める実践を大切にし、学年に応じて地域の変化・発展を事実に即して学習することを大事にしていきます。

③ 歴史学習を重視するとりくみ

 人びとは労働と生産の中で、自分たちのくらしと社会を発展させてきました。その社会の発展法則を歴史的事象・事実、それぞれの時代・地域の生活などから、働く人々の姿を可能なかぎりリアルに学習させることが歴史学習のねらいです。働く人々の姿を歴史的につかませることは人間としてどのように生きてきたかの事実を知ることです。そのことは、未来に生きる人間の指標や励ましになります。

 とくに、小学校では歴史事象の変化や時代ごとのおおまかなイメージをつかませることに重点をおき、中学校では、社会の発展の原因.過程.結果に重点をおいた歴史学習を展開します。

④ 憲法学習を重視するとりくみ

 日本国憲法は二度にわたる世界大戦と平和を愛する世界の人びとの願いのもとにつくられ、人類の多年にわたる努力のたまものとして日本国民に与えられたものです。そこにはあるべき人間の生き方がしめされており、なかでも平和主義的・民主主義的条項は世界に誇り得るものであることを学び、毎日のくらしの中にいかしていく学習を大切にします。この学習の過程で、戦争をはじめとする非人間的・非人道的な事実に対し、正しく判断し行動できる人格が形成されます。

⑤ 社会認識を形成する授業のとりくみ

 子どもたちが日常的に受け入れる社会事象のほとんどはテレビやマスメディアによる情報であり、事象に対する見方、考え方も一方的になり固定化される状況です。教科書はカラフルになっていますが、科学的な認識を育てる内容になっていません。また、歴史の潮流に逆行し、進歩をはばもうとする歴史の記述もあります。その上、低学年社会科を廃止して生活科が設置され、中学校では「選択社会科」が導入され、社会科の時間を削減し新設された「総合的な学習の時間」では現在社会の課題である四領域の学習がすすめられ、科学的な社会認識を育てる教科としての社会科が危うくなっています。こうした実態をしっかりふまえて、授業の内容と方法を工夫し、科学的な社会認識、歴史認識を形成する授業のあり方を追究していきます。

児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについて

児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについて

1982年3月21日 全解連大阪府連第7回大会決定より

子どもの発言などを口実とした教育介入をやめさせる

 吹田・高槻・松原・大阪市内にみられた解同の子どもの発言や落書きを口実にした教育介入は、自由な教育と学校の自主性を守るうえでも、子どもの健全な成長のうえからも絶対に容認できないものです。

 子どもたちの発言やブラク民などの落書きは、そのほとんどが学校における部落問題学習や狭山などの偏向教育のおしつけなどを背景になされたものであり、もともと学校教育と一体のものです。しかも、子どもたちが発達過程の未熟な理解度にあることを前提にしての同和教育になっていることです。

 そこには、未熟な理解や未熟な発言などは当然起りうるものであって、その発言だけを子どもの発達段階や理解度を無視して、とりあげ、解同のように「差別」と断定するなら、小・中学校における同和教育自体が成りたたなくなる(*1)ものです。  これを「差別」ときめつけて事件視して、子ども、親、教師、教育委員会の責任を追求する解同の「確認会」や「糾弾会」は、学校教育を破壊するものであり、学校や市教委がこれに荷担・協力することは、自殺行為に等しいものです。

教育として正しく対処する

 全解連大阪府連は、この間の児童・生徒の発言、落書きを口実にした解同の教育介入をやめさせる闘いに全力をあげるとともに、児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについて、どう正しく対処するかについて検討を重ね、これを次の四つの点にまとめました。

① 小学生・中学生など義務教育過程(*2)にある児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについては慎重に対応する。
② 基本的には未発達な子どもの未熟な発言(表現)としてとらえ、軽々に差別と断定すべきではない。
③ 同時に発言内容については、それを事件視して子どもや親、教師の責任を追求する態度はとらない。あくまでも教育対象として位置づけ教育的観点で部落問題の科学的な認識を深める方向で指導にあたる。
④ 指導にあたって教育と運動を明確に区別し、”確認会”や”糾弾会”に出席したり、これに加担しない。いかなる場合も外部団体からの介入を認めず、学校の自主性、主体性のもとに解決していく。

解説と補足

 こうした全解連の原則的で教育的な立場は、多くの父母、教育関係者の支持と共感を得るとともに、その後の解同による教育現場への直接介入の足を止めるという状況をつくりだしました。しかし一方では、教育委員会や一部「解放教育」派教師と”連携”したたくみな介入・干渉はいぜん強まる傾向にあります。

 解同一部幹部が指向する運動と路線は、すでに破たんずみの「部落排外主義」を基盤に、部落差別の「拡大再生産」論にしがみつき、「部落解放基本法」の制定をめさすことを最大の課題としています。最近では、彼らのいう「拡大再生産」論証明の根拠を「落書き」「文書」「発言」などに求め、「糾弾」と介入をくりかえすという事態が深刻化しています。八二年の「児童・生徒の……」の見解をその後の二つの「落書き」問題見解とあわせて、「解同」の教育介入とたたたかう武器にすることが大切です。また、八二年見解では、その対象を「小学生・中学生など義務教育過程」としていますが、今日の学校教育における歴史学習の現状からみて、高校生を含めて考えるべきことは自明です。

 つけ加えていうなら、高校、さらに大学生の場合は、生徒会や自治会による自主的で自発的な啓発活動の組織化も問題解決の重要な要素となってくるはずですから、解同や「解放研」による介入が問題の正しい解決の障害になることは明らかです。

(*1) この方針が出された当時は、特別措置法があり、特別対策や同和教育の終結を提言する以前であった
(*2) 「解説と補足」にあるように、高校生も含め教育を受けている世代すべてが該当すると考える

再び「差別落書き」問題について

再び「差別落書き」問題について

1983年10月 大阪府部落解放運動連合会 (全解連)

 私たちが発表した「いわゆる『差別落書き』問題について」(=「落書き見解」、6月15付「解放の道」)が大きな反響を呼んでいます。

 ひとつは、「落書き見解」を歓迎、支持する声で、同和地区住民はもとより郵政をはじめ自治体労働者や教育関係者から広く寄せられています。いまひとつは、「見解」の真意や「見解」で示した事実に目をつぶり、よこしまな立場から非難、中傷するというもので、おもに解同一部幹部とそれに迎合する一部の労働組合などからしかけられています。

 「見解」を発表して4ヵ月、「解放新聞」「主張」(9月12日付)に代表される”反論”なども出されている状況をふまえて、ふたたび「差別落書き」についての全解連の立場を明らかにします。
「落書き」は保存・流布するものか?

 解同府連は、ことし(1983年)5月に開いた大会で「落書き事件などが起これば、すぐ消してしまうのではなく、(雨ざらしにしておくことはよくないのでカバーをつけるなどして)大衆的な見学会を組織するなど、日常ふだんに差別に対する怒りを組織することである」との方針を決めました。

 この方針のもと、ことしの四月に大阪市浪速区の栄小学校前で発見された「落書き」を、ベニヤ板でかこい鍵をかけて”保存”しています。そして、「差別落書き事件パネル展」を開催、「周辺地区のパトロールと街宣活動を実施」(大浪橋差別落書事件糾弾闘争本部のビラ)しました。

 解同幹部は、「落書き」を”保存”したり、「見学会」を組織するなど流布・宣伝することでほんとうに差別をなくせると思っているのでしょうか。非常識で人権をふみにじる無法を放置せず、発見したらすみやかに消去できるような体制をつくること、府民がもっている正義感と民主主義、人権意識を高めつちかってゆくことこそ「差別落書き」を根絶する最大の保障です。

 しかも重大なことは、こうした解同の方針に迎合して、一部労組が機関紙などをつかって全解連へのひぼう、中傷をあびせるばかりか、「差別落書き」そのものを流布していることです。

 「大阪総評」(1983年9月11日付)や「自治労大阪」(1983年9月28日付)は、「エスカレートする『差別落書き』」などと大見出しで報道するとともに、「差別落書きの発生状況」をまとめ、府下各地の「差別落書き」多数を日付、場所を明記して原文のまま列挙、打撃的でぶべつにみちた「落書き」を組合員に流布しました。事実にもとづくことが報道の使命とはいえ、こうしたやり方は非常識きわまりないもので、部落差別を拡散・助長することになりかねません。
「糾弾」の事実はないか?

 私たちが先の「見解」で、「落書き」の対象となった施設や場所の設置者や管理者が、「解同」の幹部らにしばしば「糾弾」され、「差別」の「確認」を迫られるとともに無法・不当な要求に屈服させられている実態を重視してきびしく批判したことにたいし、解同の「主張」は、「事実を歪曲」しているなどとあたかも暴力的「糾弾」や無法な要求をしていないかのようにのべています。

泉佐野市役所トイレの落書きで市長を無法な糾弾

 「糾弾会への出席を拒む向江(泉佐野)市長に対し、夜10時ごろ自宅ヘバスにいっぱいの50名の支部員が出席をもとめて闘争を展開し、午後10時40分に、市長を会館にひっぱり出し、差別事件への煮えきらない無責任な態度を怒りをこめて追及していった。深夜2時半までかかる闘争の中で、①差別落書きは泉佐野市に責任があり、加害者は泉佐野市であることをはっきりと認めさせた」(解同樫井支部ニュース、1982年12月20日付)。

 これが暴力、無法でないというのでしょうか。

 「糾弾」のすえ、市長は、市役所地下トイレに書かれた「差別落書き」の”犯人”にしたてられ、「『今後このようなことのおこらないよう反省し、対策をたてて真剣にとりくみたい』と自己批判と決意をのべ」(「解放新聞」大阪版、1983年2月14日付)させられました。この「落書き」の発見者は、解同の事実上の下部組織「泉佐野市役所職員同和問題研究会」の会員、そして「確認」→「糾弾」→「反省」という私たちが指摘したとおりの経過をたどっています。

 また、昨年末に大阪東郵便局でおこった「差別手紙」事件では、数回にわたる「糾弾」のすえ、①「解放研」の育成強化、②部落出身者の雇用促進③勤務解除の追補充、など10項目にわたる要求を認めさせています。(解同飛鳥支部「解放ニュース」、1983年8月1日付)

 こうした一連の事実は、解同の”反論”なるものが無法な「糾弾」をおおいかくす苦しい弁明にすぎないことを証明しています。

 部落差別をはじめとする差別をなくす条件づくりは、他人をはずかしめたり差別することが自らの人権と人格をおかすことになるという社会的環境を府民と手をたずさえてつくり上げること、政治的にも、経済的にも高度な民主主義を達成することです。

 解同一部幹部がさけぶ「差別落書き」にたいする闘争方針は、部落差別の解消に役立つどころか、大きな障害となっています。全解連は、先に示した「見解」の立場で広範な府民のみなさんとともに、今世紀を”部落差別最後の時代”にするために全力をあげるものです。

■関連する記事

いわゆる「差別落書き」問題について 1983年6月 大阪府部落解放運動連合会(全解連)

注文の多い料理店

文学の授業 (5年)  注文の多い料理店

一、作者と作品

 宮沢賢治が童話の創作を始めたのは二三歳の頃からだと言います。「注文の多い料理店」は二六歳(大正一○年)の作品です。

 大正中期というと、第一次世界大戦を受けて日本の生産力は急向上し、都会は好景気到来で成金が輩出した時代でした。農村の人たちは貧しくて物価高に苦しめられていました。労働者の日当は一円にも満たない時代でした。千円で住宅が建ったといいます。村祭りに出かける子どもたちの小遣い銭は、五銭か一〇銭がやっとでした。

 それに対し、作品に登場する二人の紳士は、不猟なら「もどりに山鳥を一〇円も買って帰ればいい」とうそぶき、猟犬の死に対して「二千円の損害だ」「ぼくは二千八百円の損害だ」と自慢げに得意然としています。

 賢治の数多くの作品は死後出版されたもので、生前に出版されたのは『注文の多い料理店』一冊でした。しかも彼の自費出版によるものでした。

 賢治はこの本の「新刊案内」の文章に < 二人の青年紳士が猟に出て路にまよひ、「注文の多い料理店」に入り、その途方もない経営者から却って注文されていたはなし。糧に乏しい村の子どもらの、都会文明と放恣な階級に対する止むにやまない反感です。> と書いています。

 この作品の主題と思想も浮き彫りにされている思いのする文章といえます。三八歳(昭和七年)で亡くなった彼の生涯からすると初期の作品です。

二、教材について

 冒頭の三行で猟にやってきた二人の人物の出で立ちが描かれ、次々と展開する会話から成り上がりの者らしい軽薄さと動物の生命を奪うことに何の呵責も感じないといった物質文明にいかれてしまった人間の本質があばかれていきます。

 若い紳士二人が山中で路に迷い、空腹におそわれていくうちに、見事に山猫に化かされてしまいます。

 「風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました」というくだりから化かされていきます。行きつけの西洋料理店が山中に出現します。しかも看板は漢字と横文字、「山猫軒」とあることからも山猫が経営するレストランであることが、理解できます。

 一回目の読みでは「山猫軒」とは変だぞと気づいても、その実態はわからないように物語は仕組まれています。店にはガラスの開き扉があって、店主からの客への注文がかかれています。

 一つの扉を開けると次々に扉があり、各扉の裏にもなぞめいた注文が次々とあります。

三、指導計画

「なめとこ山の熊」を読み聞かせる。

第一次 段どり(二時間)

第一時 読み聞かせをし、一次感想を書かせる。(一時間)

第二時 背景の説明、難語句調べ、場面割り。(一時間)

第二次 たしかめ読み(八時間)

第一時 題名読みと、料理店に出会う前の二人の紳士の様子と背景を読み取らせる。(二時間)

第二時 料理店に入り、次々に扉を開けていく二人の若い紳士の様子を読み取らせる。(四時間)

第三時 現実にもどった二人の紳士の様子を読み取らせる。(二時間)

第三次 まとめよみ(二時間)

第一時 作品のおもしろみをつかませる。(一時間)

第二時 感想文を書かせる。(一時間)

◎読み聞かせを大切に

 物語の〈語り手〉は、紳士に寄り添って語っていきます。

 従って不思議な出来事が次々と展開されていきますが、それが山猫の仕業であるということは、二人が殺されそうになり、死んだと思っていた猟犬と猟師によって助け出されるという最後に近い場面までわかりません。

 読者もまたそのことがわからないまま、さて、次はどうなることかと次々に展開していく不思議な出来事を登場人物に同化しながらスリルとサスペンスを体験することになります。このスリルとサスペンスは初読においてのみ最高に体験され得る貴重な文学体験です。

 二回目の読みにおいては、物語の結果を知ってしまっているので体験できないわけです。この大事なスリルとサスペンスの体験をしっかりさせるために、教師の最初の読み聞かせが大事になります。もっとも効果的な自分の肉声で、ゆっくり、時には速く。

 この体験は子どもの一生を通して忘れ得ない尊い体験になると思います。

◎一次感想

 わたしは、題を見たしゅんかん(なんか忙しくて、お客さんが多いんやなー)と思ってました。それで二人の若い紳士がその料理店に入って、眼鏡をはずしたり、くつをぬいだりして、その戸に書いてあるとおり、したがってた。

 それで私は(なんかめんどくさいなーなんでふつうにはいられへんのかなー)とちょっと不思議に思ってました。それでこんどは、手や顔にクリームをぬってたりして、しかも牛乳のクリームで私は(ん?なんかあやしいな。もしかしてこの人たち食べられるんかな?。いあやちがう。まだわかれへん。)と思ってました。

 その前にも、若い人や太った人は大かんげい。と書いてあって(べつにどうでもいいやん。なんでなん)と思ってました。

 それで、次はこう水をかけました。そしてたら酢のにおいがすると書いてあって、私は(やっぱり食べられるんや!わあーこわいはなしやなー)と思いました。

 だって食べられると思わなかったし、ちょっと私てきには怖かったけど、そういう風に思えてこういう結果になったのもおもしろかったです。
(森山)

四、授業記録

T 「注文の多い料理店」という題を見て思ったことはありませんか。

篠原 もうけている店。

石森 人気がある。

森山 注文が多くて忙しい。

本山 お客さんが多くて忙しい。

西島  食べ物がいっぱいある。

C メニューや。

T 紳士とはどんな人を言うのでしょう。

岩田 大人の男の人。

大賀 背筋ぴーんとしていてまっすぐ。

金谷 やさしいひと。

川端 言葉遣いがキレイ。

篠原 服装がきちんとしている。

小林 服装が整っている。

小谷 挨拶とかきちんとできる。

下垣 言葉遣いがていねい。

T 1番、読んでください。二人の人物像について、どんな人物でしょう。

大賀 イギリスの兵隊にあこがれている。

T なぜあこがれているの。

本山 強いから。

上原 かっこいいから。

T なるほど。ほかに二人の人物像について。

金谷 動物を殺すことを楽しんでいる。

岩田 イライラして言葉遣いが悪い。

川端 小十郎「なめとこ山の熊」は生活のために狩りしていたけど、この二人は楽しむために狩りにきた。

吉田 お金持ち。

川端 犬が死んでも悲しんでない。

小林 損害のことを考えている。

高橋 やさしくない。

花尾 自分のことしか考えていない。

成富 ずるいでなあ。

篠原 収穫なしと思ったら、買って帰ろうとする。遊びはんぶんや。

金谷 かっこつけてる。

T 小十郎とは全然ちがうよね。こんな二人の紳士なのですね。

今日勉強した場面を読みましょう。

C (読む)

T 感想、思ったことを書いてください。

 二人の人物像
かおる

 今日は「人物像」を考えました。二人は「しんし」と書いてあったけど、「早くタンタアーンとやってみたいもんだなあ。」とかきたない言葉を使っていて(うわー!しんしなん?)と思いました。私のイメージの紳士とはおおちがい。それに、日本人なのにイギリスの兵隊のかっこうをして、日本人がいや!みたい。後で出てくる山猫たちも、こらしめているみたいです。第一印象は「紳士じゃない」でした。小十郎のように「ごめんな熊」と思っているのと、「早くタンターント」じゃあえものが手に入らないのもわかる気がします。こんな人にはぜったいになりたくありません。

第四場面 戸の内側の会話を聞いて、

 泣くこと以外何もできない二人

 【いや、わざわざご苦労です。たいへんけっこうにできました。さあさあ、おなかに入りください。】

T 「たいへんけっこうにできました」とは。

橋本 紳士の味付けができた。

花尾 料理ができた。

石森 食べられるようになった。

篠原 食べ頃。

本山 いい料理ができた。

大賀 うまそうや。

T だれがうまそうかというと。

大賀 紳士。クリームもぬったし、香水もつけたし。

T 「おなかにお入りください。」というのは。

小林 山猫のおなかの中にお入りください。食べられること。

川端 「お中にお入りください」は家の中にお入りください。

石森 トリックや。

T 二人は、どう。

大賀 びびってる。

T びびってるよね。泣き出したね。この二人をどう思う。

成富 えー………(首をかしげる)

T 小林君はどう思う。

小林 うー………。

T かわいそう?

岩田 いや、かっこつけてるし、友達もなさそうやし。

小林 自業自得や。動物を殺すのを楽しんでいる。

大賀 知ったかぶりをしてるし。あまりかわいそうと思わない。

T 親分というのは。

C 山猫の親分。

T どうせぼくらにはほねも分けてくれやしない。と言っている。ほねとは?

C 二人のほね。

T 山猫は紳士のことを、「あいつら」といい「お客さん」そして「あなたがた」と丁寧になっている。なぜだろう。

大賀 丁寧にいわないと、入ってくれない。

篠原 にげてしまう。

川端 「あいつらのせい」で山猫は親分にむかついているんじゃないかなあ。

赤石 親分は食べて、自分たちは骨だけ。腹立つ。

岩田 親分は強い。

成富 さからわられへん。

T 「へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それとも皿土はおきらいですか。そんならこれから火をおこしてフライにしてあげましょうか。とにかくいらっしゃい」と言われて行くやろうか。

C いかへん。

T サラドって。

高橋 二人の紳士。クリームをぬったり、酢をかけている。

T フライは?

成富 二人をフライにすること。

金谷 ちがう。フライを作るということ。たとえば葉っぱをフライにする。

平田 ぼくもそう思う。サラドも二人じゃなくてサラダを作るということ。

T みんなどうですか。

森山 「ふらいにしてあげましょう。」って「あげましょう」というのは油でフライにふることと「二人をフライにしてあげましょう。」ということでトリックで、油でフライにしてあげましょうと言っていると思う。

川端 わざと言っているんじゃないかなあ。入らせな いために。

金谷 今までいろいろ言ってきたのに、入らせないこ とはないと思う。

大賀 わざとではないと思う。なぜかというと。入ってもらわないと自分たち山猫の子分がやられるから。

成富 山猫の言い過ぎ?

本山 山猫の二人はなんか紳士をからかっているような感じがする。だって、中ではフッフット笑っているから。

花尾 その後の二人の会話からも紳士をからかっていると思う。

T 花尾さんそこを読んでください。

(花尾読む)

 からかっているんだねー。二人の様子はどうですか?

藤田 ぶるぶるふるえ声もなく泣きました。

松田 よほどこわかったんやと思う。

大賀 ショックで声も出ない。

成富 二人は若いし死ぬと思ってなかったし。

金谷 ノリノリ気分で料理店に入っていったのに、フライにしましょうかと言われて、めっちゃこわい。

T 「早くいらっしゃい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフを持って、舌なめづり、お客様がたを待っていられます。」といっているよね。泣いて泣いて泣いて泣きました。って四回も書いてある。

岩田 むっちゃ泣いている。

大賀 大きく心を痛めすぎたから。

橋本 かっこつけていたけど弱い。

北田 いよいよ食べられる。

C こわいでなー

T そのとき後ろからいきなり「ワン、ワン、グワア。」と

成富 白い犬。

T あの白い熊のような犬二匹って、あのとは。

石森 めまいを起こして死んだんちがうん。

金谷 死んだのに生きかえったんや。

川端 不思議な世界だったから。

五、まとめ読み

T なぜ二人は最後まで山猫の罠に気づかなかったんだろう。

大賀 注文の多い料理店と信じていたから。

川端 偉い人が奥にいると勝手に思い、近づきになりたくてだと思う。

吉田 おなかがすいていて、早く食べたいから。

成富 言葉のトリックを自分たちのいいように考えたから。

金谷 不思議な世界に入っていったから。

橋本 勝手に思いこむ。

森山 何でも自分のよいように考えるから。

T ほんとだね。だから山猫の罠にかかっていったんだね。

 気づかなかった紳士のことをどう思う。

金谷 あほやなあ。

石森 自分たちのことか考えないからこんなことになる。

六、終わりの感想

「自業自得」
吉田

 私は、前書いたときはこわい話だと思っていたけどあまりこわくはないと思いました。自業自得だと思います。なぜかというと、犬が死んだのに悲しまず、お金のことで損をしたと言っていて「しかの黄色な横っ腹なんぞに、二・三発おみまいもうしたらずいぶん痛快たろうねえ。」「と言って痛快の意味を知らなかったから辞書で調べてみたら『非常に愉快なこと』と書いてあって、いくら生活のためと言っても愉快なこととはふざけて狩りをしに来ているから、うたれた動物もかわいそうと思います。これは森が仕返しをしたことだと思いました。こういうことになるのは当たり前だと思いました。宮沢賢治さんがこれを書いたのはたぶん、悪い事をすると後でかえってくると言いたかったんだと思います。

 二人の紳士は外見はかっこつけていても内面は弱々しい人だったんだと思いました。それに最後もまだかっこつけて、泣いてばかりだったのに何もなかったみたいで、山鳥を買っていったので、こんな人がいたらあんまり友だちにはなりたくないと思いました。もう一人もおかしいなと感じたならば、「やっぱりおかしいよ。」と言うべきだったと思うし、お金や、かっこつける事よりもっと大切なことがあると思いました。
七、おわりに

 子どもたちと楽しく読みを進めていくことができた。学習する前に「なめとこ山の熊」の読み語りをした。小十郎と二人の紳士を対比しながら人物像をとらえていった。「…すぐ食べられます。」「食べることができる。」と「二人が山猫に食べられる。」の言葉のトリックを考えていく中で「…おなかにお入りください。」の言葉に気づいていった。香水が明らかに酢くさいのに「下女がかぜをひいてまちがえたんだ。」と勝手に考えて「おかしい。」と意見がたくさん出た。

 「フライにしてあげましょうか。」も言葉のトリックだと読んでいった。ここで、「山猫は紳士を中に入れたくなかったんとちがうか。」という意見が出ていろいろ意見が出た。終わりの感想に、二人の紳士に対する批判が多かった。まとめ読みの時に作品から離れない程度に自分たちとの生活体験と照らし合わせてまとめ読みをとも考えたが、これから宮沢賢治の作品をとみ重ねていくうちになされ得るものだと思った。

 子どもたちは私の予想以上に喜んで、いろいろと想像をふくらませながら楽しそうに読んでいった。

出典:「どの子も伸びる」2010.2./部落問題研究所・刊
(個人名は仮名にしてあります。)

解放教育体験記(狭山同盟休校など)

解放教育体験記

 これは1980年に大阪府部落解放運動連合会(全解連)の地域支部(*1)が作成した冊子です。

 解放教育を受けてきた当事者たちの手記です。(冊子は実名で書かれていますが、ネット掲載にあたり、イニシャルにしました。見出しは当サイト編集部がつけました。)

はじめに

 1969年の矢田事件以後、町にも「解同」による不当な教育介入、教育支配が行なわれ、1974年の「○中事件」を頂点として町の教育荒廃は大きな問題となってきました。このような中で、今年(1980年)1月28日、3度目の 「狭山同盟休校」が行なわれました。

 私達、全解連支部青年部の部員の多くがこのような解放教育を受けてきた当事者です。

 そこでこの同盟休校をきっかけに、町の教育荒廃をなくすために自分達が受けてきた解放教育がどのようなものであったのかをもっと考え、その正しい受けとめ方をひろめようということになりました。そして2月14日、青年部とつながりのある青年にも呼びかけ「自分達が受けてきた解放教育についての座談会」をもちました。このなかで青年部から、それぞれが受けてきた解放教育についての手記を残すことが提起され、後日参加者の中から製作委員会を結成し、本手記の発行にとりくむにいたりました。

 記載された手記は座談会の参加者と、青年部とつながりのある他の青年による「解放教育についての体験とその感想」です。自分達が受けてきた解放教育についての正しい受けとめ方としては不十分なものですが、町の教育荒廃をなくすための、さらには真の部落解放達成のための力にしたいと考えています。

1980年4月1日

各クラスで石川さんは無実だと新聞を作る ふるえながら反対したら、みんなも「そうやそうや」

●1979度入学  H・R(13才)

 1月28日の同盟休校のとき、各クラスで石川さんは無実だという内容のポスターや新聞を作ることになっていた。

 1月24日の道徳の時間、ぼくとこのクラスで何をつくるかという話し合いになった。

 その時、ぼくはある友人とはなしをしていた。そのはなしとは、ほくが小学校の2年の時、学校へいけなかったことや、家をとりかこまれたことなど、解放同盟にやられてきたことなどを話していた。するとその友達は 「ヘー。そんなことあったん。解放同盟てわるいねんな。」と言っていた。そんなことを話しているうち、何をつくるかというのはもうきまっていた。

 けっきょく、ぼくらのクラスは新聞を作ることになった。

 そのことを母に言うと、「それは反対せんなあかん。あんたが反対やと言ったら、みんなもあんたにさんせいするはずや。」と言った。ぼくは、そんなもんかな、もしさんせいしてくれなかったら、どうしようかなと思っていた。

 26日の土曜日、学活の時間に新聞をつくることになった。その時みんなの前でいうつもりだった。でも、いざその時になってみると、ガクガクとふるえていた。声をふるわせながら言った。

 「なんで、ぼくらがそんなことせなあかんのや。そんなんは大人がやったらいいねん。」

 すると子ども会に入っているある女の子が、「そうや、そうや。私もそう思うわもうすぐテストもあるのに。」と言ってくれた。

 その後から、みんなさんせいしてくれた。その時、ほくはものすごくうれしかった。ぼくは、日ごろあまり発言しないので、みんなもおどろいていた。

 そんなことがあって、ほくらのクラスは何も作らないことになった。ほんとうによかった。これからぱ、ほかのクラスも、いや同盟休校そのものをやめさせたい。やめさせるべきだ。

同盟休校 にげ出した子どもを、先生が家に行ってまでもどそうとした

●1978年度入学    H・Y(14才)

 同盟休校とは、最初どんなものかわからなかった。でもこの前の同盟休校が終わってから、それに行った友達に聞いてみると、わざわざ遠くまで行ってビラをまいたり、なにかわけのわからないデモをやったと聞いた。そんなことするのだったら、子どもは学校へいって勉強したり、みんなといっしょに遊べばいいのになあと思いました。

 そしてビラくばりやデモをしていてしんどいといってにげ出した子どもを、勉強を教えなければならない先生が、その子を家に行ってまでもどそうとしたということを聞きました。

 そして、学校で勉強していても、みんながいないのでちっともおもしろくありませんでした。どうしてあんなことを学校にいっている子ども達にやらさなければいけないのか、あんなことは、その子どもたちのお父さん、お母さんがやればいいことです。

 ぼくのクラスでも、道徳の時間に石川さんのことをすれば「なんであんなことせなあかんねん」とぼくにいってきます。ぼくも勇気はないですが、先生たちもそんなことは学校ではできません」とはっきりいったらいいと思います。

狭山同盟休校 自習していたら指導員が連れていく

●1978年度入学   T・K(14才)

 私が中学生になってはじめての同盟休校でした。

 小学校の時はおぼえていません。

 私がとても印象に残っているのは、2年の時の同盟休校です。26日は土曜日で、月曜日は、朝礼で30分ぐらい同盟(部落解放同盟)からの話がありました。朝礼台の上にゼッケンをつけた2人の男子が立っていて、後には横に長いポスターがはってあって、各クラスの窓やロッカーにもポスターがひとクラス十枚ぐらいずつはっています。それこそ学校中ポスターだらけ。そのうえ、門前には、立てかん(立てカンバン)が3つぐらいたっていて、帰り気がついたら南門前にも立てかんがあったのです。今でも、門前にたてかん一つ、ポスターはところどころにあります。

 その日の出席は、一クラス20人ぐらいで、その(同盟休校に参加している)ほとんどが○小学校の子でした。同盟休校で、私がふだん一諸にいる子がみんないってしまったんです。

 勉強の方は、いつも同盟にいっている英語の先生は、東京まで集会にいっていたんです。○中で東京にいった先生の数は6人で、1年生の先生2人、2年が2人、3年が2人です。英語の先生がいないため自習をしていると、私のクラスの男子5~6人が、一人の男子をさそいにきたんです。その後には、先生と指導員がいました。2~3時間目、私のクラスのさっきさそいにきた男子5~6人がぬけだしてきました。しばらくの間いましたが、すぐに指導員(*2)が来てまたつれていかれました。

 私も友達が少ないので、買物センターの友達といくことになっていたので解放会館の前を通っていると、大きな声でよばれ、2~3人の女の指導員が信号を渡ってきました。私は逃げました。それからは、おいかけてきませんでした。

指導員を恐れていた

●1977年度入学   N・K(15才)

 僕は、今まで解放運動に参加してみて感じたことは、なぜ僕達が参加しなければならないのかということ、なぜ勉強までやめて参加しなければならないのかということです。学校でそういう「解放運動」についてのことを学ぶ機会が多くなるにつれて、みんながやる気をなくしていくような気がしました。

 僕はいくども解放運動に参加してきて頭に残っていることは、つかれたということと、ばからしかったということだけで、他には何も残っていません。

 それに僕は、体が強い方でないので、気分が悪くなって倒れそうになったこともありました。でもそんな時、指導員に言うことができずに、じっとがまんするだけでした。なぜならば、僕や他の子供達が指導員を恐れていたからです。しゃべり方が悪く、すぐどなりつけるところがその原因でした。

 僕が一番腹立たしかったことは、中学3年の3学期、高校入試を控えた1月28日の同盟休校の時です。僕は参加するのがいやだったので、参加せずに家にいました。

 翌日学校へ行くと、同盟休校に参加した人から「なんでけえへんかった」といわれ腹が立ちました。でも黙っていました。僕は小学校のころ、子供会に行っていましたが、少しも楽しくありませんでした。そして、その子供会から一泊研修というのに行きました。でも車酔いばかりで、早く家に帰りたいたいという気持でいっぱいでした。僕はいま疑問をもっています。それはなぜ小さな子供までが学校を休んでまで解放運動に参加したり、ゼッケン登校したり、ビラまきをしたりしなければならないのかということです。

「同盟休校」を思いだすと腹が立つ

●1977年度入学   K・T(15才)

 私は、今の「解放運動」のやり方は、あまりよいやり方ではないと思う。

 まず学校のやり方は、週1回の水曜の道徳の時間にやっているが、クラスの仲間はほとんど間いていない。それはあたりまえだと思う。いつもおなじことをくり返しているばかりだからだ。いくら先生達が一生懸命やっていても、生徒は聞いていない。

 それをなくすには、週1回ではなく、月1回や2か月に1回にすれば、解放連動の授業も聞いてくれるだろうと僕は思います。

 それにもう一つは、同盟休校のことです。いまだになぜ同盟休校をしたのか、それをしただけで何のためになったのかわかりません。

 そのために、それに参加した仲間は勉強の方が遅れるのはあたりまえだが、その翌日、参加していないクラスの仲間から、プリントばかりしていたと聞いたら、急に腹がたった。なぜ参加していない生徒たちにも勉強ができなかったという被害をあたえたのかということに腹がたった。それきり僕は、同盟などにあまり参加しません。

 しかし今でもあの「同盟休校」を思いだすと腹が立ちます。また来年も同盟休校すると思いますが、しかし僕は参加しません。そして僕は、それを反対していきたいです。

「子供会」での活動は、ごっついおもんなかった

●1976年度入学   O・T(16才)

 まずこの地域では、道路に「石川青年は無実だ!」こんなカンバンがいたるところに立てられている。それに、○○病院にまでごちゃごちゃとワケのわからないことが書かれている。

 それに信号の多いことや、解放会館などでも知らない人が見たらビックリするだろうと思う。これこそ「私はアホです。カンバンや信号などをつける場所、数、効果などは全々わかりません。」と言わんばかりである。

 小学校の時は、1年から3年の時、「子供会」に参加していたと思います。でも、どんな活動していたのかわすれてしまいました。5年生になってからは「子供会」に参加するのも、1年に1~2回友人にさそわれて行くぐらいになりました。

 そのころ「子供会」での活動は、解放同盟の差別がなんたらかんたらと言う本で、ごっついおもんなかったんです。

 友人に聞いた話ですが、「子供会」に行くのがいやで指導員からグループで逃げだして、その内数人がつかまり、つかまった内の一人は地面にたおされ、指導員が馬乗りになり、顔面を平手で数回たたかれていたと言っていました。学校で学芸会などがあると、ぜったい校内を指導員がうろついていました。

 道徳の授業の時などは、実さいには知りませんが、「にんげん」を使って、半分以上の時間、解放教育をしていたと感じています。道徳の時間は、友人に「次は何の時間や」ときいても「道徳の時間や」と答えるより「にんげんの時間や」と答える人の方が多かったと思います。

 中学校に入学して、最初の解放教育の時、ぼくが、「またや」と言ったら先生が「何がまたや、まだ一回もやってへんやないか」といいよったんです。そこで小学校の時からやっているので、「小学校の時もやったからや」と言うと先生は、「そうか」と言ってなっとくしていました。

狭山事件の学習は学校の授業を遅らす大きな原因

●1977年度入学   M・N(17才)

 中学校で3年間解放教育を受けてきたのであるが、まず最初にいっておきたいことがある。

 そもそも解放教育とは何であるのか、仮に説明せよと言われた場合、自分としては、少しも相手に理解してもらえるほど話できない。それほどこのことに対して無知である。

 それでこの作文を書くに当たってこれでは少しまずいのではないかと思い、わたくしの父に尋ねてみたのですが、あいにく時間がじゅうぶんとれなかったため、説明がメモ程度だけになってしまい何のことかさっぱりわからないままこうしてペンをとっているのであります。

(以上のことを前提に書く、そのつもりで)

 現在中学校を卒業して2年以上になりました。中学校に入学するときはもちろん、在学中も自分はいま解放教育を受けているんだという意識などは、とうていありませんでした。学校を卒業してこうして解放教育のことについて書くようになってはじめて自分は、解放教育というものを受けてきたんだなあと言う感覚であります。

 したがって、そのときの僕にとって、狭山事件の映画を見たり本などを読んだりして学習するとき、すなわち(僕白身が)解放教育と言われる時間は、ただの遊びの時問にすぎなかったのである。

 最後に(もうひとこと)解放教育と間係あるかないか解らないが言っておきたいことがある。それは同盟休校のことである。

 僕は貴重であるかどうか知らないが、1年生のときにこの同盟休校を経験している。この日はほとんどの者が学校に出てこれなかったので、授業がまる1日遅れるのである。この同盟休校にしても、前にも述べた狭山事件の学習は学校の授業を遅らす大きな原因となっていることはまちがいない。社会人がこの世の中を生きていくためには労働すなわち仕事をしなければならない。我々学生にとってしなければならないのは、やはり勉強である。その時に解放教育と思われる教育をとり入れ、それが正しい方向で進められて行けばまだよいが、肝心の勉強に悪影響を及ぼすようで絶対にほおっておくべきではないと思う。

幼稚園では、童謡曲と同じように解放歌を歌わされた

●1977年度入学   U・Y(17才)

 私が17才の今までに受けた解放教育とは、いったい何だったのだろうか。

 幼稚園では、何を意味するかも全くわからずに童謡曲と同じように解放歌を歌わされたのを覚えています。

 でも一番思い出深い時間は、小学校の時です。石川さんのことを物語りを語すように、毎日子ども会で聞いたこともありました。はっきりいってしまうと、遊び盛りの私達にとって、毎日そういった内容のことを教えられることは、全然といってもいいくらい興味もなく、楽しい思いもしませんでした。

 私は、解放教育というのが、頭から悪いのだとは決していいません。ただそのやり方に問題があるのだと思います。

 例えば、年齢に応じた教育の仕方があるはずです。確かに、同和地区に住んでいるということだけで、白い目を向ける人もたくさんいます。しかし、そういう風に思わせる何かが私達にあるのではないでしょうか。今、私が思うことは、解放教育に力を入れるのと同じくらい子どもたちに、勉強に、スポーツに力を入れた方がいいのではないかと、中学校に入るとデモ、ビラ配りといった活動が小学校の時よりも増えていったのも事実です。

 黄色いゼッケンをつけて町の中をデモするのもいいでしょう。けれど、町の中をデモすることの意味を十分わかっている生徒ばかりではないから当然、不満の声がでてくるのがほんとうです。「恥かしい」といった内容の言葉が私も含めて多くの友人の口からもれていたのも事実です。もし、自分のしていることが、良い事だったら恥かしいとも思わないはずなのに。

 高校に通っている今では、解放教育というものを全然といっていいくらい受けていませんが、もう今までのような教育なら受けたくないと思っています。今までしてきたことは、何だったんだろう。

こんなことでは逆に自ら差別をしてくださいと言わんばかりでは

●1977年度私立中学入学   K・A(17才)

 同盟休校のことについて書きます。

 小学校1年や2年生の子供達に解放がどうの、差別がどうのと言っても何のことだかさっぱり分からないのにそんな子供達にまでくだらない歌を歌わせて、親は親で金のためか何のためか知りませんが、自分たちが何をやっているのかも十分知らないで黄色いゼッケンをつけて歩いてまわる。

 これじゃ小学校1年や2年生の子供とたいして変りがないようですね。

 差別をなくそう、良い町にしようと運動しているつもりが、子供達には学力の後退を増進させ、親は、ただ同盟に加入しているだけで、ほんとにただ同然の住宅に入れてもらって、朝から晩までぶらぶらし、勤くことを忘れてしまう。こんなことでは逆に自ら差別をしてくださいと言わんばかりではないでしょうか。だから早く、この町内の目をつぶっている大人たちに呼びかけて、これから大きな夢をもって育っていく子供達のためにも、真の解放教育を起していかなければならないと感じています。 

子供会が何んだかわけのわからないことをしだした

●1970年度入学     K・H(22才)

 中学校を卒業して高校に入ったころ、「解同」の教育の介入が大きな問題になってきました。

 そのころに前から疑問に感じていたことがはっきりしてきました。その疑問とは、小学校6年の時に出来た子供会が何んだかわけのわからないことをしだしたのです。

 出来た当初は、自分達であれをやろう次はこれをやろうと民主的に決めて実行してきたのです。ところが、仲間をふやそうということで6年も終りのころいったんつぶして 「解同」の組織で大きくしようということになったのです。たしかに人数は十数名から何百名となったのですが、内容はいったいこんなことがどこで決まったか、だれが段取りをしたのかまったくわけのわからないものでした。

 一番わけのわからないことは、初めて子供会が出来た時いっしよにいた仲間の半数が参加できないということてした。そんなことから私は子供会からはなれて行きました。そして高校に入りいろんなことを見たり聞いたりしていくうちに、「解同」の一部幹部が自分の利権のために子供を利用し、そしてこのことが子供の低学力を生み出してきたのだと分かってきたのです。

「狭山事件」のことを教えこまれテストされた

●1969年度中学入学     Y・T(23才)

 私の中学校時代は、現在のように、「解同」の教育介入はひどくなかった。

 当事、「解同」の組織している子供会に入っていた時のことでは、「狭山事件」のオルグ活動に行くということで、「狭山事件」のことを執ように教えこまれ、指導員の前にひとりづつ呼び出されて、事件の経過をどれだけうまく話し出来るかをテストされたり、盆おどりにおいても、浴衣の上に黄色いゼッケンをつけて署名活動をやらされたり、思い出に残っているのは、はずかしかったことやいやなことばかりです。

 高校では「友の会」も途中でやめ(その後成績が急上昇してきた)。学校で部落研の同好会をつくり、正しい部落問題について学びました。

 私が全解連(当時正常化連)という組織を知ったのが○中学校事件直後で○中をよくする会に誘われたのかきっかけでした。そこでは、生徒が授業中にたこやきを焼いて食べたり、教室の窓ガラスが割られてしまってほとんどないこと、先生は差別者だから、差別者には暴力をふるってもかまわないんだなど、私たちの中学校時代では考えられないようなことが平然と起こっていることを知り「解同」に対して怒りを感じました。そして、自分たちの卒業した中学校をこのままほっておくことは出来ないと、後輩たちが、正しい教育を受けれるよう努力していくことが必要だと感じ、全解連の活動に参加して、現在に至っている訳です。

以上

(*1) 全解連は発展的に解消し、現在は 民主主義と人権を守る府民連合 (民権連)の支部に移行
(*2) 青少年会館の指導員は大阪市の職員

わらぐつの中の神様

文学の授業 (5年)   わらぐつの中の神様

一、はじめに

 小学校は山々に囲まれた自然の豊かなところです。校区は広く、遠いところでは、徒歩で一時間以上かけて通学してくる児童もいます。一〇年ほど前から、いくつかの場所で小規模な宅地開発が進められており、そこから毎年、三、四人が転入してきます。

 私はこの小学校に転勤してきて五年目になります。昨年は、七年ぶりに五年生(二四名)を担任しました。

二、教材と子ども

 校内授業研で、「わらぐつの中の神様」に取り組むことにしたのは、クラスのある子どもの交通事故がきっかけで、私の知らなかった子どもの一面が明らかになったことからでした。

 この交通事故で、クラスの康夫が国道で自動車にはねられました。運よくけがは軽くて済みましたが、一つ間違えば生命を落としているような事故でした。事故にいたる経過、原因を子どもにたずねる中で、「こんなことがあるかしら」と私自身も耳を疑うようなことがあきらかになりました。

 けがをした康夫はクラスの友達四人と自転車で遊びに出かけて家に帰る途中でした。その四人の中の一人義則が、拾ったお金一一円をポケットに入れていました。しかし、ふとそのポケットに入れていたお金が邪魔に思ったので捨てたというのです。その義則が捨てた一〇円玉が、道路に転がっていきました。それを見て康夫は「もったいない」と言ったそうですが、義則は「もったいないと思うなら拾ったら……」と言ったそうで、事故は義則がそう言った直後に起こりました。

 こんなことがあって、私はお金や物の値打ちをしっかりつかんでほしい、お金や物を大切にする心を育てなければと思い、そのためには「わらぐつの中の神様」が絶好の教材だと考え、この教材に取り組みました。

 この教材は、不格好なわらぐつの本質的な価値を認め、それを作ったおみつさんの人間としての美しさを見抜いた大工さんが描かれています。また、見た目だけにこだわり〈もの〉の価値を見ることのできないマサエがおばあちゃんの話を聞くことによって、その、見方を変えていく過程が描かれています。

三、教材について

 この作品は、「はじめ」「なか」「おわり」の三つの場面からなっています。この三つの場面は現在・過去・現在という形になっています。

「はじめ」の場面はマサエの家族の様子とマサエの人物像が描かれています。マサエのお父さんはとまり番で帰ってきません。おじいちゃんはお風呂に行っています。家の中は、マサエとお母さんとおばあちゃんの三人だけです。

 その三人の会話からマサエがお母さんに甘えていることがわかります。そのマサエの甘えをやさしく受け止めているのがお母さんです。おばあちゃんもマサエのことを心配しています。そんなところから、あたたかい家庭の雰囲気が伝わってきます。

「なか」の場面はおばあちゃんの若い頃の話です。まずおみつさんの人物像が描かれています。

 ある秋の朝、町の朝市に出かけたおみつさんは、げた屋さんで〈かわいらしい雪げた〉を見つけます。その雪げたが欲しくてたまらなくなったおみつさんは、お父さんやお母さんに相談しますがいい返事がもらえません。

 そこで、おみつさんは自分で働いてお金をつくろうと考え、わらぐつを作るのです。そこに、おみつさんの家庭の状況を考え家族をおもいやるやさしさと、自分で働いて自分でほしいものを手に入れるという、たくましさが感じられます。

 できたわらぐつは〈いかにも変な格好〉のわらぐつですが、じょうぶなことこの上なしなのです。でも、わらぐつはなかなか売れません。中にはわらぐつを外見だけ見て〈わらまんじゅう〉などという人がいます。がっかりしたおみつさんでしたが、おみつさん自身もわらぐつの見た目を気にするようになります。

 そんな時、若い大工さんがわらぐつを買ってくれたのです。大工さんは〈わらぐつ〉の値打ちを見抜き、〈「……いい仕事ってのは、見かけできまるもんじゃない。使う人の身になって、使いやすくじょうぶで長持ちするように作るのが、ほんとうにいい仕事ってものだ」〉と言って、おみつさんの値打ちを「わらぐつ」を通して見抜いたのでした。

 「おわり」はおばあちゃんの話を聞いたマサエが〈「雪げたの中にも神様がいるかもしれないね」〉というように変わっていきます。マサエの心の変化はおばあちゃんの話を聞いたことによってもたらされました。

 マサエは、おじいちゃんとおばあちゃんのすばらしさを改めて知ると同時に、ものの値打ちや人間の本質について考えるのです。

主題

 マサエはスキーぐつがぬれていて、かわかないのにいらいらしていた。それを見ていたおばあちゃんが、わらぐつをはいていくことをすすめる。でも、マサエはわらぐつはみっともないとつっぱる。

 そんなマサエに、おばあちゃんは自分の若い頃の話をする。

 その話は、わらぐつを一生懸命編んだおみつさんの話であった。おみつさんの編んだわらぐつはぶかっこうだけど、そのぶかっこうなわらぐつを買ってくれた若い大工さんは、「ものの値打ちはみかけだけでなく、それを使う人のことを思いやる気持ちが大切だ」と言う。

 おみつさんは、その大工さんの気持ちに感動する。その話からマサエは「わらぐつの中の神様」の意味を知る。

四、指導計画

(一)指導のねらい

○おみつさんの考え方、生き方に大工さんが共感し、また大工さんの考え方、生き方におみつさんが共感して二人が結ばれたことを読み取らせる。

○おばあちゃんのわらぐつの話から、ものの値打ちは見かけで決まるものではない。ということを知ったマサエの心の変化を読み取らせる。

○おみつさんに寄りそって自分の思いが書け、発表できるようにする。

(二)指導計画(全一六時間)

○教師の読み聞かせと初発の感想(一時間)

○たしかめ読み

●「はじめ」マサエの家族の様子とマサエの人物像をとらえさせる(二時間)

●「なか」①おみつさんの人柄と雪げたとの出会いを知り、おみつさんに共感する(二時間)

●「なか」②わらぐつをはく人のことを考えて、編み上げたおみつさんの人物像をとらえさせる…(三時間)
本時(1/3時間)

●「なか」③おみつさんと若い大工さんの出会いと、誠実な大工さんの人物像をとらえさせる……(三時間)

●「おわり」わらぐつに対するマサエの見方の変化をとらえさせる(二時間)

○まとめ読み

おみつさんの生き方に共感し、ものを見るときは外見にとらわれず、中身をしっかり見ることが大切だということをわからせる。(二時間)

●表現読み・終わりの感想(一時間)

五、初めの感想

義則

 スキーができるなんていいな。ぼくはしたことがないからいいな。

 初め「わらぐつの中の神様」は何だろうなと思って聞いていた。

 おもしろいのが、「おみつ」と自分のことを言っているのがおもしろい。

 白い軽そうな台に、ぱっと明るいオレンジ色のつま皮は、黒いふっさりとした毛皮のふちどりでかざられているのをみたら、ほしくなった。ぼくも立ち止まってずっと見る。そして、お母さんにねだっても聞いてくれなかったら、自分でするしかないと言ってするのがいいな。

 そして、わらぐつを作るなんですごい。形は変だけどいいな。そして初めてわらぐつを買ってもらってすごくうれしいだろうな。そして、毎日毎日買ってもらって、けっこんと同じことを言われ、けっこんして幸せだろうな。

 そして、ほしかったげたも買ってもらったけど、もったいないからはかないのもわかる。

 義則の感想は「いいな」「すごい」とおみつさんの人柄に感心しているものの、おみつさんがはく人のことを考えて作ったことが省かれています。本当のおみつさんのよさはわかっていないように思います。

 一度だけの読み聞かせでわかるのはむずかしいのですが、義則自身、物事を深く考えないところがあるので、この授業でどこまでわかってくれるか考えると、この授業をするのが楽しみになってきました。
〈初めの感想〉

◆わらぐつをはく人のことを思って作ると、きっとその中にも神様があることが何となくわかったような気がした。

◆おみつさんは若い大工さんとけっこんできてよかった。

◆おみつさんもお父さんもやさしい人だと思った。

◆これから、もっと勉強してこの話しの内容をよくわかりたい。

 全体的にこの話が少しわかったという程度の感想が多いように思いました。中には内容が分かりにくいと言う子も何人かいました。

 おみつさんのことについては「とてもやさしい」「いい人」「すごい人」というふうに書いている子どもが何人かいました。

 全体的には「わらぐつが売れてよかった」と書いている子どもが多かったです。また、大工さんのことは「いい人だ」「すごくやさしい人だ」「心が広い」「大工さんの言葉はすごくいい」と書いていました。

 マサエのことはあまりふれられていませんでした。感想文を読んで、それぞれの人物像をしっかりとらえさせたいと思いました。

六、授業記録(「なか」②-(1))

 本時の目標・わらぐつをはく人のことを考えて、一生懸命編み上げたおみつさんがどんな人物かをとらえる。

(前半部分省略します。)

T 今までのところでは、おみつさんというのは「まじめな人」「わがままをいわない人」「せっせと働く人」「えらいんだなあ」「がまんをする人」「えらくてやさしい人」「責任感がある人」というのが出ました。今日の場面でおみつさんがどんな人かというのを勉強していきます。

(二人の音読の後)

浩次 「 その夜おみつさんは考えました。うちのくらしだって大変なんだもの。買ってもらえないのも無理ない。そうだ、自分で働いてお金をつくろう」と言うところから、なんてえらい人なんだろうと思った。

(深く物事を考えるところがある浩次。手を上げて発表することもめずらしい。)

幸介 夜も考えるのは、雪げたがほしいからだ。前もおみつさんには雪げたが「買ってください」と聞こえたのは、おみつさんにはやさしさがあるからだ。

(よく発言する幸介。本を読むのが好きな子。)

彩恵 自分で働いてまで雪げたを買おうなんて、それだけ雪げたがほしい。

(まじめでしっかり書き込みをする沙絵。よく本も読む。)

亜紗 おみつさんはもうお母さんに「だめだ」といわれたから納得して、しつこく言わないから親思いのおみつさんだなあ。

(よく発言する愛。この作品の授業もよく手が上がる。)

貴彦 「毎晩家の仕事をすませてから、わらぐつを作り始めました」というところから、しんどいけど雪げたがほしいからがんばっている。

(面倒くさがりの貴彦。この作品の書き込みはしっかりしてくる)

浩次 おみつさんは熱心だなあ。

祐一 家の仕事だけでも大変なのに、わらぐつを作るなんてすごく働きものだなあ。

(おとなしい祐一。自分の書き込みを見ながら発表する。)

美佳 自分でお金をためようとする努力がすごい。

T 本当ね。考えようとするところがすごいね。何を考えたのですか。

義則 わらぐつ。お父さんがわらぐつを作っているのを見ていたから。作ろうと思いついた。

T どんなふうにわらぐつを作っていますか。

康夫 「でも……少しぐらい格好が悪くても、はく人がはきやすいように、あったかいように、少しでも長持ちするようにと、心をこめて、しっかり、わらを編んでいきました」(クラス全員うなずく)

T 全貝で読みましよう。

全員「でも……」(声をそろえて全貝で読む)

(ここでは、「しっかりしっかり」の繰り返しの言葉や「でも」の逆接の使い方から、強く言いたいことを押さえる。そのことによっておみつさんのやさしい人柄がはっきりわかったようである。)

T こうしてできたわらぐつは、どんなわらぐつでした か。(書いてあることを発表する。)

-省略-

そんなわらぐつを家の人はどういったの。

翔太 そんなわらぐつ売れるかなあ。

宏人 つけたし。うちの人はそういってわらったり心配したりした。

T それでも元気よく町へ出ていったおみつさん。楽しくなったおみつさん。ここからわかるおみつさんの人柄を班で話し合って発表しましょう。

(班学習はずっと取り入れてやってきました。)

一班 おみつさんは、ちょっとだけでも自分の手の届くところに雪げたがきて、うれしいだろう。

二班 家の人に「うれるかなあ」といわれても、元気よく町へ出ていって、自分で作ったお金で雪げたを買えたらうれしいだろう。

三班 わらぐつを編んで早くお金をためて雪げたが買いたい。

四班 おみつさんは、わらぐつを編んで自信があったから売れると思った。

五班 気合いが入っていて、気持ちがうきうきしている。

秀晃 つけたし。お父さんやお母さんにわらわれたり、心配されたりして、わらぐつを持っていくのは、よほど勇気がいるだろう。

(発言の少ない秀晃なのに手を上げてくれ、うれしく思う。)

貴彦 つけたし。おみつさんはその雪げたがちょっぴりと自分の手の届くところへ出てきて、楽しくなったというところから、どんどん自信がもりあがっている

(班討議でおみつさんの人柄よりも、おみつさんの気持ちや思いが出てしまった。でも、秀晃や貴彦が付け足してくれたのがよかった。)

T この場面から、おみつさんのどんな人がらがわかりますか。

(もう一度押さえ直す)

晴菜 すごく働きもののおみつさん。

祥子 やさしいおみつさん。

麻実 自分でお金をつくるからえらい。

幸介 考えようと努力するところから、努力家。

知花 勇気がある人

亜紗 人が言ってもめげないから心が強い。

(おみつさんの人柄を短い言葉でまとめすぎた気がした)

T 今日のところの感想を書きましょう。
義則

自分でお金をつくろうなんですごいし、わらぐつをつくったらへんになったけど、とてもじょうぶだからこわれないだろう。そして、悪口を言われてもめげずにがんばるのがすごい。

(義則はおみつさんのこと「すごい」と二回も書いています。初めの感想にも「すごい」というのがありました。感心して出る言葉でありますが、表現力の乏しさも感じました。)

良介

 おみつさんはわらぐつを作ったことはないけれど、編むのだけでもむずかしいのに、おみつさんは作れたからすごいと思った。最後に自信をつけて朝市へ行ったから、売れなくてもがっかりしないと思う。

(良介君はほとんど発表しない子です。でも書き込みをしていくとよく書くので、ほめて発表するようにさせてきました。)
香帆

 おみつさんは親にめんどうをかけないで、自分で努力してほしいものを買おうとするなんて、えらい。そんな気持ちがあるから、おみつさんにやさしい心ができるんだろう。

(香帆は書き込みも発表もよくする子どもです。おみつさんのやさしさはとらえていますが、後半の力を入れたところの感想がありません。印象に残らなかったのはなぜか考えたいと思います。)

七、終わりの感想

義則

 マサエは初め、神様のことを信じていなかったけど、おばあちゃんの話を聞いて、神様がいるのを信じた。それに、わらぐつのことを「みったぐない」と言っていたけど、わらぐつのよさがわかった。

 ぼくは、おばあちゃんの話がおもしろい。なぜかというと、自分のことを言うからすごい。おばあちゃんが話しているときは、マサエはどんどん成長しただろう。ぼくもこの話しを勉強して見た目だけじゃなくて、中身をみて選ぶ。

 おじいちゃんとおばあちゃんの出会いは、とても楽しい。わらぐつがなければ、出会わなかった。マサエはこの話を聞いて、おばあちゃんが、(中略)

でも、この雪げたにはおばあちゃんの思い出がたくさんある。おばあちゃんのたから物だろう。おじいちゃんが帰ってきて、マサエは、おじいちゃんのことが好きになっただろう。

 一番気になっていた義則でしたが、この文を読んでわらぐつのよさがわかってきたように思います。また、外見より中身を選ぶとも書いています。この作品を勉強したから物を大事にするとは思っていませんが、考えるきっかけとなったことは間違いないと思っています。

康夫

 初めは、わらぐつの中に神様はいないといっていたが、おばあちゃんが聞きやすいようにくわしく話をしてくれて、自然と神様がいるとマサエは信じていた。

 おみつさんは中身があたたかくて、外は変でも心を込めて作ってえらい。大工さんに次の日も次の日も買ってもらって、一歩また一歩と雪げたに近づいて、うれしくてたまらなくなって、心を込めて次の日も作って、おみつさんはえらい人とわかった。(省略)

 ぼくは神様の絵をかいていたけど、神様はいるんではなくて、人の心に宿ったのが神様というのがわかった。ぼくはずっとずっと前から外見だったけど、少し中身もとろうかなという心もあるようになった。

 事故に逢った康夫が「ぼくは中身より、外見を取る」と言い続けていたのが印象的でした。常々、授業中も落書きをしていて人の話がしっかりきけない子ですが、この作品については、「中身もとろうかな」と前向きに考えてくれたことはよかったと思っています。
幸介

 この物語を勉強して、マサエは最初「わらぐつなんかみったぐない」なんて言ってたけど、この話を聞いて、物を外見だけじゃない中身も見るものだ。人が一生けん命に作ったものは、神様がいるのといっしょだと、おばあちゃんの話を聞いて変わってきている。

 ぼくは物を買うにしても、外見と内面で決める。おみつさんのがんばって作ったわらぐつを、大工さんに買ってもらえたのは、おみつさんががんばって、しっかりしっかりあったかいように、長持ちするように心を込めて作ったことが通じたんだろう。(省略)

 気の弱いところがある幸介が、一番授業に乗ってきて、発言をよくしてくれました。大工さんの心の広さやおばあちゃんのやさしさにも共感している幸介でした。

八、終わりに

 二学期は取り組みが遅くなり、「大造じいさんとガン」を一二時間ぐらいかけて、この作品に入る直前までやっていました。

 文学の授業が続いて、だれないかなあ。書き込みはするだろうか。不安はありましたが、授業に入ると子どもたちは、一生懸命書き込みをしたり、班討議をしたりしていました。この作品のよさと私の意気込みに子ども達は引っ張られたのだと思います。

 一時間一時間は楽しく授業ができました。それは、子どもたちがしっかり書き込みをして、発言してくれたからです。

 発言が少なかった吉和も「わらぐつの中に神様でも住んでいるのかと思ったら、全然ちがう話だった。人の気持ちがあふれているわらぐつを神様というのだろう……」と書いていました。とらえ方がいいなあと思いました。

 また翔太は、「この話を読んで、ものは見た目だけじゃなくて、中身も見ないとだめだし、大切にしないとあかんなあと思った。……」と書いていました。子どもたちとものの見方について話し合えたことがよかったと思っています。

 事後研の中では「人柄を考えるより、行動を考えることの方が大事ではないか」という意見が出ました。私は行動から人柄を考えることができると思ってやったのですが、「働きもののおみつさん」「やさしいおみつさん」「努力家のおみつさん」「心が強いおみつさん」というのでまとめてしまってよかったんだろうかと、この実践記録を書きながら問い直しています。

出典:「どの子も伸びる」1998.7/部落問題研究所・刊
(個人名は仮名にしてあります。)

モチモチの木

文学の授業

「モチモチの木」(斎藤隆介・作『はぐるま』④)

 この記録は六年前の実践ですが、文学を学ぶことの楽しさを私に教えてくれた、思い出深いものです。

一、作品と子ともたち

 子どもたちに、いい文学作品にふれさせたい。そして私も子どもと共に学びたいと思い、四月から「スイミー」や「太郎こおろぎ」などの投げ入れをしてきた。

 「モチモチの木」は、絵本などで知っている子も多いし、斎藤隆介の作品は「花さき山」「ひさの星」「天の笛」などを読み聞かせており、子どもたちには親しみ深い作家である。この作品は私も大好きで、元気で愉快なこのクラスの子どもたちもきっと大好きになってくれるだろうと思った。

 豆太には両親がいない。豆太をいとおしく大切に育ててくれるじさまの愛情に包まれて暮らす豆太。現代の家庭に失われがちなものがそこにあるように思う。私のクラスには、母子家庭の子も二割近くいるし、父親に育てられている子、祖父母に育てられている子もいる。そんな子どもたちにも、この作品は親しみ深く、人間的な魅力を持って、迫ってくるのではないだろうか。

 また、「あの人は乱暴だからきらい」「あの人は……だからいやだ」と、友だちを一面だけでとらえる傾向も強いし、一つ何か出来なければもう自分はだめだと自信を失ってしまうように、自分をも一面的にしかとらえられない傾向も強いが、この作品はそんな私たちに、人間を多面的に丸ごとつかむことの大切さも語りかけてくれる。

 豆太によりそい、豆太に感動し、豆太に親しみを持つ中で、子ども達自身の中にある豆太をよびさまし、育てていけたらと思うのである。

二、主題、思想

・夜も一人でセッチンに行けないほどのおくびょうな豆太が、大好きなじさまの苦しむ姿を見て、じさまを助けるために夢中で夜道を走り続けた。

 その勇気を生んだものは、じさまの愛情の中で育くまれてきた豆太のじさまへの限りなき愛情である。

・人間に愛にもとづく<やさしさ〉があれば、勇気ある行動を生み出すことができる。

・人間は状況の中で変化するものであり、固定的、一面的にみるのではなく、その状況の中での姿を正しくとらえる事が大切である。

三、指導計画と目標(全11時間)

1、だんどり

2、とおし読み 読み聞かせ、はじめの感想  1・2で二時間

3、たしかめ読み(七時間)

「おくびょう豆太」二時間

・語り手の語り口と豆太の状況からおくびょう豆太をイメージ化する。

・じさまの豆太への愛情を読みとる。

「ヤイ木イ」一時間

・豆太の姿を内と外からとらえ、モチモチの木の昼と夜のちがいや、じさまとの関係をとらえる。

「霜月みっかのばん」一時間

・美しいモチモチの木のイメージを、豆太の内面を通してとらえ、豆太の心のゆれをよみとる。

「豆太は見た」二時間

・じさまを助けようと必死で夜道を走る豆太を内と外からとらえ、モチモチの木に灯がつくのを豆太と共に感動的にとらえる。

「よわむしでもやさしけりゃ」一時間

・じさまの言葉から、人間の真実について考え、終わりの三行からまとめ読みにせりあげていく。

4、まとめ読み(二時間)

・じさまの言葉は何を意味するのだろうか。

・豆太は本当におくびょうなのだろうか。

・おわりの感想。

四、たしかめ読み

第一時、おくびょう豆太

○「まったく豆太ほど……」と言っているのは誰か。(作者ではなく、語り手であること)

○語り手は豆太をどう思っているか。

まったく>と最初から言っている

もう五つにも>←→<もう五つ>くらべ読み}から考える

○豆太はモチモチの木をどう思っているか。

○そんな豆太をどう思う。

○「豆太は本当におくびょうなんだろうか」という問いが生まれた。

第二時、おくびょう豆太

○どんなじさまだろうか。〈真夜中にどんなに小さな声で言っても、すぐ起きてくれる〉という言葉から、豆太をかわいがっているじさまであることをつかんだ。

○〈とうげのりょうし小屋にたった二人で……〉さびしいだろうなあ、お父ゥも死んだし、お母ァもいない、友だちもいない、という生活状況の中の豆太を考え、だからじさまは豆太をかわいがるんだ。

第三時、ヤィ木イ

○〈木が立っている>というのはおかしい。〈木がふりおとしてくれる〉というのはおかしい。という子どもの発見から、モチモチの木をイメージ化した。

○なぜ昼は元気なのに、夜はあかんのかという疑問が生まれ、夜のモチモチの木が豆太にとってはどんなにこわかったかを話し合った。

○じさまがモチを作ってくれる様子。木ウス、石ウスはどんな物かを話し合う中で、じさまの仕事は大変だという事、豆太をそれほどかわいく思っているのだとつかんだ。

第四時、霜月みっかのばん

○じさまの言葉から豆太への願いをつかんだ。

○見たい、でもこわいという豆太の心の揺れ、夢みてえにキレイなモチモチの木を想像し、見たい気持ちを持ちながら、自分で自分を弱虫と決めつけて寝てしまう豆太に、子どもたちは見てほしい、豆太ガンバレと声をかけた。

○「ねてしまう豆太にじさまは何も言っていない」という 、意見が出、「じさまは、豆太に自分から勇気を出してほしいと思っているのではないか」という考えが出て、じさまは自分の願いを豆太におしつけず、豆太の成長を信じ、待っているのだというとらえ方ができ、じさまの人物像を大きくふくらませる事ができだ。

五、第五時、豆太は見た

[本時の目標]

 表記、ことばに気をつけて、豆太のおどろく様子、じさまの苦しむ様子を、しっかりイメージ化する。そして、大好きなじさまを助けるため、夜道を走る豆太を内と外からとらえ、豆太のじさまへの愛情が、豆太の勇気ある行動を生み出したことをつかむ。

[本時の展開]

学習活動 留意点(大事な語句)
・導入 今までの豆太について話し合う
・目をさました豆太のおどろきをよみとる クマのうなり声
「ジサマ~!」
クマみたい
「ジサマッ!」
気持ちの変化
・じさまの苦しむ様子をよみとる 「マ、豆太……じさまはじさまは……」コロリとタタミにころげると、歯をくいしばってますますスゴクうなる……
・医者をよびに走る豆太の様子を話し合う -イシャサマヲ……
こいぬみたいに、フッとばして
ねまきのまんま、はだしで
・外の様子をイメージ化し豆太の気持ちを考える まっ白いしも 足からちがでた
なきなきはしった
いたくて、さむくて、こわかったからなあー
 でも、大すきなじさまの死んでしまうほうが……
・豆太についてどう思うか考える 今までの豆太とくらべて考えさせる
(外の目から異化体験)
・次時予告 –

[授業記録]

教師この晩てどんな晩かな。

今井 しも月みっかの晩。

小野 モチモチの木に灯がともる晩。

教師 そうね。豆太はその灯を見たい見たいと思いながらねてしまったのね。

〈豆太はまよなかにヒョッと目をさました。あたまの上で、クマのうなりこえがきこえたからだ。「ジサマァッー!」むちゅうでじさまにシガミつこうとしたがジサマはいない。〉

 この文で思うこと、わかることを言ってください。

大泉 「ジサマァー!」と波線がついているから、ふるえて言っている。

高橋 〈ヒョッと目をさました〉とあるから、急に目をさましたんだと思う。

坂田 豆太は家の中で寝てるでしょう。それなのにクマがくるわけないと思う。

教師 坂田さんはおかしいと思うのね。でも豆太は、

C クマと思った。

教師 豆太はどう思ったんだろうね。

C こわかった。

教師 それで、

C じさまにしがみつこうとした。

白井 <じさまはいない。〉ときつく言ってるからギクッ とする。

奥野 〈じさまがいない〉と書いてあるでしょう。〈じさまがいなかった〉というより〈いない〉の方が、じさまを大変だという気もちが強くでる。

教師 「ジサマァッ…!」と「ジサマッ!」と、どうちがうのかな。

前川 「ジサマァッ…!」はふるえている。

田中 「ジサマッ!」はさけんでいる。

堀内 「ジサマッ!」はじさまが苦しんでいるのを見てびつくりしている。

高橋 クマにみたいに見えたのが、じさまということがわかり、苦しんでいるのがわかってびっくりして叫んでいる。

教師 クマのうなり声だと思ってふるえながらとびついたが、クマみたいにうなっていたのはじさまだった。じさまの様子はどうだったの。

山岡 豆太がとびついても、歯をくいしばって、ますますスゴクうなるだけ。

西岡 ふつうはスゴクとしか言わないのに、ますますスゴクとあるから本当にすごうくいたい。

谷田 〈じさまはじさまは〉と二回くり返している。一回だけ言うより苦しい様子。

教師 でも、ちょっと腹がイテエだけだって言っているよ。

小野 本当は痛いのに豆太をこまらせたくはないから、ちょっとと言っている。

白井 豆太は、じさまの事を心配しているし、じさまも豆太のことを心配している。(中略)

教師 〈ねまきのまんま。はだしで。半ミチもあるふもとの村まで……〉の文で思うこと、わかることは。

奥野 〈ねまきのまんま。〉で切っているから、豆太がじさまを助けたい気持ちを強くしている。

山本 豆太はじさまにかわいがってもらっていたやろう。それでな、いそいでいそいで、ねまきなんか着がえる間がない。

早浪 ねまきで寒くてハダシで冷たいのに、人のためにがんばっている。豆太は立派だと思う。

教師 早浪さんが豆太は立派だと思うのね。

小野 じさまのためなら、ハダシでも、ねまきのままでもいいと思った。

大泉 じさまの苦しんでいるのを見て、見てられないほどだったから、ねまきのまま、ハダシでとびだした。

白井 〈ねまきのまんま〉で切ったり、カタカナで書いたりしているから、読み手がびっくりするようで、すごいなーと思う。

高橋 ぐずぐずしていたら、じさまが死んでしまうと思って、ぞうりなんかはくひまなんかない、ねまきを着がえる間なんかない。

大泉 じさまは、ちょっと腹がイテェだけだと言ったけど、苦しんでいるのがわかって、豆太に心配させたくないというじさまの気持ちがわかったからとび出した。

教師 〈外はすごい星で、月もでていた。とうげのくだりのさかみちは、いちめんのまっ白いしもで、雪みたいだった。しもが足にかみついた。足からはちがでた。豆太はなきなきはしった。〉

塩谷 じさまが死んでしまうかもしれないから、豆太はがまんして、じさまのことばかり考えて走った。

長尾 自分よりじさまの方がいたいんだと思って走った。

白井 霜が足にかみついたって痛いだろうなあ。足からは血が出たってあるからもっと痛いだろうなあ。(中略)

教師 豆太は心の中でどんなことつぶやきながら走ったのだろう。

中山 じさま、医者様よんでくるから、待っててな。

清水 じさま大丈夫かな、死なないかな。

山本 早く医者様を呼んできて、じさまの腹イタなおさなくっちゃ。

白井 たいへんだ、たいへんだ。

小野 今、医者様をよんでくるから、がまんしててね。

大泉 モチモチの木がこわかったけど、モチモチの木なんかどうでもよかった。じさまのこと考えて、じさま待っててねと心の中で叫んでいる。

教師 今までの豆太は、おくびょうで弱虫だったね。その豆太が、今一生懸命走っているのね。この豆太を見て、私はどう思うか、書いて下さい。……では、発表してもらいます。

田中 語り手はおくびょうだと思っているけど、私は勇気があると思います。

吉岡 ぼくも田中さんと同じで、豆太は勇気があると思います。ぼくはちょっと敗けた感じがする。

谷田 豆太は自分はおくびょうと思っているけど、ぼくからみたら勇気がある。

早浪 泣き泣き走って立派だと思う。外側はおくびょうだけど、中側はやさしさでとろけそうな気がする。

白井 私はお母さんが病気になったら、豆太みたいにできるかな。

高橋 霜がおりて冷たい、痛い道を一人でがまんして走っていくなんてすごいなー。

大泉 おくびょうで、甘えた豆太が、真夜中医者様をよびに行った。豆太は、すばらしい心を持っている。

清水 寒くて、いたくてこわかっただろう。

教師 そうね、痛くてこわかっただろうね。でも、一番こわかったのは。

山岡 じさまが死んでしまうこと!(後略)

六、第六時、研究授業の後で

 校内研の翌日、子ども達も緊張していたし、私ももう一つつっこみが足りなかったので、「昨日の授業で言えなかった事、言いたりなかった事ない?」と問うと、谷田くんが言った。

「これは、家で話し合った事なんだけど、人間いざという時、勇気がでるのだな」

このことから、どんな人間でもいざという時、勇気が出るのだろうかが問題になった。誰でもできるわけではない。豆太はじさまが大好きで、じさまの苦しむのを見ていられなくて、やさしさを勇気にかえて走ったんだ。そして、この豆太のやさしさは、じさまのやさしさの中から生まれてきたのだと話し合った。

七、第七時、よわむしでもやさしけりゃ

 「人間やさしささえあれば、やらなきゃならねえことはきっとやるもんだ」から、じさまのいうやさしさとは何だろうかを話し合った。そして、じさまのいうやさしさは、何かくれるとか、してくれるとかいうやさしさではなくて、人にしてあげるという愛情、ひさの星のように、人がこまっている時、苦しんでいる時、その人を助けてあげる事が本当のやさしさであると話し合われた。

 ここまで深まってくると、発表する子が減ってきたが、フンフンとうなずきながら聞く子どもの表情を見ると、豆太とじさまを結ぶ愛情、じさまのためこわさも寒さも忘れて走った豆太の行動を生み出した「やさしさ」の意味を、それぞれの心で受けとめてくれたのではないかと感じた。

八、まとめ読みの授業

 最後の三行〈それでも豆太はじさまがげんきになるとそのばんから「ジサマァ」とションベンにじさまをおこしたとサ〉の意味が問題になった。

教師この終わりの三行がなかったらどうだろう。

C おもしろうないわ。

小野 勇気のある豆太で終わってしまう。

奥野 終わりの文がある方が「アレ?」という気持ちがしておもしろい。

教師 どうして?勇気のある豆太でおわる方がカッコイイんじゃないの。

C おもしろうない。

早浪 終わりの三行ある方が、この続きどうなるんだろうと考えさせられていいと思う。

教師 なるほどね。じゃあ、ここで豆太はまたじさまを起こしているけど、豆太はおくびょうなのか勇気があるのか、どっちでしょう。

今井 わたしは、やっぱりおくびょうだと思います。清水 そしたら、医者様よびに行ったのはどうなるんですか。あんなことできたんやから、勇気あると思います。

子どもたちは迷いました。どっちが本当の豆太だろうって
……そんな話し合いの中で--。

谷田 ぼくは、豆太がじさまの腹いたなおったら、またしょんべんにつれてもらってるのは、五つやしこわいのは当たり前やし、おくびょうとちがって、普通の男の子やと思う。

吉岡 しょんべんに連れてもらうのは普通の子やけど、あんな夜道を一人で走ったのは、前に人間誰にでも出来ることとちがうって話し合ったけど、普通の子とちがって、勇気ある子やと思う。

教師 小便に連れて行ってもらうのは普通の子だけど、医者様呼びに行ったのは誰にでもできることじゃないから勇気のある子だっていうのね。

山岡 豆太はおくびょうと勇気と半分ずつちがうかな。

寺井 おくびょうだけどやさしい心持っていて、いざという時勇気でたんだから、両方持っていると思う。

高橋 勇気あるか、おくびょうか、そんなんどっちかなんて簡単に決められへんと思う。

教師 そうやね、おくびょうか勇気あるかなんて決められないね。普段は弱虫でじさまに小便に連れて行ってもらう豆太は、ぼくらの五つの頃と同じ男の子なのね。その豆太がじさまの苦しんでいるのを見て山道を走った。そこが豆太のすばらしさであって、人間の値うちがそこにあるのね。

 人間、その時の行動だけ見て、いい人悪い人って決められるかな?決められないもんね。その人の中には、いろんなもの持っているもんね。

 最後の朗読が終わると、子どもたちの中から拍手が起こ った。

九、おわりの感想

豆太のやさしさ
寺井佑奈

 わたしは、豆太がすきです。じさまが苦しんでいる時でもあのおくびょうだった豆太が、はだしでねまきのまんま足から血を流して、やっぱりじさまの心から豆太の心まで、やさしさが伝わったのかもしれません。わたしは、そんな豆太がすきです。

 (略)そうそうだけど、じさまはだれにもやさしいみたいです。しんどいけど、がんばってあげる。それこそわたしは人間と思います。だから、日ごろからじさまが豆太にやさしくしているから、豆太もじさまを助けることができたんじゃないかと思いました。

 やさしさは、思いやりだと思いました。

豆太のやさしさを勇気にして
吉岡卓也

 豆太はやさしさがあって、じさまをすくうことができたんだ。このやさしさがあってこそ、豆太のねうちが出ているんだ。そのやさしさは、あれしてくれる、これしてくれるのやさしさじゃなくて、思いやりやあいじょうがそのやさしさであり、そのあいじょうは小さいあいじょうやふつうのあいじょうではなくて、大きなすばらしいものなんだと思います。豆太には、大きなすばらしいすてきな心がむねいっぱいに広がっていると思います。

 豆太はじさまのために、こんな夜道を走ったのも、このやさしさがあったからだと思います。モチモチの木のひを見たいから走ったんじゃない。じさまのために走ってぐうぜんにモチモチの木のひを見ることができたんだ。

 ぼくは、豆太の心に感動しました。(略)

モチモチの木のだいじなこと
小野浩一

 (略)豆太はすごくやさしいなあーと思う。それだし、初め語り手は豆太に文句を言っていたのに、今になってすごいなーと思っているんかもしらん。それだし、豆太はふつうの子ではない。ふつうの子で、五つになってもあんな夜道走れるのは豆太だけ。ぼくはこう思いました。人に勝手に、よわいなーとか言わないことにしました。
[学級通信を通じて父母もいっしょに]

 学級通信に、この授業のことを書いて出しました。それを読んだ感想や意見が、お母さんから寄せられ、新しい見方も教えられました。

〈じさまの大きな心についての記事を読み、感動して二度も読み返しました。白井さん、本当にいい所に気がつきましたね。なるほど、私自身がこのじさまを大好きなのはそういう所なんだわ。そして、自分の親たちも、私たち子どもに対してじさまと同じようだったという、なつかしい思いを呼び起こしてくれました。じさまの大きなやさしい心を思うと、いつもギャーギャー言っている私も、とても素直な気持ちになってきますね。子どものため、この子のためと言いながら、実は自分が安心したいための文句もあるような気がします。--石川さんのお母さん--〉

一〇、授業を終わって

・何よりこの作品が子どもを引きつけるものであったこと。この勉強をしてよかったと何人もの子どもが感想に書いていたことがうれしかった。

・話者の存在をきっちり押さえ、視点をはっきりさせて授業を展開してきたことで、子どもたちが豆太の身になって考えたり、また外から客観化して考えたりという文学体験を深める事が出来たように思う。

・一人調べのノートを作り視写をさせ、その文、言葉からわかる事思う事を書きこませ、授業の前に目を通して子どもの考えをつかみ、それを授業に取り入れていった。まだまだ充分書きこめない子も多いが、授業が進む中で書くことも深まり、授業の中に出してきてくれた。

・子どもたちはやさしさについて語り、また人間を一面的にみないということも言ってはいるが、その事が生かされるような学級集団にはなかなかなっていない。今後は本当に相手を思いやる心を大切にした民主的な集団づくりを根本にすえ、文学で学んだ事が、子どもを変え、集団を変えていく力になっていくようなそんな学級づくりをめざしたいと思うのである。

出典:「どの子も伸びる」1989.9./部落問題研究所・刊
(個人名は仮名にしてあります。)