大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる

 

第1回(だい1かい)大阪大空襲(だいくうしゅう)

大型(おおがた)爆撃機(ばくげきき)(ビー)29 100()以上(いじょう)空襲(くうしゅう)が「大空襲(だいくうしゅう)」とされています)

 


↑ばくだんを おとす B29

1945(昭和20)年3月13日23時57分~14日3時25分(約3時間半)
大阪上空(じょうくう)()んできた(ビー)29は274()

 アメリカ(ぐん)目標(もくひょう)中心(ちゅうしん)を、北区(きたく)扇町(おうぎまち)西区(にしく)阿波座(あわざ)港区(みなとく) 市岡元町(いちおかもとまち)浪速区(なにわく)塩草(しおくさ)にしていました。空襲警報(くうしゅうけいほう)とともに、町中(まちぢゅう)のあかりが()され、家の中の(ひかり)もそとにもれないようにして(灯火管制(とうかかんせい)といいました)、大阪市は(くら)やみの中にいました。

 3月10日には東京(とうきょう)大空襲(だいくうしゅう) をうけ、()野原(のはら)になっていました。12日には名古屋(なごや)()かれました。(つぎ)は大阪だといわれていました。

 グアム、サイパンから()びたったアメリカ(ぐん)のB29はつぎつぎと大阪上空(じょうくう)にきました。先頭(せんとう)飛行機(ひこうき)大型(おおがた)焼夷弾(しょういだん)()とし、あとの飛行機は、それをめじるしに 次つぎに焼夷弾(しょういだん)()としました。

 この「焼夷弾(しょういだん)」は、爆発(ばくはつ)する爆弾(ばくだん)ではなくて()えた油をふきだすもので、木でできた日本の家を()やすためにつくられたものでした。

 

(おも)被災地域(ひさいちいき)(もえたところ)

 浪速区・西区・南区(現中央区)・港区・大正区・東区(現中央区)・西成区・天王寺区
 被災面積(ひさいめんせき)(もえたひろさ) 21.0平方キロメートル
被災戸数(ひさいこすう)(もえた家のかず) 136,107戸
 被災者数(ひさいしゃすう)(ひがしを うけた人のかず) 501,578人
 死者(ししゃ)         3,987人 (もっと多いようです。ほんとうのかずは わかりません)
 重軽傷者(じゅうけいしょうしゃ) (けがをした人)  8,500人 (ほんとうのかずは わかりません)
 行方不明(ゆくえふめい) 678人 (ほんとうのかずは わかりません)

 

第1回(だい1かい)大阪大空襲(だいくうしゅう)による被災地域(ひさいちいき)

( ただし地形・区はいまのようす。)

 

■3月13・14日の空襲(くうしゅう)による国民学校(こくみんがっこう)被害(ひがい)


太平洋戦争中(たいへいようせんそうちゅう)、小学校は「国民学校(こくみんがっこう)」という名前(なまえ)でした。

■北区 全焼 天満 半焼 曽根崎(そねざき)
■此花区 全焼 中春日出 半焼 春日出
■東区 全焼 錦郷(きんごう) 久宝(きゅうほう) 半焼 南大江 中大江東
■西区 全焼 西船場 広教(ひろきょう) 堀江 高台(たかきや) 九条中 西六 半焼 日吉 花園(はなぞの) 九条南 江戸堀(えどぼり)
■港区 全焼 東市岡 波除 市岡 南寿(みなみことぶき) 菊水(きくすい) 音羽(おとわ)東田中 (さきがけ)半焼 南市岡 本市岡 磯路
■大正区 全焼 三軒家東、港南 半焼 三軒家南
■天王寺区 全焼 天王寺 上本町 半焼 聖和 生魂
■南区 全焼 東平 高津 半焼 渥美(あつみ)
■浪速区 全焼 南栄 東栄 塩草 稲荷(いなり) (えびす) 半焼 立葉 難波 芦原 大国 元町 敷津 恵美 浪速津 日本橋 逢阪(おうさか)
■住吉区 全焼 安立 半焼 加賀屋
■西成区 全焼 (ひらき) 半焼 岸里 長橋 北津守

 

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案内人 柏木 功

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