大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

私の戦争体験

(大阪市立金甌(きんおう)国民学校)

高砂光雄 (執筆当時 東大阪教職員組合委員長)

はじめに

 戦後50年の国会決議には慄然とした。終戦後50年も経過したというのに、まだ聖戦論にしがみついて、恥じらいもなく平気で言える人たちが政権をにぎり、国家を動かしていることは恐ろしい。タイム・スリップして、戦争の悪夢が甦って来たのではないかと、不安と怒りが心の奥から突き上げてきた。このまま放っておいては駄目だ。国会の革新的な人たち、政党、団体や良識をもった人々と、アジアの各国からは、侵略戦争への反省と謝罪、国家保障を求める批判があるのは当然である。ドイツのように明確なけじめを着けなければ、アジアの人々からの信頼は生まれてこない。

 お国のための教育

 1941年4月、国策で皇民を育成する目的で、小学校は国民学校になった。私はこの年、大阪市立金甌(きんおう)国民学校に人学した。 
国語の教科書には「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」から始まり「ヘイタイサン、ススメ、ススメ」「日本ヨイ国、清イ国、世界ニヒトツノ神ノ国、日本ヨイ国、強イ国、世界ニカガヤクエライ国」と、学校教育で小さいときから忠君愛国、滅私奉国を教えこまれてきた。世界で一番清く、強い国である日本、その国のために尽くす人間になることが最大の名誉であった。修身科はこの思想を徹底して教えこんだ。したがって、当時、私は親戚や他人から将来を聞かれると、幼な心にも間断なく「大きくなったら海軍兵学校へいきます」と答えていた。
 終戦直前に、お国のために特攻隊で若人が突撃していったのは不思議ではない。映画「きけわだつみの声」、を見て、当時、特攻隊で未来のある若者が、悩みながら国家のために尽くす気持ちは痛ましいほど解かる。私も二年早く生まれておれば、特攻隊に行っていたであろう。

 学校教育やマスコミが、時の権力に支配され、国民全体がマインド・コントロールされていた。
 1941年12月8日、ハワイの真珠湾攻撃で、米・英と開戦が聖戦として大宣伝された。街は米英撃滅の一色になり、戦果を上げた日本軍のニュースがラジオ・新聞、映画館などにあふれた。上本町に住んでいた私は、子ども映画を見につれてもらった。ニュースはいつも日本軍の勝利を伝えたものだった。
 排外主義をふりかざし、侵略戦争を遂行した政府や軍国主義者、さらに宣戦布告の最高責任者である天皇に、重大な根本的責任があるのは当然である。戦後50年の国会決議は、侵略戦争の犠牲になった日本国民や、アジアの人々への背信行為であり、節目の年にしては最も恥ずべき行為でもある。

 ほしい砂糖が消える配給制

 1940年、6大都市と衛星都市でマッチ、砂糖の切符制が実施、翌41年米の配給制が実施、42年、塩、みそ、しょうゆ、衣料、野菜の配給制に広がり、生活物資は不足し自由に買えなくなった。
 「これからは好きな砂糖が買えなくなるよ。」と母に手をひかれて店屋の前に並んだ。
 米の配給は1人2合3勺で家族が1日3食を食べるのに不足してきた。午前中に学校から帰ると母につれられて昼食を街の食堂に切符をもって食べにでかけた、食堂の前では長い列がつくられ、1食を食べるのにも長い時間がかかった。やっと自分の番がきて前に出されたものはうどんか雑炊であった。雑炊に箸を立て今日は中味があると喜んだ。日によっては箸は立たず倒れて汁が大部分の日も多々あって嘆かせた。しかし「勝つまでは欲しがりません」と学校だけでなく町内会でも洗脳され、誰れも文句を言わず、ただひたすら従っていた。

学童疎開が始まる

 国民学校4年生の時学童疎開が始まった。学級の中で親戚が田舎にある友は1人2人と縁故疎開に去っていった。
 田舎のない残った児童は男女別々に集団疎開になった。私たちは約30人担任の先生と一緒に滋賀県長浜市の一澄園(寺)に出かけることになった。
 見送りに来た家族や親戚の人たちは、いつ帰るともわからない別れに泣いていた。
 東京、名古屋、神戸が先に空襲を受けていたので大阪も近いうちに空襲があると誰もが考えていた。子どもは未来の戦力として保護する目的で疎開が実施された。今から考えると決して子どもの生命が大切で実施されたのではなかった。

 毎日、先生と一緒に一澄園の生活が始まった。一澄園は寺の一種だったのでお経をあげたり、学校の勉強や作業が日課だった。
 大阪では食べられない米の御飯は麦が少し入っていてもおいしく嬉しかった。しかし木の弁当箱にさらりと軽く入れてあり、食べ盛りの子どもにとっては少量だった。空腹がどの子にも襲いかかり、御飯の合図が毎回待ちどおしかった。「御飯ですよ」の合図で2階から1階の食堂にみんな走るように集まった。毎回、席は決められていなかったので喧嘩や力の強い者が、食卓に並んでいる弁当箱を見廻わして、少しでも盛りが多い場所へ陣どった。弱い者はいつも盛りの少ない所へ座わらざるを得なかった。

 毎日、空襲はないが空腹とのたたかいであった。月に2回あるある保護者との面会日は、満腹にひたる嬉しい日だった。その日は、父母か親戚の人が配給制で物がない中でも、工夫した食べ物が持ち込まれた。砂糖は無いので塩味のあんこを包んだダンゴのようなものが一番おいしく満腹の幸せを感じた。友達にも分けたが残しておいたダンゴも2~3日すれば無くなってしまう。たくさん持ってきてもらっても腐ってしまう。腐らずに日持ちするものは、当時ワカモトという薬であった。面会日にはこの薬瓶を4~5本長浜の町で買ってもらうのが最上の方法であった。空腹になるとこの薬を十錠ほど口に入れて噛みくだき水を飲むと空腹が癒された。ワカモトの薬が無くなると歯みがき粉を食べていたこともあった。
 児童たちが空腹と栄養失調気味になってきたので先生も心配し自然のものを採集に出かけるようになった田んぼには田螺がたくさんあって、これを集めて煮て食べた。これは上等な食品になった。田の畦溝に、どじょう、ふな、時にはなまずがとれた。秋にはたくさんのイナゴがやってくる。イナゴを串ざしにして料理をした。少しにが味があるが腹にはこたえた。

 空腹といっしょに襲ってきたのはシラミとノミで身体がたまらなくかゆく困り果てた。今日のように着替えがたくさんあって毎日洗濯されて清潔な状況ではなかった。寝着は1着しかなく洗濯は1週に1回ぐらいであった。洗濯といっても水洗いで石けんが不足していた。そのため、着物の縫い目にシラミが湧き中はうだいであった。見つけては爪でつぶすと赤い血がぴっと散った。自分の血を吸われていることに腹をたてながら片端しからつぶしていくが、全滅させることは不可能であった。殺虫剤など何もなかった。夜になるとシラミが活躍し激しいかゆさに苦しんだ
 。先生や面会に来た親に言っても、空腹とシラミはどうしようもなかった。これを解決する物資が不足していた。返ってくる言葉は「戦場の兵隊さんはもっと苦しい、がまん、がまん」「勝つまでは欲しがりません。」であった戦争は戦場の兵士の残酷さだけでなく、非戦闘員の国民や子どもまで、どれほど非人間的な生活に陥れているか。

大阪大空襲

 1945年3月、大阪に大空襲があった。上本町に在った私の家は火の海に包まれた。父は消防団で自分の家や家族をかまっている状況にはなかった。母は祖母と弟、妹をつれて火の海を逃げ回って命だけは助かった。家の前に防空壕が作られていたが、入っているほうが危険で、雨のように降ってくる焼夷弾と猛火を避けながら広場を求めて人々は逃げた。ちゃちな防空壕、バケツリレーによる防火訓練、敵機にねらわれないため窓に墨入れした新聞を貼り、風呂敷で電燈を包み、光を外へ漏らさない工夫等、いずれも発達した化学兵器と物量の前には空しいものであった。

 家を焼かれ、着のみ着のままの家族は尾道に近い浦崎へ避難し疎開した。母の姉の家に世話になった。父は大阪での仕事もあり、大阪にとどまったが何度も空襲にあい、ついに大阪を諦めて浦崎へ移ることになった。45年の5月頃であったが、父が滋賀の長浜に私を迎えに来てくれた。空腹とシラミから逃れられ、家族と一緒に生活できるのが、本当に嬉しかった。

浦崎での終戦

 林扶美子の方浪記で有名な尾道、造船と港町で栄えた尾道、尾道から城下町の福山へ向かう中ほどに下駄の製造で有名な松永がある。松永湾の端が瀬戸内海に突き出した半島が浦崎である。機帆船で瀬戸内の物資を運ぶ船乗りの家が多かった。瀬戸内の半島で水田は少なく、ほとんど段々畑である。だから、米は滋賀県より不足していた。米と衣料の配給制は田舎の浦崎でも変わらなかった。
 米と裸麦を混ぜた御飯はなんとも言えない口ざわりであった。しかし、腹一杯食べられるのがなんとも嬉しかった。米の補食として畑作のさつまいも、なんきん、じやがいも、小麦からつくるそうめんをよく食べた。学校は5年生になり、さつまいもの弁当をよく持っていった。運動靴はなく藁で作った手製のぞうりをはいて、約4キロ歩いて学校に通った。学期1回配給の運動靴が1学級10足ほど割り当てがあった。みんなワーワー言いながらくじ引きで分け合った。

 登校して校門に立つと運動場が広がり、一番奥に田舎の木造校舎とふつりあいな鉄筋コンクリートの奉安殿が鎮座していた。奉安殿には教育勅語が上等な桐の箱に入れて厳重に保管されていた。毎日、校門に立って奉安殿に向かって敬礼をして教室にいくのが児童の常であった。紀元節(建国記念日)、天長節(天皇誕生日)などの記念日には、運動場で礼々しく、おごそかに式典がおこなわれた。教頭先生が奉安殿から桐の箱を取り出し、うやうやしく上に持ち上げて朝礼台の校長先生に渡しにいく。きれいに並んだ児童の前を通るとき「最敬礼」の号令がかかり児童も先生も深々とお辞儀をしたままになる。校長先生は新品の白い手袋をはめて、桐の箱を受け取ると中から一枚の教育勅語を丁寧に取りだし、ゆっくり広げて、おもむろに読みはじめる。読み終わるまでの長い時間、最敬礼の状態は続く。子ども心に今何が起こっているのか少し顔を横にあげて様子を見ようとする。それが先生に見つかって思い切りぶんなぐられた。 
 「天皇は神聖にして侵すべからず」(明治憲法)学校教育の場でも天皇中心の国家思想は式典や日常の生活で具現化されてきた。日本は神の国であり絶対に負けないとも教えられた。

 終戦直前になると子ども心にも不思議に思う事がちょいちょい起こってきた。ある日、先生から松の木の下から松根油(松やに)を採集するように言われた松根油を加工してガソリンに混ぜて飛行機をとばすという説明だった。私らは「松やに」をガソリンに混ぜたらエンジンにひっかかって飛ばないのではないかと疑問に思った。

 ある日、浦崎の家の庭から大火事の光景が見えた。火は消えるどころか広がり、延々夜中まで続いた。母は福山市が空襲だと言った。尾道も空襲になるので、父たちが家屋をさきに壊していくと言う。神の国だが日本中焼かれるのではないかと思った。
 8月6日、広島に新型爆弾が落とされ、今までにない沢山の犠牲者がでていると大人たちが話していた。8月10日頃であったか、宇部から広島市内を通って従兄が浦崎へ帰ってきた。そして広島での生き地獄の様子を聞いた。ピカドン(原爆)によって、人間がぼろ雑巾のようにされ、水を求めてうめく声、人間の姿とは思えない地獄の餓鬼があちこち、まわり一面から水と助けを求めてうめく声、兄がたまらず水を与えた人が何とも言えない顔をして死んだ光景が、今も脳裏に焼き付いて離れない。

 8月15日、一台のラジオを近所の人たちが囲んで聞いた。初めて天皇の声を聞いた母は「日本は負けたんや、戦争は終わった」とポツンと言った。

 今までの苦しみがなんであったのか、さっぱり解らなくなった。それが解るには、その真実が解るには、少々時間がかかった。

(1995年8月6日)

戦争体験記録文集「子どもたちに平和のバトンを」所収
(編集発行/大阪教職員組合婦人部1995年9月6日)

(編集部注)大阪市立金甌(きんおう)小学校は、都心部の過疎化に伴い、1991年、桃園小・桃谷小・東平小と統合され中央小学校となった。金甌小学校の場所がそのまま中央小学校になっている。

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