大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

友達の夢を見続けて
(八幡屋北国民学校)

山下 猛(元 茨田西小学校)

 子供の頃、港区の八幡屋町3丁目に住んでいて、八幡屋北国民学校に通っていました。近くには、千船館という映画館があって、よく母と見に行きました。食料が不足した頃、そこの売店にだけ、えびせんべいが売っていて、それを買うために映画館に行ったことを思い出します。5年生の終わり、昭和19年の3月19日に大阪を出発して、天草の姫戸村へ疎開しました。父が市の港湾局、姉が軍需工場へ勤めていたので、大阪を離れられなかったそうですが、空襲で、近所の花屋さんのご主人が亡くなられてから急に子供だけでも疎開させようと両親は決意したようです。母が、どうしても姉も連れて帰りたくて、工場に行き、「だめだとおっしゃるなら、生命は守ってくれるのですね。」と抗議し、やっと許可がもらえたと、半分誇らしげにいっていました。鹿児島行きの汽車は、超満員で、乗車口からは乗れないので、兵隊さんが、窓から引き上げてくれたそうです。

 座っている場所もなく、兵隊さんの肩の上に板のようなものを置き、その上に子供は座っていたような気がします。その頃、同級生の氷屋の女の子に、ほのかな気持ちを抱いていました。その子から借りていた「地底の都」という本を返しに行かねばと思いながら、恥ずかしくてとうとうもったまま、来てしまいました。

 それからすぐのような気がしていましたが、1年が過ぎていたのですね。大阪の大空襲で焼けだされ、ボロボロになって、同級生でいとこが、田舎にやってきました。そして、たまたま卒業式のため、集団疎開から帰って来ていたこと、防空壕の水をかけながら、火の海から逃げて来たこと、好きだった女の子も、他の何人かの友達も真黒になって道端に転がっていたこと、市立運動場も市電の車庫も、死体の山だった事などをあとから聞かされました。いまでも、不思議ですが、その日から、何日も何日も、友達の夢ばかり見続けました。やがて、姫戸村にも敵機がやってきました。校庭で遊んでいると、突然、敵機が現れ、伏せた耳のすぐ側を銃弾がとび散って行きました。客船の姫戸丸も機銃掃射を受けて、乗客が亡くなりました。「あんどんは、遊んどるぞ。こげんなところまで来るんじや、もう、日本も終わりばい。」という村の人の噂どおり、まもなく終戦になりました。高校卒業後、大阪に出てきて、一番に訪ねたのが、学校でした。焼けあとの鉄筋で、人たちが生活をしていました。懐かしい想い出の町は、全てがなくなりました。

「戦争を知らない婦人に贈る 第2集 今、語っておきたい私の体験と平和への願い」
城北支部婦人部/1987年発行/所収

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