児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについて
1982年3月21日 全解連大阪府連第7回大会決定より
子どもの発言などを口実とした教育介入をやめさせる
吹田・高槻・松原・大阪市内にみられた解同の子どもの発言や落書きを口実にした教育介入は、自由な教育と学校の自主性を守るうえでも、子どもの健全な成長のうえからも絶対に容認できないものです。
子どもたちの発言やブラク民などの落書きは、そのほとんどが学校における部落問題学習や狭山などの偏向教育のおしつけなどを背景になされたものであり、もともと学校教育と一体のものです。しかも、子どもたちが発達過程の未熟な理解度にあることを前提にしての同和教育になっていることです。
そこには、未熟な理解や未熟な発言などは当然起りうるものであって、その発言だけを子どもの発達段階や理解度を無視して、とりあげ、解同のように「差別」と断定するなら、小・中学校における同和教育自体が成りたたなくなる(*1)ものです。 これを「差別」ときめつけて事件視して、子ども、親、教師、教育委員会の責任を追求する解同の「確認会」や「糾弾会」は、学校教育を破壊するものであり、学校や市教委がこれに荷担・協力することは、自殺行為に等しいものです。
教育として正しく対処する
全解連大阪府連は、この間の児童・生徒の発言、落書きを口実にした解同の教育介入をやめさせる闘いに全力をあげるとともに、児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについて、どう正しく対処するかについて検討を重ね、これを次の四つの点にまとめました。
① 小学生・中学生など義務教育過程(*2)にある児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについては慎重に対応する。
② 基本的には未発達な子どもの未熟な発言(表現)としてとらえ、軽々に差別と断定すべきではない。
③ 同時に発言内容については、それを事件視して子どもや親、教師の責任を追求する態度はとらない。あくまでも教育対象として位置づけ教育的観点で部落問題の科学的な認識を深める方向で指導にあたる。
④ 指導にあたって教育と運動を明確に区別し、”確認会”や”糾弾会”に出席したり、これに加担しない。いかなる場合も外部団体からの介入を認めず、学校の自主性、主体性のもとに解決していく。
解説と補足
こうした全解連の原則的で教育的な立場は、多くの父母、教育関係者の支持と共感を得るとともに、その後の解同による教育現場への直接介入の足を止めるという状況をつくりだしました。しかし一方では、教育委員会や一部「解放教育」派教師と”連携”したたくみな介入・干渉はいぜん強まる傾向にあります。
解同一部幹部が指向する運動と路線は、すでに破たんずみの「部落排外主義」を基盤に、部落差別の「拡大再生産」論にしがみつき、「部落解放基本法」の制定をめさすことを最大の課題としています。最近では、彼らのいう「拡大再生産」論証明の根拠を「落書き」「文書」「発言」などに求め、「糾弾」と介入をくりかえすという事態が深刻化しています。八二年の「児童・生徒の……」の見解をその後の二つの「落書き」問題見解とあわせて、「解同」の教育介入とたたたかう武器にすることが大切です。また、八二年見解では、その対象を「小学生・中学生など義務教育過程」としていますが、今日の学校教育における歴史学習の現状からみて、高校生を含めて考えるべきことは自明です。
つけ加えていうなら、高校、さらに大学生の場合は、生徒会や自治会による自主的で自発的な啓発活動の組織化も問題解決の重要な要素となってくるはずですから、解同や「解放研」による介入が問題の正しい解決の障害になることは明らかです。
(*1) この方針が出された当時は、特別措置法があり、特別対策や同和教育の終結を提言する以前であった
(*2) 「解説と補足」にあるように、高校生も含め教育を受けている世代すべてが該当すると考える