「府外教」「市町村外教」への行政当局の直接関与・協力に対する見解(大教組)

「府外教」「市町村外教」への行政当局の直接関与・協力に対する見解

1992年11月
大阪教職員組合 中央執行委員会

 「連合」府教組など一部団体が行政の庇護を受けて進めてきた「大阪府在日外国人教育研究協議会」(「府外教」)の結成総会が10月17日行われ、各市町村においても「市町村外教」づくりがすすめられようとしています。これらの「府外教」「市町村外教」は、誤った解放教育路線を新たに在日外国人の教育の問題を利用して学校現場におしつけることを狙って進められており、こうした特定の「研究団体」の設立、運営等について府教委や市町村教委が直接関与・協力することは、憲法・教育基本法で保障された教職員の教育・研究の自由を侵害し、一部の潮流に肩入れする教育行政の著しい逸脱です。さらに個人の自由に属する研究団体への参加・不参加までも学校単位での一括加入などで強要しようとしており、新たに結成されようとしている「府外教」「市町村外教」は、既存の「大同教」や「市町村同教」と同様に学問・研究の自由を侵害する憲法・教育基本法違反のおよそ「自主的研究団体」とは言えない重大な問題を持った組織です。

 その第一は、「府外教」や「市町村外教」の結成・運営に行政が直接関与・協力する根拠とされている『在日韓国・朝鮮人問題に関する指導の指針』(「府教委指針」)なるものを、府教委が憲法・教育基本法に違反し、教育の自主性を踏みにじって作成したことの誤りです。

 本来、教育活動の条件整備について直接責任を負う教育行政が、教育内容に関わって「指針」なるものを出し、特定の教育内容のおしつけへ、現場の教育活動を制約するなどと言うことは、憲法・教育基本法から大きく逸脱した偏向教育のおしつけであり、断じて許されません。

 第二は、その「指針」の内容や「府外教」「市町村外教」が推進しようとしている、新たな「同化」と「排外主義」をおしつける誤った教育論です。

(1)  在日外国人児童生徒の母国語をはじめとする民族教育は、その民族自身の手によって行われることが基本です。圏本人教師が行うべき民族教育は、日本人児童生徒に対し、日本の歴史と現実に対する児童生徒の科学的認識を育て、民族の遺産や民…豊主義の伝統についての正しい認識に基づいた民族的な自覚を高めることにあります。そして日本の学校に学ぶ外国人児童生徒の教育については、日本と諸外国の児童生徒の連帯を育てる中で、外国人としての民族的自覚を高めるよう援助することにあります。日本人教師が、外国人児童生徒の民族的自覚や誇りそのものを育てたり、教えたりすることはできません。もしそれを無理に行おうとするならば、外国人児童生徒の民族主権を侵害し、日本人の立場からの外国観・外国人観を強要し、結果として「同化」を強いるものとなるからです。

 しかし「指針」は、「在日韓国・朝鮮人の問題については、日本と朝鮮半島をめぐる近代以降の歴史的経緯や社会的背景の下で生み出されてきた偏見や差別が、……在日韓国朝鮮人児童生徒にとっても自らの誇りや自覚を身につけることが困難な状況を生み出してきだ」とし、民族主権に関わる民族教育の問題を、「偏見と差別」の問題に、日本国内の差別問題一般に解消し、「差別をしない。差別を許さない」「偏見や差別をなくすように努める」といった、心購え、道徳主義の教育にすり替えてしまい、日本人教師にもできるかのようにして強要しようとしています。在日外国人に対する民族問題には、在留外国人としていかに生きるかという、在留外国人としての主権、民族主権が十分保障されないために、日本人と同じ様に生きていかねばならない「同化」という問題と、職業選択や社会保障など実際生活上における差別扱いという二つの側面がありますが、「指針」は、いかにも在日外国人の「誇りや自覚」を大切に扱うように装いながら、結局は、他民族の子弟の教育問題を日本の国内問題にすり替え、民族問題の中心的課題である民族主権の尊重を塗り消しています。民族の将来の主権者を育てるという民族教育の課題は、差別の問題が解決したとしても解消されません。

 「府外教」の設立文書や各「市町村外教」方針等では、この誤りがさらにあからさまなものとなっています。一連の文書では、「共に生きる」ということが、「民族文化の尊重」「違いの認め合い」などの言葉と共に、繰り返し強調されていますが、民族主権を尊重する文言はどこにもみられません。在日外国人は、他の主権国家の公民であり、日本において、日本人と「共に生きて」いくか、祖国と共に生きていくか、また他国で生きていくことを望むかは、在日外国人自身が自主的に決定すべきことです。もし仮に在日外国人自身が「共に生きて」いくことを望んだ場合にも、在日外国人としての民族主権が尊重され、相互の自主性を堅持した、自立した連帯の立場で、共に生きていくことを追求すべきであります。
 とりわけ日本政府が、朝鮮民族自身による民族教育を敵視する政策を継続してきている状況の下で、民族学校がほとんど保障されず、日本人学校へ通学することが余儀無くされている在日朝鮮人子弟に対して、「差別されるもの」という烙印をおしつけながら、「共に生きる」ことを一方的におしつける、そうした教育を日本人教師に公教育として強要することは断じて許されません。

 それは、在日外国人の民族主権を抑圧するこうした日本政府の政策の下で、民族主権の尊重を第一義的なものとせず、曖昧にしたままで、在日外国人に対し「共に生きる」ことを追ることは、「民族文化の尊重」「違いの認め合い」をいくら強調しても、「同化」の強要にしかなり得ないからです。このことは、次の加藤紘一官房長官の発言にも端的に示されています。

 「在日外国人の方々も同化する努力を長い間続けているので、不信感は急速に薄れつつあると思う」(「朝日」92.6.10付)。

 これまでは、在日朝鮮人の民族的団結自体を治安の対象としてきた日本の「行政」が、「安心して」人もお金もだし、「日の丸・君が代」の執拗なおしつけとも矛盾せずに在日朝鮮人の「民族文化の尊重」を平然と主張できる根拠はここにあります。

(2)  憲法。教育基本法の理念と原則、さらには子どもの権利条約の立場に立った民族教育は、何よりも日本人児童・生徒及び在日外国人子弟が、民族としての自立とそれぞれの民族間の平和と連帯を育てる教育を保障するものでなくてはなりません。

 しかし、「指針」や「府外教」設立文書等は、「日本の社会・学校教育が在日韓国・朝鮮人やその子どもたちを抑圧している現実…」と日本人全体を加害者とする日本人加害者論の立場に立ち、日本人=「差別する者」、朝鮮人(外国人)=「差別される者」という特定の考え方から・日本人児童・生徒に対しては、「他民族に接している日本人の子どものいびつな意識やゆがめられた朝鮮(人)認識を正す教育の重要性が」と差別意識の自己批判と懺悔を迫り、朝鮮人児童・生徒には「自覚」を持たせるための「本名宣言」を迫るという排外的な民族主義をことさらに煽るものとなっています。もし、こうした教育がこのまま進められるならば、「差別と闘う」という名のもとに「差別さがし」が進められ、子どもどうしが対立させられることになります。実際に、いくつかの地域では、成長過程にある子どもの未熟な発言をとらえた「差別事件」化が意図的に引き起こされつつあります。

 このように「指針」等の立場に立った「誇りや自覚」とは、「差別されるものとしての自覚」や「差別に負けず、闘い続ける決意」という情念のみを煽る、育ててはならない排外的なものであり、平和と国際連帯につながる民族的な誇りや自覚とはまったく無縁なものです。

 さらに問題が、差別問題のみに一元化されることによって、日本帝国主義と日本人民の区別が意図的に塗り潰されてしまい、在日朝鮮人の民族的権利を侵害し、民族的自立を妨げて来た真の原因・元凶があいまい化され、隠蔽されてしまっています。在日朝鮮人の民族的自立を破壊・妨害してきた真の元凶は、戦前においては、日本の軍国主義、天皇制支配層が、帝国主義的侵略を推進するため、他民族抑圧政策をとり、日本人民の民主主義・侵略戦争反対の運動を萌芽のうちに徹底的に蹂躙し、さらに国民を侵略戦争に駆り立てるために民族排外主義を注入拡大していったことにあります。そして戦後も日米安保条約と米日韓癒着体制の中で、米極東政策への従属の下に、その意図は変形しつつ継承され、日本政府の朝鮮政策は、一貫して「韓国軍事政権」への援助と南北の分断の継承・固定化への援助であり、そうした政策推進のために在日朝鮮人の民族的自立に対する一貫した妨害と、様々な法的規制による抑圧が行われてきたのです。「指針」等は、こうした朝鮮民族に苦難をもたらした真の原因と日本政府の責任を意図的に隠蔽し、欠落させるため、問題の根本的な解決へ向けての展望を閉ざし、悲壮な排外主義を煽るのみで、結局は在日朝鮮人子弟を民族ニヒリズムに追い込んで行く犯罪的なものです。

 第三は、教育・研究の自由を侵害し、教育を運動に従属させる、府教委や市町村教委の「府外教」「市町村外教」への直接関与、協力の誤りです。

 「指針」等が前述のような排外主義で貫かれたものとなる根源は、「同和問題・在日外国人問題・障害者問題・男女平等の問題に関する教育を充実させ、差別をしない、差別を許さない……」と、在日外国人問題を、同和問題、障害者問題の間に挟んで、同様の性質のものとして扱う「指針」の記述にも見られるように、「解同」理論である被差別統一戦線の立場に立ち、民族主権の尊重に関わる在日外国人の問題を、同和問題や障害者問題と混同し、同列視していることにあります。部落問題の解決は、平等・融合をめざすものであるのに対して、在日外国人問題は、外国人としての区別を明確にし、その権利を保障することが基本となります。

 しかし「指針」や「府外教」設立文書等では、その出発点が「解同」の運動にあるため、被差別統一戦線という特定の運動の課題を教育と研究に直接的に持ち込む、教育と運動を混同した根本的な誤りがあります。このことは設立の経緯から見て一層明らかです。

 「大阪の在日外国人教育は、部落解放をめざす課題を機軸に据え、反差別・人権の教育課題を追求してきた『同和』教育運動と分かちがたく結びあって発展し……その教育要求は、部落解放大阪府民共闘会議に集約され、『大阪府在日韓国・朝鮮人問題に関する指導の指針』の成果を生み……結成を宣言します。」(「府外教」結成総会アピール)

 このように、「府外教」や「市町村外教」は、特定の一運動団体にすぎない「解放共闘」(部落解放同盟、「連合」府教組など)の要求によって設立されたものであるだけでなく、「矢田問題」をはじめ「吹田二串事件」など、不法不当な教育介入、暴力的糾弾を推進した「解放共闘」の、教育の基本と条理を逸脱した運動を「発展」と位置付け、それをさらに推進しようとするものです。

 また、「大同教」や「市町村同教」が、その集会への割り当て動員などを要求し、行政と管理職が一体となってこれへの参加を強要したり、研究発表のために副読本”にんげん”の実践が強要されるなど、職場の分断と管理統制を強化する一つの手段として、大きく利用されている実態からも、こうした特定の誤った運動を教育と研究に直接的に持ち込み教育を運動に従属させる「大同教」や「市町村同教」、そして「府外教」「市町村外教」の反動的な狙いと一切の学校教育への介入を断じて許すことはできません。

 第四に、府教委や市町村教委が、行政の基本立ち返った施策をきちんと進めることの重要性です。今、行政がとりくまなければならないことは、一部特定の運動に従属したこうた憲法・教育基本法違反の教育内容への介入ではありません。

 急速に増加しつつある外国人労働者の流入との子弟に対する教育保障のための条件整備を、在日朝鮮人子弟に対する教育保障と合わせ、日本政府も批准している国際人権規約や子どもの権利条約の立場に立って緊急に進めることです。とりわけ、長年にわたって継続されてきている在日朝鮮人に対する民族的抑圧政策の転換を日本政府にも要望し、その子弟に対する民族教育が朝鮮人教師によって行われるよう保障することが重要です。

 国際人権規約A規約(79年日本加入)は第二条で「締約国は、この規約に規定する権利」が、人権や性や「国民的出自」による「いかなる差別もなしに行使されることを保障する」と「約束」し、第十三条(a)項で「初等教育は義務的」で「すべてのものに対して無償のもの」とするとしています。続いて(b)項には「中等教育」の項もありますが、この項は高校義務化だとして、日本政府は不当にも批准していません。しかし、これらの規約を受け入れることで、日本政府は、外国人の子弟に義務。無償の小中学校教育を権利として保障すると約束しているわけです。さらに子どもの権利条約では、より明確に一切の差別なしに(第二条)、「初等教育」(無償)と「中等教育」(無償の導入、財政援助)の「機会」を保障する(第二十八条)としています。とりわけ子どもの権利条約第二十九条(c)項は、「子どもの親、子ども自身の文化的アイデンティティー、言語及び価値の尊重、子どもが居住している国及び子どもの出身国の国民的価値の尊重、ならびに自己の文明と異なる文明の尊重を発展させること」と明示しており、在日外国人子弟の「教育を受ける権利」に加え、出身国それぞれの「文化的アイデンティティー、言語、価値」を「大切にするもの」への教育、すなわち民族主権を尊重した民族教育の保障は、国際的な責務だといえます。例えば、一人でもブラジルの子が入学してきたなら、ポルトガル語の学習を励まし、課程内外でその学習を保障し、そのためポルトガル語を使える教師、助手、ボランティアを採用することや出身国の新聞や出版物を入手し、自由に文通・往来することを保障したり、二国間交渉を急ぎ、たとえば日本・ブラジル政府の協定でポルトガル語や文化の学習に必要な出版物、ポルトガル語の教師(ブラジル人を含む)を配置することなど適切な措置を取る必要があります。

 こうした教育を保障するため、実態を良く把握しつつ、日本政府や文部省にも要請し、条件整備を進めていくことこそが、今、行政に求められています。しかし、大阪府教委は、教育内容に介入する憲法。教育基本法違反の「指針」によって問題の本質を日本国内の差別間題にすり替え、現場教職員に責任を転嫁するだけでなく、「すべての諸人民間、民族的、国民的、…ならびに先住民族との相互理解、平和、寛容、性の平等及び友好の精神」を作り出していくことを明示した子どもの権利条約にも反して、民族主義的な排外主義を煽り、同化を強要する「府外教」「市町村外教」に直接関与・協力しようとしているわけです。

 第五は、「府外教」や「市町村外教」が財政面や参加形態・運営などから見て、特定の任意団体であるにも関わらず、行政への依存が極めて強く、官制団体のようにふるまいつつ、特定の運動を教育と研究におしつける、その学校介入を推進する機関となっている問題です。それぞれの「市町村外教」の会則では、「この会は、…市立幼稚園および養護学校、小中学校等をもって構成する。」や「本会は、…市立学校園の教職員でもって構成する。」などとし、すべての教職員を構成員とするような装いをとり、その財政も「この会の経費は…市よりの助成金等をもって当てる。」や「本会の経費は、補助金をもって当てる。」と行政丸がかえのものから、「経費は、会員校の会費等を持って当てる。」などとして各学校に自動的に「会員校」として学校長あてに文書を出しているものまであり、あくまでも個人の自由に属する研究団体への参加・不参加を、行政が加担をして学校単位などでの一括加入のような装いを取らせることは、憲法。教育基本法で保障された教職員の学問。研究の自由をファッショ的に侵害する、憲法違反のとんでもない暴挙です。

 とりわけ「府外教」等は、その設立のための事務局が、「連合」府教組内に設けられるという、明らかに一部特定団体の排外的な運動を推進する「研究団体」であり、その結成・運営に行政が加担することは、断じて許すことができません。

 今、各学校現場では、政府・文部省の反動的な教育行政のもと、低学力、生活の崩れをはじめ、増え続ける登校拒否や非行、いじめ、問題行動など大変な教育困難に直面しています。とりわけ小学校では、反動教育そのものをおしつける新学習指導要領が本格実施となり、「もうこのままではやっていけない」限界にまで追い詰められつつあります。また府教委による選別と競争を煽る高校多様化、入試制度改悪等により、その矛盾はより一層激化されつつあります。

 こうした下で、在日外国人子弟に対する教育保障をしっかりと進めていくためには、日本の教育そのものを憲法・教育基本法の精神に基づき、すべての子どもたちに確かな学力と生きる力を保障する教育へと前進させて行く、そうしたとりくみと結び合わせていかなければなりません。

 これまで大阪の教育運動は、すでに「矢田問題」をはじめ、同和教育と部落解放運動をめぐって、教育の自主性と教師の尊厳に関わる重大な事態を体験しながら、優れた教育実践を生み出してきました。とりわけ民族教育と関わっては、大教組教研「民族教育」分科会、「平和と国際速帯」分科会等で発表されたレポートをはじめ、数多くのすぐれた実践があり、「在日朝鮮人問題は民族問題であるという視点から、民族的自立の尊重と民族的権利保障の問題に真正面からとりくんだ」実践や「侵略と他民族抑圧の政策、それに対する抵抗と友好・連帯のたたかいなど、歴史に対する秤学的認識を深め、そこから課題をくみとり、未来を展望する力を養おうとした」実践や「朝鮮人生徒をとりまく日本人生徒集団の民主的成長が、朝鮮人生徒の民族的自覚を支え・それがまた日本人生徒集団の成長を
促すという関係を作りだし、道徳教育としてではなく、民主的な生徒集団の形成を軸として、在日朝鮮人生徒の民族的成長を『援助』していった」実践など、日本の学校での民族教育の推進と一体のものとしてとりくまれてきた、在日外国人教育にかかわる原則的な視点も確認されてきています。

 こうしたすぐれた実践は、何よりも憲法。教育基本法に示されるがごとく、いかなる不当な圧力にも屈することなく、学問・研究の自由と教育の自主性を守り、民主主義を貫くことによってこそ切り開かれたものです。
 大教組中央執行委員会は、こうした民主教育の前進に逆行し、障害となる誤った「指針」を府教委が白紙撤回し、「府外教」「市町村外教」そして「大同教」「市町村同教」への行政当局の直接関与・協力に断固反対するとともに、教職員の教育・研究の自由を守り、自主的な教育・研究と実践が保障されるよう奮闘することをあらためて表明するものです。

以上

全国人権教育研究協議会を批判する(2014)

基本的人権の尊重(憲法)を歪める全人教
―全国人権教育研究協議会を批判する―

編集・発行/大阪教育文化センター「部落問題解決と教育」研究会

(全人教全国研究大会報告冊子から引用する場合は、大会開催年と報告県名のみ明記した。報告に地名が書かれていても、引用では○○と表示した。)

1.教育に運動を持ち込んだ全同教

(1) 部落解放同盟の別働隊に転落
 参加した研究会は多様な組織だった

 全国人権教育研究協議会(略称 全人教)は、1953年、全国同和教育研究協議会(略称 全同教)として発足した。当初から参加県市の研究会は多様で、自主的な研究団体として活動していた県、官製団体であった県、運動団体によりかかっていた県などがあった。

 全同教は多様な実態を尊重し、自主的な研究や地域に根ざす実践を大切にし交流していた時期もあった。
解同の別働隊に転落

 しかし、1960年代後半から1970年代にかけて、部落解放同盟が暴力と利権追求にのりだした。次ページに紹介するように、全同教もまた部落解放同盟の運動を教育に持ち込む団体に転落し、自主的な教育研究団体とはいえない状態になった。

 15兆円をかけて同和対策事業が行われ、環境は激変し差別解消へ大きくすすんだ。一方、事業を継続する限り問題が解決しないというジレンマを抱えていたこともあり、2002年、特別法は終了した。「同和」と名のつく特別な教育は終わらせようと解散した組織もある(和歌山県同教99年、広島市同教01年)。

 全同教は2009年、一般社団法人への移行とともに全人教へ名称変更、2011年に公益社団法人の認可を受けた。全国大会は「人権・同和教育研究大会」としている。

(2) 「解放教育」という運動の持ち込み

 全同教は1966年の第18回全国大会アピールで「解放運動と同和教育の結合」を掲げた。

 同和対策審議会(同対審)答申が1965年にだされたが、答申は「同和教育を進めるに当たっては、『教育の中立性』が守られるべきことはいうまでもない。同和教育と政治運動や社会運動の関係を明確に区別し」と、教育に運動を持ち込むことを戒めていた。

 これに対し「子どもたちの学習権保障のためにはいっそう教育と運動を結合すべき」「自己の社会的立場の自覚」などの「解放教育」が提唱されはじめた。全同教も「解放運動と同和教育との結合をさらに強め」ようと決議した。

(3) 「狭山事件」を教育に持ち込む

 1970年の第22回全国大会では狭山事件の石川一雄氏の「訴え」が読み上げらた。翌1971年の大会では「大会アピール」に「無実の石川青年を釈放させる運動と行政糾弾の闘い」と書いた。

 1972年の「大会アピール」は「『矢田教育差別事件』を通じて…部落解放運動と結合していくことなくして部落解放の教育創造はありえないことを全同教は明らかにしてきました。」「司法権力の予断と偏見によって、石川青年は獄窓に」などと書いていた。(※「矢田事件」は次項参照)

 1976年の大会アピールでは「権力裁判を糾弾する『狭山』同盟休校闘争を、教育への介入とし、部落大衆と労働者、父母、国民を敵対させる、私達の内部にある一部の傾向は、早急に克服されねばならない」とまで書いていた。

 2012年の研究課題では「狭山事件をとりあげ、石川一雄さんの生きざまに学ぶことができます。」としていた。2013年の研究課題から「狭山」は消えたが、記念講演の注や報告では取り上げている。

▼ ○○は今年の校内人権集会(「狭山」現地調査報告集会)で「狭山事件は殺人事件ではありません。部落差別事件です」と力強く語った。(2013年 熊本県)

▼ 職員室には「○○中学校から第2の石川さんを出すな」という「狭山」の教訓を継承し、すべての子どもたちの学力を保障しようという教師の姿勢を確認するため「石川一雄さん逮捕」の写真が貼られています。(2012年 奈良県)

 まだこんな学校がある。堂々と大会で報告し、全人教も平気で冊子に収録している。その大会を文科省や各県が後援している。

(4) 全同教は「部落解放同盟」の暴力を容認してきた

矢田事件 解同の暴力を容認

 1969年に引き起こされた「矢田事件」は、労働条件改善を訴えた大阪市教員の文書を部落解放同盟(解同)が「差別」と決めつけて教員を拉致糾弾し、市教委に首切りを要求、市教委は教員に長期間の研修を命じた事件である。最高裁は拉致糾弾した解放同盟員に有罪の判決、大阪市には損害賠償を命令する判決をくだした。1986年の最高裁判決は「差別文書」だとする大阪市の主張を退け、研修命令は裁量権の範囲を逸脱したものと明確に認定している。全同教が「矢田教育差別事件」と表現するのは解同の認識であり、すでに断罪されている。教育委や解同と異なる考えを表明しても差別ではない。

八鹿高校事件 解同の暴力を容認した警察・行政・マスコミ・そして全同教

 1974年11月、兵庫県立八鹿高校教職員58名が、解同による集団リンチを受けて重軽傷を負うという事件があった。(最高裁で解放同盟員は有罪、兵庫県と解同は損害賠償を支払えとの判決が確定している。)。

 全同教はこの時、京都出身の副会長らの反対にかかわらず正副委員長見解を発表。翌年2月の全同教委員会でそれを全同教見解とした。見解は八鹿高校教職員に非があるように描き「解同」の集団暴力を正当化するものであった。当時、三重・滋賀・和歌山・京都・岡山の5府県同教が見解の採択強行に抗議した。全人教は今日にいたるまでも、暴力容認の決議を撤回していない。

2013年全人教大会でも、特別分科会で講師が教育の中立性確保を非難

 2013年11月に徳島で行われた全人教全国大会でも運動の持ち込みは続いている。

 徳島大会の特別分科会第1講の講師(元全同教委員長)は、「激しかった同和教育攻撃」として、地域改善対策協議会の文書や総務庁地域改善対策室の通知を例にあげている。その文書は下に紹介するように民間運動団体の教育介入を厳しく批判している。教育に介入する民間運動団体とは部落解放同盟である。

 教育の中立性確保という当たり前のことが通用しないのが全人教の「同和教育」である。「公益社団法人」として認可されたという全人教のどこに「公益性」があるのか。

 地域改善対策協議会基本問題検討部会報告書

 同和教育については一般住民の批判的な意見も多いが、この背景には、地域によっては民間運動団体が教育の場に介入し、同和教育にゆがみをもたらしていることや同和問題についての住民の理解が十分でないことが考えられる。同和教育の推進に当っては、住民の理解と協力を得るよう努めるとともに、教育と政治・社会運動との関係を明確に区別して、教育の中立性が守られるよう留意し、行政機関は毅然たる姿勢で臨むこと。指導に当たっては、教育の中立性を確保する方策が明確に示されるべきである。(1986(昭和61)年8月5日)
 (地域改善対策協議会は総務庁(当時)のもとに設置された審議会)

2.教育で「部落」を分けへだてする全人教

(1) 学校が「部落」を意識させている

 大阪府の調査では「同和問題をはじめて知ったきっかけ」が「学校の授業」というのが20代、30代、40代で過半数(2010年府民意識調査)。埼玉県中高生意識調査では初めて知ったのは学校が82%(2010年調査)。

 全人教は基調提案などで「部落の子ども」「部落外の子ども」などと子どもを色分けしている。各地の報告も依然として「同和地区」「被差別部落」「ムラ」と呼称し、子どもたちを「部落出身かどうか」を意識している指導者のまなざしがうかがえる。

▼ ○○さんと語る中でわたしは、部落の子どもたちがいつか部落差別と向き合う日が来ることを意識するようになりました。(2013年 鹿児島県)

▼ 3年生で再びAの担任になった。今度こそは部落問題の話もしていきたいと思い、4月早々、家庭訪問を申し入れた。お母さんから「なぜ、うちなのか」「点数稼ぎのためか。」と返ってきた。(2013年 三重県)

▼ 6年生のA子は、普段から、「なんで○○の子どもだけ、学習会にいかんばいかんと?」と言って半ば強制されることに対して明らかにいやがっていた。(2013年 佐賀県)

▼ Bの母親は同和地区出身である。母親は他地区の男性に嫁いだが、Bが幼少の時離婚し、実家に戻った。(2012年 岡山県)

▼ ○○地区・○○地区・○○地区と三つの地区公民館があり…。…○○地区・○○地区には部落があります。…ムラ出身でない私はなじめていませんでした。(2012年 鳥取県)

▼ 願い出て「ムラの子が顔を上げられる授業」を目指して江戸時代身分制の授業をさせてもらった。しかしその後の授業の後で差別発言があった。本校の課題は、ムラ以外の子どもたちがともに反差別の仲間になる授業だと気付いた。 (2012年 宮崎県)

▼ 私は「部落出身であるAこそが部落問題を学ばなければならない」と考え、Aに部落出身であることを伝えた。(2011年新潟県)

 大阪からの報告には、「同和地区」や「被差別部落」という言葉は出てこない。それは大阪における部落問題解決の到達点や府民の批判の高まりを反映した結果である。

大阪府教委「ムラ」などは使用しない

(民権連)府教委とすでに決着ずみの「ムラ」「むら」“むら”などをやめさせること。

(府教委)ご指摘のような表現による誤解や偏見を避けるため、教材の見直しを行いましたが、今後とも、使用しないように取り組んでまいります。(2012.3.13 民権連の府教委交渉での回答)

 「民権連」は「民主主義と人権を守る府民連合」の略称(全国人権連に加盟)

※府教委は人権教育指導資料を配付しているが、その小学校向け教材では「部落」「同和地区」などの言葉はいっさい使用していない。

(2) 展望でなく恐怖を育てる全人教

 半世紀以上前のごとく、全人教は「差別がある」「差別される」と不安をあおっている。その結果、「学習経験を積むほど、『就職差別や結婚差別は将来もなくすことは難しい』という悲観的な意識が広がったということも指摘しておかなければなりません。」(大阪府民意識調査分析編p73・74)という事態を招いている。地域の状況は激変し、国民の融合も大きくすすんだ中に子どもたちは育っている。差別をする人がいれば周りのみんなが「それはあかんやろ」とたしなめる時代である。が、全人教は展望を語らず決意を促す教育をする。

▼ 前任校では、学習会が補充学習だけでなく、解放学習会としての取組がいろいろあった。それをとおして、子どもたちが社会的な立場を自覚する。勉強を重ねていくなかで、子どもたちは『なぜこのような差別があるのか』『将来、結婚する時に差別されるのか』という不安をもつ。(2012年 香川県)

▼ 僕は差別をまだ受けたことはありません。だから差別に実感がわきませんでした。けど話を聞いて、自分の近くにこんな差別があることがわかりました。(2013年 大阪府)

▼ ある生徒は「人権を語り合う中学生交流集会」に参加し、初めて部落問題の厳しさを知った。今まで同和問題を他人事としかとらえていなかった自分を反省した。(2013年徳島県)

▼ 今私達は社会で部落差別のことについて調べているけど、二人の方の話を聴いてとても役に立ちました。今も部落差別があると聞いてとてもショックでした。(2013年 福岡県)

 しかし、全人教大会での報告も、よく読めば国民融合に向かって着実に前進していることがわかる。「今の差別の現実は見えづらい」(2012 岡山県)というが、それは差別が解消に向かっていることを意味する。

総務庁文書も出自にこだわる誤りを指摘

 憲法第14条は,「すべて国民は,法の下に平等であつて,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない。」と規定している

 これは,直接的には法の領域の問題ではあるが,私人間の道徳的領域の問題としても,この原則は,国民の間に広く浸透し定着しつつある。

 江戸時代の身分制度に今日こだわることの非合理性,前近代性は広く一般の人々の受け入れつつあるところであるので,「なぜ同和問題についてのみ,あなたは,昔の身分制度にこだわるのですか」という問いかけは,人々の反省を呼び起こすのに有効であろう。

 また,同和関係者も自ら同和関係者であるか否かにこだわらないという信念を固めることが重要である。

(「地域改善対策啓発推進指針」1987(昭和62)年3月18日 総務庁長官官房地域改善対策室長通知) (全文はホームページ「人権教育辞典」で紹介している)

3.「人権教育」は解釈改憲の先取り

(1)  憲法の基本的人権を歪める教育

 2008年3月、文科省の人権教育の指導方法等に関する調査研究会議が「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」を報告した。全人教はその活用を訴えている。

 全人教としても、3次にわたる[とりまとめ]を活用し、同和教育の理念と教訓を踏まえた人権教育が全国すべての学校・地域・家庭において着実に進められるために、各地の具体的な実践交流を通した発信を続けていかなければなりません。(2012年度研究課題)

 基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利である(憲法97条)。人権は自由を侵害する権力者との対抗でつくられてきたものであった。ところが、政府・文科省・全人教の「人権教育」は、「人権尊重の理念についての正しい理解やこれを実践する態度が未だ国民の中に十分に定着していない」と国民の責任に転嫁し、人権を国民の意識の問題にすり替えている。上からは権力者が、下からは暴力と利権の集団が国民や児童生徒に「人権尊重」を迫る構図である。

 [第三次とりまとめ]は憲法について「世界人権宣言、児童の権利条約、憲法などの条文化された法規への理解を深める」と1行あるだけで、憲法をもとに人権を具体化させる指導はない。「国連人権教育のための世界計画」や世界人権宣言はあっても日本国憲法はない。

 全人教のすすめる「人権教育」は、憲法の保障する権利実現を権力者に求めるのでなく、私人の間の関係に矮小化するものである。これは、人権における「憲法の解釈改憲」ということができる。

人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]

はじめに
 我が国も(中略)全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の下で人権に関する各般の施策を講じてきた。(中略)このような人権尊重社会の実現を目指す施策や教育の推進は、一定の成果を上げてきた。しかしながら、「人権教育・啓発に関する基本計画でも指摘されているように、生命・身体の安全に関わる事象や不当な差別など、今日においても様々な人権問題※が生じている。
(中略)(基本計画は)「より根本的には、人権尊重の理念についての正しい理解やこれを実践する態度が未だ国民の中に十分に定着していないこと」等を挙げている。

※(引用者注)「人権教育・啓発に関する基本計画」(平成14年3月閣議決定)の様々な人権問題とは、女性、子ども、高齢者、障害者、同和問題、アイヌの人々、外国人、HIV感染者・ハンセン病患者等、刑を終えて出所した人、犯罪被害者等、インターネットによる人権侵害等

(2) 人権教育に数値目標? どうやって評価?

 2011年全人教大会の特別分科会では全人教副代表理事が講演している。この人は文部科学省人権教育の指導方法等に関する調査研究会議委員でもある。

 資料を見ると「小学校マニフェスト」では「『部落問題は被差別部落の友達の隣に座っている自分の問題』として捉え、自らのくらしと重ねて考えたり発言や行動できる6年生の子ども、五〇%をめざす」、「中学校マニフェスト」では「人権・部落問題学習で学んだことを、自分の暮らしや家族、友だちとの関係や自分の将来と結びつけて考えることができる子ども八〇%をめざす。」と数値目標を掲げている。

 数値目標を掲げた人権教育のどこが「人権」の教育と言えるのだろうか。子どもの内心をどうやって評価するのか。文科省がすすめようとしている道徳教育の教科化の先取りである。

 子どもの心や行動を数値目標にするのは、かつて学校が「満蒙開拓義勇軍」や「予科練」への志願の数字を争い子どもに迫ったことと同じ過ちを繰り返すことになるのではないだろうか。

 文科省[第三次とりまとめ]は「学校は、公教育を担う者として、特定の主義主張に偏ることなく、主体性を持って人権教育に取り組む必要があり、学校教育としての教育活動と特定の立場に立つ政治運動・社会運動とは、明確に区別されなければならない。」としている。全人教のような「特定の主義主張」に行政の後援・公費出張などは停止すべきだ。

解放教育体験記(狭山同盟休校など)

解放教育体験記

 これは1980年に大阪府部落解放運動連合会(全解連)の地域支部(*1)が作成した冊子です。

 解放教育を受けてきた当事者たちの手記です。(冊子は実名で書かれていますが、ネット掲載にあたり、イニシャルにしました。見出しは当サイト編集部がつけました。)

はじめに

 1969年の矢田事件以後、町にも「解同」による不当な教育介入、教育支配が行なわれ、1974年の「○中事件」を頂点として町の教育荒廃は大きな問題となってきました。このような中で、今年(1980年)1月28日、3度目の 「狭山同盟休校」が行なわれました。

 私達、全解連支部青年部の部員の多くがこのような解放教育を受けてきた当事者です。

 そこでこの同盟休校をきっかけに、町の教育荒廃をなくすために自分達が受けてきた解放教育がどのようなものであったのかをもっと考え、その正しい受けとめ方をひろめようということになりました。そして2月14日、青年部とつながりのある青年にも呼びかけ「自分達が受けてきた解放教育についての座談会」をもちました。このなかで青年部から、それぞれが受けてきた解放教育についての手記を残すことが提起され、後日参加者の中から製作委員会を結成し、本手記の発行にとりくむにいたりました。

 記載された手記は座談会の参加者と、青年部とつながりのある他の青年による「解放教育についての体験とその感想」です。自分達が受けてきた解放教育についての正しい受けとめ方としては不十分なものですが、町の教育荒廃をなくすための、さらには真の部落解放達成のための力にしたいと考えています。

1980年4月1日

各クラスで石川さんは無実だと新聞を作る ふるえながら反対したら、みんなも「そうやそうや」

●1979度入学  H・R(13才)

 1月28日の同盟休校のとき、各クラスで石川さんは無実だという内容のポスターや新聞を作ることになっていた。

 1月24日の道徳の時間、ぼくとこのクラスで何をつくるかという話し合いになった。

 その時、ぼくはある友人とはなしをしていた。そのはなしとは、ほくが小学校の2年の時、学校へいけなかったことや、家をとりかこまれたことなど、解放同盟にやられてきたことなどを話していた。するとその友達は 「ヘー。そんなことあったん。解放同盟てわるいねんな。」と言っていた。そんなことを話しているうち、何をつくるかというのはもうきまっていた。

 けっきょく、ぼくらのクラスは新聞を作ることになった。

 そのことを母に言うと、「それは反対せんなあかん。あんたが反対やと言ったら、みんなもあんたにさんせいするはずや。」と言った。ぼくは、そんなもんかな、もしさんせいしてくれなかったら、どうしようかなと思っていた。

 26日の土曜日、学活の時間に新聞をつくることになった。その時みんなの前でいうつもりだった。でも、いざその時になってみると、ガクガクとふるえていた。声をふるわせながら言った。

 「なんで、ぼくらがそんなことせなあかんのや。そんなんは大人がやったらいいねん。」

 すると子ども会に入っているある女の子が、「そうや、そうや。私もそう思うわもうすぐテストもあるのに。」と言ってくれた。

 その後から、みんなさんせいしてくれた。その時、ほくはものすごくうれしかった。ぼくは、日ごろあまり発言しないので、みんなもおどろいていた。

 そんなことがあって、ほくらのクラスは何も作らないことになった。ほんとうによかった。これからぱ、ほかのクラスも、いや同盟休校そのものをやめさせたい。やめさせるべきだ。

同盟休校 にげ出した子どもを、先生が家に行ってまでもどそうとした

●1978年度入学    H・Y(14才)

 同盟休校とは、最初どんなものかわからなかった。でもこの前の同盟休校が終わってから、それに行った友達に聞いてみると、わざわざ遠くまで行ってビラをまいたり、なにかわけのわからないデモをやったと聞いた。そんなことするのだったら、子どもは学校へいって勉強したり、みんなといっしょに遊べばいいのになあと思いました。

 そしてビラくばりやデモをしていてしんどいといってにげ出した子どもを、勉強を教えなければならない先生が、その子を家に行ってまでもどそうとしたということを聞きました。

 そして、学校で勉強していても、みんながいないのでちっともおもしろくありませんでした。どうしてあんなことを学校にいっている子ども達にやらさなければいけないのか、あんなことは、その子どもたちのお父さん、お母さんがやればいいことです。

 ぼくのクラスでも、道徳の時間に石川さんのことをすれば「なんであんなことせなあかんねん」とぼくにいってきます。ぼくも勇気はないですが、先生たちもそんなことは学校ではできません」とはっきりいったらいいと思います。

狭山同盟休校 自習していたら指導員が連れていく

●1978年度入学   T・K(14才)

 私が中学生になってはじめての同盟休校でした。

 小学校の時はおぼえていません。

 私がとても印象に残っているのは、2年の時の同盟休校です。26日は土曜日で、月曜日は、朝礼で30分ぐらい同盟(部落解放同盟)からの話がありました。朝礼台の上にゼッケンをつけた2人の男子が立っていて、後には横に長いポスターがはってあって、各クラスの窓やロッカーにもポスターがひとクラス十枚ぐらいずつはっています。それこそ学校中ポスターだらけ。そのうえ、門前には、立てかん(立てカンバン)が3つぐらいたっていて、帰り気がついたら南門前にも立てかんがあったのです。今でも、門前にたてかん一つ、ポスターはところどころにあります。

 その日の出席は、一クラス20人ぐらいで、その(同盟休校に参加している)ほとんどが○小学校の子でした。同盟休校で、私がふだん一諸にいる子がみんないってしまったんです。

 勉強の方は、いつも同盟にいっている英語の先生は、東京まで集会にいっていたんです。○中で東京にいった先生の数は6人で、1年生の先生2人、2年が2人、3年が2人です。英語の先生がいないため自習をしていると、私のクラスの男子5~6人が、一人の男子をさそいにきたんです。その後には、先生と指導員がいました。2~3時間目、私のクラスのさっきさそいにきた男子5~6人がぬけだしてきました。しばらくの間いましたが、すぐに指導員(*2)が来てまたつれていかれました。

 私も友達が少ないので、買物センターの友達といくことになっていたので解放会館の前を通っていると、大きな声でよばれ、2~3人の女の指導員が信号を渡ってきました。私は逃げました。それからは、おいかけてきませんでした。

指導員を恐れていた

●1977年度入学   N・K(15才)

 僕は、今まで解放運動に参加してみて感じたことは、なぜ僕達が参加しなければならないのかということ、なぜ勉強までやめて参加しなければならないのかということです。学校でそういう「解放運動」についてのことを学ぶ機会が多くなるにつれて、みんながやる気をなくしていくような気がしました。

 僕はいくども解放運動に参加してきて頭に残っていることは、つかれたということと、ばからしかったということだけで、他には何も残っていません。

 それに僕は、体が強い方でないので、気分が悪くなって倒れそうになったこともありました。でもそんな時、指導員に言うことができずに、じっとがまんするだけでした。なぜならば、僕や他の子供達が指導員を恐れていたからです。しゃべり方が悪く、すぐどなりつけるところがその原因でした。

 僕が一番腹立たしかったことは、中学3年の3学期、高校入試を控えた1月28日の同盟休校の時です。僕は参加するのがいやだったので、参加せずに家にいました。

 翌日学校へ行くと、同盟休校に参加した人から「なんでけえへんかった」といわれ腹が立ちました。でも黙っていました。僕は小学校のころ、子供会に行っていましたが、少しも楽しくありませんでした。そして、その子供会から一泊研修というのに行きました。でも車酔いばかりで、早く家に帰りたいたいという気持でいっぱいでした。僕はいま疑問をもっています。それはなぜ小さな子供までが学校を休んでまで解放運動に参加したり、ゼッケン登校したり、ビラまきをしたりしなければならないのかということです。

「同盟休校」を思いだすと腹が立つ

●1977年度入学   K・T(15才)

 私は、今の「解放運動」のやり方は、あまりよいやり方ではないと思う。

 まず学校のやり方は、週1回の水曜の道徳の時間にやっているが、クラスの仲間はほとんど間いていない。それはあたりまえだと思う。いつもおなじことをくり返しているばかりだからだ。いくら先生達が一生懸命やっていても、生徒は聞いていない。

 それをなくすには、週1回ではなく、月1回や2か月に1回にすれば、解放連動の授業も聞いてくれるだろうと僕は思います。

 それにもう一つは、同盟休校のことです。いまだになぜ同盟休校をしたのか、それをしただけで何のためになったのかわかりません。

 そのために、それに参加した仲間は勉強の方が遅れるのはあたりまえだが、その翌日、参加していないクラスの仲間から、プリントばかりしていたと聞いたら、急に腹がたった。なぜ参加していない生徒たちにも勉強ができなかったという被害をあたえたのかということに腹がたった。それきり僕は、同盟などにあまり参加しません。

 しかし今でもあの「同盟休校」を思いだすと腹が立ちます。また来年も同盟休校すると思いますが、しかし僕は参加しません。そして僕は、それを反対していきたいです。

「子供会」での活動は、ごっついおもんなかった

●1976年度入学   O・T(16才)

 まずこの地域では、道路に「石川青年は無実だ!」こんなカンバンがいたるところに立てられている。それに、○○病院にまでごちゃごちゃとワケのわからないことが書かれている。

 それに信号の多いことや、解放会館などでも知らない人が見たらビックリするだろうと思う。これこそ「私はアホです。カンバンや信号などをつける場所、数、効果などは全々わかりません。」と言わんばかりである。

 小学校の時は、1年から3年の時、「子供会」に参加していたと思います。でも、どんな活動していたのかわすれてしまいました。5年生になってからは「子供会」に参加するのも、1年に1~2回友人にさそわれて行くぐらいになりました。

 そのころ「子供会」での活動は、解放同盟の差別がなんたらかんたらと言う本で、ごっついおもんなかったんです。

 友人に聞いた話ですが、「子供会」に行くのがいやで指導員からグループで逃げだして、その内数人がつかまり、つかまった内の一人は地面にたおされ、指導員が馬乗りになり、顔面を平手で数回たたかれていたと言っていました。学校で学芸会などがあると、ぜったい校内を指導員がうろついていました。

 道徳の授業の時などは、実さいには知りませんが、「にんげん」を使って、半分以上の時間、解放教育をしていたと感じています。道徳の時間は、友人に「次は何の時間や」ときいても「道徳の時間や」と答えるより「にんげんの時間や」と答える人の方が多かったと思います。

 中学校に入学して、最初の解放教育の時、ぼくが、「またや」と言ったら先生が「何がまたや、まだ一回もやってへんやないか」といいよったんです。そこで小学校の時からやっているので、「小学校の時もやったからや」と言うと先生は、「そうか」と言ってなっとくしていました。

狭山事件の学習は学校の授業を遅らす大きな原因

●1977年度入学   M・N(17才)

 中学校で3年間解放教育を受けてきたのであるが、まず最初にいっておきたいことがある。

 そもそも解放教育とは何であるのか、仮に説明せよと言われた場合、自分としては、少しも相手に理解してもらえるほど話できない。それほどこのことに対して無知である。

 それでこの作文を書くに当たってこれでは少しまずいのではないかと思い、わたくしの父に尋ねてみたのですが、あいにく時間がじゅうぶんとれなかったため、説明がメモ程度だけになってしまい何のことかさっぱりわからないままこうしてペンをとっているのであります。

(以上のことを前提に書く、そのつもりで)

 現在中学校を卒業して2年以上になりました。中学校に入学するときはもちろん、在学中も自分はいま解放教育を受けているんだという意識などは、とうていありませんでした。学校を卒業してこうして解放教育のことについて書くようになってはじめて自分は、解放教育というものを受けてきたんだなあと言う感覚であります。

 したがって、そのときの僕にとって、狭山事件の映画を見たり本などを読んだりして学習するとき、すなわち(僕白身が)解放教育と言われる時間は、ただの遊びの時問にすぎなかったのである。

 最後に(もうひとこと)解放教育と間係あるかないか解らないが言っておきたいことがある。それは同盟休校のことである。

 僕は貴重であるかどうか知らないが、1年生のときにこの同盟休校を経験している。この日はほとんどの者が学校に出てこれなかったので、授業がまる1日遅れるのである。この同盟休校にしても、前にも述べた狭山事件の学習は学校の授業を遅らす大きな原因となっていることはまちがいない。社会人がこの世の中を生きていくためには労働すなわち仕事をしなければならない。我々学生にとってしなければならないのは、やはり勉強である。その時に解放教育と思われる教育をとり入れ、それが正しい方向で進められて行けばまだよいが、肝心の勉強に悪影響を及ぼすようで絶対にほおっておくべきではないと思う。

幼稚園では、童謡曲と同じように解放歌を歌わされた

●1977年度入学   U・Y(17才)

 私が17才の今までに受けた解放教育とは、いったい何だったのだろうか。

 幼稚園では、何を意味するかも全くわからずに童謡曲と同じように解放歌を歌わされたのを覚えています。

 でも一番思い出深い時間は、小学校の時です。石川さんのことを物語りを語すように、毎日子ども会で聞いたこともありました。はっきりいってしまうと、遊び盛りの私達にとって、毎日そういった内容のことを教えられることは、全然といってもいいくらい興味もなく、楽しい思いもしませんでした。

 私は、解放教育というのが、頭から悪いのだとは決していいません。ただそのやり方に問題があるのだと思います。

 例えば、年齢に応じた教育の仕方があるはずです。確かに、同和地区に住んでいるということだけで、白い目を向ける人もたくさんいます。しかし、そういう風に思わせる何かが私達にあるのではないでしょうか。今、私が思うことは、解放教育に力を入れるのと同じくらい子どもたちに、勉強に、スポーツに力を入れた方がいいのではないかと、中学校に入るとデモ、ビラ配りといった活動が小学校の時よりも増えていったのも事実です。

 黄色いゼッケンをつけて町の中をデモするのもいいでしょう。けれど、町の中をデモすることの意味を十分わかっている生徒ばかりではないから当然、不満の声がでてくるのがほんとうです。「恥かしい」といった内容の言葉が私も含めて多くの友人の口からもれていたのも事実です。もし、自分のしていることが、良い事だったら恥かしいとも思わないはずなのに。

 高校に通っている今では、解放教育というものを全然といっていいくらい受けていませんが、もう今までのような教育なら受けたくないと思っています。今までしてきたことは、何だったんだろう。

こんなことでは逆に自ら差別をしてくださいと言わんばかりでは

●1977年度私立中学入学   K・A(17才)

 同盟休校のことについて書きます。

 小学校1年や2年生の子供達に解放がどうの、差別がどうのと言っても何のことだかさっぱり分からないのにそんな子供達にまでくだらない歌を歌わせて、親は親で金のためか何のためか知りませんが、自分たちが何をやっているのかも十分知らないで黄色いゼッケンをつけて歩いてまわる。

 これじゃ小学校1年や2年生の子供とたいして変りがないようですね。

 差別をなくそう、良い町にしようと運動しているつもりが、子供達には学力の後退を増進させ、親は、ただ同盟に加入しているだけで、ほんとにただ同然の住宅に入れてもらって、朝から晩までぶらぶらし、勤くことを忘れてしまう。こんなことでは逆に自ら差別をしてくださいと言わんばかりではないでしょうか。だから早く、この町内の目をつぶっている大人たちに呼びかけて、これから大きな夢をもって育っていく子供達のためにも、真の解放教育を起していかなければならないと感じています。 

子供会が何んだかわけのわからないことをしだした

●1970年度入学     K・H(22才)

 中学校を卒業して高校に入ったころ、「解同」の教育の介入が大きな問題になってきました。

 そのころに前から疑問に感じていたことがはっきりしてきました。その疑問とは、小学校6年の時に出来た子供会が何んだかわけのわからないことをしだしたのです。

 出来た当初は、自分達であれをやろう次はこれをやろうと民主的に決めて実行してきたのです。ところが、仲間をふやそうということで6年も終りのころいったんつぶして 「解同」の組織で大きくしようということになったのです。たしかに人数は十数名から何百名となったのですが、内容はいったいこんなことがどこで決まったか、だれが段取りをしたのかまったくわけのわからないものでした。

 一番わけのわからないことは、初めて子供会が出来た時いっしよにいた仲間の半数が参加できないということてした。そんなことから私は子供会からはなれて行きました。そして高校に入りいろんなことを見たり聞いたりしていくうちに、「解同」の一部幹部が自分の利権のために子供を利用し、そしてこのことが子供の低学力を生み出してきたのだと分かってきたのです。

「狭山事件」のことを教えこまれテストされた

●1969年度中学入学     Y・T(23才)

 私の中学校時代は、現在のように、「解同」の教育介入はひどくなかった。

 当事、「解同」の組織している子供会に入っていた時のことでは、「狭山事件」のオルグ活動に行くということで、「狭山事件」のことを執ように教えこまれ、指導員の前にひとりづつ呼び出されて、事件の経過をどれだけうまく話し出来るかをテストされたり、盆おどりにおいても、浴衣の上に黄色いゼッケンをつけて署名活動をやらされたり、思い出に残っているのは、はずかしかったことやいやなことばかりです。

 高校では「友の会」も途中でやめ(その後成績が急上昇してきた)。学校で部落研の同好会をつくり、正しい部落問題について学びました。

 私が全解連(当時正常化連)という組織を知ったのが○中学校事件直後で○中をよくする会に誘われたのかきっかけでした。そこでは、生徒が授業中にたこやきを焼いて食べたり、教室の窓ガラスが割られてしまってほとんどないこと、先生は差別者だから、差別者には暴力をふるってもかまわないんだなど、私たちの中学校時代では考えられないようなことが平然と起こっていることを知り「解同」に対して怒りを感じました。そして、自分たちの卒業した中学校をこのままほっておくことは出来ないと、後輩たちが、正しい教育を受けれるよう努力していくことが必要だと感じ、全解連の活動に参加して、現在に至っている訳です。

以上

(*1) 全解連は発展的に解消し、現在は 民主主義と人権を守る府民連合 (民権連)の支部に移行
(*2) 青少年会館の指導員は大阪市の職員