大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる

 

第4回(だい4かい)大阪大空襲(だいくうしゅう)

大型(おおがた)爆撃機(ばくげきき)(ビー)29 100()以上(いじょう)空襲(くうしゅう)が「大空襲(だいくうしゅう)」とされています)

 1945(昭和20)年6月15日8時44分~10時55分(約2時間)
大阪を攻撃(こうげき)したB29は449機 高度(こうど)5000~8200メートル。

ラジオ放送(ほうそう)をもとにB29の位置(いち)を知るための当時(とうじ)地図(ちず)

きいろのやじるしが大阪から100kmをあらわす円

 

 当時(とうじ)新聞(しんぶん)は「大阪へ西(にし)からくるときは100キロの円の中にはいってから9分くらいでもう大阪市だ。しかし、放送されるときには、もっと近(ちか)づいている。すると5分ほどしか余裕(よゆう)がないことになる。」という意味(いみ)のことを()いている。

 アメリカ(ぐん)計画(けいかく)では北九州(きたきゅうしゅう)八幡(やわた)攻撃(こうげき)する予定(よてい)でしたが、北九州(きたきゅうしゅう)天気(てんき)(わる)いので、()れていた大阪・尼崎(あまがさき)にきました。ねらった中心地(ちゅうしんち)は、阪神出屋敷駅(はんしんでやしきえき)国鉄尼崎港線(こくてつあまがさきこうせん)金楽寺駅(きんらくじえき)(今はありません)、西淀川区(にしよどがわく)神崎大橋(かんざきおおはし)南づめ、鶴橋駅(つるはしえき)天王寺駅(てんのうじえき)の5カ所でした。大阪市のまんなかはもう()えていたので、そのまわりをねらいました。

 

おもな被災地域(ひさいちいき)

西淀川区(にしよどがわく)天王寺区(てんのうじく)生野区(いくのく)東成区(ひがしなりく)西成区(にしなりく)東淀川区(ひがしよどがわく)(げん)・淀川区)・北区・東区・尼崎市(あまがさきし)
被災面積(ひさいめんせき)  4.9平方(へいほう)キロ
被災戸数(ひさいこすう)  53,112()
被災者数(ひさいしゃすう) 176,451人
死者(ししゃ)     477人
重軽傷者(じゅうけいしょうしゃ)  2,385人
行方不明(ゆくえふめい)   67人

 

第4回 (だい4かい)大阪大空襲(だいくうしゅう)による被災地域(ひさいちいき) あかいところ

きいろいところはそれまでの空襲(くうしゅう)でもえたところ
( ただし地形・区はいまのようす。)

 

6月15日の空襲(くうしゅう)による国民学校の被害(ひがい)

太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)中、小学校は「国民学校」という名前でした。

■北区 半焼 松ヶ枝
■此花区 半焼 高見
■東区 半焼 森之宮
■西区 半焼 九条南
■天王寺区 全焼 河堀 半焼 味原
■浪速区 半焼 元町
■西淀川区 全焼 柏里 千船 半焼 大和田西、香簑
■東淀川区 全焼 三津屋 半焼 加島
■東成区 全焼 阪東 片江 半焼 中道
■生野区 全焼 御幸森 東中川  半焼 生野
■城東区 半焼 今福 城東
■阿倍野区 半焼 丸山
■住吉区 半焼 敷津浦
■東住吉区 半焼 北田辺
■西成区 全焼 徳風 半焼 萩之茶屋 橘 梅南

 

 

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案内人 柏木 功

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