連結器の上で
わたしが九年間教えていた高倉小学校の、三十七年前のお話です。
戦争がはげしくなった昭和十九年。
大阪にいては、ばくだんが、おとされる。
あぶない、ということで、大阪の小学生たちは
いなかへひっこすことになりました。
海ゆかば、みづくかばね~
小学校の運動場でお別れの会があったあと
先生につれられた三、四、五、六年生が
大阪駅に向かいました。
大阪駅では、おとうさん、おかあさんとも
おわかれをしました。
小学生と、先生だけの乗った汽車は
走っていきます。
だんだん大阪が遠くなります。
戦争が終わるまで、おとうさん、おかあさんに
あうことはできません。
こんど大阪へ帰るのは、いつになるでしようか。
汽車は石川県めざして走ります。
汽車は、寺井駅につきました。
石川県の人々は、やさしく迎えてくれました。
お祭りのおどりをしてくれたところ
お赤飯をたいてくれたところ
でも、高倉の子どもたちは
うれしい顔をみせません。
疎開先の寮[学校沿革誌]
高倉の子どもたちは
お寺から、いなかの学校へ行って
べんきょうをしました。
食べものは、すいとん、イモご飯、
大根の千切りごはんでした。
夜、お寺でねる前に、正座して大阪の方を向いて
「おとうさま、おかあさま、お休みなさい」
というのが日課でした。
北陸本線 寺井駅
北陸本線 寺井駅の貨物ホーム。
線路がある。
汽車が走っている。
これに乗れば大阪へ帰れる。
お父さん、おかあさんのいる大阪へ。
「おかあさあん」「おとうさあん」
真っ赤な夕日をあびた貨物線のホームで
泣き叫んでいる六年生の女の子がいました。
戦争は、ますます、はげしくなりました。
昭和二十年六月七日
空襲警報とともに、ばくだんをはらいっぱいかかえた
B29 458機が大阪市めがけて飛んできました。
一時間半ものあいだ、都島区、旭区、大淀区などにばくだんを落としていきました。
空中でばくはつして、火の雨をふらせるばくだんもたくさんありました。
火の雨をかぶるとあたり一帯がたちまち、火の町になりました。
「淀川のていぼうに逃げろ」
「城北公園まで逃げろ」
ひとびとがさけびました。
学校の校しゃももえました。
運動場にばくだんが落ちました。
大きな音とともに、土けむり。
大きなあなが、あきました。
男か女かもわからない
まっ黒にこげた人の死体があちこちにたおれていました。
死体をよけて、城北公園へ逃げました。
淀川ていぼう、城北公園に人々は逃げてきました。
「ここなら、安心や」
「家もないから、ばくだんも落とさへんやろう」
ところが、B29は、赤川鉄橋をねらったように、
つぎつぎと、ばくだんを落としました。
河原に大きいあながあき、人々はふきとびました。
戦闘機P51ムスタングも飛)んできました。
パイロットの顔が見えるほど低く飛んで、
人々を、機関銃でうちました。
動くものは、何でもうちました。
人々は、草のかげ、土のかげでじっとかくれていました。
城北公園で千人以上の人がなくなりました。
城東貨物線・
赤川鉄橋 城北公園
淀川河川敷に1トン爆弾のあとが見える
[1948年8月31日 米軍撮影]
区 | 家がもえた人 | よそへ行った人 | 減少率
旭 区 | 13,410人 | 19,780人 | 36%
都島区 | 66,525人 | 28,135人 | 83%
昭和 20年10月 調 べ
石川県のお寺に来て八カ月
子どもたちは、大阪にいるおとうさん、おかあさんに、手紙をかきます。
「おとうさま、おかあさま、お元気でいらっしゃいますか、
ぼくは元気です。
はやくアメリカをやっつけて、
大阪へ帰りたいです……」
手紙は、先生が集めて、大阪へ送ってくれるのです。
夜、子どもたちがねてしまってから、
先生は、子どもたちの手紙をわけています。
先生は、知っていたのです。
大阪にばくだんが落ちたことも
子どもたちの、おとうさん、おかあさんで なくなった人のいたことも。
先生は、なみだぐみながら、
うけとる人のいない手紙をえらびだしていたのです。
八月六日
広島に
八月九日長崎に原爆が落とされました。
八月十四日
大阪城にあった武器をつくる工場に
ばくだんを落としたB29は
電車が止まっていた
京橋駅にも、
ばくだんを
落としました。225人がなくなりました。
八月十五日 戦争が終わりました、日本はまけました。
昭和二十年、十日十七日
一年一カ月の
疎開が終わり、大阪に帰る日になりました。
「大阪に
帰れる。」
「おとうさんにあえる」
「おかあさんにあえる」
どの子も、にこにこと、
汽車に乗りました。
先生も、顔は、にこにことしていましたが
帰ってもむかえてくれるおとうさん、おかあさんのいない人のあることを知っていましたから、
心の中では、なきたい気持でした。
大阪へ走る汽車の中
「先生、おかあさん、大阪駅までむかえに来てくれるかなあ」
うれしそうに、話している子どもたち。
先生は、
「君のおかあさんは、六月のくうしゅうで、なくなったのだよ」
と、
教えてあげないといけないのです。
先生は、いつ言おうか、いつ言おうかと
気が気ではありませんでした。
汽車は峠を越えました。右手に琵琶湖がみえてきました。
先生は、思いつめたようにたちあがると、
一人の子をそっとよびました。
列車と列車のつなぎめの、連結器のところに
子どもをよんだ先生は、しずかに話しはじめました。
「しっかり聞くんだよ、じつは、君の
おとうさん、おかあさんは、もういないんだよ。
六月七日のくうしゅうで……」
その子は、足元を見つめて、黙ったままでした。
汽車は琵琶湖を右に、大阪へと走り続けています。
柏木 功(1982年 当時 大阪市立高殿南小学校)
(国鉄京橋駅爆撃被災記録第2集「歴史の墓標」に収録されています。)
「連結器の上で」は高倉小学校で6年生を担任していたときに聞いた話がもとです。
当時、6年生の子どもたちに戦争体験を話してほしいと職場の先生方にお願いしました。校長先生、教務の先生が話をしてくださいました。教務の先生は、自分の戦争体験は学生の時の話なので、それよりも当時創立40周年の記念誌を担当していた関係で高倉小学校の学童疎開引率の先生から聞いた話をしようと、子どもたちに話してくださいました。当時の学級通信をもとに、末尾を史実にそって書き換えました。(2016.7.19)
案内人 柏木 功