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「大阪市花園國民學校 學童集團疎開教育計畫案」について

學童集團疎開教育計畫案

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(↑上の画像をクリックしても「計畫案」にジャンプします)
大阪市の学童集団疎開の説明はこちら

 

1.現物は、大阪市の罫紙(十三行)16枚に手書きで書かれ、こよりで綴じてあります。

 

2.花園国民学校は西区 にあり、1945年3月13・14日の最初の大阪大空襲で校舎と校区が焼きつくされました。(当夜宿直で空襲を体験された東谷さんの文章は→こちら)そのため、戦後、休校ののち廃校とされ、今はありません。その場所は現在大阪市立西中学校となっています。大阪ドームのすぐそばです。

花園国民学校の場所は現在西中学校になっている。後ろは大阪ドーム。(編集部)

3.ホームページ掲載にあたり、原文に使われている旧字体の漢字のうち、シフトJISの規格にないものは現行の漢字字体に置き換えています(例、負・祖・祈)。なお、手書きのため本来旧字体の部分でも当時の略字(現行の漢字)で書かれていると思われるところは、そのニュアンスをあらわすために現行の漢字にしてあります(例、画・学・栄・体)。かなづかいは原文のまま、縦書きを横書きに変え、段落は原文どおりです。手書きのため1行文字数等は不定です。

4.大阪市史編纂所刊行の「大阪市史料第四十六輯」は「大阪市学童集団疎開地一覧(下)」ですが、(付録)として「浪速津国民学校瀬田寮の教育修錬」を収録しています。それには学校長名で書かれた「…教育修錬」と個々の訓導(と思われる)の名で書かれた「安養寺寮経営案」など各寮の経営案が載せられています。今の大阪市の小学校で言えば「教育指導の計画」と各学級の経営案というところでしょうか。

  今回、紹介する「花園国民学校」の「學童集團疎開教育計畫案」は、学校名で作成され、3寮を一括する形で書かれています。現地で疎開本部を統括する「寮長」が作成したものと思われます。日課表などをみると、今の林間学校の実施計画を思わせますが、疎開は終わりの決められていない「林間学校」でした。

5.この「計畫案」からは、子どもたちを24時間預かり、しかもいつ終わるともはてのない疎開にのぞむ教員の決死の覚悟が伝わってきます。実際、港区の教員(南寿校)と城東区の教員(聖賢校)が疎開先(香川県・福井県)で倒れ、帰らぬ人となっています。

  はじめに書かれている趣旨・目標・言葉などを見ると、当時の教育は、天皇のために死ね、と教えていたことがわかります。愛国和歌のほとんどは文学報国会がつくった「愛国百人一首」からのものです。天皇の楯となって死ね死ね死ねと歌い上げています。

  教育基本法に「愛国心」が盛り込まれたら、ふたたびこのような教育を求められるのでしようか。

6.付添職員

  「寮長」は教員の現地責任者。「訓導」は今の教諭。「寮母」の採用は校長が決定しました。多くは大阪で採用しましたが、現地採用もありました。後には寮母の不足と経費の節約から女性訓導が「寮母代用」として派遣されるようになりました。「作業員」は食事の用意などを行いました。この他に寮務嘱託や嘱託医がいました。

7.日課表

  5年生の秋から学童集団疎開に参加した人の通知票に出席日数が記されていました(都島区の学校の例)。疎開は9月中旬からです。

1944(昭和19年)
1945(昭和20年)
5年生
6年生
8月 9月 10月 11月 12月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月
出席日数 14日 27日 27日 26日 25日 26日 26日 21日 26日 29日 28日 28日

日曜日もなにかの行事をしていたことが、これからもわかります。

8.皇太子誕生日(つまり今の天皇誕生日)を控えた1944(昭和19)年12月22日、時の皇后は集団疎開学童に対して「お菓子」(ビスケット)1袋ずつ与えると発表し、「歌」を発表しました。

 つきの世を
せおふへき身そ
たくましく
たたしくのびよ
さとにうつりて
(次の世を 背負うべき身ぞ たくましく 正しく 伸びよ 里に移りて)

 

 大阪市では1月7日式を行い知事から市長・国民学校長に「歌」が伝達されました。書家などでつくる「大日本書道報国会」がこの歌を色紙に書いて各校に届けました。色紙の裏に書道報国会の印と書家の名があります。花園国民学校の疎開先でもどこかにこの色紙を掲示していたのでしょう。(↑上の写真)

 京都府では2月20日に式を行い知事から校長に菓子が渡されました。菓子には皇后の歌が印刷された紙がついていました。

 疎開体験者の中にはビスケットは饅頭の場合もありましたが、「もらっていない、ビスケットなんてもらったら絶対わすれるはずはない」という声もあります。

↑縁故疎開の子どもにはこのようなプリントが添えられた

 

9.以下、和歌の読み方だけ解説しておきます。

  和歌の漢字や表記は「計畫案」に書かれていたとおりにしてあります。インターネット上で紹介されている和歌と表記表現が異なる場合があります。
 「御製」というのは天皇のつくった歌のことでここでは明治天皇。

(1) 御製

 あさ緑 澄渡りたる 大空の広きを おのが心ともがな
 大意:浅緑色に澄み渡りたる此の大空の如く、宏々としたのを自分の心ともしたいものであるよ。
                     参考:大坂毎日新聞社謹輯「明治天皇御百首」

 さし昇る 朝日の如くさわやかに もたまほしきは心なりけり
  文部省教科書「新訂尋常小学唱歌 第六学年用」に「明治天皇御製」として載っています。

 目に見えぬ 神の心に 通ふこそ 人の心の 誠なりけり

(2) 愛國和歌

1942(昭和17)年11月、情報局・大政翼賛会の後援を受け日本文学報国会が作成した「愛国百人一首」から多く選ばれています(印)。

皇は神にしませば、天雲の雷の上にいほりせるかも(柿本人麿)
1 大君(おほきみ)は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上にいほりせるかも
                      柿本(かきのもとの)人麻呂(ひとまろ)

山川もよりて奉ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも(仝)
(万葉集第1巻1-39)山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも  柿本人麻呂

御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時にあへらくおもへば(海犬養岡麿)
10 み民(たみ)吾(われ)生けるしるしあり天地(あめつち)の榮(さか)ゆる時にあへらく思へば
                   海犬養(あまのいぬかひの)岡麿(をかまろ)

あられ降り鹿島の神を祈りつゝ皇御軍に吾は来にしを(大舎人部千文)
20 霰(あられ)降り鹿島(かしま)の神を祈りつつ皇御軍(すめらみいくさ)に吾(われ)は來(き)にしを
                  大舎人部(おほとねりべの)千文(ちふみ)

今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出て立つ吾は(今奉部與曾布)
21 今日(けふ)よりはかへりみなくて大君(おほきみ)のしこの御盾(みたて)と出立(いでた)つ吾(われ)は
                    今奉部(いままつりべの)與曾布(よそふ)

大君の命かしこみ磯に觸り海原わたる父母を置きて(丈部人麻呂)
18 大君(おほきみ)の命(みこと)かしこみ磯に觸(ふ)り海原(うのはら)渡る父母(ちちはは)をおきて
                    丈部(はせつかべの)人麻呂(ひとまろ)

士やも空しかるべき萬代に語り續ぐべき名は立てずして(山上憶良)
5 をのこやも空(むな)しかるべき萬代(よろづよ)に語りつぐべき名は立てずして
                        山上(やまのうへの)憶良(おくら)

劍太刀いよよ研ぐべし古ゆ清けく負ひて来にしその名ぞ(大伴家持)
剣(つるぎ)大刀(たち)いよよ研ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(20-4467)
                         大伴家持

天皇の御楯となりて死なむ身の心は常に樂しくありけり(鈴木重胤)
86 天皇(おほきみ)の御楯(みたて)となりて死なむ身の心は常に樂(たぬ)しくありけり
                          鈴木(すゞき)重胤(しげたね)

大君の御楯となりて捨つる身と思へば輕き我が命かな(津田愛之助)
92 大君(おほきみ)の御楯(みたて)となりて捨つる身と思へば輕(かろ)き我が命かな
                        津田(つだ)愛之助(あいのすけ)

大君の御旗の下に死してこそ人と生れし甲斐はありけれ(田中河内介)
83 大君(おほきみ)の御旗(みはた)の下(もと)に死してこそ人と生れし甲斐(かひ)はありけれ
                       田中(たなか)河内介(かはちのすけ)

天皇に仕へまつれと我を生みし我がたらちねぞ尊かりける(佐久良東雄)
80 天皇(おほきみ)に仕(つか)へまつれと我を生みし我がたらちねぞ尊(たふと)かりける
                        佐久良(さくら)東雄(あづまを)

かへらじとかねて思へば梓弓なき輕に入る名をぞとどむる(楠木正行)
45 かへらじとかねて思へば梓弓(あづさゆみ)なき數(かず)に入(い)る名をぞとゞむる
                        楠木(くすのき)正行(まさつら)

 ※「花園…計畫案」では「輕に入る」とありますが「數に入る」の誤記と思われます。

身はたとひ武藏の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂(吉田松陰)
77 身はたとひ武藏(むさし)の野邊(のべ)に朽ちぬとも留めおかまし日本魂(やまとだましひ)
                         吉田(よしだ)松陰(しよういん)

君が代を思ふ心のひとすぢに吾が身ありとも思はざりけり(梅田雲濱)
76 君が代を思ふ心のひとすぢに吾(われ)が身ありとはおもはざりけり
                         梅田(うめだ)雲濱(うんびん)

参考にしたHP:日本文学電子図書館
やまとうた 和歌 -Waka,History of the Japanese mind-


案内人 柏木 功

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