解放教育体験記(狭山同盟休校など)

解放教育体験記

 これは1980年に大阪府部落解放運動連合会(全解連)の地域支部(*1)が作成した冊子です。

 解放教育を受けてきた当事者たちの手記です。(冊子は実名で書かれていますが、ネット掲載にあたり、イニシャルにしました。見出しは当サイト編集部がつけました。)

はじめに

 1969年の矢田事件以後、町にも「解同」による不当な教育介入、教育支配が行なわれ、1974年の「○中事件」を頂点として町の教育荒廃は大きな問題となってきました。このような中で、今年(1980年)1月28日、3度目の 「狭山同盟休校」が行なわれました。

 私達、全解連支部青年部の部員の多くがこのような解放教育を受けてきた当事者です。

 そこでこの同盟休校をきっかけに、町の教育荒廃をなくすために自分達が受けてきた解放教育がどのようなものであったのかをもっと考え、その正しい受けとめ方をひろめようということになりました。そして2月14日、青年部とつながりのある青年にも呼びかけ「自分達が受けてきた解放教育についての座談会」をもちました。このなかで青年部から、それぞれが受けてきた解放教育についての手記を残すことが提起され、後日参加者の中から製作委員会を結成し、本手記の発行にとりくむにいたりました。

 記載された手記は座談会の参加者と、青年部とつながりのある他の青年による「解放教育についての体験とその感想」です。自分達が受けてきた解放教育についての正しい受けとめ方としては不十分なものですが、町の教育荒廃をなくすための、さらには真の部落解放達成のための力にしたいと考えています。

1980年4月1日

各クラスで石川さんは無実だと新聞を作る ふるえながら反対したら、みんなも「そうやそうや」

●1979度入学  H・R(13才)

 1月28日の同盟休校のとき、各クラスで石川さんは無実だという内容のポスターや新聞を作ることになっていた。

 1月24日の道徳の時間、ぼくとこのクラスで何をつくるかという話し合いになった。

 その時、ぼくはある友人とはなしをしていた。そのはなしとは、ほくが小学校の2年の時、学校へいけなかったことや、家をとりかこまれたことなど、解放同盟にやられてきたことなどを話していた。するとその友達は 「ヘー。そんなことあったん。解放同盟てわるいねんな。」と言っていた。そんなことを話しているうち、何をつくるかというのはもうきまっていた。

 けっきょく、ぼくらのクラスは新聞を作ることになった。

 そのことを母に言うと、「それは反対せんなあかん。あんたが反対やと言ったら、みんなもあんたにさんせいするはずや。」と言った。ぼくは、そんなもんかな、もしさんせいしてくれなかったら、どうしようかなと思っていた。

 26日の土曜日、学活の時間に新聞をつくることになった。その時みんなの前でいうつもりだった。でも、いざその時になってみると、ガクガクとふるえていた。声をふるわせながら言った。

 「なんで、ぼくらがそんなことせなあかんのや。そんなんは大人がやったらいいねん。」

 すると子ども会に入っているある女の子が、「そうや、そうや。私もそう思うわもうすぐテストもあるのに。」と言ってくれた。

 その後から、みんなさんせいしてくれた。その時、ほくはものすごくうれしかった。ぼくは、日ごろあまり発言しないので、みんなもおどろいていた。

 そんなことがあって、ほくらのクラスは何も作らないことになった。ほんとうによかった。これからぱ、ほかのクラスも、いや同盟休校そのものをやめさせたい。やめさせるべきだ。

同盟休校 にげ出した子どもを、先生が家に行ってまでもどそうとした

●1978年度入学    H・Y(14才)

 同盟休校とは、最初どんなものかわからなかった。でもこの前の同盟休校が終わってから、それに行った友達に聞いてみると、わざわざ遠くまで行ってビラをまいたり、なにかわけのわからないデモをやったと聞いた。そんなことするのだったら、子どもは学校へいって勉強したり、みんなといっしょに遊べばいいのになあと思いました。

 そしてビラくばりやデモをしていてしんどいといってにげ出した子どもを、勉強を教えなければならない先生が、その子を家に行ってまでもどそうとしたということを聞きました。

 そして、学校で勉強していても、みんながいないのでちっともおもしろくありませんでした。どうしてあんなことを学校にいっている子ども達にやらさなければいけないのか、あんなことは、その子どもたちのお父さん、お母さんがやればいいことです。

 ぼくのクラスでも、道徳の時間に石川さんのことをすれば「なんであんなことせなあかんねん」とぼくにいってきます。ぼくも勇気はないですが、先生たちもそんなことは学校ではできません」とはっきりいったらいいと思います。

狭山同盟休校 自習していたら指導員が連れていく

●1978年度入学   T・K(14才)

 私が中学生になってはじめての同盟休校でした。

 小学校の時はおぼえていません。

 私がとても印象に残っているのは、2年の時の同盟休校です。26日は土曜日で、月曜日は、朝礼で30分ぐらい同盟(部落解放同盟)からの話がありました。朝礼台の上にゼッケンをつけた2人の男子が立っていて、後には横に長いポスターがはってあって、各クラスの窓やロッカーにもポスターがひとクラス十枚ぐらいずつはっています。それこそ学校中ポスターだらけ。そのうえ、門前には、立てかん(立てカンバン)が3つぐらいたっていて、帰り気がついたら南門前にも立てかんがあったのです。今でも、門前にたてかん一つ、ポスターはところどころにあります。

 その日の出席は、一クラス20人ぐらいで、その(同盟休校に参加している)ほとんどが○小学校の子でした。同盟休校で、私がふだん一諸にいる子がみんないってしまったんです。

 勉強の方は、いつも同盟にいっている英語の先生は、東京まで集会にいっていたんです。○中で東京にいった先生の数は6人で、1年生の先生2人、2年が2人、3年が2人です。英語の先生がいないため自習をしていると、私のクラスの男子5~6人が、一人の男子をさそいにきたんです。その後には、先生と指導員がいました。2~3時間目、私のクラスのさっきさそいにきた男子5~6人がぬけだしてきました。しばらくの間いましたが、すぐに指導員(*2)が来てまたつれていかれました。

 私も友達が少ないので、買物センターの友達といくことになっていたので解放会館の前を通っていると、大きな声でよばれ、2~3人の女の指導員が信号を渡ってきました。私は逃げました。それからは、おいかけてきませんでした。

指導員を恐れていた

●1977年度入学   N・K(15才)

 僕は、今まで解放運動に参加してみて感じたことは、なぜ僕達が参加しなければならないのかということ、なぜ勉強までやめて参加しなければならないのかということです。学校でそういう「解放運動」についてのことを学ぶ機会が多くなるにつれて、みんながやる気をなくしていくような気がしました。

 僕はいくども解放運動に参加してきて頭に残っていることは、つかれたということと、ばからしかったということだけで、他には何も残っていません。

 それに僕は、体が強い方でないので、気分が悪くなって倒れそうになったこともありました。でもそんな時、指導員に言うことができずに、じっとがまんするだけでした。なぜならば、僕や他の子供達が指導員を恐れていたからです。しゃべり方が悪く、すぐどなりつけるところがその原因でした。

 僕が一番腹立たしかったことは、中学3年の3学期、高校入試を控えた1月28日の同盟休校の時です。僕は参加するのがいやだったので、参加せずに家にいました。

 翌日学校へ行くと、同盟休校に参加した人から「なんでけえへんかった」といわれ腹が立ちました。でも黙っていました。僕は小学校のころ、子供会に行っていましたが、少しも楽しくありませんでした。そして、その子供会から一泊研修というのに行きました。でも車酔いばかりで、早く家に帰りたいたいという気持でいっぱいでした。僕はいま疑問をもっています。それはなぜ小さな子供までが学校を休んでまで解放運動に参加したり、ゼッケン登校したり、ビラまきをしたりしなければならないのかということです。

「同盟休校」を思いだすと腹が立つ

●1977年度入学   K・T(15才)

 私は、今の「解放運動」のやり方は、あまりよいやり方ではないと思う。

 まず学校のやり方は、週1回の水曜の道徳の時間にやっているが、クラスの仲間はほとんど間いていない。それはあたりまえだと思う。いつもおなじことをくり返しているばかりだからだ。いくら先生達が一生懸命やっていても、生徒は聞いていない。

 それをなくすには、週1回ではなく、月1回や2か月に1回にすれば、解放連動の授業も聞いてくれるだろうと僕は思います。

 それにもう一つは、同盟休校のことです。いまだになぜ同盟休校をしたのか、それをしただけで何のためになったのかわかりません。

 そのために、それに参加した仲間は勉強の方が遅れるのはあたりまえだが、その翌日、参加していないクラスの仲間から、プリントばかりしていたと聞いたら、急に腹がたった。なぜ参加していない生徒たちにも勉強ができなかったという被害をあたえたのかということに腹がたった。それきり僕は、同盟などにあまり参加しません。

 しかし今でもあの「同盟休校」を思いだすと腹が立ちます。また来年も同盟休校すると思いますが、しかし僕は参加しません。そして僕は、それを反対していきたいです。

「子供会」での活動は、ごっついおもんなかった

●1976年度入学   O・T(16才)

 まずこの地域では、道路に「石川青年は無実だ!」こんなカンバンがいたるところに立てられている。それに、○○病院にまでごちゃごちゃとワケのわからないことが書かれている。

 それに信号の多いことや、解放会館などでも知らない人が見たらビックリするだろうと思う。これこそ「私はアホです。カンバンや信号などをつける場所、数、効果などは全々わかりません。」と言わんばかりである。

 小学校の時は、1年から3年の時、「子供会」に参加していたと思います。でも、どんな活動していたのかわすれてしまいました。5年生になってからは「子供会」に参加するのも、1年に1~2回友人にさそわれて行くぐらいになりました。

 そのころ「子供会」での活動は、解放同盟の差別がなんたらかんたらと言う本で、ごっついおもんなかったんです。

 友人に聞いた話ですが、「子供会」に行くのがいやで指導員からグループで逃げだして、その内数人がつかまり、つかまった内の一人は地面にたおされ、指導員が馬乗りになり、顔面を平手で数回たたかれていたと言っていました。学校で学芸会などがあると、ぜったい校内を指導員がうろついていました。

 道徳の授業の時などは、実さいには知りませんが、「にんげん」を使って、半分以上の時間、解放教育をしていたと感じています。道徳の時間は、友人に「次は何の時間や」ときいても「道徳の時間や」と答えるより「にんげんの時間や」と答える人の方が多かったと思います。

 中学校に入学して、最初の解放教育の時、ぼくが、「またや」と言ったら先生が「何がまたや、まだ一回もやってへんやないか」といいよったんです。そこで小学校の時からやっているので、「小学校の時もやったからや」と言うと先生は、「そうか」と言ってなっとくしていました。

狭山事件の学習は学校の授業を遅らす大きな原因

●1977年度入学   M・N(17才)

 中学校で3年間解放教育を受けてきたのであるが、まず最初にいっておきたいことがある。

 そもそも解放教育とは何であるのか、仮に説明せよと言われた場合、自分としては、少しも相手に理解してもらえるほど話できない。それほどこのことに対して無知である。

 それでこの作文を書くに当たってこれでは少しまずいのではないかと思い、わたくしの父に尋ねてみたのですが、あいにく時間がじゅうぶんとれなかったため、説明がメモ程度だけになってしまい何のことかさっぱりわからないままこうしてペンをとっているのであります。

(以上のことを前提に書く、そのつもりで)

 現在中学校を卒業して2年以上になりました。中学校に入学するときはもちろん、在学中も自分はいま解放教育を受けているんだという意識などは、とうていありませんでした。学校を卒業してこうして解放教育のことについて書くようになってはじめて自分は、解放教育というものを受けてきたんだなあと言う感覚であります。

 したがって、そのときの僕にとって、狭山事件の映画を見たり本などを読んだりして学習するとき、すなわち(僕白身が)解放教育と言われる時間は、ただの遊びの時問にすぎなかったのである。

 最後に(もうひとこと)解放教育と間係あるかないか解らないが言っておきたいことがある。それは同盟休校のことである。

 僕は貴重であるかどうか知らないが、1年生のときにこの同盟休校を経験している。この日はほとんどの者が学校に出てこれなかったので、授業がまる1日遅れるのである。この同盟休校にしても、前にも述べた狭山事件の学習は学校の授業を遅らす大きな原因となっていることはまちがいない。社会人がこの世の中を生きていくためには労働すなわち仕事をしなければならない。我々学生にとってしなければならないのは、やはり勉強である。その時に解放教育と思われる教育をとり入れ、それが正しい方向で進められて行けばまだよいが、肝心の勉強に悪影響を及ぼすようで絶対にほおっておくべきではないと思う。

幼稚園では、童謡曲と同じように解放歌を歌わされた

●1977年度入学   U・Y(17才)

 私が17才の今までに受けた解放教育とは、いったい何だったのだろうか。

 幼稚園では、何を意味するかも全くわからずに童謡曲と同じように解放歌を歌わされたのを覚えています。

 でも一番思い出深い時間は、小学校の時です。石川さんのことを物語りを語すように、毎日子ども会で聞いたこともありました。はっきりいってしまうと、遊び盛りの私達にとって、毎日そういった内容のことを教えられることは、全然といってもいいくらい興味もなく、楽しい思いもしませんでした。

 私は、解放教育というのが、頭から悪いのだとは決していいません。ただそのやり方に問題があるのだと思います。

 例えば、年齢に応じた教育の仕方があるはずです。確かに、同和地区に住んでいるということだけで、白い目を向ける人もたくさんいます。しかし、そういう風に思わせる何かが私達にあるのではないでしょうか。今、私が思うことは、解放教育に力を入れるのと同じくらい子どもたちに、勉強に、スポーツに力を入れた方がいいのではないかと、中学校に入るとデモ、ビラ配りといった活動が小学校の時よりも増えていったのも事実です。

 黄色いゼッケンをつけて町の中をデモするのもいいでしょう。けれど、町の中をデモすることの意味を十分わかっている生徒ばかりではないから当然、不満の声がでてくるのがほんとうです。「恥かしい」といった内容の言葉が私も含めて多くの友人の口からもれていたのも事実です。もし、自分のしていることが、良い事だったら恥かしいとも思わないはずなのに。

 高校に通っている今では、解放教育というものを全然といっていいくらい受けていませんが、もう今までのような教育なら受けたくないと思っています。今までしてきたことは、何だったんだろう。

こんなことでは逆に自ら差別をしてくださいと言わんばかりでは

●1977年度私立中学入学   K・A(17才)

 同盟休校のことについて書きます。

 小学校1年や2年生の子供達に解放がどうの、差別がどうのと言っても何のことだかさっぱり分からないのにそんな子供達にまでくだらない歌を歌わせて、親は親で金のためか何のためか知りませんが、自分たちが何をやっているのかも十分知らないで黄色いゼッケンをつけて歩いてまわる。

 これじゃ小学校1年や2年生の子供とたいして変りがないようですね。

 差別をなくそう、良い町にしようと運動しているつもりが、子供達には学力の後退を増進させ、親は、ただ同盟に加入しているだけで、ほんとにただ同然の住宅に入れてもらって、朝から晩までぶらぶらし、勤くことを忘れてしまう。こんなことでは逆に自ら差別をしてくださいと言わんばかりではないでしょうか。だから早く、この町内の目をつぶっている大人たちに呼びかけて、これから大きな夢をもって育っていく子供達のためにも、真の解放教育を起していかなければならないと感じています。 

子供会が何んだかわけのわからないことをしだした

●1970年度入学     K・H(22才)

 中学校を卒業して高校に入ったころ、「解同」の教育の介入が大きな問題になってきました。

 そのころに前から疑問に感じていたことがはっきりしてきました。その疑問とは、小学校6年の時に出来た子供会が何んだかわけのわからないことをしだしたのです。

 出来た当初は、自分達であれをやろう次はこれをやろうと民主的に決めて実行してきたのです。ところが、仲間をふやそうということで6年も終りのころいったんつぶして 「解同」の組織で大きくしようということになったのです。たしかに人数は十数名から何百名となったのですが、内容はいったいこんなことがどこで決まったか、だれが段取りをしたのかまったくわけのわからないものでした。

 一番わけのわからないことは、初めて子供会が出来た時いっしよにいた仲間の半数が参加できないということてした。そんなことから私は子供会からはなれて行きました。そして高校に入りいろんなことを見たり聞いたりしていくうちに、「解同」の一部幹部が自分の利権のために子供を利用し、そしてこのことが子供の低学力を生み出してきたのだと分かってきたのです。

「狭山事件」のことを教えこまれテストされた

●1969年度中学入学     Y・T(23才)

 私の中学校時代は、現在のように、「解同」の教育介入はひどくなかった。

 当事、「解同」の組織している子供会に入っていた時のことでは、「狭山事件」のオルグ活動に行くということで、「狭山事件」のことを執ように教えこまれ、指導員の前にひとりづつ呼び出されて、事件の経過をどれだけうまく話し出来るかをテストされたり、盆おどりにおいても、浴衣の上に黄色いゼッケンをつけて署名活動をやらされたり、思い出に残っているのは、はずかしかったことやいやなことばかりです。

 高校では「友の会」も途中でやめ(その後成績が急上昇してきた)。学校で部落研の同好会をつくり、正しい部落問題について学びました。

 私が全解連(当時正常化連)という組織を知ったのが○中学校事件直後で○中をよくする会に誘われたのかきっかけでした。そこでは、生徒が授業中にたこやきを焼いて食べたり、教室の窓ガラスが割られてしまってほとんどないこと、先生は差別者だから、差別者には暴力をふるってもかまわないんだなど、私たちの中学校時代では考えられないようなことが平然と起こっていることを知り「解同」に対して怒りを感じました。そして、自分たちの卒業した中学校をこのままほっておくことは出来ないと、後輩たちが、正しい教育を受けれるよう努力していくことが必要だと感じ、全解連の活動に参加して、現在に至っている訳です。

以上

(*1) 全解連は発展的に解消し、現在は 民主主義と人権を守る府民連合 (民権連)の支部に移行
(*2) 青少年会館の指導員は大阪市の職員