大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

大阪大空襲50周年

東谷 敏雄(元大阪教職員組合委員長 現在全国革新懇代表世話人)
「西の京通信」78より

(1)

▼私は1939年9月1日、短期現役兵としての兵役を終え、大阪市西区の花園尋常高等小学校に赴任し、3年生女子組の担任となった。年齢19歳であった。

※ 師範学校を卒業し、小学校の教員になる者は、兵役5カ月(4月1日から8月31日まで)で伍長に任ぜられるという「特典」があった。私の在役中は日中戦争の戦線が拡大したうえに、ノモンハン事件が起こるなど緊迫してきたので、この制度も最後となり、師範学校同期生のうち1919年12月以降に生まれた人は、兵役が翌年回しとなったため一般の兵役に服することになった。私は11月30日生まれであったため、一日違いで、甲種合格の兵ながら戦場に送られることを免れた。


花園尋常高等小学校の場所は現在西中学校になっている。
後ろは大阪ドーム。(編集部)

▼この学校は、岩波の『近代日本総合年表』の1884(明治17)年1月の項に早くも名を止めているような「由緒ある」松島遊郭の中にあり、その名も「花園」校、1学年男女各1クラス、合計16クラス。各クラスの児童数は平均30人前後の小規模校であった。当時の大阪市中心部の小学校の校長には奏任官待遇の身分をもち、給料も年俸で、小学校教員としてはズバ抜けた「高給取り」が多かった。わが花園校の校長もその一人の名だたる大ボスで、視学先生が回って来ても、「わが校のことは俺に任せ」と、校長室で昼飯を食べさせて帰していた。おかげで私は敗戦直後までの同校在任中に、授業についての視学の「ご指導」は一度も受けた経験はない。

 先に書いたように、私より後に師範学校を出た男子の教員は全部といってよい程戦場に送られたので、後輩は一人も入って来ず、私は敗戦後までずっと男子では一番若い教員であり続け、かなり好き勝手な教員生活を送った。しかし独身であったため、家庭持ちの、家庭教師などのサイドワークに忙しい先輩から宿直の代わりをよく頼まれ、1945年3月13日深夜から翌未明にかけての大阪大空襲も、宿直勤務でぶつかることになった。

(2)

▼大阪にはじめてB29が爆弾を投下したのは1944年12月19日であったが(以下の大阪大空襲関係の記述は畏友・小山仁示関大教授の労作『大阪大空襲』=85年/東方出版、に負うところが多い)、B29  100機以上による「大空襲」の最初は45年3月空襲であった。

▼この直前の3月10日零時過ぎ、グアム、サイパン、テニアンの各島を飛び立ったB29 334機(大本営発表は130機)が東京の下町を襲い、非戦闘員を対象にした夜間の低空からの無差別焼夷弾攻撃を行なった。この大空襲による死者は普通約8万4000人余といわれているが10万人にも達するともいわれている。
 その2日後の12日零時半から名古屋も大空襲を受け、大阪の大空襲に続くのである。

▼大阪大空襲を経験した人たちの証言集(例えば、大阪大空襲の経験を語る会編『大阪大空襲』=73年/大和書房など)を読んでも、「東京、名古屋の次は大阪と、一定の構えをしていた」というのは案外少ない。私なども「次は大阪」と漠然とした危機感はもったが、それ以上の具体的な心構えと準備まではしなかった。現に13日当夜の宿直勤務態勢は通常と変わらず、私と老年の「小使さん」の2人だけであった。

 情報の一切が軍部によって完全に統制されていたので、東京大空襲も、次のような大本営発表以外のことは何一つ知ることはできなかった。

 大本営発表(10日正午)
本3月10日零時過ヨリ2時40分ノ間B29約130機主力ヲ以テ帝都ニ来襲市街地ヲ盲爆セリ
右盲爆ニヨリ都内各所ニ火災ヲ生ジタルモ宮内省主馬寮ハ2時35分其ノ他ハ8時頃迄ニ鎮火セリ
現在迄ニ判明セル戦果次ノ如シ
撃墜 15機  損害ヲ与ヘタルモノ 約50機

 皇居内の主馬寮だけは真っ先に消火したことを殊更に発表し、罹災者150万人、10万人近い死者、消失戸数23万戸などには全く言及するところがない。下町40平方キロの被災地は「8時頃迄ニ鎮火」というが、軍や消防の力によってではない。燃えるものが完全になくなって「鎮火」したのであった。

 清沢洌著『暗黒日記』の3月14日の項にも、「空爆の被害や内容については政府は一切発表しない。ただ幾ら打ち落としたということだけだ。--誰かがその打ち落としたものを総計すれば、米国の造ったB29よりも遥かに多くなっているといった」と書き残している。

(3)

▼さて、大阪への3月大空襲についての府警察局の最終的公式記録(4月12日付)は、小山教授の前掲書によれば、B29の「侵入経路および攻撃状況」を次のように記録している。

……敵機は、……23時15分頃潮岬西南方面より侵入、西北進し、または阿波東端より淡路島上空を経て侵入し、何れも1機若しくは2、3機の小編隊が分翔して、23時44分頃より翌3時15分頃迄に至る間に於いて、1分乃至3分の間隔にて、高度2000乃至3000を以て大阪上空に来襲し、市中心部に焼夷弾攻撃を行ないたる後(時に機銃掃射も行えり)、東進して奈良県を経、三重県尾鷲付近より熊野灘方面に脱去せり。

▼警戒警報発令時に私がどうしたかは記憶していないが空襲警報発令後間もなく南西の大阪湾方面からB29が次々に飛来してくるので、職員室前の廊下から運動場へ出て空を見上げていた。大胆というような格好のよいものではなく、先に書いたように東京や名古屋の実相を知らなかったので、怖さ知らずの行動であった。しかしそうこうするうちに突然ザーという音が空一杯に響き渡ったかと思う間もなく、文字どおり焼夷弾が雨霰と降ってきた。
 この空襲でB29が主に使った焼夷弾は小型で円筒形(直径8センチ、長さ50センチ)をしたM69という種類であった。着地と同時に中の油脂が飛び出し、所きらわず飛散し燃えだすという厄介な代物であった。木造家屋が圧倒的に多かった日本の都市を爆撃、壊滅させるために米軍が特別に開発した焼夷弾といわれている。米軍の記録によれば、この焼夷弾をB29一機当り平均1300本以上を積載したというから、大阪の空にばらまいた焼夷弾の総数は恐るべき数に上る。
 運動場の一角にあった木造の幼稚園舎は、私の目の前でものの10分もかからずに全焼してしまった。
 私は、すぐさま職員室に飛び込み、重要書類を防空壕に入れた。天皇・皇后の「御真影」や勅語類という、まかり間違えば宿直勤務者のクビにつながる重要物件は、運動場の一角に、植木に囲まれて建てられていた鉄筋コンクリート造りの「奉安殿」に「奉納」されていたことの安心感があってか、いま思い出してもこの安否はまったく考えなかった。緊迫した状況の中では、そんなに何もかも気がつくものでない。
 そのうちに校下の住民が、鉄筋コンクリート造りで、火災の中にも焼けずに残っている学校に避難してくるようになった。私は防火に当たらねばならないので、「小使さん」に門を開けさせようと「小使室」に飛び込んでみると、この老人は恐怖のあまり腰を抜かしていた。
 焼夷弾から飛散した油脂は壁といわず窓ガラスといわず、運動場に面した廊下の天井にまで、所かまわずくっつき一斉に燃えた。かねてからいわれていたところに従い、火叩き(長い竹竿の先に縄を何本か付けたもの)で油脂を叩いて回ったが何の効果もない。すぐにアホらしくなってやめてしまった。
 私の「教え子」であったTさんは、近所の家から火の手が上がったので、すぐに走って学校に避難し、「先生にお会いした」と話している。後から家を出た彼女の両親は、学校の門から電車道を隔てた北側の松島天神杜の境内に作られていた防空壕に入ろうとしたが既に満員であったため学校に避難してきて、後で述べるように命拾いをしている。

※ 私は先に書いたように、39年9月に3年生の女子組を担任したが以後ずっと同じクラスを卒業させた43年3月までの4年間、引き続き担任するという珍しい経験をしていて今もこの「教え子」たち(30年生まれだから、もう65歳に近い)の多くとつながりをもっている。

▼私はずっと学校内にいたので、空襲による周りの被害状況などは全くわからなかったが、夜が明けて校舎の屋上から周りを見渡すと一面の焼け野原というすさまじく、全く変わり果てた風景となっており、黒煙を含んだ黒い雨が降ってきた。

▼校門を出て天神杜の境内に足を踏み入れると黒焦げの丸太棒のようになった焼死体が数多く転がっていた。
 当時、松島地域をも管轄下にもっていた西区九条警察署の署長であった五味保雄氏は、前掲の「語る会」編の『大阪大空襲』に大要次のような証言を寄せている。

……松島天神の境内には立派な防空壕が3カ所あったが14日の未明、私は部下を連れて管内の被害状況の視察に行き松島天神の防空壕にたどりついた。
 そこは全く酸鼻の極みで、壕はどれも、ぎっしりと死体で埋まっていた。中には一般市民もおれば、警防団員もおる。遊郭の娼妓の姿もあれば、軍人の死体もある。
 壕の中は、廃材や疎開家屋の木材を使って作ってあったため周囲の燃えさかる熱気の為乾燥しきってすぐ火がつき、犠牲者は窒息と同時に蒸し焼きである。……

 「教え子」のHさんの叔母も、召集令状を受けていた息子に娘と3人で天神杜の壕に避難し、そろって命を失っている。
 軍の報道規制が厳しく空襲の実相が国民にはわからなかったことに加えて、無責任な指導のため防空壕の安全が信じられ、多くの人々が命を失ったのである。
 「教え子」のKさんは警報発令とともに家の防空壕に入ったが、焼夷弾が落下しはじめて危険を感じたので、表に出て大正橋方面に逃げようとしたが、市電の架線が垂れ下り危なくて通行できない。道路の向こうの運河に出て避難者が乗っている舟を呼び止めて同乗させてもらったが、川面も一面に焼夷弾の油脂が燃えながら漂い舟に燃え移る。3回ばかり舟を乗り換え、やっとの思いで大正警察署に避難したが、ここも危険となり、警察署の伝馬船で再び運河に出て、火の手の収まるのを待ったという。

▼小山教授の調査によると、この第1次大阪大空襲の記録は次のようになっている。(小山教授著前掲書付録「大阪大空襲一覧」)

◎日時……3月13日23時57分~14日3時25分
◎来襲機数…B29、274機
◎高度:……1,500~2,900メートル
◎焼夷弾…1773トン
◎主な被災地域…浪速区・西区・南区・港区・東区・大正区・西成区・天王寺区
◎被災面積…21.0平方キロ
◎被災戸数…136,107戸
◎被災者数…501,578戸
◎死者………3,987人
◎重軽傷者…8,500人
◎行方不明…678人

▼これに対し大本営発表(14日正午)は次のようであった。

昨3月13日23時30分頃ヨリ約3時間ニ亙リB29約90機大阪地区ニ来襲雲上ヨリ猛爆セリ
右猛爆ニヨリ市街地各所ニ被害ヲ生ゼルモ火災ノ大部ハ本14日9時30分頃マデニ鎮火セリ

 さらに、同日午後4時30分、大本営は次のような追加発表を行なった。

昨3月13日夜半ヨリ本14日未明ニ亙リ大阪地区ニ来襲セル敵機ノ邀撃戦果次ノ如シ
撃墜…11機  損害ヲ与へタルモノ約60機

 B29は低空で侵入してきたので、その姿は夜目にもはっきり見えたが、整然と飛んでおり、発表のような損害を受けたとは到底思えなかった。われら猛火に包まれ、何の情報も得なかった庶民は、B29の傍若無人な姿にやり切れぬ思いをするばかりであった。
 「14日9時30分頃」までには燃える物は殆ど燃え尽き、自然に「鎮火」していた。

(4)

 大阪地区にはその後も6月1日、同7日、同15日、同26日、7月10日、同24日、さらに敗戦の前日に当たる8月14日にまで、いずれも白昼の大空襲が加えられた。そのうち6月の前3回は実に400機を超えるB29の大群による大空襲であった。そして回を重ねるにつれて焼夷弾のほか爆弾による空襲や、P51戦闘機による機銃掃射が加えられるようになった。

▼私の住居は東淀川区にあったが、大空襲のたびに交通手段を失うので、学校から野田阪神に出て、淀川大橋を渡り、淀川の北岸の堤防をずっと行き、約10kmの道程を歩いて帰った。6月頃からは、堤防のあちらこちらに機銃掃射を受けて倒れた死者の姿があった。死と隣り合わせの生活が日常化し、いつとはなしに黒焦げの死体を目にしても、機銃掃射による死体をまじかに見ても、何の感慨も抱かなくなった。

▼当初、米軍の空襲は、高度から軍事目標を正確に狙って攻撃する路線をとっていたが45年3月の東京、名古屋、大阪への大空襲や、これに先立つ同年2月の独・ドレスデン市爆撃から、B29大型爆撃機による一般住居地域を狙った無差別焼夷弾爆撃がはじまった。
 最近、米国立公文書館に保存されていた元秘密文書で明らかになったが、米政府の戦時機関が、43年2月「日本は、人口、工業労働力が都市に集中し木造家屋が多いため焼夷弾の効果は『独の数倍』と指摘。軍事関連施設より住宅密集地への爆撃の方が、戦争経済を疲弊させる」と、無差別爆撃を評価する報告書をまとめていたという。(「朝日新聞」95年3月9日付)

▼アメリカの広島・長崎への原爆投下を厳しく批判しているバーンスティーン・スタンフォード大歴史学教授は、「第2次世界大戦は、指導者や国民の戦争モラルを変質させ、非戦闘員の殺傷を極力避けなければならないという古い倫理規範は薄れ、一般市民を戦争に巻き込んでも構わないという意識が支配的になり、こうした下地があって原爆投下に大きなためらいはなかった」と指摘している(「朝日新聞」94年12月23日、95年1月12日付)。
 南京大虐殺や中国戦線でのいわゆる「三光作戦」をはじめとして、日本の侵略戦争は、この「戦争モラルの変質」の要因をつくり出している。また、いま問題にした無差別爆撃についていえば、その先例をつくったのも38年末から42年に及ぶ日本陸海軍機による重慶への爆撃であった。小林文男・広島大教授の研究によると、爆撃回数218回、延べ9513機が、2万1593発の爆弾・焼夷弾を投下、これによる死傷者は推定3万5000人以上に上ったという(朝日新聞編『女たちの太平洋戦争(2)』所収)。

▼われわれは、焼夷弾による無差別爆撃や広島・長崎への原爆投下を厳しく批判するとともに、大空襲・被爆・敗戦50周年という歴史の大きな節目に当たって、改めてわが国が犯した15年戦争の事実にまともに向き合うことが必要である。

※ 私は米・スミソニアン協会が、退役軍人団体などの「原爆投下正当論」によって「原爆展」を事実上中止に追い込まれたことや、旧臘、真珠湾を訪れた時の経験からバーンスティーン教授の論説に強くひかれている。特に「朝日新聞」2月8日付の「論壇」に投稿された同教授の「米日共同で『原爆展』開こう」に感動した。

1995年3月14日、大阪大空襲50周年の日に記す

追記

▼「教え子」のMさんから、大阪大空襲による受難のB5版ワープロ用紙4枚の詳細な証言が送られてきたので、その概要を追記する。

 私の家の中には、床下を掘ってセメントで固めた比較的頑丈な防空壕があった。空襲警報が発令されたので、防空頭巾を被り非常用具(三角巾・アカチンなどの救急用品、カンパン、なま米、缶詰など)を入れた、古い帯芯で作った袋を肩かち掛けて防空壕に入っていたが、ザーッという音とともに周りが明るくなったかと思うと、焼夷弾が落ちたという声で、壕を飛び出した。中庭には火の固まりのような油脂焼夷弾がいくつも落ちて燃えていた。遊郭の取締役と地区の消防団長をしていた父の声で、危ないから表に出ろ、と言われて外へ飛び出してみると、周囲の家の階上の屋根の下から凄い勢いで炎が吹き出していた。2人の姉は祖母と伯母のいる家へ、父は娼妓さんを誘導して避難させるために奔走、私は母と大伯母といっしょに安治川の方へと一家は別れ別れになった。途中、茨住吉神社まで来た時、またザーッという音で上空を仰ぐと、大きな火の固まりが落ちて来て、途中でそれがパーツと幾百と数え切れないほどの火の固まりに分かれ、まるで花火のしだれ柳のようだと、一瞬見とれたことを覚えている。
 それからどんどん火に追われ安治川の近くにまで来た時には、煙で目が痛く、黒い雨が降ってきた。川岸の広場にはいくつかの防空壕があり、大勢の人々が集まっていた。その頃には空襲も終わっていたが、雨が流れ込んで水浸しになった濠の中で、父や祖母・伯母・姉たちの消息もわからないまま不安な一夜を明かした。
 朝になっても父たちから連絡もないし、周囲は知らない人はかりであったので、出身校の花園国民学校に行ってみようということになった。幸いに学校は無事だったので、2階の教室に落ち着かせてもらった。家の方に行けば誰かの消息が分かるだろうと、大伯母を学校に残して、母とともに家の方へ向かう時、天神社の境内で多くの不幸な死骸を見た。防空壕は2カ所見たが、入り口の数人は真っ黒に焼かれていたが、奥の方の人は蒸し焼き状態であった。石の鳥居は崩れ落ち、その直撃を受けたのか、頭に僅かの血がこびりついているだけなのに、顔がパンパンに膨れ上がっている死体が横たわり、その回りには12、3体の、炭化して小さくなり、断末魔の苦しさにもがいている姿がそのまま残っている死体があり、小さくなった頭に被っていた鉄兜がとても大きく見えた。
 まだくすぶりが残っている中を家の前とおぼしきあたりまでたどり着いて見ると、ピアノの残骸が転がっているのを見た時大きなショックを受けた。見渡す限りの焼け野原で、これはたいへんなことだと子ども心にも思ったが、何事もお国のためということで納得したのだと思う。
 行き違っていた家族も学校に来て、その夜は学校に泊めていただき、非常袋に入れていたカンパンや缶詰(ぜいたくだったが牛肉の大和煮や鮭缶)を食べた。
 約1カ月後、阿倍野区阪南町に家を借り落ち着いたので、そこから終戦まで学徒動員で枚方の砲兵工廠天の川工場へ通った。

 4月11日追記

(原文は縦書きです。そのため編集部で原文の漢数字を算用数字に変えています。)

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