「府外教」「市町村外教」への行政当局の直接関与・協力に対する見解
1992年11月
大阪教職員組合 中央執行委員会
「連合」府教組など一部団体が行政の庇護を受けて進めてきた「大阪府在日外国人教育研究協議会」(「府外教」)の結成総会が10月17日行われ、各市町村においても「市町村外教」づくりがすすめられようとしています。これらの「府外教」「市町村外教」は、誤った解放教育路線を新たに在日外国人の教育の問題を利用して学校現場におしつけることを狙って進められており、こうした特定の「研究団体」の設立、運営等について府教委や市町村教委が直接関与・協力することは、憲法・教育基本法で保障された教職員の教育・研究の自由を侵害し、一部の潮流に肩入れする教育行政の著しい逸脱です。さらに個人の自由に属する研究団体への参加・不参加までも学校単位での一括加入などで強要しようとしており、新たに結成されようとしている「府外教」「市町村外教」は、既存の「大同教」や「市町村同教」と同様に学問・研究の自由を侵害する憲法・教育基本法違反のおよそ「自主的研究団体」とは言えない重大な問題を持った組織です。
その第一は、「府外教」や「市町村外教」の結成・運営に行政が直接関与・協力する根拠とされている『在日韓国・朝鮮人問題に関する指導の指針』(「府教委指針」)なるものを、府教委が憲法・教育基本法に違反し、教育の自主性を踏みにじって作成したことの誤りです。
本来、教育活動の条件整備について直接責任を負う教育行政が、教育内容に関わって「指針」なるものを出し、特定の教育内容のおしつけへ、現場の教育活動を制約するなどと言うことは、憲法・教育基本法から大きく逸脱した偏向教育のおしつけであり、断じて許されません。
第二は、その「指針」の内容や「府外教」「市町村外教」が推進しようとしている、新たな「同化」と「排外主義」をおしつける誤った教育論です。
(1) 在日外国人児童生徒の母国語をはじめとする民族教育は、その民族自身の手によって行われることが基本です。圏本人教師が行うべき民族教育は、日本人児童生徒に対し、日本の歴史と現実に対する児童生徒の科学的認識を育て、民族の遺産や民…豊主義の伝統についての正しい認識に基づいた民族的な自覚を高めることにあります。そして日本の学校に学ぶ外国人児童生徒の教育については、日本と諸外国の児童生徒の連帯を育てる中で、外国人としての民族的自覚を高めるよう援助することにあります。日本人教師が、外国人児童生徒の民族的自覚や誇りそのものを育てたり、教えたりすることはできません。もしそれを無理に行おうとするならば、外国人児童生徒の民族主権を侵害し、日本人の立場からの外国観・外国人観を強要し、結果として「同化」を強いるものとなるからです。
しかし「指針」は、「在日韓国・朝鮮人の問題については、日本と朝鮮半島をめぐる近代以降の歴史的経緯や社会的背景の下で生み出されてきた偏見や差別が、……在日韓国朝鮮人児童生徒にとっても自らの誇りや自覚を身につけることが困難な状況を生み出してきだ」とし、民族主権に関わる民族教育の問題を、「偏見と差別」の問題に、日本国内の差別問題一般に解消し、「差別をしない。差別を許さない」「偏見や差別をなくすように努める」といった、心購え、道徳主義の教育にすり替えてしまい、日本人教師にもできるかのようにして強要しようとしています。在日外国人に対する民族問題には、在留外国人としていかに生きるかという、在留外国人としての主権、民族主権が十分保障されないために、日本人と同じ様に生きていかねばならない「同化」という問題と、職業選択や社会保障など実際生活上における差別扱いという二つの側面がありますが、「指針」は、いかにも在日外国人の「誇りや自覚」を大切に扱うように装いながら、結局は、他民族の子弟の教育問題を日本の国内問題にすり替え、民族問題の中心的課題である民族主権の尊重を塗り消しています。民族の将来の主権者を育てるという民族教育の課題は、差別の問題が解決したとしても解消されません。
「府外教」の設立文書や各「市町村外教」方針等では、この誤りがさらにあからさまなものとなっています。一連の文書では、「共に生きる」ということが、「民族文化の尊重」「違いの認め合い」などの言葉と共に、繰り返し強調されていますが、民族主権を尊重する文言はどこにもみられません。在日外国人は、他の主権国家の公民であり、日本において、日本人と「共に生きて」いくか、祖国と共に生きていくか、また他国で生きていくことを望むかは、在日外国人自身が自主的に決定すべきことです。もし仮に在日外国人自身が「共に生きて」いくことを望んだ場合にも、在日外国人としての民族主権が尊重され、相互の自主性を堅持した、自立した連帯の立場で、共に生きていくことを追求すべきであります。
とりわけ日本政府が、朝鮮民族自身による民族教育を敵視する政策を継続してきている状況の下で、民族学校がほとんど保障されず、日本人学校へ通学することが余儀無くされている在日朝鮮人子弟に対して、「差別されるもの」という烙印をおしつけながら、「共に生きる」ことを一方的におしつける、そうした教育を日本人教師に公教育として強要することは断じて許されません。
それは、在日外国人の民族主権を抑圧するこうした日本政府の政策の下で、民族主権の尊重を第一義的なものとせず、曖昧にしたままで、在日外国人に対し「共に生きる」ことを追ることは、「民族文化の尊重」「違いの認め合い」をいくら強調しても、「同化」の強要にしかなり得ないからです。このことは、次の加藤紘一官房長官の発言にも端的に示されています。
「在日外国人の方々も同化する努力を長い間続けているので、不信感は急速に薄れつつあると思う」(「朝日」92.6.10付)。
これまでは、在日朝鮮人の民族的団結自体を治安の対象としてきた日本の「行政」が、「安心して」人もお金もだし、「日の丸・君が代」の執拗なおしつけとも矛盾せずに在日朝鮮人の「民族文化の尊重」を平然と主張できる根拠はここにあります。
(2) 憲法。教育基本法の理念と原則、さらには子どもの権利条約の立場に立った民族教育は、何よりも日本人児童・生徒及び在日外国人子弟が、民族としての自立とそれぞれの民族間の平和と連帯を育てる教育を保障するものでなくてはなりません。
しかし、「指針」や「府外教」設立文書等は、「日本の社会・学校教育が在日韓国・朝鮮人やその子どもたちを抑圧している現実…」と日本人全体を加害者とする日本人加害者論の立場に立ち、日本人=「差別する者」、朝鮮人(外国人)=「差別される者」という特定の考え方から・日本人児童・生徒に対しては、「他民族に接している日本人の子どものいびつな意識やゆがめられた朝鮮(人)認識を正す教育の重要性が」と差別意識の自己批判と懺悔を迫り、朝鮮人児童・生徒には「自覚」を持たせるための「本名宣言」を迫るという排外的な民族主義をことさらに煽るものとなっています。もし、こうした教育がこのまま進められるならば、「差別と闘う」という名のもとに「差別さがし」が進められ、子どもどうしが対立させられることになります。実際に、いくつかの地域では、成長過程にある子どもの未熟な発言をとらえた「差別事件」化が意図的に引き起こされつつあります。
このように「指針」等の立場に立った「誇りや自覚」とは、「差別されるものとしての自覚」や「差別に負けず、闘い続ける決意」という情念のみを煽る、育ててはならない排外的なものであり、平和と国際連帯につながる民族的な誇りや自覚とはまったく無縁なものです。
さらに問題が、差別問題のみに一元化されることによって、日本帝国主義と日本人民の区別が意図的に塗り潰されてしまい、在日朝鮮人の民族的権利を侵害し、民族的自立を妨げて来た真の原因・元凶があいまい化され、隠蔽されてしまっています。在日朝鮮人の民族的自立を破壊・妨害してきた真の元凶は、戦前においては、日本の軍国主義、天皇制支配層が、帝国主義的侵略を推進するため、他民族抑圧政策をとり、日本人民の民主主義・侵略戦争反対の運動を萌芽のうちに徹底的に蹂躙し、さらに国民を侵略戦争に駆り立てるために民族排外主義を注入拡大していったことにあります。そして戦後も日米安保条約と米日韓癒着体制の中で、米極東政策への従属の下に、その意図は変形しつつ継承され、日本政府の朝鮮政策は、一貫して「韓国軍事政権」への援助と南北の分断の継承・固定化への援助であり、そうした政策推進のために在日朝鮮人の民族的自立に対する一貫した妨害と、様々な法的規制による抑圧が行われてきたのです。「指針」等は、こうした朝鮮民族に苦難をもたらした真の原因と日本政府の責任を意図的に隠蔽し、欠落させるため、問題の根本的な解決へ向けての展望を閉ざし、悲壮な排外主義を煽るのみで、結局は在日朝鮮人子弟を民族ニヒリズムに追い込んで行く犯罪的なものです。
第三は、教育・研究の自由を侵害し、教育を運動に従属させる、府教委や市町村教委の「府外教」「市町村外教」への直接関与、協力の誤りです。
「指針」等が前述のような排外主義で貫かれたものとなる根源は、「同和問題・在日外国人問題・障害者問題・男女平等の問題に関する教育を充実させ、差別をしない、差別を許さない……」と、在日外国人問題を、同和問題、障害者問題の間に挟んで、同様の性質のものとして扱う「指針」の記述にも見られるように、「解同」理論である被差別統一戦線の立場に立ち、民族主権の尊重に関わる在日外国人の問題を、同和問題や障害者問題と混同し、同列視していることにあります。部落問題の解決は、平等・融合をめざすものであるのに対して、在日外国人問題は、外国人としての区別を明確にし、その権利を保障することが基本となります。
しかし「指針」や「府外教」設立文書等では、その出発点が「解同」の運動にあるため、被差別統一戦線という特定の運動の課題を教育と研究に直接的に持ち込む、教育と運動を混同した根本的な誤りがあります。このことは設立の経緯から見て一層明らかです。
「大阪の在日外国人教育は、部落解放をめざす課題を機軸に据え、反差別・人権の教育課題を追求してきた『同和』教育運動と分かちがたく結びあって発展し……その教育要求は、部落解放大阪府民共闘会議に集約され、『大阪府在日韓国・朝鮮人問題に関する指導の指針』の成果を生み……結成を宣言します。」(「府外教」結成総会アピール)
このように、「府外教」や「市町村外教」は、特定の一運動団体にすぎない「解放共闘」(部落解放同盟、「連合」府教組など)の要求によって設立されたものであるだけでなく、「矢田問題」をはじめ「吹田二串事件」など、不法不当な教育介入、暴力的糾弾を推進した「解放共闘」の、教育の基本と条理を逸脱した運動を「発展」と位置付け、それをさらに推進しようとするものです。
また、「大同教」や「市町村同教」が、その集会への割り当て動員などを要求し、行政と管理職が一体となってこれへの参加を強要したり、研究発表のために副読本”にんげん”の実践が強要されるなど、職場の分断と管理統制を強化する一つの手段として、大きく利用されている実態からも、こうした特定の誤った運動を教育と研究に直接的に持ち込み教育を運動に従属させる「大同教」や「市町村同教」、そして「府外教」「市町村外教」の反動的な狙いと一切の学校教育への介入を断じて許すことはできません。
第四に、府教委や市町村教委が、行政の基本立ち返った施策をきちんと進めることの重要性です。今、行政がとりくまなければならないことは、一部特定の運動に従属したこうた憲法・教育基本法違反の教育内容への介入ではありません。
急速に増加しつつある外国人労働者の流入との子弟に対する教育保障のための条件整備を、在日朝鮮人子弟に対する教育保障と合わせ、日本政府も批准している国際人権規約や子どもの権利条約の立場に立って緊急に進めることです。とりわけ、長年にわたって継続されてきている在日朝鮮人に対する民族的抑圧政策の転換を日本政府にも要望し、その子弟に対する民族教育が朝鮮人教師によって行われるよう保障することが重要です。
国際人権規約A規約(79年日本加入)は第二条で「締約国は、この規約に規定する権利」が、人権や性や「国民的出自」による「いかなる差別もなしに行使されることを保障する」と「約束」し、第十三条(a)項で「初等教育は義務的」で「すべてのものに対して無償のもの」とするとしています。続いて(b)項には「中等教育」の項もありますが、この項は高校義務化だとして、日本政府は不当にも批准していません。しかし、これらの規約を受け入れることで、日本政府は、外国人の子弟に義務。無償の小中学校教育を権利として保障すると約束しているわけです。さらに子どもの権利条約では、より明確に一切の差別なしに(第二条)、「初等教育」(無償)と「中等教育」(無償の導入、財政援助)の「機会」を保障する(第二十八条)としています。とりわけ子どもの権利条約第二十九条(c)項は、「子どもの親、子ども自身の文化的アイデンティティー、言語及び価値の尊重、子どもが居住している国及び子どもの出身国の国民的価値の尊重、ならびに自己の文明と異なる文明の尊重を発展させること」と明示しており、在日外国人子弟の「教育を受ける権利」に加え、出身国それぞれの「文化的アイデンティティー、言語、価値」を「大切にするもの」への教育、すなわち民族主権を尊重した民族教育の保障は、国際的な責務だといえます。例えば、一人でもブラジルの子が入学してきたなら、ポルトガル語の学習を励まし、課程内外でその学習を保障し、そのためポルトガル語を使える教師、助手、ボランティアを採用することや出身国の新聞や出版物を入手し、自由に文通・往来することを保障したり、二国間交渉を急ぎ、たとえば日本・ブラジル政府の協定でポルトガル語や文化の学習に必要な出版物、ポルトガル語の教師(ブラジル人を含む)を配置することなど適切な措置を取る必要があります。
こうした教育を保障するため、実態を良く把握しつつ、日本政府や文部省にも要請し、条件整備を進めていくことこそが、今、行政に求められています。しかし、大阪府教委は、教育内容に介入する憲法。教育基本法違反の「指針」によって問題の本質を日本国内の差別間題にすり替え、現場教職員に責任を転嫁するだけでなく、「すべての諸人民間、民族的、国民的、…ならびに先住民族との相互理解、平和、寛容、性の平等及び友好の精神」を作り出していくことを明示した子どもの権利条約にも反して、民族主義的な排外主義を煽り、同化を強要する「府外教」「市町村外教」に直接関与・協力しようとしているわけです。
第五は、「府外教」や「市町村外教」が財政面や参加形態・運営などから見て、特定の任意団体であるにも関わらず、行政への依存が極めて強く、官制団体のようにふるまいつつ、特定の運動を教育と研究におしつける、その学校介入を推進する機関となっている問題です。それぞれの「市町村外教」の会則では、「この会は、…市立幼稚園および養護学校、小中学校等をもって構成する。」や「本会は、…市立学校園の教職員でもって構成する。」などとし、すべての教職員を構成員とするような装いをとり、その財政も「この会の経費は…市よりの助成金等をもって当てる。」や「本会の経費は、補助金をもって当てる。」と行政丸がかえのものから、「経費は、会員校の会費等を持って当てる。」などとして各学校に自動的に「会員校」として学校長あてに文書を出しているものまであり、あくまでも個人の自由に属する研究団体への参加・不参加を、行政が加担をして学校単位などでの一括加入のような装いを取らせることは、憲法。教育基本法で保障された教職員の学問。研究の自由をファッショ的に侵害する、憲法違反のとんでもない暴挙です。
とりわけ「府外教」等は、その設立のための事務局が、「連合」府教組内に設けられるという、明らかに一部特定団体の排外的な運動を推進する「研究団体」であり、その結成・運営に行政が加担することは、断じて許すことができません。
今、各学校現場では、政府・文部省の反動的な教育行政のもと、低学力、生活の崩れをはじめ、増え続ける登校拒否や非行、いじめ、問題行動など大変な教育困難に直面しています。とりわけ小学校では、反動教育そのものをおしつける新学習指導要領が本格実施となり、「もうこのままではやっていけない」限界にまで追い詰められつつあります。また府教委による選別と競争を煽る高校多様化、入試制度改悪等により、その矛盾はより一層激化されつつあります。
こうした下で、在日外国人子弟に対する教育保障をしっかりと進めていくためには、日本の教育そのものを憲法・教育基本法の精神に基づき、すべての子どもたちに確かな学力と生きる力を保障する教育へと前進させて行く、そうしたとりくみと結び合わせていかなければなりません。
これまで大阪の教育運動は、すでに「矢田問題」をはじめ、同和教育と部落解放運動をめぐって、教育の自主性と教師の尊厳に関わる重大な事態を体験しながら、優れた教育実践を生み出してきました。とりわけ民族教育と関わっては、大教組教研「民族教育」分科会、「平和と国際速帯」分科会等で発表されたレポートをはじめ、数多くのすぐれた実践があり、「在日朝鮮人問題は民族問題であるという視点から、民族的自立の尊重と民族的権利保障の問題に真正面からとりくんだ」実践や「侵略と他民族抑圧の政策、それに対する抵抗と友好・連帯のたたかいなど、歴史に対する秤学的認識を深め、そこから課題をくみとり、未来を展望する力を養おうとした」実践や「朝鮮人生徒をとりまく日本人生徒集団の民主的成長が、朝鮮人生徒の民族的自覚を支え・それがまた日本人生徒集団の成長を
促すという関係を作りだし、道徳教育としてではなく、民主的な生徒集団の形成を軸として、在日朝鮮人生徒の民族的成長を『援助』していった」実践など、日本の学校での民族教育の推進と一体のものとしてとりくまれてきた、在日外国人教育にかかわる原則的な視点も確認されてきています。
こうしたすぐれた実践は、何よりも憲法。教育基本法に示されるがごとく、いかなる不当な圧力にも屈することなく、学問・研究の自由と教育の自主性を守り、民主主義を貫くことによってこそ切り開かれたものです。
大教組中央執行委員会は、こうした民主教育の前進に逆行し、障害となる誤った「指針」を府教委が白紙撤回し、「府外教」「市町村外教」そして「大同教」「市町村同教」への行政当局の直接関与・協力に断固反対するとともに、教職員の教育・研究の自由を守り、自主的な教育・研究と実践が保障されるよう奮闘することをあらためて表明するものです。
以上