大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる

 

学童疎開がくどうそかい

 日本はアジア・太平洋たいへいようめていきましたが、やがてアメリカの飛行機ひこうきが日本にばくだんをとしてくるようになりました。1944(昭和(しょうわ)19)年6月に、政府せいふは大きな都市としにいる3・4・5・6年生の子どもたちを いなか にひっこしさせることにしました。しょうらい兵隊へいたいになる子どもたちをそだてるためでした。これを「疎開そかい」といいます。はじめに疎開そかいさせられた都市とし東京都とうきょうと区部くぶ横浜市よこはまし川崎市かわさきし名古屋市なごやし大阪市おおさかし尼崎市あまがさきし神戸市こうべし、と今の北九州市きたきゅうしゅうし当時とうじ門司もじ小倉こくら戸畑とばた若松わかまつ八幡やわた各市かくし)でした。

縁故疎開えんこそかい基本きほん

 「そかい」は、都市とし の子どもたちが いなかの しんせきの家などに行くのが基本きほんで 「縁故疎開えんこそかい」とよばれました。

学童がくどう集団疎開しゅうだんそかい

 いなかに しんせきがいない などの子どもたちは、学校ごとに まとまっていなかに送られました。これを「学童がくどう集団疎開しゅうだんそかい」といいます。

 集団疎開しゅうだんそかいに行くためには 家の人が毎月まいつき10円出すことになっていました。ふとん・食器しょっきなどまわひん各家かくいえ用意よういしなければなりませんでした。お金がないために疎開そかいに行けない子どもたちもいました。また、身体検査しんたいけんさを行い、病気びょうきにかかっている子や体のよわい子は参加さんかできませんでした。

学童がくどう集団疎開しゅうだんそかいにあたって必要な身のまわり品

各家庭かくかてい用意よういしたもの)

寝具しんぐ   かけぶとん1まい しきぶとん1まい まくら1こ 毛布もうふなど

衣類いるい   ねまき 下着したぎ シャツ ズボン (男)さるまた (女)ズロース
     くつした たび はらまき もんぺ 防空ぼうくうずきん など

日用品にちようひん  食器しょっき てぬぐい ハンカチ ちりがみ ブラシ みがき  水とう
     コップ 手紙用紙てがみようし  せっけん ふきん ぞうきん マスク 糸 はり
     古新聞ふるしんぶん (女)くし など

はきもの げた うんどうぐつ など

その  教科書きょうかしょ 学用品がくようひん

 

  1944年8月から9月にかけて集団疎開しゅうだんそかいに出発していきました。

学童がくどう集団疎開しゅうだんそかい 疎開先そかいさき

疎開先そかいさき
実施月日じっしがっぴ
阿倍野区 和歌山 8.28
浪速区 滋賀 8.31-9.1
西成区 和歌山 9.7-9
東成区生野区 奈良 9.9-10
天王寺区 奈良・大阪  9.8-10
此花区 愛媛 9.13-15
都島区 石川 9.15-17
西淀川区 徳島・香川  9.16-25
港区 香川 9.14-25
大正区 徳島 9.13-25
福島区 広島 9.20-21
東淀川(今の淀川区含む)
東住吉(今の平野区含む)
住吉区(今の住之江区含む)
旭区
大阪 9.17-10.21
城東区(今の鶴見区含む) 福井 9.17-21
むかしの大淀区(今の北区)京都 9.21
西区 島根 9.21-22

 

↓ 大阪からの疎開先(そかいさき)府県(ふけん)

 

 こうして大阪市内の国民学校こくみんがっこうのうち、254校が集団疎開しゅうだんそかいを行いました。この第1次だい1じ集団疎開しゅうだんそかいでは1949(昭和しょうわ19)年9月末には約6万6千人の子どもたちが2府10県に疎開そかいしていました。
 12月6日からは第2次だい2じ集団疎開しゅうだんそかいがはじまり、251校7778人が参加しました。

 集団疎開しゅうだんそかいでは旅館りょかん、おてら教会所きょうかいしょなどをりょうとし、先生や寮母りょうぼ作業員さぎょういんとともに24時間生活をともにしました。(花園はなぞの国民学校 疎開そかい教育計画案

6年生 疎開そかいから引き上げ 空襲(くうしゅう)にあう

 1945(昭和20)年2月17日から月末にかけて6年生の大阪への げが行われました。卒業そつぎょうのために疎開先そかいさきからかえってきた6年生を3月13日深夜しんやから14日未明みめいにかけてアメリカぐんのB29爆撃機ばくげきき274がおそいました(第1次だい1じ大阪大空襲だいくうしゅう)。大阪市の国民学校こくみんがっこうおおくがこの3月14日に卒業式そつぎょうしき予定よていしていました。疎開先そかいさきから帰ってきたとたん空襲くうしゅうにあい、卒業式そつぎょうしきどころではなくなりました。

全児童ぜんじどう 疎開そかいへ 学校での授業じゅぎょう停止ていし

 1945(昭和20)年3月21日には、集団疎開しゅうだんそかいに1・2年生も加え市内には学童がくどうはひとりものこらないようにすると発表はっぴょうされました。3月から5月にかけて3万人をえる子どもたちがあらたたに疎開そかいに出発し合計8万人を超える子どもたちが集団疎開しゅうだんそかいをしていました。一方、さまざまな理由りゆうから市内にのこってる子どもたちもいましたが、学校での授業じゅぎょうはありませんでした。

さかい布施ふせ守口もりぐちからも集団疎開しゅうだんそかい

 大阪市以外いがいでもあらたたに堺市さかいし からはまわりの農村部のうそんぶへ、布施市ふせし(今の東大阪市の一部いちぶ)からは福井県ふくいけんへ、守口町もりぐちちょう(今の守口市もりぐちし)からは石川県いしかわけんへと集団疎開しゅうだんそかいを行いました。

疎開先そかいさき変更へんこう再疎開さいそかい

 空襲がはげしくなると、疎開先そかいさきも変えられました。四国しこくにすでに疎開そかいしている子どもたちはそのままで、新たに疎開そかいする子どもたちは石川県いしかわけん、は島根県しまねけん、滋賀県に疎開そかいしました。大阪府下ふか和歌山県わかやまけん疎開そかいしていた旭区あさひく住吉区すみよしく東住吉区ひがしすみよしく阿倍野区あべのく西成区にしなりく天王寺区てんのうじく一部いちぶの学校は滋賀県しがけん島根県しまねけん再疎開さいそかいさせられました。

 大津市おおつし福井市ふくいし高松市たかまつし松山市まつやましなどに疎開そかいしていた学校は、もっと山間部さんかんぶりょうを移しました。疎開先そかいさき空襲くうしゅうにあい、 け出されたところもありました。

最初さいしょげは10月

 1945(昭和しょうわ20)年、8月15日、終戦しゅうせんとなりました。8月まつ現在げんざい集団疎開しゅうだんそかいしていた児童じどうは5万6860人でした。疎開先そかいさきに親が次々つぎつぎと子どもをきとりに来ましたが、のこされた子どもたちにとって食糧事情しょくりょうじじょうはますますわるくなり、時期じきや大阪のようすがわからないなど不安ふあんの日々でした。ようやく10月5日、生野区いくのく御幸森みゆきもり国民学校こくみんがっこう奈良市ならしからげてきたのが最初(さいしょ)でした。12月13日に大阪市は学童(がくどう)集団疎開しゅうだんそかい解散式(かいさんしき)を行いました。

 空襲(くうしゅう)によって()野原(のはら)となった大阪市への() 、だれも身よりのいない児童(じどう)戦災孤児(せんさいこじ))もいました。大阪市の調査(ちょうさ) によれば10月9日現在(げんざい)で143人となっています。

「おおさか市内で戦争(せんそう)平和(へいわ)(かんが)える」の関連(かんれん)ページ

疎開先の火事で亡くなった子どもたちと十六地蔵(南恩加島国民学校)
御幸森小学校の学童疎開と学校
「連結器の上で」(高倉小学校)
大阪大空襲を見た私(佐藤 泰正さん)
私の戦争体験(高砂 光雄さん)(金甌国民学校)
友達の夢を見続けて(山下 猛さん)(八幡屋北国民学校)

案内人 柏木 功

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