大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

大阪大空襲を見た私

佐藤 泰正(執筆当時 今津中学校教員)

橘国民学校(現・大阪市立橘小学校)に入学

 私が橘国民学校(現・大阪市立橘小学校)に入学したのは昭和18年(1943年)。1年ホ組で担任は松尾という眼鏡をかけた若い女の先生でした。1年はト組までありましたから、1学年7クラスという、そして高等小学校2学年を併設していたから、今だったらマンモス校になりますね。

 もう、太平洋戦争が始まっていたのですが、小学1年生の私にはピンときませんでした。大人の人もそうではなかったのでしょうか。なにせ、昭和5年頃から、もう外国と戦争をやっていたのですから。

 国語の教科書の最初だけは、はっきり覚えています。美しいカラーページで見開きで(2ページ使って)「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」でした。最初に習った文字は印象に残ります次のページは「ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」で、その次は「ヘイタイサン ススメ ススメ」でした。(図1)内容からみても、ものすごい国粋的、軍国的なものでした。それからあとの内容は覚えていません。だから、国語の最初に、どういう内容にするかは、とっても大事なことだと今でも思っています。

 祝日は学校に行きました。その時は、松尾先生は黒のスーツでなくて着物ハカマでした。そして講堂に集まるのです。松尾先生がピアノを弾きました。その時、松尾先生ってとっても偉いんやなあと感じました。その松尾先生がピアノをボーンとひくと、みんな最敬礼をせねばならないんです。頭を上げると、アーラ不思議、なにもなかった壇上の上奥に、天皇の写真が出ているのです。あと、校長先生が話をし、式は終わるのです。マンジュウをもらった時もありました。

 それからその講堂で、防空訓練もありました。毎日、学校へ持ってきている防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶり、うつぶせになり、両手で両目両耳をおさえ、口を開くのです。何でもアメリカが空襲をした時には、そうするのです。しかし、まったくピンときませんでした。まだ、少しは平和だったのでしょうね。

 全校集会では、若い男の先生が、出征(兵隊に行く)するので、激励会になることもありました。「天皇陛下」ということばが出てきましたが、その言葉の時は必ず「気をつけ」の姿勢をしなくてはいけないのです。しかし、前もってわかるのです。「恐れ多くも」といったら、次ぎに出てくる言葉は「天皇陛下におかせられましては」と、決まっていたのでキヲツケの姿勢をするのです。今、私はこの話を昭和史を教えるとき、生徒に話をしますが、生徒達は必ず大笑いをします。

 こんなアホウなことを当時、学校教育で強制していたのですねェ。

学校へは集団登校でした。桜通1丁目の男子少国民が集まるのです。道かどに20人近くの男の子が集まるのです。出発する前に、6年生の兄ちゃんが、3年以上の子に一人一人復誦させるのです。「チンオモウニ、ワガコウソ、コウソ…」何を言っているのかさっぱり分かりませんが、「教育勅語」なのです。誰も失敗しません。3年生になると必ず憶えねばなりません。僕も3年生になったら、こんなの憶えられるかなあと不安になったこともあります。

 それから2列になって、橘国民学校へ行きます。当時の校門は、今と違って、桜通と橘通の南側の間の少し橘通寄りにありました。校門を入るとき、先頭を歩いている6年生の子が「ホチョウトレ!」と号しますと、私たちは、手を大きくふり、ひざを高く上げて歩くんです。そうすると、校門の両端に、高等小学校のお兄さんが3人ずついて、木銃を少し高くあげてくれるんです。(「ササゲツツ」とか言ってました。)

 こんなことも印象に残っています。国民学校1年生に入ったばかりの時でしたが、大きなポスターを全員、1枚ずつ担任の先生からいただきました。9人の海軍の兵隊さんの顔写真で「九軍神」とかいうのだそうです。先生の言うには、家の大事な場所にはっときなさいということなので、玄関の部屋にはっておきました。いつのまにか母がはがしていました。

 「九軍神」の意味は最近になってやっと知りました。ハワイの真珠湾攻撃の時、特殊潜行艇5隻で海から攻撃し、(失敗し、酒巻少尉だけは捕虜になり、「捕虜第1号」で、のちに本になりました。)他の9人は死んだのです。太平洋戦争の最初の戦死者のこの9人が戦意高揚のため神にされたのです。この時に使われた潜行艇を、この間、アメリカの南端キーウェスト村に行ったときに見ました。ヘミングウェイの家のすじ向かいに灯台博物館があり、なにげなしに入ったところ、ジャパニーズ・サブマリンとあったので、説明を読むとこの艇だったのです。真珠湾で捕捉されたあと、アメリカ48州(この時はまだアラスカ、ハワイは州になっていませんでした)を見せ物としてまわされ(そのお金でアリゾナ以外を引き上げ、修理し、太平洋戦争で活躍したのだそうです。)、今、この地に落ち着いたとのことでした。この潜行艇を見て「九軍神」を思い出しました。

 蚕(かいこ)を飼う宿題があったのを憶えています。そして家で蚕にマユをつくらせました。このマユをどうしたのかは記憶にありません。しかし、白い蚕がマユになる前、せっせと桑を食べる。桑を買いに学校前の文具店へ走ったことは憶えています。

八尾市に疎開

 国民学校2年生になって少し様子が変わってきました。担任は男の先生になりました。そして1学期の終わり(だろうと思うのですが…)に疎開することになりました。橘国民学校は、岸和田付近の春木というところに集団疎開するのです。私の両親がいろいろと相談したのでしょう。私は父親の郷里(さと)である八尾の久宝寺に縁故疎開をすることになったのです。あとから(戦争が終わってから)知ったのですが、春木の方へ集団疎開した子らは大変だったそうです。

 父親の郷里は百姓でかなりの地所をもっており、小作もたくさんおり、久宝寺の西端の方の大きな農家に住んでおりました。祖父母も健在で、私一人の世話なんてどうもありませんでした。それどころか、伯父の子は2人とも娘で(私のいとこになる)、しかも年齢がかなり上。私は男ということで大切にされました。

 久宝寺国民学校(現・八尾市立久宝寺小学校)に転校しました。その時は女の先生が担任でしたが、途中でどういうわけか、若い男の先生に変わりました。今、考えると理解できないのですが、その男の先生は久宝寺の豪邸の包丁さん宅の離れに1人で下宿していました。なにやら、わけがありそうです。私たちへの教育ものびのびしており、芥川龍之介の「くもの糸」の話なども聞かせてくれました。

 そうそう運動場では、上級生がよく丸い輪に手足をくくって、ぐるぐるまわるのをしておりました。なんでも飛行機に乗ったときの訓練だそうです。(図2)

 また年をとった兵隊さんがやって来て、行進の練習がありました。目をつむって真っすぐ歩く練習もありました。私は真っすぐ歩けず、少し左に寄ることが多かったです。

夜の大阪大空襲

2年生の終わり頃に、夜中に空襲警報でたたき起こされました。防空壕に入りはしましたが、しばらくすると大阪が焼けているとのことで、一斉に田んぼに出ました。私の疎開先は久宝寺村の西端で、今は中央環状道路や緑地公園になっていますが、当時は一面の田んぼで、その向こうに大阪の町のシルエットが見えました。ほとんど真っ暗といった中に、下の方から、敵機をさがすサーチライトが何本も上の方に照らしだされています。そのサーチライトの中にアメリカの飛行機が見えるのです。(図3)下から高射砲で撃っているのでしょうが、あたりません。そのうち、アメリカ機からマッチをばらまいたように焼夷弾が落とされますと、下の方から火炎が上がるのです。アメリカ機は日本のサーチライトに次から次へと捕捉されるのですが、わがもの顔に飛んでいるのです。日本の飛行機はどうなっているのか少しはくやしい思いもしました。

 それからは、毎晩のように、空襲がありました。あまり防空壕には入らずに、大阪の見える田んぼに出ていました。「あっちは堺やで。よう燃えてるなあ。」とか「あっちは神戸の方や。やられとるなあ。」とかの話を聞きました。もっとも久宝寺から神戸は見えるはずもなく、詳しいことはわからないのですが、誰かが言うと、それが本当みたいに思われました。

 ある日、伯母が「やすまはん、大阪の焼け跡、見に連れったろか。エエなあ、焼け跡見に来てると絶対にいうたらあかんでェ。人、さがしに来てるというんやで。」と言われて、連れていってもらいました。その頃、近鉄は上六までしか通じておらず、上六の付近を歩きまわりました。全くびっくり、一面の焼け野原、土蔵だけがポツリポツリと残っており、大阪市全体がこげ茶色でした。

 しばらくすると難波の高島屋が見えて、へえ、上六と難波はこんなにちかかったのかいなあと感じたことを今も憶えています。

 1991年に森ノ宮に新しくできた大阪国際平和センター(ピースおおさか)に行ってきましたが、入ったところの展示室Aに、難波から千日前付近の空襲後の惨状を足下に模型で展示していましたが、それが一面だったのです。

 久宝寺の小学校に行ってから、厳密に言うと、この3月14日の大阪大空襲があってからでしょうか、本当に戦争をやっているという感じがしてきました。

 真夜中にぐっすり寝ていると、ドカンという爆弾が落ちたような音で目をさましました。そのあとすぐあとに、空襲警報のサイレンがなりました。あとで聞くとそばにある八尾飛行場に爆弾が落とされたのだそうです。アメリカ機がやってきても、日本はわからなかったのでしよう。

 おかしなこともはやりました。「コックリさん」というものです。2人で向かい合ってそれぞれ箸(はし)を持つんです。そして箸の先を合わせます。そして声を合わせて言うのです。

「コックリさん、コックリさん、今晩、空襲がありますか?あったらハシを動かせてください。」そして目をつむるんです。そうすると2人は何もしていないのにハシが開き始めるのです。(図4)(安斉育郎先生(立命館大学)の「超能力を科学する」という本を読んだら、「参加者自身が、心の内の潜在意識を反映して無意識に動かしているにすぎない」と書いておられます) このコックリさんがはやりました。私はしませんでしたが、伯母が、私の目の前で近所の人としました。すると、どうでしょう、箸は開きはじめたのです。コックリさんのお告げによると、今晩空襲があるのです。このコックリさんをしたあと、伯母は笑いながら、「こんなの信用でけへんわ。わて、自分で手、動かしたってん」といっていましたが、皆、コックリさんを信用していました。

 その晩に限って空襲はありませんでした。

 学校の授業もメチャメチャでした。警戒警報のサイレンが鳴ると、授業はストップ。運動場に町内毎に集まるのです。慣れたもの。5分とかからなかったでしょうね。そして帰宅。空襲警報のサイレンで防空壕に入るのです。田んぼで仕事をしていた人がアメリカのグラマンから機銃掃射でやられたという話も聞きました。空襲警報解除のサイレンがなると登校し、何事もなかったように授業を続けるのです。ひどい時には1日に3回ぐらいこんなこともありました。

英霊のお迎え

 もう一つ、授業が中断されることがあるのです。

 英霊のお迎えです。戦争でなくなった兵隊さんは、30cm立方の木の箱にお骨を入れられて、帰ってくるのです。遺族の方がそれを市内のどこかへもらいにいくのでしょうね。遺族の方がその箱を白い布で首からぶら下げ抱くようにして帰ってくるのです。近鉄の久宝寺口の駅から久宝寺村まで田んぼの中の道に(今は家が建ち並んでいます)村の人やら、兵隊さんやら、私たちのような小学生が並んで、お迎えをするのです。

 小一時間ほど前に学校を出て並んで、英霊が帰ってくるのを待つのです。遺族の方が前を通られる時には、みんな最敬礼をするのです。この時は、みんな本当に悲しそうでした。昭和20年になると、これも増えました。

 祝日は学校へ行き、そのあと先生引率のもと、村の中にある許麻神社へ戦争祈願にも行きました。

 こんなこともありました。久宝寺の村のはずれのしげみの中工場があり、高射砲陣地があり、その高射砲の撃った弾がアメリカ機にあたったのです。工場の中から一斉に拍手喝采がわき上がりました。アメリカ機から落下傘が1つ飛び出ましたが、飛行機は火をふいて落ちて行きました。

 次の日かな? 大阪の焼け跡を見に連れて行ってくれた伯母が、「やすまはん、飛行機、落ちた所へ連れて行ったろ。小坂に落ちたんやで」といって、連れて行ってくれました。 伯母が連れて行ってくれた田んぼの中に、アメリカの飛行機が燃えた状態でつきささっていました。そしてアメリカ兵の死体が2人分くらいと思いますが、あちこちに散っていて異様な匂いがしました。50人くらいの人が見に来ておりました。警察も軍隊もみせしめのためにそのままにほっておいたのでしょうね。

 久宝寺に居る時は、食べ物には全く困りませんでした。前に紹介したように、かなりの小作を持つ農家でしたから。

 昭和20年の7月、戦争も厳しくなった3年生の1学期ですが、、母が迎えに来て、泉南郡の高石町(現・高石市)に移りました。

 生活は急に変わりました。父は応召し(兵隊に行き)、母と私と3人の弟で、大きな1室しかない家を借りていたのです。どのようにして生活費を得たのか知りませんが、急に赤貧のどん底に落とされました。

 麦めしといったら聞こえはよろしいが、米の全くない本当の麦めしだけのめしで、それもパラパラでした。

 私は子どもですので、しかも、その頃の子は、自分の意見をもたないように、また辛抱強くされておりましたので、不満はもちませんでしたが、今になって考えると、母の考えはわかりません。夫の郷里に子どもを預けておくという気になれなかったと思います。

 高石での生活は最低でした。学校でも勉強らしいものはせず、運動場はほとんど畑になっていました。

 隣の学級の4年生の子は、ツートントンとモールス信号ばかり勉強し、「ぼくも来年になったら、こんなの憶えられるかなあ…」と自信がありませんでした。

私の8月15日

 夏休みのある日、松の木に登っていました。

 マツボックリをとって下へ投げるのです。下ではマツボックリを弟が拾って家に持って帰り、たき木にするのです。母はかっこう悪いとか、何とかいっていましたが、そんなこといっておられません。

 松の木から降りてくると、近所のおばちゃん達が集まって、「もう、空襲がないからエエねぇ」と話をしてるんです。

 なんでやねん。へんやなあ、と思って、急いで家に帰り、母に尋ねると「戦争に負けたねん」とさびしそうに言いました。

 私は窓にもたれて、美しい空を見上げました。アメリカの飛行機がきれいに編隊をくんで大阪の方へ北上していました。

 これが私の8月15日です。

 そのあと、しばらくしてから、学校から連絡があり、学校へ行きました。担任の先生は女の方でしたが、、担任の先生が、日本が戦争に負けたということ、アメリカ軍が日本にやってくるということ、アメリカ軍がどんな命令を出しても、あなたたちは逆らってはいけない、命令にしたがえ、そうしないと殺される、ということなどを話されました。

 それからアメリカ軍が国道16号線(現・26号線)を大阪へ行くというのを見に行きました。

 噂によると、和歌山あたりに上陸したアメリカ軍があのダーク・グリーンのいろいろな車、戦車に乗って、南から北へ、大阪に向かって、大阪に進駐するために。1日中北上していくのを見ました。あまり速いスピードではありませんでしたから、アメリカ兵の顔が一人一人まではっきりとわかりました。中には日本人そっくりの兵士もかなりおり、私たちは「ニセエゃ、ニセエゃ」といいました。どういう意味か、その時はわかりませんでした。

 しかし、ものすごい物量のアメリカ軍でした。

 のちにこの国道16号線で行き倒れの人も見ました。

 やがて、2学期になり、戦争も終わったので、大阪の西成の家に帰ることになりました。

 帰ってびっくり、自分の家とその一角だけは奇跡的に焼け残っており、道路の向かい側から天下茶屋駅にかけてはまったくの焼け野原なのです。

 しかし、食べ物はサツマイモ、しかも、全くおいしくなく、口に出来るものではなんでも食べました。配給といっても、米ではなくメリケン粉(しかし、もうれつに上等。家でこねた時にはすごい粘りがあった。)、トウモロコシの粉(パン屋にもっていき、パンとひっかえる)など、アメリカの援助なのでしょうねェ。そんなものでした。

 また、リュックサックを背負って南海、阪和線に乗り、おいしくない、ただ大きいだけのサツマイモの買い出しに行きました。

 また米の運び屋のおばさんが警官に追われて、家に飛び込んできた時もあります。このような人から高い米を買った時もあります。

 それから、国道を弟と歩いていたら、アメリカのトラックが通ったので手をふったらオレンジ、それもみたことのないような大きなものを投げてくれました。それからアメリカ兵を見たら手をふって物をねだりました。

 小学校3年生からは本当にひもじい思いをしました。食べ物に好き嫌いがないのは、この時からと思います。また最近の生徒達が簡単に食べ残したり、落としたり、捨てたりするのは我慢がなりません。

 それから学用品です。

 私は教科書に墨をぬれといわれた記憶がありません。

 先生が新聞みたいなものを配ってくれるのです。それを先生の指図に従って折るんです。そしてナイフで切ると、小さな教科書ができるんです。活字の大きさは今の新聞の活字の大きさでした。行間だけは、新聞より少し開いていたと思います。

 時々、「ララ物資」とかいう学用品の配給がありました。今までみたことのないような、すばらしいレポート用紙なのです。ただし、2人に1冊なので枚数を数えて2つに割りました。

 本もほとんどありません。図書館みたいなものも、ありません。本といったらどんなものでも読みました。私の読書好きは本が手に入りにくかったから、なったのでしょう。お陰で、その頃にはめずらしい子どものくせに近眼になりました。

 私にとって一番大切なものは「平和!」 

 私の戦争体験は、もう、このぐらいにして下さい。

あなたにとって一番大切なものは?「平和!」 これを書いていると、いろいろなことが思い出されて涙が出てくるのです。

 書いてないこと、いや、書けてないことがたくさんありますが、お許しください。

 私の家族や親類は、お陰さまで、戦争で誰も死んだものもおりません。

 しかし、みんな戦争の影響を受けました。

 戦争中は、それなりに気を引き締めておりましたが、戦後の方が大変だったようです。

 不敗といわれた日本が戦争に敗れたという心理的・精神的自信喪失、それに物資不足から来る経済混乱。希望というものはどこをみても、どこを向いても存在しなかったと思います。

 時々、「あなたにとって一番大切なものは?」という質問を受けますが、私は迷わずに「平和!」と答えます。

 命とか、家族とか、お金とか、答えたことはありません。

 私は一人旅が好きです。よく方々を旅行します。その時、機内で平和ってよいなあ、こんなことができるからと思ったことがあります。

 湾岸戦争が起こった時や、国連平和維持法案やPKO法案が問題になった時、「一国平和主義や」といつて批判されたこともありますが、私は一国であろうとなかろうと、この日本が平和であってほしいと願っています。

 去年、3年を担任した時、卒業文集やら、学校新聞などに大阪大空襲などについて書き、生徒たちから「先生別のことも書いてや」と言われましたが、「平和」これが、私の教育信条だといって、つっぱねました。

 私たちの組合は「教え子を再び戦場に送るな」をスローガンにしてできた組合ですが、あと数年の教職生活で、平和の大切さを生徒達に、世の中の人に訴えていきたいと思います。

(中見出しは編集部)

城北支部女性部「戦争体験文集」第5集所収 1992年発行

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