「部落差別」法案は解決に逆行 (2016.5.)

「部落差別」法案は解決に逆行

全国人権連事務局長 新井直樹さんに聞く

 自民党、公明党、民進党は「部落差別解消推進法案」の衆院通過を狙っています。同和(部落)の特別法は、問題解決に障害になるとして、14年前に失効しています。全国部落解放運動連合会を発展的に改組した全国地域人権運動総連合(全国人権連)の新井直樹事務局長に今回の法案の問題点を聞きました。

-現状からみて、法案の問題点は?

 差別被差別という新たな国民対立を生むことになる「差別固定化法案」です。 現状は、法務省の人権侵犯処理でも悪質で深刻な部落差別の実態があるとは言えません。旧「部落」や「部落民」に関するインターネット上の書き込みもありますが、現行法と対抗言論によって対処すべきです。部落を問題にする人がたまにいても、時代錯誤だと説得できる自由な対話こそが大事です。

差別を固定化

 法案のように「差別者」を懲らしめることでは、差別は陰湿化し、固定化してしまいます。結婚も部落内外の婚姻が主流となっています。結婚や就職の問題で自殺したという記事は見たことがありません。問題があれば、市民相互で解決に取り組める時代になったのです。そのため、政府も33年取り組んだ同和対策の特別法を2002年3月末で終結しました。全国の精緻な生活実態調査と国民意識調査を実施・分析し、審議会で各界からの意見聴取もして議論を重ね、万全を期して終了したのです。その経緯を無視する今回のやり方はまったく許されません。政府は、一般対策の名で同和事業予算を組み続け、差別の実態があるかのように国民に誤解を生じさせています。逆差別を生じかねないもので、同和事業こそ即刻廃止すべきです。

同和事業廃止を

-新たな法は解決の障害となるのですね。

 部落問題は民族問題ではなく、旧身分が差別理由として残ったものです。国民融合のなかで、社会から消滅してゆけばよいものです。それなのに、「部落差別の解消」をうたえば、国が「部落」と「部落外」を永久に分け隔てることになります。法案は「差別の実態調査」を国や自治体に求めています。根深く存在しているとの誤った理解を「調査」を通じて国民に広げることになります。人権を侵害し、特定の地域や住民を「部落」と示唆するものです。

 法案では、自治体などは相談体制をつくり教育・啓発をすることになっています。実態や経過を無視して自治体や学校に強制する根拠になり、大きな混乱を生じさせることになります。たとえば、埼玉県で同和行政を終了した自治体があります。こんな法律ができれば、終了がほごになり、「解同」(部落解放同盟)などの要求通りに復活するという混乱が生じます。全国各地の同和行政終了自治体でも、混乱を生むことが考えられます。

 2000年に自民、公明両党などの議員立法で制定された「人権教育・啓発推進法」は、人権問題を差別問題に矮小(わいしょう)化し、解決の実態から乖離(かいり)した「解放教育」や「同和教育」に法的根拠を与えてきました。こんな法こそ廃止すべきです。

-自民党の狙いをどうみますか。

 自民党は差別禁止などという法の名で利権維持をはかる「解同」などの動きを取り込みつつ、自らの国民管理に利用しょうとしています。自民党は国民主権の憲法を、国が人権を管理するものへ改悪することを狙っています。それと軌を一にした動きです。人権問題の深刻さから国民の目をそらし、人権問題はあたかも差別間題がすべてであるかのごとく描くものです。立法事実や「部落差別」の概念すらまともに議論をせずに、制定ありきというのはもってのほかです。憲法改悪、「部落差別永久化法」には、国民諸階層とともに断固反対の運動を広げていきます。

(2016年5月22日「しんぶん赤旗」掲載)

2分でわかる 部落問題と教育 (2016年版)

「2分で分かる部落問題解決と教育」のダウンロードはこちら(A4版1枚)(PDF)

1.部落問題とは

 江戸時代までの日本の社会は身分をもとにする社会でした。明治以後の日本の近代化の中でも、地域社会の中では江戸時代の賤民身分につながりがあるとされた一部の地域が社会的差別を受けていました。
 封建時代の残りものが「部落問題」です。

2.部落問題はどこまで解決したか

 戦後、日本国憲法の成立と民主主義的意識の高まりのもと、1969年から始まった同和対策事業は国地方自治体あわせて15兆円が投入され、高度経済成長とともに地域の状況を一変しました。

 2002年、特別法の失効とともに同和対策事業は終了しました。2016_01_28_2funde

 劣悪な地域の環境は改善され、「部落」と呼ばれた集落の景観もなくなり、周辺地域との分別もできなくなりました。教育や就職・結婚も改善され、居住する人々の入れ替わりも激しく、誰が従来からの居住者か、誰がそうでないかも分からなくなりました。国民の意識も大きく変化し、もはや、日常の暮らしの中に部落問題はありません。

 大阪府教委も「誰が地区の人か、誰も説明できない」「今はもう被差別部落なんてないよという」と説明しています。

 生活困難が集積した地域は特別措置法対象地域の5倍もあることが府の調査で明らかになっています。今日の課題は格差と貧困であり、部落問題はもはや過去の問題です。

3.部落問題の解決とは

 社会や人間関係で、出自を意識しない、そんなこと関係ないわ、という状態になることが部落問題の解決です。まだ誤解や偏見を持つ人がいるにしても、「江戸時代につながる話なんて、そんな昔のことを今更何なの」「何の関係あるの」「そんなことで人をみたらあかんやろ」と周りの人はたしなめます。誤解や偏見は社会として受け入れられることはもうありません。

4.学校が教えるマイナスイメージ

 今日では同和問題を「学校の授業で知った」というのが40代以下では過半数です。その結果、「学習経験を積むほど、『就職差別や結婚差別は将来もなくすことは難しい』という悲観的な意識が広がった」と報告されています(大阪府民意識調査2010年)。

 同和対策事業を終わらせた理由の1つに、行政が特別対策を続ける限り、「あそこは特別」という市民の意識が続くということがあります。学校教育も同じではないでしょうか。「部落問題学習」をする学校では「差別は今もある」というだけで、部落問題は解決に進んできたという希望ある事実を教えていません。

5.憲法と自治の力を子どもたちのものに

 「人は尊重すべきもの」「人は協同して生きるもの」ということを子どもたちが自分で理解していくように工夫しましょう。学校では「部落」や「同和」という言葉を使わないで指導することが大切です。
 よく「将来、部落問題に出会った時のために」教えておかないと、と説明されることがあります。一見、まともに見えますが、逆に言えば、将来、学校では全く扱っていなかった問題に直面した子どもはお手上げになってしまうということでしょうか。いつまでもいつまでも学校で部落問題を教え続けるのでしょうか。「人は尊重すべきもの」「人は協同して生きるもの」という立場で考え行動できる子であれば、さまざまな問題に直面した時に適切に判断できることでしょう。

 大阪府民意識調査(2010年)も「『同和問題は知らない』という人の人権意識が低いわけでもありません。」としています。「人権教育」というなら、憲法と自治の力を子どもたちのものにすることではないでしょうか。

人権総合学習(2000)

人権総合学習

 「人権総合学習」は部落解放同盟を支持し連携する一部の教職員が提唱している「総合学習」。「総合的な学習の時間」などに実践しようというもの。

「『総合的な学習の時間』の批判と創造 わたしたちの教育課程づくり」所収 (大阪教育文化センター・教育課程研究会「総合的な学習の時間」検討プロジェクト発行 2000年)

 今、同和教育研究組織や「解放教育」論者の側から「人権総合学習」がさかんに提唱されています。

 府教委や市教委など教育行政の側からも「人権総合学習」というネーミングをしないものの、「『総合的な学習の時間』への対応を見通した」(府教委)「人権教育」が提唱されています。

 府教委の「人権教育推進プラン」では小学校高学年や中学校での「人権学習プログラム」として6つの「領域」を掲げています(子どもの人権、同和問題、男女平等、障害者、在日外国人・国際理解、様々な人権問題)。大阪市教委の「人権教育指導の手引き」ではll項目を例示しています(同和教育、在日外国人教育、「障害及び障害者問題の理解」についての教育、児童の権利に関する条約、男女平等教育、進路指導、集団育成、国際理解教育、平和教育、「いじめ」の指導、環境教育)。

 官製「人権教育」や「解放教育」論者の言う「人権総合学習」は次のような特徴をもっています。

 第1に、それは「人権」概念を歪めるものです。

 国の人権擁護推進審議会の答申でさえ、「我が国の人権に関する現状については国内外から、国の諸制度や諸施策そのものの在り方に対する人権の視点に対する批判的意見も含めて、公権力と国民との関係や国民相互の関係において様々な人権問題が存在すると指摘されている」と極めて申し訳程度とはいえ、公権力と国民との関係における人権問題について触れています。世界の人権獲得の歴史は、時の権力者との闘いの歴史です。官製「入権教育」は「人権」を国民相互の問題に焦点化させ、公権力や社会的権力と民衆との人権問題を「人権」の視野からそらすものです。それは、「人権」概念の倭小化であると同時に、「人権」を権力支配の道具にするものです。

 第2に、「人権」の名を借りた「心の教育」つまり第二道徳です。

 官製「人権教育」などは、「人権」を差別問題に倭小化するとともに、子どもたちに他人の人権を侵害しないようにという心がけを求めます。そこには、子ども一人一人に人権があり、あなたが権利行使の主体者なんだよというメッセージはありません。

 吉田一郎氏(滋賀大学)は次のように指摘しています。

 心の持ち方を強要する教育は、精神の自由、内心の自由という人権の重要な基本原則に対する無理解を示すものであり、教育論としては観念的に自己改造を求めるものである。それを『責めたてる精神主義』と特徴づけることができる。…まじめで正直な子どもであればあるほど、『善性』に達しきれない自らを責める自虐的、自責的な気持ちをいだくであろう。

 …『善性』と『悪性』の観念的措定の非現実性、欺瞞性を敏感に感じる子供は、教師の前では善なる姿を見せ点数をかせぎ、そうでないところではそれを無視するというように『善』と『悪』を二面的に功利的に使いわけるであろう。(吉田一郎「『人権教育』と観念的道徳教育論」=「部落問題研究」143輯)

 第3に、人権問題の解決を教育に求めるものであり、「教育万能論」「教育決定論」である。

 子どもの持っている可能性を最大限にのばすという教育の営みを放棄し、特定の問題を解決するために教育をその手段におとしめるものです。子どもたちや国民を官製「人権教育」の教育や啓発の対象とする発想は、戦前において国民教化の役割を果たした教育の役割と同じ機能を求めるものです。子どもや国民が人権行使の主体であるという視点はありません。

 第4に、部落問題解決の到達段階を無視し、「同和教育」を「人権教育」の中に流し込みこれからも続けようとするものです。

 一部の学校では、「総合的な学習の時間」について、これまでの「人権・部落問題学習」をそのまま続ければいいのだと主張されています。従来の「にんげん」特設授業を「総合的…時間」としてそのまま続けるというその中に、生活の中に部落問題がなくなった現在の到達点を無視した「同和教育」をそのまま続けようとするものです。

 第5に、教育行政が特定の教育方法を推奨する、しかも「人権」の名において。これではブラックユーモアです。

 「教諭は児童の教育をつかさどる」(学校教育法)と規定されているとおり、教育実践は教員の権限です。「法的拘束力がある」とされている学習指導要領ですら特定の教育方法までは規定していないし、教員の裁量を認めているとしています。  教育委員会が特定の教育方法(型=パターン)を推奨することは前代未聞であり、それが「人権」の名で行われるのは大きな矛盾です。これまでの官製「同和教育」がそのままではやっていけないことから、新しい「型」に飛びついたものでしょう。しかし、そこで教育する内容は子どもたちの実生活の矛盾と切り結ぶものでなく、現実の社会の変革に参加するものでなく、机上の論議で「参加・体験」した気分にさせるだけのものでしかありません。それは、現実の社会にある問題の科学的な解明への努力から目をそらし、心がけの問題に解消するようにたくみにしくまれたものと言えるでしょう。  民主教育の中ですすめられてきた「生活綴方」という教育方法こそ、世界に誇る「参加体験」型教育方法ではないでしょうか。

(柏木 功)

部落問題学習と小学校の社会科教育(1997)

部落問題学習と小学校の社会科教育

 教育課題としての部落問題が解消しているにもかかわらず、大阪では解放教育における「部落問題学習」は依然として行われ、「特別な意識」を育てるものとなっている。

 ここでは、まず解放教育における部落問題学習とは現在どのようなものになっているかを紹介し、次に「小学校で部落問題をあつかわない」社会科教育でめざすものを明らかにしたい。

一、「解放教育」における部落問題学習

 大阪府教委は毎年『同和教育のための資料』を各学校に配布している。その1995年版に6年生の「渋染め一揆」の実践例がある。

 その教材観に「幕藩体制は…『士農工商』と『それよりも低い立場におかれた入々』という身分制度を作ってきた。…農民への厳しい締め付けは幕末になるほど、苛酷なものに発展した。飢饉がそれに輪をかけ、農民(とりわけ被差別部落民)への支配状況は、筆舌に尽くせぬものであった。このような社会状況のもとで、農民や町人の一揆、打ち壊しも増加し、幕府は体制維持のために被差別部落民への締め付けをより苛酷なものにしていった。…」とし、身分制の強調と“貧農史観”にもとづく実践を展開する。“暗く重い江戸時代”である。

 1996年版では「部落解放を担う子どもの育成をはかる教育内容の創造」がある。

 学力向上研究・学習指導形態研究(T・T)など教育活動全体でとりくもう としつつ、そのトップに「部落解放学習」研究をおいている。そのキャッチフレーズは「夢と希望を持てる部落解放学習」である。

 内容はと見ると、その学習は「部落の子どもたちの生き方を励ます学習とならなければいけない。…子どもたちが顔を上げ、瞳を輝かせるような取組みで終わらせなければならない」と従来の「部落解放学習」への反省しきりである。

 ところがすぐ後段に「今なお残存している差別の実態の重さや深刻さの認識にとどまるのではなく」と続き、「部落の果たしてきた『労働と生産のエネルギー』や『生活と文化創造のエネルギー』を学びとり、生命の大切さと人権の尊さを求めて闘い続けてきた人々の力強さやあたたかさにしっかり触れ、誇りと、夢と、希望の持てるような、部落解放学習の実践に努めてきた」とある。

 部落をとりまく環境の大きな変化を無視し、「今なお残存している差別の実態の重さや深刻さの認識」を子どもたちに求め、その結果引き起こされる子どもたちの抱く暗いイメージの克服を(記述がないのでもう一つはっきりしないが)近代・現代の社会問題である部落問題を前近代までさかのぼらせ、かつ、その「生産と文化」に求めるという二重三重の誤りをもつものとなっている。

 今なお子どもたちに「特別な意識と認識」を育てようとしているのである。つまり「誇りと、夢と、希望」などという口あたりの良い言葉で糊塗しようとしているにすぎないのである。

二、社会科のめざすもの

 では、「部落問題をあつかわない」社会科とは、社会科のめざすものとは何かを明らかにしていきたい。

 まず社会科とは何か、ということである。一言で言えば、社会のさまざまなできごとを関連づけて考え、みんなの幸せを追求できるモラルを子どもたちに身につけさせるものである。

 そのために、そして社会科をとおして子どもたちをかしこくするために、小学校社会科学習の中で(1)空間認識・(2)時間認識・(3)原因と結果の関係をとらえる力が必要である。

(1)空間認識を育てる

 空間認識は、子どもたちの「島の思考」から「陸地の思考」へと発展させるために小学校低学年から中学年で意識的に育てるものである。ここでは三年生「校区探険・絵地図づくり」の実践から紹介したい。

「校区探険・絵地図づくり」

 三年生の子どもたちにとって家のまわりや通学路の周囲、そして学校のまわりぐらいが知っている空間だろう。すぐ近くでも交通量の多い道路があれば、それに遮られ目と鼻の先にあるものでも気がついていないものだ。危険がいっぱいの地域でもある。校区といっても子どもたちの知りえている空間は限られている。

 そこで校区全域を“たんけん”することになる。授業時間だけでなく、放課後、家庭の協力も得ながら、グループで行う。

 彼らはかえるに出会えばつきあうなど地域の自然にふれながら、こわいおじいさんに会えばいたずらを叱られ、遊んだことのない小さな公園に目を輝かせながら、プリントに地域のようすを記して行く。

 商店が立ち並んでいる所・マンションの多い所、田畑が川ぞいの土地の低い所に広がっていることなど。

 このように子どもたち(人間)は、歩くスピードで空間を認識するのである。

 そして点から線・面として校区を知っていく。低学年で前後左右・上下をつかみ、三年生で東西南北、四方位を知る。

 教室では模造紙四枚の大きさの絵地図をグループで分担してつくっていくのである。ここで子どもたちは、調査した地域を絵地図に書き表し、立体の世界を平面にうつしかえるという抽象化する力を育んでいく。

 しかしすんなりとは絵地図に仕上がっていかない。

 と言うのは子どもたちの調査はすこぶる“主観的”なもので、ある子にとってグリーンマンションはスカイマンションの「向こう側」にあり、他の子には手前にあるのだ。両方とも事実なのだ。スカイマンションから見れば「向こう側」にあり、グリーンマンションから見れば手前なのだから。見る位置が定まっていないからなのである。そこで話し合いがつかず、もう一度フィールドワークをすることになる。視点を決めるということを学んでいく。

 このようにして、集団で調査し、集団で思考を高めながら、絵地図をつくるという目的に力を合わせていく。

 仕上がった絵地図から校区の中央部東から西にマンションが多くあり、真ん中に商店街、南側に田畑が点在していると校区内の特色をつかみ、住宅の多い校区全体の特色を知っていくのである。

(2) 時間認識

 時間認識は、「昨日・今日・明日」から「過去・現在・未来」へと歴史認識につながるもので中学年から高学年で意図的に育む必要がある。自分の存在しなかった時間があり、今の自分、将来があり、死がある、やはり自分の存在しない時間が続いていく。

 こういう認識は自分自身を相対化し、客観的な思考を伸ばすものである。思春期で「もう一人の自分」を発見する営みをはげますものである。今を、未来を切り開こうとする姿勢を育てていくのである。

 ここでは3年生の「地域のくらしのうつりかわり」(『どの子も伸びる』1991年6月号)の実践から紹介したい。
『竹やぶがつぶされる-地域のくらしのうつりかわり』

 この学習の前半は「戦争のころ」で、お墓しらべ・戦争中のくらしをとりあげ、後半は敗戦から校区にとっての「高度経済成長期」のころで、地域の変貌をとらえさせたいと考えた。地域のくらしの主役として、子どもたちに未来を見つめさせたいと意図した。

 ねらいは、

○くらしのうつりかわりを知らせ、時間認識を育てる。

○人々のくらしのねがいを知り、地域の主人公として未来を見つめる目の素地を育てる。

 指導時間は全20時間で、導入として学校のうつりかわりを5時間、戦争のころ6時間、戦争後のくらし・「高度経済成長期」9時間である。戦争のころ・高度成長期のころ・今の3つの時代を食事・勉強・遊びでくらべて、子どもたちに考えさせようとした。 「戦争のころのくらし-おじいちゃん・おばあちゃんの子どものころのくらし」

 おじいちゃん・おばあちゃんに、戦争のころのくらしのようすをどの子もたずねられるように、冬休みに聞きとりを宿題とした。その“いなか”が全国に広がっているのでじっくり聞きとってきてほしいと考えたのである。

せんそうの話

大樹

 きょうおじいちゃんの家に行きました。おじいちゃんにせんそうのときのことを聞くと、話しにくそうにしていた。

 おぼえているか、おぼえていないか、それともせんそうで悲しいことがあったのかもしれないけど、ぼくのために言ってくれたのかなあと思った。こたえる時も考えながら、いいにくそうにしていた。おじいちゃんはむかしのことだからおぼえていないと、ぼくは思いました。おじいちゃんに

「せんそうのころ、何を食べていたの。」

と聞くと、

「だいこんのはっぱ、まだいっぱいあった。」

と言いました。ぼくはだいこんのはっぱは食べられるかどうかわからないけど、むかしはそんな食べものしかなかったのかなあ、と思いました。

 おじいちゃんに聞き終わると、ほっとしました。なぜと言うと、おぼえていてくれなかったらしゅくだいができないから。おぼえていてくれてよかった。

 大好きなおじいちゃん・おばあちゃんからの聞きとりは、子どもたちにとって印象深いものになったようだ。おじいちゃん・おばあちゃんにとっても我が子には伝えにくいものでも、かわいい孫たちには語れるものだ。授業ではたくさんの子が勢いよく手をあげ発表していた。次にそれぞれの“いなか”のおじいちゃんの戦争にいった体験を、地域のお墓しらべに重ねた。そのフィールドワークのようすを日記から紹介する。

おはかしらべ

美里

 どんどをやったはたけの上の竹やぶにかこまれているおはかをしらべに行った。このクラスにも数人、おじいちゃん・おばあちゃんのおはかがある人がいる。とんがりぼうしがついているおはかは、せんそうでなくなった人たちだ。

 その中には学校の先生だった人もいた。ニューギニアとかルソン島のげきせんでせん死した人たちもいた。先生の話を聞いてかなしくなった。兄弟でせんそうに行ってせん死した人たちのおはかもあった。私はときどき(なんでせんそうなんかするんだろう、人がかなしむだけなのに。)と思った。せん死した人たちはきっと家に帰りたかっただろうな。

 私は次のように赤ペンを入れた。「そうでしょうね。今生きておられれば、あなたたちのやさしいおじいちゃんと同じようにくらしておられるでしょうに。」

 戦争中の食事・勉強・遊びでは戦争にいったことよりいっそう活発に発表する。そのおわりに、

T どんな時代だったか考えてみて。戦争にいったクラスのおじいちゃんを調べましたね。校区のお墓も調べました。戦争中のくらしも調べました。戦争のころのくらしはどんなだろう。

C 今とくらべて貧しい。
C 今ではありえないくらしをしていた。
C 大変。
C 特に爆弾、戦争であぶなかった。
C 食事が少ない。
C 遊びで戦争ごっこがあるから、戦争にいって死にたいみたいだ。

T 戦争て何だろう。

C 殺し合い。
C 死にいくため。
C 戦争で貧しいから、生きるの大変。

 子どもたちは今の生活とくらべて考え、戦争のころをまとめた。戦争とは殺し合いで、命・もっとも基本的な人権が奪われていたということをである。

「戦争後のくらし-お父さん・お母さんの子どものころのくらし」

 戦争中のくらしと同様に子どもたちに聞きとらせた、今度はお父さん・お母さんだ。その出身地は北は北海道、南は鹿児島に広がっているので、まず「生まれた場所しらべ」、ついでなぜ大阪に来たのか、そしてどうして校区にうつり住むようになったのかを、今の校区のくらしへと絞りこむように学習していった。

 どうして大阪にいるのか考えた。

C お父さんは広島から引っこしてきた。

T お父さんは、お母さんと結婚してここに来たの?
C だからね。お母さんがね、大阪にいてね、飲みに行ってね。その時に会ってね。それでなんとか…。お父さんが広島にいてて、こっちに会社を見つけて、それで出会った。会社の社長さんの家でくらしていた。

T ふうん。そうなの。他にどうですか。
C ちょうど仕事をするところが、大阪やから。
C 大阪に働きにきた。
C 大阪の大学に入りたかった。

T 大学が終わったら、いなかに帰ったら。どうして大阪に住んでいるんだろうね。
C いろいろめんどくさいから。(親の所に帰りたいよ)
C 鶴間君は、なぜ大阪なの? 前は名古屋だったのに。
C 転勤。(おれも転勤)(転勤)

 そして、子どもたちが親から聞きとった「大阪に住んでいるわけ」を発表。

 わたしの家のお父さんは、岡山の方であんまりいい仕事がないから、大阪の仕事をさがして、住んでいた。お母さんはそのまま校区だから、はじめから大阪に住んでいます。 (ひとみ)

 …ぼくはお母さんにどうして大阪に住んでいるか聞いた。そしたら「ちょうど仕事する所が大阪やから。」とか言った。ぼくは大阪は空気はひでえけど、とてもべんりなものがあるから、大阪に住んでてよかった。(大智)

 お母さんとお父さんは福井県から大阪に引っこしてきた。

 なぜ引っこしてきたかわけを言うと、お父さんの仕事が大阪だかち引っこしてきた。今日は、お父さんが盛岡からかえってくる日だ。お父さんは盛岡にいるときはコートをきながら、こたつに入っていた。わたしはこういうふうに思った。(そんなに盛岡はさむいのかな。)と思いました。お父さんはかえってきたら、ねてしまいました。(ゆか)

 一番のわけは仕事らしいということがわかった。しかし子どもの発言や発表からストンとおちていたわけではなく、どうやらそうらしいという程度である。三年生の子どもたちの発達段階では、これが限界で無理なようだ。(この次に実践した時には仕事との関係は追求しなかった。)よりよいくらしを求めて大阪へ、ということで十分だと考えられた。

 つづいて「お父さん・お母さんの子どものころのくらし」にうつり、子どもたちがとりわけ集中したのが遊びだ。

 お母さんの子どものころ

果南

 …家にはテレビがないので、外であそんでいた。外ではたんていごっこ、かんけり、ゴムとび、石けり、宝島などをしていた。…おふろはまきをわって、もやして、おんどをちょうせつする。お手伝いもよくしたという。お母さんが生まれた時、お父さんがくりの木をうえた。小学生になるころには、家の屋根より高くなっていた。お母さんは犬をかっていた。体が大きいのに「まめ」という名前だ。こわがりやでかみなりや花火の音がこわくて、「キューキュー」と鳴いている。にわとりもかっていた。だからお母さんは今でも鳥肉が食べられない。やぎもかっていた。草もいっぱい食べた。台風の時雨戸をしめて、われないようにガラス戸をおさえる。てい電の時はろうそくですごした。

かんそう

 わたしは、動物たちと近くにいられるので、うらやましい。マンションなので動物はかえない。わたしはまきをわってみたい。どんな手ごたえがするのだろう。

 このような発表のたびに、子どもたちは好奇心と羨望の思いで聞き入っていた。

 この後、「市の人口の変化とクラスの友だちの家が今のところにうつってきた年」「校区にうつってきたわけ」「北山田小学校区の一〇年」「吹田市の人口の変化と校区」とつづき、実践の最後に「お父さん・お母さんの子どものころとあなたたちのくらしでちがうこと」を考えた。子どもたちの多くは遊びにふれ、考えていた。

 竹とんぼ・竹馬・お手玉などの遊びと今のファミコンやミニ四くと全ぜんちがう遊びをやっている。遊びなんかは電池・電気などを使っていないけど、今は電気・電池を使っている遊びが多い。(聖子)

 食べ物が今とくらべてしゅるいが少ない。魚のにものなどが多かったようだから、今の子どもにくらべてカルシウムが多い。たん生日にケーキではなくてバナナやカレーライスが多かった。家も木造で、道は土や石がまじっていた…。(靖史)

 …むかしは野原や空き地・川などがあった。今ではそれをどんどんこわし、家やマンションをつくる。遊ぶところが少なくなる。いやだ。ぼくはうっといと思う。なぜこわすんだろう。いやだ。(遙)

 ちがうもの-遊びや食べ物や着るものとか、林や空き地とかがあって家も少ない。思ったこと-お父さん・お母さんの子どものころは、わたしたちのくらしがいいと思っただろうけど、わたしは今よりむかしの方がいいと思います(絵里)

 「今よりむかしの方がいい」と思うのは、今の遊び・勉強をくらべて考えているのだ。

 思ったこと

祐二

 つくしをとった。竹やぶも万ぱくのところもつぶされるだろうな。ぼくは竹やぶがなくなる前から思った。ぼくはつぶされてから、(やっぱり。)と思った。それからカラスも竹やぶがなくなって、ゴルフのところの竹やぶしかのこっていない。だけどカラスははいりきれなくて、学校にもばいきている。これいじょう竹やぶをこわすと、学校をうめるまで、カラスがくるかもしれない。ほかにも竹やぶにへび・虫・ほかの鳥もすんでいるかもしれないのに、どんどんこわす。ガレージやビルのために、いっしょうけんめいなん年もかけてのびた竹がかわいそう。

 子どもたちは「今」を生きる存在である。地域はなくてはならないものだ。お父さん・お母さんの子どものころとの遊び・くらしのちがいから、子どもたちは今の遊びの貧しさを知り、遊び場の少なさ・緑の少なさなどに、今後の地域の「開発」の進展にともなっていっそう目をむけていくだろう。”今とちがう昔がある”ということをしっかりつかんだだろうから。

 そして子どもたちの遊びたい、のんびりしたいというねがいを大事にしたいと思う。というのは、子どもの自主性を育む、ひいては主権者意識を育てることの大切さがよく言われる。しかし、そのもとになる子どもたちのねがい・要求は大事にされているのだろうか。日常のねがい・要求が実現されていくつみかさねにもっと目をむけていきたいと思う。社会科学習の中でも子どもたちのねがい・要求を育んでいきたいと思う。知りたい、調べたい、ともだちといっしょにというねがい・要求を。

(3) 原因と結果の関係をとらえる力

 原因と結果の関係をとらえる力は、どの学年でもそれぞれの段階で育てられなければならないが、やはり論理的な思考が芽生える中学年以降が大切であろう。小学校でどの程度までという吟味も忘れてはならない。ややもすると発達段階を無視して教え込む、その結果「徳目」におちいる実践になってしまう例が見られるからだ。

 ここでは4年生の「地域の開発」の実践(『どの子も伸びる』1992年3月号)から紹介したい。

『何のため?だれのため? -ため池と人々のくらし』

 これは、地域に点在するため池の歴史を学び、ため池に託したくらしのねがい、埋めたてられていくため池の現状をつかみ、くらしの主役として地域の未来を考えてほしいとねがった実践である。

 この単元は開発教材とよばれている。現代の開発は、とりわけ高度経済成長期のそれは、自然破壊・環境破壊と同義語である場合が多い。地域に住む人々の現在・未来のくらしを展望するのにふさわしい教材を用意しなければ、主権者としての資質・能力を育てることはむずかしいと考えている。

 そこで地域の問題は、現代日本のかかえる問題と重なるという視点から、過去・現在・未来へ連なる歴史認識・社会認識を育てるものにしたいと構想した。

 ため池をとりあげたのは、

① 子どもの日常の生活で目にふれるため池を扱うことによって、子どもたちの興味・関心を高めることができると考えたからだ。

 そして② 子どもたちのなじみ深い公園は自治会所有のため池の一部を埋め立てたもので、その他の埋め立て部分は駐車場・自治会施設・住宅となっており、現在の開発の典型的表現となっている。そこから過去のため池と人々のくらしを学習することによって、

 ③ 地域(ため池)のこれからを考えることができると構成した。

ねらいは、

○ ため池には、くらしを豊かにしようとした地域の人々のねがいがあったことを知る。 ○ 現在のため池のようすを知り、くらしを豊かにするために地域の開発に関心をもつ。

 指導計画は全13時間で、昔の吹田市と校区のため池を調べ、たくさんのため池があったことを知る。(2時間)

なぜたくさんあったのか考え、校区のため池を調べる。(5時間)

ため池をつくる苦労とそのねがいを考える。(4時間)

今の吹田市と校区のため池を調べ、たくさん埋め立てられていることを知り、これからのため池のあり方を考える。(2時間)

ため池をしらべる-”何のため”

s1 まず校区のため池の数をプリントに色をぬりながら調べ、市全体でどの位あったかを予想。三千から四千あったと知らせると驚く。再び予想。「なぜ、こんなにたくさんのため池があったのか」(資料1)を考え、その証拠を見つけるためにクラスごとにフィールドワーク。(降水量の少ないことは後で学習する。)

 調査で子どもたちは「池の中に十字かみたいなくいがあった。そしてそのまわりに水の流れる場所があった。くいはきっと水のせんだろう。」(佑奈)だから田に入れる水をためるためだと。池の南東にも水門があり、用水路が続いている。たどっていくと、何枚も田があり水を引いている。

 その先に野田さんの田がある。野田さんの田は用水路より高い所にあり、子どもたちはその田の上に「池がある」のを見つける。そこにも“十字架”があり、樋がありうわびもある。池の下に田、その下に池・田と土地の高低を利用して、水を無駄にしないしくみを見つけたのである(資料2)。

s2 教室で証拠から何のために池があったのか確かめた。

s3 「田」「田」「田んぼの水」「田んぼの水」と口々に子どもたち。ことばでそのわけをはっきりさせたくて「その証拠を言って」「まわりの池の
近くに田んぼがあったし、そこに水門があって、田んぼにつながっていた」…というわけで、子どもたちみんなが、田んぼに使う水をためるために池があるということがしっかりとわかったのである。樋・うわびなどの説明をした。十字架を抜くと、池の底から(池の水を残さないで)水が流れ出す、支えている土も水の勢いで流れてしまう(資料3)。

 野田さんの二つの池と四つの田とのしくみを大きくしたものが山田地域全体にある(資料4)。

s4ため池の歴史-“だれのため”

 ため池は“だれのため”のものか、池の歴史を学習。その資料として使ったものが古文書や民話。今とはちがうさむらいの世の中を考えた。

ため池がつくられた

 今からおよそ三〇〇年前(さむらいの世の中)に、岸部でため池をつくったという記録があります。村人たちは、自分たちでお金を出したり、借りたりしたのですが。

「わたしたち(村人)は、『池のそこにしずんでしまう田や畑の年ぐはおさめますから、ため池をつくらせてください』と、との様にたのみました。ゆるしをもらい、たくさんのお金を借りて、ため池をつくりました。でも、借りたお金を返すことができません。少しでもお金を返したいので、池になってなくなった田や畑の年ぐをまけてください。」

※年ぐ…との様にはらうぜい金

 どんなねがいでつくられたのか考え、そして水不足がなくなったのか予想、「池の水を使っている田んぼの広さ(資料5)で調べた。

s5 池の水を使っていた田は斜線部分で、ほぼ一〇倍の広さであることをつかみ、深くほれないので、あまり水をためられないことがわかった。子どもたち全員が「水不足は少しなくなった」。そこで水争いの民話『殿池のがたろ』の読み聞かせ、ため息や「ああ、おもしろかった」と子どもたち。よくわかったようだ。

 さむらいの時代について、米は主食・人口のほとんどは農民・年ぐは米ではらう・一揆などについて説明した。一揆の民話『身代わり入牢』は社会のしくみにかかわる内容で、子どもたちにはむずかしかったようだ。
ため池の変身を考える

-“何のため”“だれのため”

s6 「ため池の変身」(資料6)を使って、クラスの半数以上が住むマンションから二、三分の所にある引谷池、よく遊びに行く引谷公園を取り上げた。

 引谷池の埋め立てられる前と後をくらべさせ、色をぬらせた。公園は緑・住宅は黄色・駐車場は赤という色分けで。その色分けにしたがって、校区とその周辺の池のようすにも色をぬっていく。

 そして、「今この地域に住んでいるわたしたちのくらしをより豊かにするために、ため池をどんな姿に変身させたらよいでしょう」とたずねた。

全部変身(全部埋め立て)13人・一部変身(一部埋め立て)8人・変身させない(埋め立てない)12人となった。

全部変身

ため池をうめたてて、空き地や遊び場をつくってほしい。北グランドをつぶされて野球をする広場がなくなったから。(亮)

公園。万博みたいな緑の多い所でお金を出さなくても入れる公園、ため池をうめる。(聖子)

一部変身

ため池は半分おいといて、遊び場がへってるからはらっぱや公園とかにしてほしい。(佑奈)

ため池をちょっとうめる。みんなが幸せになる店、このへんになくて遠くにある店(デパート)。残ったため池はそのままにしておく。(ひとみ)

変身させない

王子池はこのままでいい。これ以上マンションがたったら、池が全部なくなってしまうから。(勇)

べつに変身させたくない!だけど今の池はとってもごみとかういていたり、にごったりしてきたない。だからもっと生きものたちがいっぱいすめて、きれいな池にしてほしい。(彩花)

 次時は今までの学習での知識・思考をクラスの友だちとの話し合いをとおして、いかに選択して自分の考えにまとめるかがねらいとなる。「全部変身・一部変身・変身させない」に分けて、グループにした。グループの中で一人ひとりの意見を出しあって話し合い、グループとしての意見をまとめた。

T 班の考えがまとまっていない班は、発表する人が自分の考えでおぎなったり、他の人がつけたしたりしてください。はい、発表して。

典子 田んぼを埋め立ててまでつくったため池だから、あまり埋め立てたくない。これ以上自然破壊すると空気が汚れるから、遊び場がへるから埋め立てないでほしい。

聖子 全部埋め立てたら田や畑に水をおくれないし、田畑がなくなったら食物がなくなるし、埋め立てなかったらみんなで楽しめる場所がないし、半分にへらしたらと思います。自然のあるみんなが楽しいものをつくればいい。

祥吾 どうせ一個ぐらい埋め立てるなら、老人総合センターや公園とか役にたつものをつくった方がいいから。水をきれいにして、生き物を育てればいいと思う。

(埋め立てない、そのままがいい)

(池はそのままでいい。王子池をつぶすな。)

晋典 これ以上マンションはいらん。魚たちが死んでしまう。それだし、昔の人が牢に入る思いでつくったからつぶすな。

(全部埋めたいところだ)(おそろしいよ)(何が)

香帆 山田は緑が少ないから、埋め立てて、お年寄りから子どもまで楽しく遊べる公園、緑のたくさんある公園をつくればいい。だって緑がたくさんある所といえば、万博しかないから。

憲司 半分は農民、ため池をつくった農民に関係のある博物館をつくればいい。

武 自然破壊されているから、自然の多い広場をいっぱいつくって遊べばいい。

T さあ、みんな。発表を聞いてどう思ったかな?

(やっぱりおれたちの意見)

T 全部変身、一部変身、変身させないとあるんだけど、みんなが同じことを言っていることがあるんだけどねえ。

C 広場や公園、遊び場。

C 自然…。

 話し合いは続くが、最後に一人ひとり考えてどれにするか挙手させた。その数が板書に記されている(資料7)。結局、一部変身が29人と多数になった。

s7 共通している「これ以上マンションはいらない」と「緑・自然、遊び場・広場」がほしいというねがい、安易な開発に否定的というところでまとめられると思う。

 この授業の後、学習全体をふりかえっての感想文を子どもたちに書かせた。そこでも多くは一部変身であった。

ため池と人々の苦労

絵里

 私が最初わかったことは、ため池をつくる苦労です。昔は今みたいに機械がないから、農民たちもすごく苦労して、やめたくなったかもしれないのに、それでも年ぐをはらうためにあきらめないでため池を作ったから、(すごいな。)と思いました。今まで、ずっと昔の人たちが作ったため池で水を引いて、お米を作っていたなんて、まるでため池やたあ池を作った人々にありがたみを感じました。

 でも人々が苦労して作ったため池をつぶして、建物とか作ってしまうと、人々の苦労が水のあわになってしまうけど、その建物とかが役に立つんなら、その作った昔の人々の苦労も水のあわにならなくてすむと思いました。

 この実践で地域の主役の一人としてため池の未来を考えた。子どもたちの多く(85%)はマンションに住んでいる。竹やぶ・田んぼをつぶしてできたものだ。学校もである。

 でも今を大切にする視点、そこから過去をふり返り、未来を見つめることを学んでいったのではないかと思う。

 それは昔の人々も地域のくらしを豊かにとねがってつくりかえたのであるし、埋め立てる場合も今の地域の人々の生活を向上させるためのものであるはずだ。昔も今もそして未来も。そして子どもたちの当然の権利としての遊び場・空間の要求がある。地域はみんなのものという視点、主権者意識を育てたと考えている。
人間が社会をつくる

 空間認識・時間認識・原因と結果の関係をとらえる力、このような力を育てていくことによって、社会には自然の世界と人間が意図的につくった世界とがあって、その大部分は人間が意図的につくったものであることがわかるようになるのである。

 つまり社会を合理的にみんなの幸せを追求できるものにできる、可能であるということを子どもたちの認識とモラルにすることができるのである。

 6年生になって、歴史学習、くらしとむすびつけての憲法学習を学び、”人々のくらしを高めようとするねがいによって、社会は発展してきているのだ”という小学校社会科のめざすものが完結するのである。その際、どの学年でも見える世界を手がかりに、見えない世界にわたらせることに意をつくす、具体的な思考から抽象的思考へという原則が大事にされなければならないのは当然である。

 紙面の関係で、小学校の各領域でのねらいにふれることができなくなってしまった。

 ひとつだけ簡単にふれておきたい。それは、各領域でのねらいの中でとりわけ、近世をどうとらえるのかが問題になっていることである。

 私たち「どの子も伸びる研究会」では、九六年二月に機関誌で『人権と民主主義の教育実践』の特集をくみ、その中の一つ、人権認識と社会科と題して、和歌山のすぐれた実践をかこんで子どもたちに与えるべき江戸時代像を追求した。

 「江戸時代を身分、身分制の学習にしない。その前提に農民の生産への努力、民衆のくらしを高めようとするねがいが社会を発展させたという時代のイメージをつかませる必要がある」と論議がすすんでいる(『どの子も伸びる』1996年2月臨時号)。

 そして社会科嫌いにふれて、どう社会科を魅力的にしていくかについても簡単に述べておきたい。

 そもそも子どもと教育をとりまく現状において、子どもの要求・ねがいが育まれていないために、くらし・社会へのねがいは育ちにくくなっているのではないか。その上に大人にとって今の社会の分析がむずかしいので、“今を生きる”子どもたちにとって、何のために社会科を学ぶのかという動機づけが大事になっていると考えている。
おわりに

 『どの子も伸びる』1984年3月号に「小学校社会科の部落問題学習」として、故・南部吉嗣氏(大阪歴教協委員長)は次のように述べている。

 「大阪で言えば、今だに副読本『にんげん』が府下全部の小中学校に無償配布され、その使用が強制されている。

 その『にんげん』に強調されていることは、

1、部落を特殊化し、その実態を停滞的に見て、進歩発展の姿をとりあげない。

2、部落の人々と他の人々を区別して、一般民衆を差別者としか見ないこと(部落排外主義)。

3、子どもの認識のすじ道を無視して、早くから部落の知識をつめ込むこと。

4、日本の歴史の中に正しく部落を位置づけないで、部落の歴史だけを特殊化して強調して教えようとしていること。

5、誤った解放理論を持ち込み、解放同盟の運動の論理で教育現場を支配しようとしていること。」

 それから、十数年たっている今、小学校の「部落問題学習」をおわらせ、「特別な意識と認識」は克服されなければならない。

出典:部落問題研究 第140輯(1997年8月)/部落問題研究所・刊

(個人名は仮名にしてあります。)

部落問題と人権認識について

部落問題と人権認識について

どの子も伸びる研究会 めざすもの

i 部落問題をめぐる運動と行政と教育

 部落問題とは、封建的身分制の遺制として残存してきた「未解放部落」(被差別部落・同和地区)にかかわる差別・人権侵害の問題です。

 戦前の水平社の運動は、戦時体制の進行のなかで消滅してしまいますが、戦後、新たに部落解放委員会から部落解放同盟へと再出発した運動は、勤務評定反対、安保闘争、三井三池闘争など大衆とともに闘う方向性を持ち、部落問題に対する関心を喚起し、政府の同和行政の取り組みを促しました。

 政府・自民党はこれらの運動の広がりを未然に防ぐため、逆に同和対策の積極化をはかり革新抑止策として政治支配に利用します。一つは対策の実施に「国民運動」の形を取らせること、二つは同和対策予算(補助金と特別交付金)をてこに部落解放同盟の指導部主流を補助金行政の道へと誘導することでした。指導部主流による批判者排除が始まり、組織は分裂します。こうして行政と一体になった解放運動(物取り主義)が開始します。合わせて、この時の指導部の行政主敵・報復主義的傾向は、地方自治体財政を破綻させることも辞さないかたちでエスカレートしました。

 当時の学校現場では、解放教育を主張する人々が猛烈に市の教委員会や校長を糾弾していたかと思うと、しばらくしたら、解放会館の館長や市の教育委員会に入るという現象に現れました。最近表面化した芦原病院や飛鳥会の不正問題などもこのような構造から生まれたものです。

 他方、正常化連から発展した全国部落解放運動連合会は窓口一本化の是正など行政の歪みをただす一方、ゆきすぎた糾弾闘争を批判し、住民自身による地域変革・融合の道を対置して運動をすすめました。

 「部落問題」をめぐっては、解放教育論の立場からは、「部落民宣言」が最高の社会的立場の自覚とされ、差別を固定的なものとする指導がなされました。地区子ども会、地区学習会、狭山学習、同盟休校など当時「解放の戦士」をつくるとまで言われました。大阪府も、そうした意図のもとに作成された解放読本「にんげん」を配布し、各市での同和教育研究会も同じような方針をとりました。

 言うまでもなく、解放教育論の誤りは、部落問題を別格化・特殊化し、ありもしない虚構「部落民」を強要し、教育を運動の道具にした点にありま す。

 解放教育論に対峙する教育論は、同和対策事業以前に行われた自主的民主的同和教育の継承と文部省の反動・融和政策に対する批判、合わせて部落問題の別格化・特殊化を廃し、部落問題の解消過程に沿う実践提起となりました。

 後に「どの子も伸びる研究会」に発展する「同授研」は、その時々においてそれらの方向性を示す「めざすもの」を公にする一方、生活綴り方による生活認識と文学による人間認識と社会科による社会認識の重要性を指摘し、人権認識を高める実践の探究を広げていきました。

 部落問題が進学・就学・結婚・居住などでも解消しつつあるなかで、矢田事件を始めとする数々の解放同盟による暴力的糾弾の誤りも裁判の結果を通じて明らかにされ、利権あさりも社会的批判を浴びるようになりました。同和を冠する法律も終わりをつげ、同和問題は人権教育・啓発推進の課題とされるに至りました。

 部落問題は歴史の一部として、自由と平等、生存権獲得の歴史として記述される以外は、特別な行政、運動、教育はかえって特別な意識を生み出すのではないかという段階にさしかかりました。

 「すべての子どもたちを主権者に育てる」取り組みの一層の前進が期待されるに至りました。

ii 人権認識は社会認識を前提にするもの

 人権とは「人間が生まれながらに持っている、他から侵されたり、そこなったりすることのできない「自由・平等などの権利」と言えます。

 とすれば、今の世界はどうでしょうか。世界人口の二〇%は貧困から抜け出せず、戦争や政治的弾圧がいたるところで起こり、言論の自由も危うい状態です。日本の社会も格差社会に移行しつつあります。人権の価値や内容はその地域や時において変動すると言えるでしょう。したがって、「世界人権宣言」や「児童の権利に関する条約」(子どもの権利条約)など国際的に合意された「普遍的な人権」もそれぞれに異なる地域や時に相応しく具体化ざれて豊かなものになるでしょう。

 とすれば、人権認識とは社会認識を前提にするもの、もう少し丁寧に言えば、抽象概念をともなう「人権」についての認識は、社会認識を構成する歴史的認識や現実認識など社会についての認識と互いに関連しあって深められていくと言えるでしょう。人権認識は、「ほんとうのことを暮らしに根ざして」を軸に形作っていくべきだと思います。また、現実の人権保障レベルが人権意識を規定することも直視し、レベルを向上させ、人権を日常レベルで感得させることも大切と言えるでしょう。

 ところで、政府が言う「人権教育・人権啓発」の「人権」とは、このような社会認識とかかわるものではなく、同和対策の延長線上に位置つく「差別意識」の解消を内容とするものです。人権擁護推進審議会が一九九九年に出した答申でも、要するに、さまざまな人権問題のうち、「人権尊重の理念に関する国民相互の理解」を対象とすると書いていることからもわかります。例えば、そのもとで実践化される「人権教育」は、「人権」概念を倭小化したものにならざるをえません。「参加型体験学習」や「人権総合学習」なるものが、実生活から遊離し、道徳と一体のものになっていることもここに起因していると思われます。

 本来の人権は、国民相互の間にある問題だけでなく、公権力や企業などとの間に生起する諸問題もふくめてとらえなければなりません。それらは、やはり社会認識のレベルと密接に関係しています。

月刊誌「どの子も伸びる」掲載

大阪市同和教育基本方針

第1ボタンのかけまちがい

 大阪市同和教育基本方針 「教育の中立性確保」を削除 「地域との連携」と差し替え

(柏木功 2006年)

 飛鳥会事件など同和対策事業をめぐる利権や行政との関係がようやく報道されるようになった。教育委員会も副読本「にんげん」や図書を一括買い上げし学校へ押しつけてきた。そのルーツは1966年の「大阪市同和教育基本方針」にある。

 大阪市教育委員会は、同和対策審議会答申の翌年、1966年に同和教育基本方針の制定に着手した。

 その理由は(1)同対審答申に示された「指導方針の確立」 (2)部落解放運動をすすめる人々から求められた (3)全同教大会が大阪で開催その影響などがあるとする(教育センターの研究紀要参照)。市教委に「同和教育企画委員会」が設置され基本方針の草案が検討された。

 6月の第1次草案では、最後に「教育の中立性」について3行書かれていたようだ。

 7月2日の第2次草案でも「教育の中立性」は書き込まれていた。これに対して「市民的権利は…たたかってえたものである。教育の中立論は分断させるもの」という主張が出された。

 21日の第3次草案では「教育の中立性」云々は削除され「地域関係諸機関ならびに諸団体との連絡を密に」と改められた。

 11月18日制定された基本方針では「連絡を密に」が「連携を密に」とさらに変えられた。

 同対審答申にも書かれ、以後の国の文書でも必ず「教育の中立性確保」が書かれているにもかかわらず、大阪市では「同和教育基本方針」策定の段階で、「教育の中立性」が削除され地域諸団体との「連携を密に」と書き込まれた。

 第1ボタンのかけ間違いである。それが何をもたらしたか、教育委員会所管の解放会館館長と当時の解同飛鳥支部長小西被告との関係がよくしめしている。

 今日においても、校区に解放同盟支部がある学校に転勤した教員は「新転任同和研修」として解放会館(今は「人権文化センター」)へ研修に行かされているのではないだろうか。


大阪市同和教育基本方針

昭和41年(1966年)11月

 日本国憲法においては、すべて国民は法の下に平等であり、その基本的人権はなにびとも侵すことのできない権利として保障されているにもかかわらず、同和地区においては今日なお社会的・経済的・文化的に低位性をよぎなくされ、現代社会の不合理と矛盾を集中的にうけ、差別はなお解消さていない。

 とくに大阪市では人口の移動・戦災・疎開・都市計画にもとづく地域の変ぼうなどにより、同和地区の不明確化とスラム化の傾向がみられ、いわゆる都市部落の特徴を呈し、問題の解決をいっそう複雑にしている。

 部落の解放については、今なお一部ではことなかれ主義の意見もあとをたたず、融和主義や同情主義も根づよく残っている。このような表面的・現象的な認識では、現に存在するきびしい部落差別の解消は期しがたい。

 部落差別の解消はすべての国民がこの差別の実態を直視して部落問題を正しく認識し、民主主義をより具体的に実現する願いを基調として積極的にこれととりくみ、あらゆる力の結集・統合の上で実現するものであるが、その根本においては教育の力にまつべきところが多い。

 同和教育の本質は、今なお部落差別の存在することの不合理を知らせ、人間尊重の自覚を高め、不合理な差別を排除する精神をつちかうことにある。とくに同和地区の児童・生徒に対しては、学力の向上をはかり、人権の自覚を高め、いささか の差別をも許さず、差別を克服し、民主社会の一員としてその責務をじゅうぶん果たし得る人間を育成しなければならない。

1.日本国憲法・教育基本法ならびこ児童憲章の精神にのっとり、同和教育をすべての学校・幼稚園および地域社会において国民の責務として積極的に実践展開する。

2.学校教育では、児童・生徒の発達段階を考え、地域の実情に即しながら適切な指導方針を確立し、これを積極的・具体的に展開して同和教育本来の目的達成につとめる。

3.同和地区の子どもは、不就学・長欠・年少労働などの悪条件のもとにおかれ、学習意欲は低く学力などにおいてその発達がじゅうぶんでないきらいがある。この実態の上にたち、教育諸条件の整備をはかり、ひとりひとりの児童・生徒をみつめて、かれらのもつ可能性を最夫限にのばすように努めるとともに、進路指導をいっそう積極的におこなう。

4.部落の現実の問題を適確に把握し、その問題点を解決するため社会教育においては、さらに諸条件の整備をはかり、きびしい生活現実に対し積極的にとりくむ自主的・組織的教育活動の醸成につとめる。

5.同和教育の成果は、指導者の部落問題に対する正しい認識と理解・人間尊重の信念と情熱に負うところが少なくない。したがって指導者の育成とその資質の向上に努力する。

 本方針実施にあたっては、学校教育・社会教育の有機的な連携をはからなければならないことはいうまでもないが、さらに地域関係機関ならびに諸団体との連携を密にし、各種行政と相まってその実をあげることを期するものである。

全国人権教育研究協議会を批判する(2014)

基本的人権の尊重(憲法)を歪める全人教
―全国人権教育研究協議会を批判する―

編集・発行/大阪教育文化センター「部落問題解決と教育」研究会

(全人教全国研究大会報告冊子から引用する場合は、大会開催年と報告県名のみ明記した。報告に地名が書かれていても、引用では○○と表示した。)

1.教育に運動を持ち込んだ全同教

(1) 部落解放同盟の別働隊に転落
 参加した研究会は多様な組織だった

 全国人権教育研究協議会(略称 全人教)は、1953年、全国同和教育研究協議会(略称 全同教)として発足した。当初から参加県市の研究会は多様で、自主的な研究団体として活動していた県、官製団体であった県、運動団体によりかかっていた県などがあった。

 全同教は多様な実態を尊重し、自主的な研究や地域に根ざす実践を大切にし交流していた時期もあった。
解同の別働隊に転落

 しかし、1960年代後半から1970年代にかけて、部落解放同盟が暴力と利権追求にのりだした。次ページに紹介するように、全同教もまた部落解放同盟の運動を教育に持ち込む団体に転落し、自主的な教育研究団体とはいえない状態になった。

 15兆円をかけて同和対策事業が行われ、環境は激変し差別解消へ大きくすすんだ。一方、事業を継続する限り問題が解決しないというジレンマを抱えていたこともあり、2002年、特別法は終了した。「同和」と名のつく特別な教育は終わらせようと解散した組織もある(和歌山県同教99年、広島市同教01年)。

 全同教は2009年、一般社団法人への移行とともに全人教へ名称変更、2011年に公益社団法人の認可を受けた。全国大会は「人権・同和教育研究大会」としている。

(2) 「解放教育」という運動の持ち込み

 全同教は1966年の第18回全国大会アピールで「解放運動と同和教育の結合」を掲げた。

 同和対策審議会(同対審)答申が1965年にだされたが、答申は「同和教育を進めるに当たっては、『教育の中立性』が守られるべきことはいうまでもない。同和教育と政治運動や社会運動の関係を明確に区別し」と、教育に運動を持ち込むことを戒めていた。

 これに対し「子どもたちの学習権保障のためにはいっそう教育と運動を結合すべき」「自己の社会的立場の自覚」などの「解放教育」が提唱されはじめた。全同教も「解放運動と同和教育との結合をさらに強め」ようと決議した。

(3) 「狭山事件」を教育に持ち込む

 1970年の第22回全国大会では狭山事件の石川一雄氏の「訴え」が読み上げらた。翌1971年の大会では「大会アピール」に「無実の石川青年を釈放させる運動と行政糾弾の闘い」と書いた。

 1972年の「大会アピール」は「『矢田教育差別事件』を通じて…部落解放運動と結合していくことなくして部落解放の教育創造はありえないことを全同教は明らかにしてきました。」「司法権力の予断と偏見によって、石川青年は獄窓に」などと書いていた。(※「矢田事件」は次項参照)

 1976年の大会アピールでは「権力裁判を糾弾する『狭山』同盟休校闘争を、教育への介入とし、部落大衆と労働者、父母、国民を敵対させる、私達の内部にある一部の傾向は、早急に克服されねばならない」とまで書いていた。

 2012年の研究課題では「狭山事件をとりあげ、石川一雄さんの生きざまに学ぶことができます。」としていた。2013年の研究課題から「狭山」は消えたが、記念講演の注や報告では取り上げている。

▼ ○○は今年の校内人権集会(「狭山」現地調査報告集会)で「狭山事件は殺人事件ではありません。部落差別事件です」と力強く語った。(2013年 熊本県)

▼ 職員室には「○○中学校から第2の石川さんを出すな」という「狭山」の教訓を継承し、すべての子どもたちの学力を保障しようという教師の姿勢を確認するため「石川一雄さん逮捕」の写真が貼られています。(2012年 奈良県)

 まだこんな学校がある。堂々と大会で報告し、全人教も平気で冊子に収録している。その大会を文科省や各県が後援している。

(4) 全同教は「部落解放同盟」の暴力を容認してきた

矢田事件 解同の暴力を容認

 1969年に引き起こされた「矢田事件」は、労働条件改善を訴えた大阪市教員の文書を部落解放同盟(解同)が「差別」と決めつけて教員を拉致糾弾し、市教委に首切りを要求、市教委は教員に長期間の研修を命じた事件である。最高裁は拉致糾弾した解放同盟員に有罪の判決、大阪市には損害賠償を命令する判決をくだした。1986年の最高裁判決は「差別文書」だとする大阪市の主張を退け、研修命令は裁量権の範囲を逸脱したものと明確に認定している。全同教が「矢田教育差別事件」と表現するのは解同の認識であり、すでに断罪されている。教育委や解同と異なる考えを表明しても差別ではない。

八鹿高校事件 解同の暴力を容認した警察・行政・マスコミ・そして全同教

 1974年11月、兵庫県立八鹿高校教職員58名が、解同による集団リンチを受けて重軽傷を負うという事件があった。(最高裁で解放同盟員は有罪、兵庫県と解同は損害賠償を支払えとの判決が確定している。)。

 全同教はこの時、京都出身の副会長らの反対にかかわらず正副委員長見解を発表。翌年2月の全同教委員会でそれを全同教見解とした。見解は八鹿高校教職員に非があるように描き「解同」の集団暴力を正当化するものであった。当時、三重・滋賀・和歌山・京都・岡山の5府県同教が見解の採択強行に抗議した。全人教は今日にいたるまでも、暴力容認の決議を撤回していない。

2013年全人教大会でも、特別分科会で講師が教育の中立性確保を非難

 2013年11月に徳島で行われた全人教全国大会でも運動の持ち込みは続いている。

 徳島大会の特別分科会第1講の講師(元全同教委員長)は、「激しかった同和教育攻撃」として、地域改善対策協議会の文書や総務庁地域改善対策室の通知を例にあげている。その文書は下に紹介するように民間運動団体の教育介入を厳しく批判している。教育に介入する民間運動団体とは部落解放同盟である。

 教育の中立性確保という当たり前のことが通用しないのが全人教の「同和教育」である。「公益社団法人」として認可されたという全人教のどこに「公益性」があるのか。

 地域改善対策協議会基本問題検討部会報告書

 同和教育については一般住民の批判的な意見も多いが、この背景には、地域によっては民間運動団体が教育の場に介入し、同和教育にゆがみをもたらしていることや同和問題についての住民の理解が十分でないことが考えられる。同和教育の推進に当っては、住民の理解と協力を得るよう努めるとともに、教育と政治・社会運動との関係を明確に区別して、教育の中立性が守られるよう留意し、行政機関は毅然たる姿勢で臨むこと。指導に当たっては、教育の中立性を確保する方策が明確に示されるべきである。(1986(昭和61)年8月5日)
 (地域改善対策協議会は総務庁(当時)のもとに設置された審議会)

2.教育で「部落」を分けへだてする全人教

(1) 学校が「部落」を意識させている

 大阪府の調査では「同和問題をはじめて知ったきっかけ」が「学校の授業」というのが20代、30代、40代で過半数(2010年府民意識調査)。埼玉県中高生意識調査では初めて知ったのは学校が82%(2010年調査)。

 全人教は基調提案などで「部落の子ども」「部落外の子ども」などと子どもを色分けしている。各地の報告も依然として「同和地区」「被差別部落」「ムラ」と呼称し、子どもたちを「部落出身かどうか」を意識している指導者のまなざしがうかがえる。

▼ ○○さんと語る中でわたしは、部落の子どもたちがいつか部落差別と向き合う日が来ることを意識するようになりました。(2013年 鹿児島県)

▼ 3年生で再びAの担任になった。今度こそは部落問題の話もしていきたいと思い、4月早々、家庭訪問を申し入れた。お母さんから「なぜ、うちなのか」「点数稼ぎのためか。」と返ってきた。(2013年 三重県)

▼ 6年生のA子は、普段から、「なんで○○の子どもだけ、学習会にいかんばいかんと?」と言って半ば強制されることに対して明らかにいやがっていた。(2013年 佐賀県)

▼ Bの母親は同和地区出身である。母親は他地区の男性に嫁いだが、Bが幼少の時離婚し、実家に戻った。(2012年 岡山県)

▼ ○○地区・○○地区・○○地区と三つの地区公民館があり…。…○○地区・○○地区には部落があります。…ムラ出身でない私はなじめていませんでした。(2012年 鳥取県)

▼ 願い出て「ムラの子が顔を上げられる授業」を目指して江戸時代身分制の授業をさせてもらった。しかしその後の授業の後で差別発言があった。本校の課題は、ムラ以外の子どもたちがともに反差別の仲間になる授業だと気付いた。 (2012年 宮崎県)

▼ 私は「部落出身であるAこそが部落問題を学ばなければならない」と考え、Aに部落出身であることを伝えた。(2011年新潟県)

 大阪からの報告には、「同和地区」や「被差別部落」という言葉は出てこない。それは大阪における部落問題解決の到達点や府民の批判の高まりを反映した結果である。

大阪府教委「ムラ」などは使用しない

(民権連)府教委とすでに決着ずみの「ムラ」「むら」“むら”などをやめさせること。

(府教委)ご指摘のような表現による誤解や偏見を避けるため、教材の見直しを行いましたが、今後とも、使用しないように取り組んでまいります。(2012.3.13 民権連の府教委交渉での回答)

 「民権連」は「民主主義と人権を守る府民連合」の略称(全国人権連に加盟)

※府教委は人権教育指導資料を配付しているが、その小学校向け教材では「部落」「同和地区」などの言葉はいっさい使用していない。

(2) 展望でなく恐怖を育てる全人教

 半世紀以上前のごとく、全人教は「差別がある」「差別される」と不安をあおっている。その結果、「学習経験を積むほど、『就職差別や結婚差別は将来もなくすことは難しい』という悲観的な意識が広がったということも指摘しておかなければなりません。」(大阪府民意識調査分析編p73・74)という事態を招いている。地域の状況は激変し、国民の融合も大きくすすんだ中に子どもたちは育っている。差別をする人がいれば周りのみんなが「それはあかんやろ」とたしなめる時代である。が、全人教は展望を語らず決意を促す教育をする。

▼ 前任校では、学習会が補充学習だけでなく、解放学習会としての取組がいろいろあった。それをとおして、子どもたちが社会的な立場を自覚する。勉強を重ねていくなかで、子どもたちは『なぜこのような差別があるのか』『将来、結婚する時に差別されるのか』という不安をもつ。(2012年 香川県)

▼ 僕は差別をまだ受けたことはありません。だから差別に実感がわきませんでした。けど話を聞いて、自分の近くにこんな差別があることがわかりました。(2013年 大阪府)

▼ ある生徒は「人権を語り合う中学生交流集会」に参加し、初めて部落問題の厳しさを知った。今まで同和問題を他人事としかとらえていなかった自分を反省した。(2013年徳島県)

▼ 今私達は社会で部落差別のことについて調べているけど、二人の方の話を聴いてとても役に立ちました。今も部落差別があると聞いてとてもショックでした。(2013年 福岡県)

 しかし、全人教大会での報告も、よく読めば国民融合に向かって着実に前進していることがわかる。「今の差別の現実は見えづらい」(2012 岡山県)というが、それは差別が解消に向かっていることを意味する。

総務庁文書も出自にこだわる誤りを指摘

 憲法第14条は,「すべて国民は,法の下に平等であつて,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない。」と規定している

 これは,直接的には法の領域の問題ではあるが,私人間の道徳的領域の問題としても,この原則は,国民の間に広く浸透し定着しつつある。

 江戸時代の身分制度に今日こだわることの非合理性,前近代性は広く一般の人々の受け入れつつあるところであるので,「なぜ同和問題についてのみ,あなたは,昔の身分制度にこだわるのですか」という問いかけは,人々の反省を呼び起こすのに有効であろう。

 また,同和関係者も自ら同和関係者であるか否かにこだわらないという信念を固めることが重要である。

(「地域改善対策啓発推進指針」1987(昭和62)年3月18日 総務庁長官官房地域改善対策室長通知) (全文はホームページ「人権教育辞典」で紹介している)

3.「人権教育」は解釈改憲の先取り

(1)  憲法の基本的人権を歪める教育

 2008年3月、文科省の人権教育の指導方法等に関する調査研究会議が「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」を報告した。全人教はその活用を訴えている。

 全人教としても、3次にわたる[とりまとめ]を活用し、同和教育の理念と教訓を踏まえた人権教育が全国すべての学校・地域・家庭において着実に進められるために、各地の具体的な実践交流を通した発信を続けていかなければなりません。(2012年度研究課題)

 基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利である(憲法97条)。人権は自由を侵害する権力者との対抗でつくられてきたものであった。ところが、政府・文科省・全人教の「人権教育」は、「人権尊重の理念についての正しい理解やこれを実践する態度が未だ国民の中に十分に定着していない」と国民の責任に転嫁し、人権を国民の意識の問題にすり替えている。上からは権力者が、下からは暴力と利権の集団が国民や児童生徒に「人権尊重」を迫る構図である。

 [第三次とりまとめ]は憲法について「世界人権宣言、児童の権利条約、憲法などの条文化された法規への理解を深める」と1行あるだけで、憲法をもとに人権を具体化させる指導はない。「国連人権教育のための世界計画」や世界人権宣言はあっても日本国憲法はない。

 全人教のすすめる「人権教育」は、憲法の保障する権利実現を権力者に求めるのでなく、私人の間の関係に矮小化するものである。これは、人権における「憲法の解釈改憲」ということができる。

人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]

はじめに
 我が国も(中略)全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の下で人権に関する各般の施策を講じてきた。(中略)このような人権尊重社会の実現を目指す施策や教育の推進は、一定の成果を上げてきた。しかしながら、「人権教育・啓発に関する基本計画でも指摘されているように、生命・身体の安全に関わる事象や不当な差別など、今日においても様々な人権問題※が生じている。
(中略)(基本計画は)「より根本的には、人権尊重の理念についての正しい理解やこれを実践する態度が未だ国民の中に十分に定着していないこと」等を挙げている。

※(引用者注)「人権教育・啓発に関する基本計画」(平成14年3月閣議決定)の様々な人権問題とは、女性、子ども、高齢者、障害者、同和問題、アイヌの人々、外国人、HIV感染者・ハンセン病患者等、刑を終えて出所した人、犯罪被害者等、インターネットによる人権侵害等

(2) 人権教育に数値目標? どうやって評価?

 2011年全人教大会の特別分科会では全人教副代表理事が講演している。この人は文部科学省人権教育の指導方法等に関する調査研究会議委員でもある。

 資料を見ると「小学校マニフェスト」では「『部落問題は被差別部落の友達の隣に座っている自分の問題』として捉え、自らのくらしと重ねて考えたり発言や行動できる6年生の子ども、五〇%をめざす」、「中学校マニフェスト」では「人権・部落問題学習で学んだことを、自分の暮らしや家族、友だちとの関係や自分の将来と結びつけて考えることができる子ども八〇%をめざす。」と数値目標を掲げている。

 数値目標を掲げた人権教育のどこが「人権」の教育と言えるのだろうか。子どもの内心をどうやって評価するのか。文科省がすすめようとしている道徳教育の教科化の先取りである。

 子どもの心や行動を数値目標にするのは、かつて学校が「満蒙開拓義勇軍」や「予科練」への志願の数字を争い子どもに迫ったことと同じ過ちを繰り返すことになるのではないだろうか。

 文科省[第三次とりまとめ]は「学校は、公教育を担う者として、特定の主義主張に偏ることなく、主体性を持って人権教育に取り組む必要があり、学校教育としての教育活動と特定の立場に立つ政治運動・社会運動とは、明確に区別されなければならない。」としている。全人教のような「特定の主義主張」に行政の後援・公費出張などは停止すべきだ。

衆議院予算委員会での日本共産党・村上弘議員の八鹿高校事件質疑(1974(昭和49)年12月)

八鹿高校事件とは 国会で明らかに

八鹿高校教職員の側に非難さるべき落度は認められない(民事訴訟判決)はこちら

 1974(昭和49)年12月19日、衆議院予算委員会で日本共産党の村上弘議員(大阪3区選出)は八鹿高校事件について、次のように追及しました。

NHKでテレビ中継されていたこの質疑は、マスコミが報道しないなかで、真実を広く明らかにするものであり、部落解放同盟の暴力と闘い、苦しめられていた市民に大きな励ましを与えました。

今では国会の公式サイト 国会会議録検索システムで読むことができます。見出しは編集者がつけました。(柏木 功)

教育史上 前例のない暴力 延々13時間の集団リンチ

○村上(弘)委員

そこで私は、次の問題に入っていきたいと思うのです。民主主義、とりわけ暴力一掃の問題であるわけですが、暴力に対する態度の問題は、言うまでもなく民主主義と人権の根本にかかわる問題であります。本会議などでも取り上げられました兵庫県の八鹿高校事件に対する態度の問題は、それゆえにきわめて重要である。同時にこの問題は、教育の自主性や中立性、あるいは地方自治の根幹にもかかわる問題でもあるわけです。そこで私は、この問題をなぜこの予算委員会の場で取り上げるのかという点について、幾つかのことを最初明らかにしておきたいと思う。

第一は、この事件がそれ自体たいへん異常であるということ。被害者の人たちが高校の先生で、数がたいへん多いし、その被害も重いということです。場所は白昼の路上で起こっておるということ。それから学校の中でたいへんな集団リンチが行なわれて、やり方が残忍であるということ。しかも、延々十三時間、まさに教育史上前例がないできごとであるわけです。

第二に、この問題について、学校や地方自治体などの公的機関が、この暴力に屈服させられ、後にはこれを容認し、加担しさえしてきておるということです。

第三は、マスコミがこの問題をほとんど報道しておらないということ。真相がほとんど伝えられてこなかったということです。

第四は、残念ながら政党の一部がこれを公然と支持したり激励をしてきておるということがあるわけです。

第五は、そういう状況のために、この重大な暴力や蛮行が依然として温存されておるあるいは再発する可能性があるということです。

最後に、部落並びに部落の解放運動、この運動自体にも非常に大きな損害を与えつつあるということです。

私がこれから言います団体名、部落解放同盟という場合、朝田善之助氏を委員長とする解同朝田派、それからこの暴力行為を行なったその地域組織である、丸尾という者が支部長をやっておる組織、丸尾派ということで呼びますが、この部落に関する組織には、部落解放同盟正常化の連絡会もありますし、それから同和会もありますし、その他たくさんの組織がありますから、この点ははっきり前置きをしておきたいと思うのです。部落解放同盟朝田派をここで解同と言いますが、こういう蛮行のために、部落解放運動そのものが非常にゆがめられている、大きな損害をこうむってきているということからも、この問題はどうしても明らかにし、取り上げる必要がある、こういうふうに思っているわけです。

そこで、まず、事実問題について最初少し触れておきたいわけですが、すでに福田公安委員長が述べられておりますけれども、負傷者の数だけでなくて、負傷の状況、それからリンチのやり方ですね。使用した武具、凶器、これは一体どんなものであったか、ちょっとお話をしていただきたいと思います。

○福田(一)国務大臣 お答えをいたします。

先般、本会議におきまして、私がいささか報告をさしていただいたのでありますが、この事件は、御案内のように、ただいま実は捜査並びに逮捕をいたしまして取り調べをいたしておる段階でございまして、その内容自体について私が誤ったことを申し上げますと、それは非常に影響するところが大きい。同時に、そういうことでありますから、この説明は政府委員をしてするようにさせたいと思っております。事実でございますから、事実問題については。その上で、もしまた御質問があればお答えをさせていただきます。

○山本(鎮)政府委員

負傷者は全員で五十八名、そのうち十三名が重傷ということになっております。現在入院中がまだ十名ということになっておりますが、負傷の部位はいろいろございまして、一番重いのは骨折ということになっております。それから凶器、この点はいろいろと現在取り調べ中でございますが、凶器はやはり捜査上の一番のポイントになるものですから、このことは、この機会に言明することを避けたいというふうに考えております。

解放同盟の暴力で骨折、打撲、失神者も続出

○村上(弘)委員

負傷の状況しか述べられなかったわけですが、私のほうから簡単に述べておきたいと思います。

この骨折は、肋骨、腰椎、横突起などの骨折が十三名になっています。予ての他全身打撲。これは、やけどなどいっぱいありますが、特に失神した人がたくさんいるというのが特徴です。

それからリンチのやり方ですね。この点では、頭に対しては飛びけり、それからほうきの柄でなぐる。電柱や机、壁にぶつける。それから毛髪を引っぱる。顔に対しては、ほおをひねって、単にひねるんじゃない、ちぎり取るように引っぱるわけです。長ぐつでなぐる。それからつばをはきかける。このつばも、流れるほどつばをはきかける。それから水の入ったバケツやたらいの中に顔を突っ込む。たばこの火を顔や首に押しつける。胸や腹や腰に対しては、金具のついた半長靴でける。手足に対しては、靴やいすの足で踏んづける。指の関節の部分にボールペンをはさんで、そして強く握る。頭から全身に水をぶっかける。婦人教師を裸にする。これはもう破廉恥きわまりないです。□□先生などは、水をかけて裸にして、それに扇風機をかけて冷却する。耳にハンドマイクをあてがい大声でわめく。汚水を無理やりに飲ませる。鼻の中に水を入れる。それから二、三人がかりでかかえ上げて地面にたたきつける。ありとあらゆる蛮行を尽くしてきたわけです。  それで、武具、凶器については、証拠になるからということを言っていましたが、牛乳びん、青竹、腰かけ、ハンドマイク、たばこの火、メリケンサック、びょうのついた半長靴、南京錠、鉄製のバール、こういうふうなものを使ってやっておるわけです。

11人逮捕に警察官7000人動員

○村上(弘)委員

この際、ついでにちょっと聞いておきたいわけですが、十一名を逮捕するときに、警察はどれくらい動員しましたか。これは公安委員長。

○山本(鎮)政府委員

十二月二日に四名を逮捕する際は約五千名、十二月十二日にあと七名を逮捕するとき約二千名ということになっております。

○村上(弘)委員

二回目は……。

○山本(鎮)政府委員

二回目は但馬地区は二千名でございます。

路上で暴行、トラックで拉致

○村上(弘)委員

連合赤軍と浅間山荘で銃撃戦をやったときの警官の動員が、新聞報道ですが、実動員大体千二百人ですね。これは十一名逮捕。最初は四名です。四名逮捕するのに五千人を動員しておるのですよ。いかに凶悪犯であったかということです。

私は、この暴行や集団リンチがどのように行なわれたかということを、ごく簡潔に最初に述べておきたいと思うのですが、路上の場面で最初暴行をふるった。次は学校の中で三カ所。第二体育館に最初全員を連れ込む。そこで話し合いに応じようということで、話し合いをさせるための暴力。それから次は、話し合いだと称して、本館の会議室や解放研のクラブの部屋、部室に連れていく。これが学校の中の第二現場なんです。第三回目は、第一体育館というところに連れていって、ここで全部を糾弾し尽くして、それで勝利式みたいなセレモニーをやっているわけなんです。

こういうことになるわけですが、路上の模様について、きょうは現地の方も来ておられますが、簡単に申してみますと、□□先生という先生が告訴状の供述書に次のようなことを書いております。これは校門から約三百メートルの、商店街の幅四メートルの三叉路なんですね。ここで丸尾らにはさみ打ちになるわけですが、そこでは、「スクラムに対して、左右の腕を力一ぱい数回けり、こぶしで頭を数回なぐり、くつでからだのあちこちをける。ショルダーバッグはちぎれ、防水ジャンパーは脱がされ、めがねはどこかへ、バンドも同様、運動ぐつも脱がされ、くつ下も取られ、はだしだ。このころ頭はぼうっとしていた。両手足を持たれ、付近を通りかかったトラックの荷台にほうり込まれる。そのときトラックにはすでに数人の教職員がおって、□□先生は鼻血を流した。私は苦しくてうつぶせになっていた。そのトラックの運転手は病院に運ぶものと勘違いしたらしく、学校を通り過ぎて走る。そうすると、運転手の窓ガラスがこわされて、丸尾らが運転手をなぐる。そして運転手はおろされ、荷台にやはりほうり上げられた」、こういうようなことが起こっておるのですね。通りかかったトラックがこういうことのために使われ、運転手までがリンチにあっている。

校内でリンチ

そういうふうにして、第二体育館に全員が連れ込まれるわけですが、ここの状況について□□先生の供述書ではこういうふうになっていますね。「一人ずつバラバラにされ、私は一〇人位の、顔を見たこともない男達に取り囲まれ、「お前らなんで解放研と話をしないか」「差別教育をするのか」等と目の前でどなったり、耳の横で携帯マイクのスピーカーで大声を出され、更に、後から髪をつかまれ、「上を向け」と言いながら、坐ったままの私の顔を無理に上に向けさせ、横から手拳で殴ったり、皮グツで蹴られたりしました。」飛ばしますが、「黙っていると一層ひどく殴る、蹴る。誰かが「水をくんで来い」と言い、私は着ていたコートとブレザーを脱がされ、バケツの水を後頭部から背中にかけて、シャツの中にかけられ、更にくり返し殴る、蹴る、水をかける等をされ、結局三回もバケツの水をかけられ、痛みと寒さで気が遠くなりそうでした。」こういうふうに言っております。
殴る、蹴る、バールで突く、水をかける、鼻に水をバケツで

それから、この校内の第二現場の状況について、□□先生の供述を見ますと、この先生は教員組合の支部長さんで、最も残忍なリンチを受けたわけですが、三時までは第二体育館で糾弾され、それから解放研の部室に連れてこられたわけです。「椅子に坐らせ」このガキ、しぶとい野郎だ」とどなりながら顔面を手拳で往復ビンタのように数十回殴りつづけ、さらにみぞおちを三回位立て続けに蹴とばしたため嘔吐し、気を失いそうになった。この暴力を振った男はプロの暴力団のような強力なパンチの持主であった。」「その後、タバコの灰の入ったぞうきんバケツの汚水を無理矢理口に注ぎこみ、その上鼻にもバケツで水を注ぎこみ、呼吸を著しく困難にした。「お前は□□か」「お前みたいなものは死んでしまえ」「しぶとい野郎だ」などと罵声を浴びせた。さらにメリケンサックを手拳にはめた男が、その手拳で十数回顔面を殴りつけた。このような状態は同夜九時すぎまで続いた。」十時過ぎから――もうすでに晩の九時になっておるが、その後さらに会議室に連れ込んで、「同和教育について自己批判し、「確認書」を書くように強要したが、同告訴人がこの要求を拒否したところ、傍にいた男が同告訴人の手の指を反対側にねじり、鉄のバールで脇腹を数回にわたり突いた。」さらに休養室に連れていって、「被告訴人らは、殆ど意識を失いかけている同告訴人を休養室に連れ込み、着がえさせるという名目で裸にし、扇風機をかけて、冷風を直接濡れた身体に吹きつけた。同夜十時頃、それでも屈しないでかすかに生き長らえている同告訴人に対して最後の止めをさす目的で、同告訴人の腰部に対して集中的に力一杯蹴りあげてきた。この為、同人はついに力尽き、全ての抵抗力を失って意識朦朧となった。」こういうふうに供述しているわけです。

私はお断わりをしておきますけれども、このとき、この学校に動員されていた部落の人たちが、みんなそういう人たちであったんじゃないということです。もうやるなと涙を流してとめておった人もあるということですね、先生などの供述では。それからけんかをしているのですね。つまり、やってはいかぬという人に対して、やるべきだといって、この幹部たちが押しつけるわけですね。それで内部でけんか状態が起こっているということも、先生方はそのとき話をしています。

糾弾会で自己批判を要求

それで、糾弾し尽くして最後の場面になるのですが、この模様について、□□先生という方が次のように言っています。ここの場面は、最後の勝利の祝賀会みたいなものであって、十六ミリのフィルムを丸尾らはとっておるわけですね。ここの場面を特に一番クローズアップしているのですが、「丸尾支部長が「今から糾弾会を行う」と言って、教員を二列に並ばせ、同盟員数百名が並びました。その上で、一人一人に職名と名前を言わされ、丸尾が「自己批判書」を□□に示し、「これは君が書いたものだな」と言っておりました。又、丸尾は、「八鹿高校の職員室へ入って来たら、お茶の一杯も出してくれるやろな」。これはもうほんとうにファシストの態度ですね。やっつけて瀕死の状態の者に対して、今度職員室へ来たら、わしにお茶の一ぱいも飲ましてくれるやろうなと、こういうことを言うておるわけです。そうして、そのもう倒れかかっておる先生方の前をハンストの生徒が行進したということになっている。「そして、「糾弾会」が終わり、その後、全員職員室へ連れて行かれ、後から校長も入って来ました。」というふうに言われております。

そこで、そのときの負傷の状態がいかにひどかったかということを□□先生の写真で――これもまあ相当あとの写真であるわけですが、この写真を見ていただくとわかりますように、この先生は細面の方なんです。こちらの写真が現在の状態で、まあどちらかというと細面ですね。ところがこのときはもうまさにフットボールみたいに顔がふくれ上がっておるというような状態であるわけです。リンチの状態がいろいろな写真でとられておって、そのときの直後の状態ではありませんけれども、これはまあ皆さんのほうに、事実を知っていただくためにちょっと回して見ていただきたいと思うのです。

そこで私は、以上の事実に立って、文部大臣に最初にお尋ねしたいと思うわけですが、このような暴行や集団リンチで、話し合いだとか確認会だとか糾弾会とそれを呼んでおるわけですが、そういうことをやるために学校を使用しているわけですね。校長は使用さしておるわけです。このことはよいことか悪いことか、どうですか。

○永井国務大臣

私は、この県立八鹿高校の事件を聞きまして、学校教育には絶対に暴力というものがあってはならないと思います。校長の問題につきましては、校長先生は、私の理解しておりますところでは、この事件が起こるまで指導に当たってこられたわけですが、防ぎ切れなかった、しかし加担したのではないというふうに承知いたしております。

校長室の横に「闘争本部」

○村上(弘)委員

まあ、防ぎ切れなかったということは、やりたくないことをやったという意味かと思いますが、私が聞いておるのは、こういう集団リンチ、暴力をする、そういう行動をやるために学校を使用させるということについてどう思うか、こういうことに学校を使用さしてはならないということは明らかにしておくべきじゃないか、これをお尋ねしておるわけです。

○永井国務大臣

学校が話し合いの場所であるのは当然でありますけれども、暴力をもって糾弾をするような場所じゃないということは、申し上げるまでもないことであります。

○村上(弘)委員

この糾弾闘争の現地闘争本部、つまり八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議なる団体が、この丸尾らの暴力と脅迫でいわばデッチ上げられておるわけですが、この共闘会議の現地闘争本部が校長室の隣の応接室に設置されておったのですね。こういうことも、管理者である校長は許してはならぬことだと思うのですが、どうですか。

○永井国務大臣

ただいまのような事実につきましては、私はまず、この直接の教育行政の担当は兵庫県教育委員会でございますから、兵庫県教育委員会と連絡をとりながら、すでに進んできておりますが、いまの問題については、兵庫県教育委員会からの詳細な報告というものを受けなければならないと思っております。

○村上(弘)委員

はっきりとこういう行動が行なわれ、そしてその結果、逮捕もされておるわけですね。現地では、その解放車なんかがどんどん学校の中に出入りしておって、彼らが学校の中で暴力をふるって、これだけの負傷者が出ておるということもはっきりしておるわけです。その行動の闘争本部が校長室の隣の応接室に置いてあるわけですね。こういうことについて、いいことか悪いことか、こういうことがあってはならぬことかということを聞いておるのですよ。

○永井国務大臣

暴力が発生するおそれがあるような闘争本部が学校内にできるということは、悪いことでございます。そこで、これにつきまして兵庫県の教育委員会は、事件が起こる前から職員を派遣いたしまして、そういうおそれがあるというので、指導に当たっていたというふうに私は承知いたしております。しかるに事件が起こりました。事件が起こりましたので、これは文部省としてもまた責任がありますから、そこで文部省は、山崎政務次官に現地の兵庫県におもむいていただきまして、これは当然悪いことでありますから、したがいまして、兵庫県の教育委員会委員長、教育長、副知事にお目にかかって、そして指導助言の立場で、学校の中で暴力が行なわれることは絶対に排除しなければいけない、そして授業が再開されなければいけない、さらに教育が正常化されなければいけないという点にわたって、指導助言に当たったわけでございます。

職務命令を出して教員を呼び出した校長

○村上(弘)委員

問題にはっきり答えていないわけですが、校長は、八鹿警察署長が内部の状況を問い合わせ、警察力の発動をしようかという話が五回あったわけですが、そのつど、平穏に話し合っておると言って、この警察力の発動をいわば事実上拒否して、そして丸尾らが学校の中でこの残虐なリンチをやり尽くし、彼らの目的を達するようにこれを保障する、こういうような行動をやっておるわけですね。

それからこの校長は、教頭に次のような指示をしておるわけです。第二体育館に行って、最初入ってきた学校の先生方に対して、だれが来ておるか、だれが来ておらないか、この名前を調べてこいということをやって、そしてそこにいなかった先生方に対して電報を打っておる。業務命令ということで、学校に出てこいという電報を打っているんですよ。この電文を見ると、「事態収拾のため、学校におけるすべての校務運営並びに教育活動について校長の指揮監督に従うことを命ずる。直ちに学校に復帰せよ。」こういうまさに半死半生のような状態に追い込むための場所に、おらぬ先生にまで電報を打って、そうして職務命令だ、命ずる、出てこい、こういうふうなことをやっているわけです。これが正当な職務命令と言えますか。どうですか。

○永井国務大臣

私は、先ほどから申し上げましたように、この問題に関しましては、非常に重大な事態でありますから、文部省に当然責任があるのです。しかしながら、非常に重大な事態であって、その責任者というものは、当然に文部省とともに兵庫県教育委員会にあります。そうして暴力が発生したということは、これはやはり絶対に悪いことです。その事態について詳細に調査をしなければいけないということで、その調査が進んで、そして文部省が報告を得ようという立場にありますので、いまそういう方針によって調査を進めているということを申し上げます。

繰り返し申し上げますが、暴力が行なわれる、そしてそういうことのために教育委員会あるいは教育行政の立場というものが暴力を助けるというようなことがありましたらば、これは悪いということは、もう申すまでもございません。

暴力に協力した兵庫県教育委員会

○村上(弘)委員

具体的な問題は兵庫県教育委員会ということを言っておられるわけですが、その兵庫県教育委員会が、実はこういう集団リンチ、暴力行為に事実上加担し、共謀しておる。これはもうちゃんと事実がある。この事件の前日、但馬教育事務所の緊急指示というのがありまして、但馬一市十八町の教育長と教育委員に緊急合同会議を招集しておる。ここには県教育委員会の杢谷次長も参加しておる。そうして八鹿高校問題については、解同、つまり部落解放同盟朝田・丸尾派らを支持する、こういう決議を採択しておるのです。そうしてその当日はどういう状況かというと、数日前から杢谷教育次長らが八鹿へ出ており、山岡主任指導主事、それから畑中同和教育指導室参事、喜始、植田、芦田、こういう教育委員会関係の者を現地に派遣しておる。そして、上田平雄但馬教育事務所長が赤はち巻きを締めて終日現場におったじゃないですか。また、前田昭一社会教育主事は、この第二体育館の現場で、連れてこられた先生方に対して、「前もってこんなことになると言っておったじゃないか」というふうなことまで、そこで言うておるわけです。つまり、教育委員会自身がこういう暴力行為をやっておる朝田・丸尾らの行動を支持する、そしてこの糾弾行動に実際に参加して、はち巻きを締めて現場に入っておるのです。その教育委員会に、あなたは報告を待つ、どういう状況か言えと――。大体、兵庫県の教育委員会関係の当事者はみんな、こういう事実はなかった、あるいは、あったかどうかわからない、こういう態度を、口裏を合わせるようにとっておるわけです。

この問題について、これは八鹿町のある同和地域の人からの手紙なんですが、こういうふうなことが言われています。これは養父町解放研加入中学生を持つ一母親です。丸尾らが暴力で脅迫してつくり上げさしたこの解放研という組織の中に入れられておった生徒の母親なんですね。長いですから途中だけにしますが、「いままでの確認、糾弾とは一方的な罵倒であり、かりにも民主的とはいえないものです。八鹿町民はじめ各町で暴力に対して一斉に立ち上がろうと団結しつつあり、また全国各地から調査団が続々と町へ来られるというのに、暴力集団は、いま、十一月二十二日の道路上の「解同」朝田・丸尾派の行動を証言したりすると家に火をつけてやるとか言って、それぞれ脅迫をしたり、おどして回っているので、またふるえ上がっている始末です。その上、町長は、道路上で暴力のあった商店街目撃者の家を一軒一軒回って、「暴力はなかったですね、見なかったですね、そのとおりに証言してくださいね」と言っています。こういう事実を日本全国の皆さんはほんとうのことと信じられますか。しかし事実なのです、このおそるべき状態が。あの二十二日、冷雨降る川原に勇気をふるい起こして立ち上がった千人近い八鹿高校生は、いま歯ぎしりをして、おとなたちのふがいなさを嘆いています。きょうも高校生自治会の役員たちは、連日二時、三時まで、めぼ(ママ)を出し、睡眠不足でくたくたになって、このことに取り組んでいると聞いています。暴力に屈することなく、ほんとうの差別をなくすることでは、部落の中でも理解あるまじめな話し合いで解決しようという人は一ぱいいます。これを妨げているのは、利権にくらんだほんの一部の暴力分子たちです。これらを排除して、真の差別のない地域づくりを考えるにはどうすればよいか、皆さん、手を取り合ってこのことを訴えましょう。名前を書いて出したいが、事情を察知してください。」こういうふうに書いてあります。

ここにあるように、町も学校もまだ自由にものが言えないわけですね。逮捕されて少しは空気が変わってきておるけれども、まだ、政府がどういう姿勢を示すか、文部省がどういう姿勢を示すか、この姿を見ておるわけですよ。ですから、あなたが、県教育委員会のことだとか、学校長がどうであったか、闘争本部があったかなかったかわからぬからなどという態度をとっておる限り、このおかあさん方は、ああ、ほんとうに三木内閣は暴力に対してしっかりした態度をとっておるんだ、そういう問題は許さないんだ、そういう教育政策をとらないんだということを見るか見ないか、これを注目しておるわけです。  もう一度、そういう、学校の中に闘争本部を置くというようなこと、職務命令を出してリンチの場に引き戻そうとするような残虐な態度をとったことがいいことか悪いことか、そういうことは今後許しちゃならぬということをはっきり言ったらどうですか。

○永井国務大臣

繰り返し申し上げますが、文部省のこの問題に対する立場は非常にはっきりしております。といいますのは、まず第一に、学校教育の中で絶対に暴力というものがあってはならないということであります。第二は、同和教育の原則といたしましては、これはもう同和対策審議会の原則が答申に示されておりますが、教育の中立性というものを守っていかなきゃいけないということでございます。

そこで、では、教育委員会というようなことを一々言わないで、文部省はひとつやらなければいけないじゃないかという意味にも、御発言がとれますけれども、私はそうではないと考えておりますのは、やはり、教育の場合に、文部省がすべてのものに当たるというのではなくて、わが国の場合に、地方自治というものを尊重するという原則があり、さらにまた、地方自治の中で一般行政と協力しながら、特に教育につきましては教育委員会が当たっていくという、そういう非常に重要な原則というものがあるわけでございます。

ところで、それでは兵庫県教育委員会あるいは文部省は、いままでの経過の中において何事もなしてこなかったかというと、決してそうではありませんでした。まず、兵庫県教育委員会は職員を事前に送っておりまして、しかし、それが事前に送られていたにもかかわらず事件が起こったということは、御指摘のとおりであります。そこで今度は十二月三日に、文部省は山崎政務次官を兵庫県教育委員会に送ったわけであります。そしてその結果どういうことが起こったかというと、ともかく現段階におきましては授業が再開されるに至りました。しかし、授業が再開ということだけでは不十分であって、ほんとうに和気あいあいの中に教育というものが行なわれるべきものであることは申すまでもございません。兵庫県教育委員会は、これは兵庫県教育委員会において同和教育基本方針というものを出しているのですが、その原則というのは、先ほど申し上げました、文部省における同和教育の中立性の原則というものを確認しているものであります。そこで、文部省が先ほどのような指導助言を行なったのに対応いたしまして、兵庫県教育委育会も同じ立場に立ったと思われますのは、十二月十四日に予定されておりましたところの現地を中心とする大会です。これはその事前に状況がわかりましたために、兵庫県教育委員会の十三日の指示によって、十四日は中止されるに至りましたから、授業再開、それから十四日の大会中止というふうに、少しずつ事態が進んできているという、兵庫県教育委員会の努力というものが見られるものというふうに私は了解いたしております。

○村上(弘)委員 その十四日の集会を県教育委員会がやめた理由は何ですか。

○永井国務大臣 理由は、先ほどから申し上げました二つの原則でございます。それは私たち文部省の立場として申し上げた原則でありまして、暴力の排除、そうしてまた教育の中立性というのでありますし、また兵庫県教育委員会の同和教育基本方針というものが示されておりますから、私はそれに沿って指示が行なわれたものと了解いたしております。

「話し合え」と糾弾。応じないことが教師の良心
無限の要求をつきつける部落解放同盟

○村上(弘)委員

ということは、十四日の集会は教育の中立性に反しておる、そのために中止をした、こうとっていきたいと思うのですが、あなたがそういうことを言っているというふうに理解いたしますが、解放同盟と連帯するとか提携するということは、同和教育の中立性とどういう関係になるか、この点についてはどう考えますか。

○永井国務大臣

私は、先ほどすでに御指摘がございましたように、同和教育に当たっております団体というのは、解放同盟を中心にしたものだけではなく、他のものもあるわけでございます。そうした諸団体というものの存在、そうしてまたそれが教育というものに関心を持っているということは当然尊重すべきことであって、それらの協力を得ながら学校教育を充実するように、教育委員会というものは活動していかなければならないと思いますが、党派的であってはならないと思います。

学校に「解放車」、投光機。糾弾へエスカレート

○村上(弘)委員

そこはわかりましたが、それまでの間に、実はそれに反する行動がたくさん行なわれておる。そして、この問題の発端だとよくいわれておる、解放研と話し合わないからとか、解放研を認めよだとか、解放研を認めないのはそれは差別であるというふうなことを学校の先生方に押しつけるということが、それ以前のすべての問題を貫いておるわけですね。で、ハンストをやっておる、ハンストをやっておるのに話し合いをしない、だからこういうことが起こったんだというふうなことを言う者もあるわけです。しかしながら、ハンストをやる、これはビフテキを食わしてやっておるわけですが、このハンストをやる以前にどういうことが出されてきておるかといえば、この解放研を認めよ、これに三人の顧問を置け、この顧問は自分たちが指名する者をやれ、話し合いをやれ、自分たちの同和教育が間違っておることを認めよとか、こういうふうな内容を持っておるわけですね。それに従わなければ、これは無限の話し合いが要求される。これは普通だったら・話し合いというのは、相互の意見を自由に述べ合うわけですね。そうして一致する場合もあるし、一致しない場合もあるわけです。ところが、この解同丸尾らの言う話し合いというのは、屈服をするまでやるわけですね。彼らの意思に従うまでやるわけです。これは八鹿高校事件そのものなんですね。結局、それ以前の段階は、彼らの意思に思うようにならない、そこでだんだん威圧を加えてくる。これがずうっとエスカレートしてきて、解放車が入ってくる、学校に投光器が据えつけられる、こういうふうな状態が生まれて、いよいよ身の危険を感じて、先生方はきょうはもう集団でやられるかもしれぬということを察知して、それでもうみんな身を守るためにスクラムを組んで帰っていくわけです。

先生方は、自分たちは圧力や暴力で良心を変えることはできない、こういうことを言っているわけですね。それに対して、ハンストという道具立てを背景に、暴力をもって話し合えと言う。そうしてその話し合いの中身は、自分たちへの屈服、差別を認めよ、差別者であることを認めよ。これを一たん認めたら、それを自己批判せい、そして行動で示せ。そして新たな糾弾闘争にどんどん参加させられて、あれほどの大量の人間が動員される状態がすでにできておるわけです。

こういう話し合いに応じないということは、教育の中立性、教師の良心を守る上に当然のことだと私は思うんですが、あなたはどう思いますか。

○永井国務大臣

私は繰り返し申し上げますが、文部省の方針は不動であります。教育というものに暴力というものはあってはなりません。次に、教育というものを推進していく上には、教育の中立性というものが必要であります。しかし、それは方針でありますから、それを実現していくためにはさまざまな努力が必要でありますが、それは、先ほどから申しましたように、中央にあります文部省、それから地方にあります教育委員会というものが、それぞれ果たすべき役割りがあって、そしてそのレールの上に乗せながら、申し上げた方針というものを推進していくのが文教行政の立場だと思います。しかしながら、さらに文教行政だけで処理し得ない問題が起こります場合には、学校内といえども、治安当局というものが活動しなければならないということ、これもまた申すまでもない、当然、文教行政として連携、協力しなければならないものと考えております。

○村上(弘)委員

どうも的はずれのことを、それ自身は間違っていないことでありますけれども、私が聞いておる具体的なことには答えていないわけです。学校の先生が、自分の良心を守る、教育は中立でなくちゃならない、彼らの支配に服するか、それでなかったら残虐なリンチを受けるか、どちらかにしかならないような話し合いですね。この話し合いに応じないからといって、校長は職務命令まで出しているのですよ。こんなことが同和教育の正しいあり方ですか。同和教育以外であるどんな教育だって、こんなものは正しくないことは明白じゃないですか。こういう具体的な事実に対する文部大臣の判断を聞いておるわけです。

同和教育それ自体についてもお聞きしたいと思うのですが、ここの学校の先生方の同和教育がよく行なわれていなかったためにこういうことが起こったというようなことも、一部ではいわれておるわけです。事実はどうか、一体どこが間違っておるのか、これは具体的に指摘しているものはだれもいないのです。それはそのはずなんであって、ここの先生方は、もう五年前から、どこの学校よりも早く同和教育に取り組み、部落研も組織し、寝た子を起こすなといわれておるような状況のときから、生徒と一緒に部落にも入っていって、そして実態もよく知って、差別がなぜ生まれるか、どうしてなくさなくちゃならぬかというようなことについても学習をする。同時に、この同和教育というものと解放運動というものとは区別しなくちゃいかぬ、教育と運動とはこれは別なんだ、こういう県教育委員会の教師用の「同和教育の手引」ですね、手引きどおりに、運動と教育は厳密に区別するという立場も、これまた貫いてきておるわけです。ところが、この朝田派らが言うのは、丸尾らが言うのは、解放研の言うのは、同和教育は行動なんだと、まさに教育と行動を一体のものにし、しかも、自分たちの行動に服さなければすべて差別者なんだ、こういうことを押しつけて、その手段として話し合いというものを押しつけてきておるわけでしょう。

こういう具体的な内容をもってきているわけですが、この同対審答申は、御承知のように、「同和教育と政治運動や社会運動の関係を明確に区別し、それらの運動そのものも教育であるといったような考え方はさけられなければならない。」とこういっているわけです。県教育委員会は、その解同と連帯するあるいは解同を支持するまさにたくさんな団体の中の一つだけを支持し、その運動と連帯し、しかも彼らの非常に間違った理論と方針、それをまるまる支持する、こういうふうな態度をとってきておるわけです。どちらが正しい同和教育をやっておったのか。県教育委員会自身が、自分がきめた同和教育の方針、県教育委員会が出しておる同和教育の教師用の手引き、これを自分でかなぐり捨ててしまって、そうしてまるで解同の丸尾らの運動を支持する、それと連帯してやる、こういうことをやっておるじゃないですか。これはもう、ちゃんと県議会における教育長の答弁でも出ているじゃないですか。だから、こういう状態からいえば、どちらが正しい同和教育の立場に立っておったのか、こういう問題についてどう判断するかということと、文部省は同和教育に対して、解同丸尾やら朝田が言っているような、運動と教育は一体だとして、自分たちの考え方を押しつける、こういうやり方が正しいかどうか、どちらが正しいか、このことについての見解もあわせてお聞きしたいと思うのです。

○永井国務大臣

私、文部省の方針というのは申し上げたとおりでありますが、さらに政治活動というもの、あるいは政治運動というものを学校教育の場面に入れ込んでくるということは、教育と政治活動の混同でありますから、これは絶対にいけないものである、さような立場をとっております。

生徒を動員した糾弾闘争

○村上(弘)委員

そのことに関連して、いま文部大臣が、ある特定の集団だとか、特に政治に対して、政治を教育に持ち込んではならない、あるいは特定の政治と結びついてはならぬ、こういう趣旨のことを言われたわけですが、学校の生徒をこういう糾弾行動に連れていくというふうなことについて、あなたはどう考えるか。

たとえば狭山差別裁判糾弾闘争というのが全国的にやられてきておる。裁判そのものは、刑事事件については公正にやる、事実に基づいてやる、これが一番大事なわけです。疑わしきは罰せず、これ必要です。しかし、差別裁判というふうに頭からきめつけてしまって、それに対してどんどん子供を動員していく、それに学校の生徒まで連れていく。たとえば□□□中学校では、校長先生まで一緒に、この糾弾闘争に子供を連れて、これも結局丸尾派らの圧力によってではありますけれども、参加しておる。あるいは大阪でも□□□中などは、やはり子供を、裁判に対する糾弾闘争、こういうことに動員しておるわけです。そういう状況はもう一ぱいあるわけです。こういうことについて、こういうことは今後やっちゃいかぬということを、はっきりここで言明されたらどうですか。

○永井国務大臣

私は先ほどからはっきりと言明しているつもりでございます。政治運動というものを教育の場と混同して、そして政治活動によって教育を左右しては絶対にいけないということを申し上げております。

授業ができなくなる状態

○村上(弘)委員

その一般論が現実にどのように適用されるのかということが、いま問題なわけですよ。ですから、具体的に起こったこういう事態について、あなたは、それは政治活動に子供を動員していることだからよくないことだ、こうはっきり認めるのか、いや、それはどうかわからぬということなのか、やってもよろしいことになるのか、その判断がはっきりしないわけです。いまのような糾弾闘争に学生、生徒を動員する、これはあとでも触れたいけれども、橋本先生糾弾闘争というのがある。ここにはこの写真がありますが、こんなに生徒をたくさん動員して、そしてその家を包囲して、そして糾弾をやっておるんですよ。こういうことに生徒を参加させること自体が、あなたの言う教育の中立の趣旨に合うかどうか、このことをはっきり言うてください。

○村上(弘)委員

その一般論が現実にどのように適用されるのかということが、いま問題なわけですよ。ですから、具体的に起こったこういう事態について、あなたは、それは政治活動に子供を動員していることだからよくないことだ、こうはっきり認めるのか、いや、それはどうかわからぬということなのか、やってもよろしいことになるのか、その判断がはっきりしないわけです。いまのような糾弾闘争に学生、生徒を動員する、これはあとでも触れたいけれども、橋本先生糾弾闘争というのがある。ここにはこの写真がありますが、こんなに生徒をたくさん動員して、そしてその家を包囲して、そして糾弾をやっておるんですよ。こういうことに生徒を参加させること自体が、あなたの言う教育の中立の趣旨に合うかどうか、このことをはっきり言うてください。

○永井国務大臣

私が申し上げておりますのは――これはよく見ました。大学で長く教えておりましたし、非常に私よくわかるのです。どの党派に限らず、政治活動というものを教育と混同するのは絶対にいけない、そういうことです。そして、しかしながら具体的に事態が生じた場合、兵庫県八鹿高校のケースについて申し上げましたが、それについて、今度は文部省はどういうふうにやっていくか、そのやり方については、それぞれのケースがあります。そしてそのケースに応じて、それはまた、わが国の法律に基づいたところの組織でございますから、でき得る限りこの原則というものを貫徹すべく努力するという、そういう決意であります。

○村上(弘)委員

そのケースはどうですか。

○永井国務大臣

これは、政治活動というものが教育というものの中に混同されているというケースであるというふうに認定いたしますならば、これはいけないということでございます。

○村上(弘)委員

学校の先生の糾弾行動ですよ。そういう問題に対する一つ一つの教育行政というものを、ほんとうに正確に、厳密に、厳正にやるということが非常に重要だと思うわけです。今日までこういう問題に対する文部省や教育委員会の態度がきわめてあいまいであったり、あるいは事実上それを許しておる、こういうことがあるために、教育の中の荒廃というものが非常な状態になってきておる。この問題を少し私は指摘したいと思うのです。

たとえば、大阪の□□区の□□中学校というところがあります。ここの学校では、大阪の場合は、朝田、上田、こういうメンバーが解同の幹部であるわけですが、朝田・上田派 、彼らの支配というものは非常なものですよ。その結果、学校の先生方が、部落解放同盟あるいは同和地域の生徒に対しては、もう何か間違ったことをやっておっても、それについて正当な指摘ができないわけです。もしそれを指摘して差別者だと言われたら、もうその先生はたいへんなことになるからです。ですから、もうここでは生徒がどんな行動も自由自在にやっておるわけです。この□□区の□□中学校の場合は、教室で生徒がタコ焼きを焼きおる。それから教室の中に爆竹を投げ込む。授業時間中に自由に出歩くわけです。しかも、その生徒が自由に出歩いている地域の解同の幹部からは、子供が自由に出歩くのを先生が見のがしておるのは差別だ、こういう批判を受ける。そうすると、これはもうほっとけないから、出歩くのについてくる。ついていっても帰らないですね。そうすると、帰れば糾弾されるから、その生徒のあとについておるほかない。引き戻すことができない。一日じゅうその生徒のあとについておる、そのクラス委員なんかもついていく、こういうような状態であって、十月二日以来一週間授業ができなかった、こういうふうなことも起こっておるわけです。これは非常な教育の荒廃ではないか。朝来でも、不法集会に先ほど言ったように生徒を動員して行っておる。

こういう教育の荒廃が生まれるような状態、これに対して、文部大臣はもっと現地を実際に見て、それを調査してこれをただす、もっと具体的な事実に即してあなたの一般論を適用する、こういう措置をとる必要があるのじゃないか。どうですか。

○永井国務大臣

ただいまの問題も、まず文部大臣が現地をよく視察して、そしてその原則ということだけではいけない、よく調べろ、それは全く調べるということは必要であると思っております。

そこで、大阪の問題についても、私は非常に重大であると考えましたので、いままで調べたことを申しますと、おっしゃいますように、十月二日時点において授業が行なわれておりませんでしたので、学校側が学年集会を開催して注意をいたしました。ところがなかなか簡単に解決いたしませんでしたけれども、幸いにして十月十一日から通常の時間割りでもって授業が行なわれるようになりました。そこで学校側では、学年集会のために欠けた授業時間をどうやって補充するかという問題がございますために、冬季休業期間中に、その一年生のみを対象として三日間補習授業を行なうという段階に到達いたしましたので、御報告をいたしたいと思います。

かように一つ一つケースがございますが、私はただ原則を申し上げているのでなく、そのケースにあたって原則の貫徹というものをはからなければ教育の荒廃が救えないという点において、非常に重要なポイントであると考えております。

蛮行の費用を自治体が負担
ゼッケンまで同和予算で購入

○村上(弘)委員

次は、自治体が八鹿高校事件の問題でとった態度の問題についてお聞きしたいと思うのですが、同和予算の性格や目的はどういうところにあるか、これは総務長官にお聞きしておきましょう。

○植木国務大臣

同和問題は、憲法の人権の基本的な保障にかかわる重大な問題でございますから、同和対策審議会の答申があり、四十四年から同和対策事業特別措置法ができましたし、また長期計画が立てられまして、今年は後期の第二年に当たっている状況でございます。

現在まで、四十四年度には二十七億円の予算でございましたけれども、四十九年度には二百四十八億円というふうにたいへん大きな予算をとっておるわけでございます。私どもといたしましては、ことし同和対策室が総理府の中にできましたので、各官庁において行なわれます行政を総合的に調整いたしているのでございまして、地方に対しまして……(村上(弘)委員「あなたのところが何をしているか聞いているのじゃないのです。同和予算の性格と目的を聞いている」と呼ぶ)その予算を各地方の実情に応じて即応して使用していただくというのが、これは本来のひとつのたてまえでございます。同時にまた、地域住民がひとしく公平にその恩恵にあずかるということが、私どもがいまとっております諸施策の理念でございます。

○村上(弘)委員

同和予算の性格、目的とは的はずれのことを言っているわけですが、この八鹿町その他但馬一帯の自治体が同和財政というものをいろいろ組んでいるわけですね。たとえば先ほどのような八鹿高校のリンチを行なう場合のはち巻きだとかゼッケンだとか、こういうものも全部この同和予算で出ておるわけです。いわゆる糾弾行動、それから青年行動隊の制服、解放車という名の自動車、それから八ミリのフィルム、それからその現像費、彼らが行動するものはすべて自治体が保障しているわけですよ。このひどい蛮行、暴力の行動を、全部自治体が予算で保障していっているわけです。こういうような予算は、一体同和予算の性格からいっていいのかどうか。ゼッケンやはち巻きが同和予算の性格や目的に合致しておるのかどうか。これはひとつ福田自治大臣、どうですか。

○福田(一)国務大臣

いま御指摘になったようなものがその目的のみに使う意味で購買されておったとしたら、私は若干同和予算の使い方としては間違いであると思っております。

糾弾会に職員を動員、保健婦・看護婦も

○村上(弘)委員

これはあとでも触れますが、その目的のために先に出して、もうこの予算化する前に使っておるのですよ。こういうようなひどい状態になっているわけですが、財政面だけでなく、人の動員も町当局が実際上加担している。

糾弾会へ町の職員を動員する。また町の保健婦、看護婦も現場へ行かして、リンチで失神した人たちにカンフル注射して、そしてそれで意識が回復したらまた糾弾する。こういうふうなことにまで町が実際上協力しているわけです。また、この地方自治体の事務所の中に、こういう彼らのいろんなたむろができていく。また事務の中にもそういう仕事が一ぱい含まれている。こういうふうな行動に地方自治体が参加するということは、これは地方自治体の本来の姿からいってどういうことになるか。どうでしょうか。

○福田(一)国務大臣

私は、この同和行政ということについては非常に理解をいたしておるつもりでございまして、従来恵まれなかった立場にある人たちを救うということは政治の目的である。私も同和問題には大いに協力をいたしております。しかし、いまお話しのようなことがあったことはまことに悲しむべきことだ、そういうことで、ほんとうの意味での同和の人たちの境遇をよくすることができるかどうかということを、実は私としては残念に思っております。

自治体の財政 完全に破たん

○村上(弘)委員

地方財政が丸尾らによって支配されて、彼らの蛮行のために自由自在に使われておる。先ほどの集団リンチの全体の状況がフィルムにも撮影される、それの現像費まで払わされる、こういうことがはたして同和予算といえるのかどうか。あるいは自治体がやっていいことかどうかということになるわけですが、そういうことのために、他方この地域住民は非常に大きなしわ寄せを受けておるわけですね。

たとえば八鹿町は、九月議会で同和対策費六百六十万円、十二月議会で九百四十一万円、これは計上見込みですが、合計して二千万円、先ほど言いましたように議決する前に支出しておるわけです。事後承認です。これはむちゃくちゃじゃないですか。近くの山東町は九月の補正予算二千九百三十万円のうち二千万円が同和予算です。解同らの要求で組まされているのです。こういうことはこの南但馬すべての町で起こっているわけです。全郷の予算規模は大体十億程度ですよ。ところが彼らは、七町から、四月から十一月までの間にざっと一億一千三百万円、彼らのための金を出さしておるわけです。こういうために町財政は全く破綻してしまっておる。朝来町では九億円の借金の上にさらに借金なする。

これは兵庫県だけじゃないですね。大阪はどうかというと、大阪府の同和予算は衛星都市を含めて五百七十三億円、これは政府の同和予算五百七十五億円と全く同額ですよ。大阪府だけで五百七十三億円も出しておるわけです。これは好きこのんで出している状態じゃないですよ。もう全く暴力、脅迫、彼らの押しつけでそうなっているのですよ。その結果、たとえば泉南市というところは、同和予算が泉南市の総予算の四九・七%を占めておる。ここの同和人口は、全人口の六・一八%です。六%のために四九%の財政が支出されておる。大阪市は、民生費の中の建設事業費は、たとえば保育所とか老人ホーム、この事業費のうちで同和対策事業費が七七%。あまり大きいので、ちょっと数字が間違いじゃないかと、私自身が思ったくらいです。こんなにひどい状態になっておる。大阪市の同和人口は二・二%です。民生費の中の建設事業費の七七%がそのために使用されておる。

大阪の学校の建設、これは大阪のほとんどの人が知らぬ人はないような状態にいまなってきております。たとえば、同和地域の学校にはたいへんな要求が出され、彼らがそのための利権を一人占めにし、そして建てられる学校というのはまさに、ここに奥野さんおられますが、あなたがこの前質問されて、夢のような話だといって、大阪ではもうたいへんよく知られているわけですが、□□小学校の建設総額五十億五千万円です。普通の学校は一校大体五億円くらいですよ、大阪の場合。これは広さ三万平方メートルです。三十二教室です。特別教室が二十あるのです。プールが二つあるのです。プラネタリウムの教室まであるんです。そうして□□小学校というのは四十六億七千万円、こういうのがどんどん要求されておるんです。そうして他方プレハブ教室でどうにもならぬ学校がいっぱいありますよ。緊急整備を要する小中学校が三百七十九校もあるんです。彼らはむちゃくちゃなんですね。暴力と脅迫のもとに屈服させられた地方自治体が、おちいり、しかも彼らと結びついて、いまやその罪の意識すらなくなっている、そういうところもあるのです。

そういう形で、住民は全く腹に据えかねる思いをしているわけです。しかしながら、いままであれだけの残忍な、残虐な行動が行なわれるときに、やっと十一人逮捕される。いま初めてこうして大問題になりつつあるというようなことになってきておるわけです。

窓口一本化の誤りを認めよ

もう一つ、私ここで言っておきたいのは、これほどたくさん同和予算を引き出しておる。それではさぞや同和地域の内部はみんな非常によくなっておると思われるかもしれない。しかしそうじゃないのです。そうではなくて、解同朝田・丸尾らが窓口一本化と称して、自分らだけを相手にせよ、その他の組織、同和会だとか、あるいは部落解放同盟正常化連絡会議だとか、こういう組織は相手にするな、部落差別を撤廃する運動はわしらが正しいんだ、わしらの言うことを聞け、こういうやり方で窓口一本化を押しつけて、そのために同じ同和地域の人も、こんな膨大な資金を出させながら、差別をされて、適用されていないのです。

たとえば同和住宅の家賃まで差別されておるのですよ。大阪市の□□区の□□同和住宅では、朝田、上田らの組織に入っておる者は家賃を上げない。その他の者は全部家賃を上げておるのです。四倍以上上げていますよ。三DKで、いままで千百円だったものが、四千七百円払わされておるのです。

これは大阪だけじゃないです。あるいは但馬だけじゃないです。東京もそうですよ。ひざもとの東京も。東京では、御承知のように、美濃部都政のもとで、生業資金の貸し付けの問題について、この朝田派らの研修を受けなければ金を貸さない。この年の瀬を迎えて、いまだに生業資金を貸し付けないのです。朝田派らの研修を受けて、彼らの言うことを認めたら金を貸してやる、こんなやり方がありますか。これは明らかに、憲法や地方自治法、つまり法のもとの平等、あるいはひとしく役務を受ける権利がある、こういう憲法や地方自治法の重大な逸脱じゃないですか。この問題について、私は、自治大臣と三木総理の考えをお聞きしたいと思うのです。

○福田(一)国務大臣

ただいま御指摘されましたことの内容につきましては、私はそうであるということはここで申し上げることはいたしませんが、しかし、そのような差別が行なわれておるといういささかの事実は、私も聞いております。実はそういうことも聞いております。したがって、これからの地方自治体に対する態度としては、そういうような疑義を生ずるような予算の使い方というものは慎むべきであるということを私は指示をするようにしたいと思っております。それかといって、じゃあいままでのはどうするかというおことばもあるいはあるかもしれませんが、私はいままでのことは、ちょっとこれですぐ、いまあなたが言われたような大きなりっぱな学校ができたから、それをつぶしてなんというわけにはいきません。そういうわけにはいきませんから、とにかくこれからはそういうことがないようにして、そして何とか部落の関係の方が仲よくしていただきたい、私は、ほんとうのことを言うと。そしてほんとうにその人たちの利益が守られるように、ぜひ私はお願いをいたしたいと思います。すべて、差別が行なわれておるということのために使っておる予算がまた差別のために使われておるということは、まことに悲しむべきことである、かように私は考えておる次第でありまして、今後はそのことがないようにひとつできるだけ努力をさしていただきたい。これが自治大臣、というと失礼ですが、私の考え方であり、その方針で臨んでいきたいと思っております。

○村上(弘)委員

もう一言。福田自治大臣の基本的なお考えは、それとしてわかるわけですが、いまこの際、もう一つ私はあなたにはっきりここで述べていただきたいと思うのは、部落の人たちが仲よくしてほしい、こう言われたが、部落の人たちと部落でない人たちも仲よくしなくちゃならぬ。この問題の、いま非常なひどい状態が起こっておるこの一番のかなめになっておるのは、部落解放同盟の朝田派が、自分たちだけを認めよ、自分たちだけを交渉の相手にせよ、自分たちだけに、この同和予算だとか同和教育についてものを言わせよ、そして自分たちの言うことだけを聞け、こういうふうな態度をとっているわけですね。これは窓口一本化といっていますよ。こういう窓口一本化というものは誤りであるということ、これを明らかにする必要があると思うのです。三木内閣、新たに社会正義をいい、社会的公正ということをいって、ここで皆さんが責任を持ってやろうという限り――いままでこういう問題があいまいにされたために、こんなにひどい状態が起こっておるのです。こんなことが続いていいとは、よもやあなた方も思っておらぬと私も思うのです。であるならば、こういうまさに不公正な同和行政の、彼らの旗じるしになっておる窓口一本化というのは間違いだということを、この際ぜひはっきりしていただきたいと思うのです。

○福田(一)国務大臣

私は、部落と一般とがほんとうに平等な立場になるためのこの部落予算といいますか、部落解放に対する施政をやっておるわけでありますから、そういう意味では、いまあなたが私にただされたことについては同意をいたしております。そこで、あなたのおっしゃるのは、その何とか一派というものと――私は名前を言うことは、それさえもいま差し控えたいと思う。私は仲よくしてもらいたいというのが目的であります。だから、あなたのおっしゃることが正しいことであれば、何とかそれをよく、いまここでそういうお話がございましたから、ひとつそういうことを踏まえて、部落の方たちが手を握って、そしてほんとうの部落の幸福を願う態度をとっていただくようにお願いをいたしたい、こういうことでございます。

○村上(弘)委員

もう一言。じゃ逆の面からお伺いしますが、仲よくと言うあなたは、どなたに対しても、どれかを差別するということはもちろんお考えでないと思う。ということは自治大臣は、この部落解放同盟朝田派であろうと、部落解放同盟正常化連であろうと、全日本同和会であろうと、その他どんな団体であろうと、あなた方は対等に当然つき合いもするし、交渉もするし、予算の支出についても、それは当然公正に相手にする、こういうふうに理解していいですか。どうですか。

○福田(一)国務大臣

私の申し上げたことばの意味を、どういうふうにおとりになろうと御自由でございます。私はいま申し上げたような態度で政治に当たってまいりたい、かように考えております。

○村上(弘)委員

やはりこういう問題に対して、非常に奥歯にもののはさまったような、だれが考えてもどうしてそんなことがはっきりできないのだろうかと思うような感じのことを言っておられますが、いま私が問題にした点について、三木総理の、どういう組織に対しても、どういう地域の人であろうとも、公正に民主的に対処するという問題を含めて、今日までの地方自治体の状況、これに対するお考えをお聞きしたいと思うのです。

○三木内閣総理大臣

いま村上議員からいろいろお話を承って、本問題の深刻さというものの認識を深めたわけでございます。政府は、同和対策事業特別措置法及び同和対策長期計画に基づいて、同法の趣旨にのっとって、総合的に同和問題の解決に一そう努力をいたす決意でございます。

警察も部落解放同盟いいなり
なぜ現行犯で逮捕しなかったのか

○村上(弘)委員

警察のとった措置について、やはりお聞きしておきたいと思うのですが、路上の問題で、一体警察はどうしていたのだろうかということが町の人たちの疑問です。一体どうしておりましたか。なぜ逮捕しなかったか。

○福田(一)国務大臣

その問題については、政府委員から答弁をいたさせます。

○山本(鎮)政府委員

お答えいたします。

警察がこの事件を認知いたしましたのは、当日九時五十七分ごろ、一一〇番によって、この路上でけんかがあるということでございましたので、署長以下直ちにパトカーで現場に急行いたしたわけです。そうしますと、狭い通りに共闘会議の人たちが百五十名ぐらいおる、それから群衆もいるということで、なかなか近づけない。さらに署員が応援に行きまして、大体二十名ぐらい、小さな署でございますので、直ちに応援できるのはそのくらいの部隊ですが、これも近づこうとしたけれどもなかなか近づけない、押し戻されるというような状況のうちに、先生、学校の教職員の人たち数十名が学校の中に連れ去られたという状況で、何とか救い出そうとしたのですが、物理的にできないという状況であったわけです。したがいまして、署長としては直ちに隣接署の応援を求める、さらに神戸の兵庫県警察本部のほうに応援を求めるという形で、いろいろと時間の経過はございますが、最終的には、部隊を編成してその救出に当たったということになりますが、最初の現場の状況は、そういうことでいろいろとやったのだけれども、現場で逮捕するという事態に至らなかったという状況でございます。

なぜ警察は救出に行かなかったのか

○村上(弘)委員

じゃ、学校で、十時過ぎから夜の十一時ごろまで長時間のリンチが行なわれておったわけですが、なぜ学校には救出に入らず、また現行犯逮捕をやらなかったか、この点はどうですか。

○山本(鎮)政府委員

この点については、先ほどもちょっとお話が出ましたけれども、十時過ぎから、署長としては、学校の当局者その他関係の当局のほうに、学校の中はどういうことになっているのだということを聞いたところ、いま平和に、平穏に話し合いが行なわれているのだ、学校の内部の問題だ、教育問題である、そこに警察が出てぐるといろいろ紛淆を起こすので、ぜひこれはやめてもらいたい、そういうことを、再三にわたって確かめたところ、言ったわけです。御承知のところ、十回にわたってそういったことがあったわけです。それからまた共闘会議のほうにも二度にわたって、どうなんだ、あまり時間が長いじゃないかという申し入れをしたわけですが、なかなかそういうことで、当局の、いわば当面の相手の責任者がそういうことを言うので、しばらく事態を見守らざるを得ない。そしてその間に部隊が逐次出てきたので、その部隊の力をもって強制的に中に入るという経緯になるわけでございます。

○村上(弘)委員

路上では動くことができなかった、こういうことを言っているわけですね。学校の中では校長が十回にわたって、入れば一そう紛糾するから、こう言ったから入らなかった、こう言っているわけです。これは非常に奇怪な態度だと思うんですね。事実もまたそういうものでなかったわけです。路上では集団があって警官が近寄れなかったとか、そんな状況じゃないのです。現に先生方の証言では、これは□□という先生ですが、一人の警官の足とピストルのバンドにつかまって、無理に引っぱられようとするのを警官につかまって、何とか引っぱられていかれぬようにがんばっていた。ところがその警官は、その丸尾らの暴徒に対して、やめとけやめとけ、こう言った。それで実際には連れて行かれた。もう一人の先生は、やはり警官のバンドにつかまったわけですが、今度は、つかまったらそれをはずされた、警官から離された、こういうことを言っているわけです。ですから警官は、目の前で暴徒も見ており、リンチを受けて無理やりにけられながら連れていかれる先生につかまられながら、それをふりほどいておる、こういう状況があるわけですよ。

それから学校の状態についていえば、校長が、平穏に話し合っておるとか、あるいは入れば一そう紛糾するとか――入れば一そう紛糾するというのは、それまでに紛糾しておることを認めておることにもなるわけですが、第一に、この路上でこれだけのむちゃくちゃなことをやって学校に連れていったわけですから、何が起こっておるかは、当然警察は判断できるわけですよ。第二は、救急車が午前十時ごろから十回にわたって出入りして、八鹿病院にどんどん負傷者を運んでおるわけでしょう。それから、家族や生徒や保護者から保護願いが来ておる。生徒たちは泣いて、警察署の前へ来て、先生が殺される、先生を助けてくれ、とこう言って訴えておるわけです。これはもう全くひどいじゃないですか。そうして八鹿病院にどんどん負傷者が入っておることを、警察官も病院に行って、それは現認しておるわけですよ。しかも学校の中から、体育館やそれから本館から悲鳴が聞こえておることが、その側の道路に聞こえてきておるのです。町の人はそれを聞いているのです。その上に、□□先生、これは婦人の先生ですが、その御主人は、奥さんが呼んでおるからといって電話で呼び出されて、そうして呼び出された学校で、この奥さんが言うことを聞かぬのはおまえが悪いのだということで、一緒に糾弾を受けて、そしてまたリンチの場に連れていかれた。その強行連行するところも、自動車に押し込んで連れていくところも、その出るときに、警官をこの先生は現に見ておるわけです。こういうふうな状態があるのですから、これはもうその警察力を発動する判断ができなかったとか、あるいはそういうことはわからなかったなどというようなことは絶対に言えないわけです。

しかも、学校の校長の判断をかりにたてとしたとするならば、一番最後に学校に入ったのは、一体だれと話し合うて入ったのですか。運動側の二人と話し合うて、もう入ってもええか、もう入ってもよろしい、こういう話し合いがついて入っておるじゃないですか。学校側の了解を得られないからといって入らなかった警察が、どうして最後のときには運動側の了解を得て入ることになったのか。この運動側の了解で入ったということは、これは兵庫県警本部長も確認しておるんですよ。これについてどういうことをあなた方は言えるのですか。どうですか。

○山本(鎮)政府委員

最後に入ったときはどういう状況であるかということでございますが、こちらの聞いておりますことによりますと、そういうことで部隊の編成が成って、そしてやはり長時間にわたって相変わらず不穏な状況があるのじゃないかという独自の判断で、最後には入ったというふうに聞いております。

校長なども共犯者ではないか

○村上(弘)委員

もう万事リンチが終わって、丸尾らがもう彼らの目的を達成した、全部にまさに瀕死の重傷を負わせて、そうして無理やりに自己批判書なるものを書かせた。だからこれは、入ってもよろしいという状態を確認して、自己の判断で入ったという以外の何ものでもないわけですよ。事実の状況はそうなんです。学校の校長は、そのときには運動側の二人と話し合うて入りました、こういうふうな状況になっておるわけです。さらに百歩譲って、学校長がそういうようなことを――これは県警本部長はあとで、こんなたくさんの重傷者が出たじゃないか、結果からいえば、校長が平穏に話し合っておると言ったのはうそだったということになるじゃないか、それはそうだ、うそだった、それじゃ、学校長のとった態度はどういうことになるのだ、けしからぬことだと思っておる、こう言うのです。じゃ、けしからぬことだと思っておるのなら、この先生方は、学校長も教頭も、またそのときはち巻きを巻いておった教育委員会の当事者も、全部告訴しておるのです。これは共犯者じゃないかということで告訴しておるのです。じゃ、この校長や教頭に対して、いま警察当局は、どういう捜査をし、どういう取り調べをしておるか、これを聞きたいのです。

○山本(鎮)政府委員

警察本部といたしましては、事件の起きました翌日、二十三日から特別捜査本部を設けて、多数の捜査員を専従させて捜査をいたしております。その過程で、そういういま御質問のあったほうの問題についても十分捜査をしておりますので、事実がはっきりすれば、具体的な処置をとるものというふうに考えております。(村上(弘)委員「取り調べをやっておるわけですか」と呼ぶ)まだ取り調べをするという段階に至っておりませんけれども、いろいろとそういう方面をも兼ねて、捜査を進めておるというふうに聞いております。

○村上(弘)委員

この警察のとっている態度というのはきわめて奇怪だと思いますよ。三木総理もほんとうにそうだとうなずいておられるわけですが、だれが聞いても、こんなことを、ああそうか、わかった、と思うような者はおらぬわけですよ。大体警察は、現地の町民の非常な憤りと告訴によって、放置できなくなって、やっと十一名までは逮捕したわけです。しかしながら、こういう状態を許し、警察を入れないたてとなった校長を、県警本部長に言わせれば、けしからぬと――実はこれは責任を他に転嫁しておるということに、先ほどの状況からいったらなるわけですが、それじゃ、その校長がそういう態度をとったからだというのであれば、なぜ校長を調べないのか。まだ調べていないわけですよ。こんなことは、世間が、そうですかと納得できることですか。

しかも、現在十一名逮捕しておりますけれども、この負傷した人たちは五十八名いるわけですよ。五十八名に十一名でこんな重傷を負わしたわけじゃないのです。数百名が入った中でやっており、もうそれこそ意識もうろうで、現認できる人の数は限られておったけれども、それでもちゃんと特定の人を指定して告訴しておるんですよ。その数は相当たくさんの人を告訴していますよ。なぜ十一名にとどめているのか。なぜいまでもこういう暴徒に対して放置しているのか。学校の校長や教育委員会の当事者に対する取り調べ、それから逮捕の問題、同時に、この丸尾らの集団暴行に加わって、現認しておって告訴している者に対してなぜ早く逮捕しないのか、このことをお聞きしたいと思うのです。

○山本(鎮)政府委員

お答えいたします。

告訴、告発も多数、この事件の起こる前の朝来関係を兼ねて、出ておることは承知いたしております。この全貌をはっきりさせるために、いま鋭意捜査を広範にわたってやっておるわけでございまして、十一名の逮捕者でこれで終わりというのではございません。その関連についてはさらに徹底的な捜査をして、この事実を解明して適正な措置をとる、そういう所存でございます。

警察が暴力を放置し、南但馬一帯を無法地帯にした

○村上(弘)委員

そういうことをいま言っておるわけですが、しかし、事ここに至るまでに、兵庫県警あるいは現地の警察がとった態度の問題、これも非常に重大だと思うわけです。まさに無法状態に南但馬一帯はなっておったわけですね。これは去年の十一月ごろからで、それ以前はあそこには部落解放の運動はいわば普通の状態であったし、それから有志連合会というのがありまして、非常に正しい態度でいこうという運動もあったわけです。ところが、この丸尾らが地方の部落解放同盟朝田派の指導と組織のもとで行動を始めてから、急速にこの丸尾らの力が大きくなっていくわけです。そのてこは、先ほど言ったような糾弾ですよ、暴力、脅迫ですよ。そうしてもう自治体も教育も教育当局も学校も全部ずうっと屈服させられていくわけです。

こういうことはもう枚挙にいとまないのです。昨年十一月以来南但地域で、確認会、糾弾会、これはもう無数と言ってもよいでしょう。そうしてことしの五月段階になると、すべての自治体を彼らは制圧するのです。みんな屈服させられてしまう。そうしてすべての学校に解放研という組織がつくられていくわけです。そうしてことしの十月には、この朝来中学校の橋本先生宅を――この先生はそういう彼らの集団的な威圧に屈服せずに、正しい態度を守り抜いておったわけですね。これがおるからけしからぬということで、この橋本先生宅を、十月二十日から一週間、連日三百名から、最後には三千人を動員して、ここには先ほど見せた生徒、女子の生徒まで動員して、そうして連日朝から晩まで――朝の四時も夜中も投光器で照らしつけて、マイクでがなり立てる。この家族は八十九歳のおばあさんと六十一歳のおかあさん、小学校一年生、三歳と一歳八カ月の子供さん。子供さんはもう一日じゅう泣き詰め、こういうふうな状態を続けて、裁判所がこれはもう排除すべきだという仮処分をやっても、なおかつ続ける。毎日毎日糾弾行動をそういうふうにむちゃくちゃにやっておるのに、機動隊はおるんですが、おってもそれに手を出さない。こういうふうな状態が続いてきておるわけです。つまり、この八鹿高校事件一つだけをとってみると、全く想像もできないような状態が起こっておるし、世間から見ると、そんなことはうそだろう、まさかそんなことはないだろうと思うような状態になっておるわけです。しかし、去年の十一月からずっと積み上げられてきた糾弾行動、暴力行動、その間、橋本先生事件では百名からの負傷者が出ておるわけです。この問題でも告訴、告発しておるわけです。負傷者がたくさん出てきておって、相当たくさんの告訴をやっておるにもかかわらず、警察はそれに対して全く手を出してこなかった。こういうことが今日八鹿高校事件をつくり出したのだというように事態はなっておるわけです。

そこで警察は、あのときは手が出せなかったとか、あるいは校長が平穏に話し合っておるからだとか、そんなことを言って、それでいろんな逃げ口上を言っているわけですが、結局のところ、これは警察が、事ここまで大きな猛威をたくましくしたあの状態のもとで、よう手を出さなかったというのが実情じゃないのか。こわかったというのが実情じゃないのか。実際にこの問題に対しては、現地の生徒たちが警察署に抗議に行ったんですよ。先生を早く助けてくれと言ったら、五十人の人が一人の人を殺そうとしておっても、こちらの数が少なかったら見ているほかないのだ、殺されてもしかたがないのだ、こんなことを言ったというんですよ。こんな警察があるか、警察はこんなことを言うものかといって、生徒は作文集に書いていますよ。ですから、一つ一つの暴力を見のがして、泳がしてきた結果が、結局こういう事態をつくり出し、その事態に直面した警官は、それに対して逃げ口上をもうけて手を出さない、これが事の真相なんですよ。

だから私は、最後に公安委員長にお聞きしたいのだけれども、こういう一つ一つの暴力のあらわれに対して、ほんとうに厳正な態度で立ち向かうか、取り締まるか、これをはっきり聞いておきたいと思うのです。

○福田(一)国務大臣

本会議でも申し上げましたが、これははっきり申し上げておきます。実は、いままでの経緯においていささか手ぬるいところがあったと言われますが、私といたしましては、国家公安委員長になってから、暴力は断じて許さない、どういう種類の暴力であろうと、どういう階級に属する者であろうと、民主主義というものは暴力を認めてはできません。議会政治もできません。でありますから、暴力は断じて許さないという態度で、これから対処してまいりたいと考えております。

暴力に立ち向かう生徒たち

○村上(弘)委員

最後に総理にお聞きしたいのですが、こういうひどい状態の中で、しかし町の人たちや、それから学校の生徒、先生方は、こういう暴力に対して雄々しく立ち向かい、自分たちの自由を守り、安全を守るために立ち上がっていっておるということです。特に十二月十日、八鹿高校の生徒自治会総会は、次のような決議をやっています。「八鹿高等学校生徒自治会綱領」「学園の自由と平和を我々の自治活動の中で確立しよう。」「我々は、本校の教育、自治へのいっさいの外部団体の介入に反対する。」「我々は、いかなる困難な状況においても学生の本文である勉学に励む。」「我々は、真の民主主義、民主教育を確立するために、団結していくことをここに確認する。」「生徒、職員の手で、今後より積極的に民主的同和教育を進めていく。」こういうふうに生徒たちは、あの中で、おとなたちのふがいなさや警察に対する憤りを胸に深く抱きながら、しかし自分たちで、自分たちこそが学校、自分たちの教育の場を守っていこう、それで勉学にほんとうに一生懸命になろう、こういうような決議をやっておるわけです。地方自治体やそういう方面でも、また新しい動きも出ております。近くの大屋町の区長協議会でも、「一切の暴力を否定し「明るい真の民主社会の実現を目ざしての部落解放であることを確認されたい」、町当局にこういう要望書を出しております。いままでこういうことをやったら、もうそれだけでも糾弾されておったのです。ひどいリンチを受けておったのです。しかし、いまやほうはいとしてこういう団結の動きが起こってきておるわけですが、こういう一つ一つの暴力に立ち向かいながらも、自由と民主主義、暴力を一掃する、自由にものが言える社会、自由にものが言える町を、職場を、学校をということでがんばっておる人たちに対して、公正な、民主的な同和行政、教育の自治と中立、それから地方自治を守るという問題について、いまの朝来町の皆さんに対して、総理からひとつあいさつをしてあげてください。

○三木内閣総理大臣

同和問題に限らず、福田国家公安委員長の申されるように、民主主義の社会と暴力とは絶対に相いれないものでありますから、今後暴力事犯が起こりますならば、必要な捜査を行なって、厳正な措置をとって、法秩序の維持をはかる決意でございます。

○村上(弘)委員

爆弾事件から暴力学生の殺し合い、それからいまの解同朝田派の暴力問題、とにかく一切の暴力を一掃するということについて、ひとつ三木内閣も、総理も、公安委員長も、決意を新たにして厳正な態度で臨んでいただきたいというふうに思うのです。

八鹿高校教職員の側に非難さるべき落度は認められない(民事訴訟判決)はこちら

中学校新教科書の身分制・部落問題記述(2015)

中学校新教科書の身分制・部落問題記述(2015)

小牧 薫 2015年7月

■参考

1.2014年度の中学校教科書の検定について 

 文部科学省は2015年4月6日、中学校教科書の検定結果を公表しました。この教科書は2008年版学習指導要領にもとずく2回めの検定です。来年から4年間使われる教科書の採択作業が今年の8月までの間行われます。安倍首相らの推薦する歴史修正主義、憲法「改正」をねらう育鵬社版と自由社版の歴史と公民教科書を教育委員会によって採択させない(子どもたちに渡さない)ための運動がいっそう重要になっています。

 文部科学省は、今回の中学校教科書の改訂に向けて教科書検定基準と検定審査要項(検定審議会内規)を改めるという大改悪をおこないました。それは日本政府の統一見解を書かせることや近現代の歴史事項のうち、通説的な見解がない場合にはそれを明示し、児童生徒が誤解の恐れがある表現はさせないというものです。その具体例はのちほど見てみます。

 検定では、申請点数104点のうち102点が合格しました。不合格となったのは、学び舎と自由社の社会科歴史的分野の教科書です。両社は指摘された欠陥箇所などを修正して再提出して合格しました。新たに社会科歴史的分野で検定申請した学び舎は、現場の教員などが中心になって組織した「子どもと学ぶ歴史教科書の会」が設立した出版社です。しかし、学び舎の歴史的分野の申請図書は「細かいことに入りすぎて通史的学習ができない」などの理由で、いったん不合格となりました。また、「新しい歴史教科書をつくる会」がつくる自由社版は公民的分野の教科書は改訂せず、歴史も最初の申請であまりにも誤りが多く不合格となり、再提出後合格しています。この結果、公民的分野は、教育出版(教出)、清水書院(清水)、帝国書院(帝国)、東京書籍(東書)、日本文教出版(日文)、育鵬社の6種類、歴史的分野はそれに学び舎、自由社が加わって8種類となりました。

 文科省の検定によって、学び舎の申請本にあった「慰安婦(日本軍性奴隷)」については最初の申請本にはつぎのような記述がありました。「朝鮮・台湾の若い女性たちのなかには、『慰安婦』として戦地に送りこまれた人たちがいた。女性たちは、日本軍とともに移動させられて、自分の意思で行動できなかった」(p.237)と、「日本政府も『慰安所』の設置と運営に軍が関与していたことを認め、お詫びと反省の意を表し」たこと、政府は「賠償は国家間で解決済みで」「個人への補償は行わない」としていること、そのため「女性のためのアジア平和国民基金」を発足させたこと、この問題は「国連の人権委員会やアメリカ議会などでも取り上げられ、戦争中の女性への暴力の責任が問われるようになって」いることなどの客観的事実を述べた記述(p.279)です。しかし、検定ではこれを「欠陥箇所」の一つにあげ、不合格にしました。その結果、合格した教科書では、「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地に送られた人たちがいた。この女性たちは、日本軍とともに移動させられ、自分の意思で行動することは許されなかった」という記述(p.239)になって、「問い直される戦後」の項の側注資料(p.281)には「河野談話」の一部要約が記述されています。

 政府見解を押しつける教科書づくりは、領土問題で顕著です。社会科の「学習指導要領解説」の改訂によって、2016年度用では全社が取り上げ、2ページの大型コラムを設けたのが3社あり、その他にも小コラムで扱っています。地理や公民では領土問題の記述を軒並み増やし、政府見解通りに、北方領土・竹島・尖閣諸島は「日本の固有の領土」、北方領土はロシアが、竹島は韓国が「不法に占拠」と横並びに書き、尖閣諸島には領有権問題は存在しないと政府見解を丸写ししています。そして韓国や中国の主張にふれたものはありません。

 通説がないときは通説がない旨を明記せよとの新設された検定基準が文字通り適用されたのが、清水書院の関東大震災における朝鮮人虐殺事件についての記述です。「警察・軍隊・自警団によって殺害された朝鮮人は数千人にものぼった」との現行版記述をそのまま検定提出したのに対して、通説的な見解がないことが明示されていないとの検定意見が付され、「自警団によって殺害された朝鮮人について当時の司法省は230名あまりと発表した。軍隊や警察によって殺害されたものや司法省の報告に記載のない地域の虐殺を含めるとその数は数千人になるともいわれるが、人数については通説はない」(P.221)と必要以上に詳細な記述に変更されてしまいました。

 今回の検定では従来よりいっそう書かせる検定という性格があらわになり、歴史でさえ政府見解に基づいて書かせるということになってしまいました。

 育鵬社版・自由社版の教科書は、国際常識や国民世論に反して歴史修正主義を大きく変えないで、検定意見による修正も含め基本的には現行版の枠組みを維持しています。そのことは同時に、育鵬社版・自由社版が、神話と神武天皇の扱いなどの歴史歪曲、近代日本がおこなった侵略戦争と植民地支配や韓国併合の美化、天皇制賛美、日本国憲法の敵視と歪曲等々の点で、これまでと本質的にまったく変わらないことを示しています。こうした教科書を中学生に手渡すことができないことは何度強調してもしすぎることはないと思います。

2.公民の部落問題記述は改善されていない

 大阪歴史教育者協議会のホームページ(http://osaka-rekkyo.main.jp/archives/105)には、柏木功さんの「中学校公民教科書の部落問題は大問題-部落問題解決の到達点を無視、認識は同対審答申のまま-」の論文がアップされています。また、亀谷義富さんは、「中学校公民教科書の部落問題記述の問題点」を季刊「人権問題」2011冬号(兵庫人権問題研究所)と『国民融合通信』№457(2012年5月発行)に書かれています。これらは、2008年学習指導要領改訂にもとずく教科書(2012~2015年度使用)についての批判です。この批判を受けて、今回の改訂でどれだけ改善されたかと期待を持って見ましたが、記述内容は、ほとんど変わりがなく、期待はずれに終わりました。  「部落問題」とは何かがわかるように記述されていないし、部落差別の克服・解消は進んでいるのか、同和対策特別法は終了したとを書いているのかなどの点で、どの教科書も不十分で、改善されているとは言いがたいものとなっています。

 部落問題とは、江戸時代までの日本の社会が身分制の社会であり、明治以後も地域社会の中で江戸時代の賤民身分につながりがあるとされた一部の地域集団が差別されていました。それが近現代の社会問題としてつづいてきたものであり、封建時代の残りかすなのです。しかし、教科書はそのようには書いていません。

 「部落差別とは,被差別部落の出身者に対する差別のことで,同和問題ともよばれます。すでに江戸時代には,えた身分・ひにん身分という差別がありました。明治にはいって身分解放令が出され,そのような差別はないこととされましたが,実際の生活では,差別が根強く残りました」(帝国・公民P.44)などと不十分なことを書き続けています。もっとも問題なのは、育鵬社が「部落差別は憲法が禁止する門地(家柄・血筋)による差別のひとつに当たります」(P.69)と、部落差別は、門地による差別のひとつで帝国憲法下では許されていたが日本国憲法によって禁止されるようになった。だから、憲法で禁止されているが現在も家柄や血筋による人権侵害(差別)が残っているがやってはいけないことだと認識させようとしています。部落差別の起源も現状認識も間違ったものです。

 部落問題の解決とは、社会生活の中で出自を意識しない、出自など関係ないわ、という状態になることです。「同和地区」の指定もなくなり、「同和地区」出身かどうかを意識することも問題にすることもありません。現在では、社会問題としての部落問題は基本的に解決しています。まだ偏見や誤解を持つ人がいたとしても、社会としてそれが受け入れられることはなく、みんなで克服して国民融合をすすめていくという段階にまで達しています。ところが、小学校の教科書には、4社とも同和対策特別法が終了したことを書いていません。中学校の教科書は現行通り、帝国が以下のように書いているだけで、他社は触れていません。帝国は本文で「同和地区の生活改善や,差別をなくす教育などが行われてきました(1)。しかし,現在もまだ,さまざまな場面で差別や偏見があります」と書き、側注で(1)「その結果,生活環境の格差が少なくなり,教育・啓発が進むなか,2001年度で特別対策は終了しました」と記述しているにすぎないのです。そのあとの「部落差別をなくすためには,私たち一人ひとりも,部落差別がいかに人間的に許されないかに気づき,差別をしない,させない,許さないことが大切です。」と差別をなくす心がけを説いている点も改善されていません。

 教出は本文で,東書は側注で、2000年の人権教育・啓発推進法を取り上げていますが、「現在でも差別は根強く残っている」と書いています。日文は本文で「対象地域の生活環境はかなり改善されてきました」と書き、側注で「2000年には、人権教育・啓発推進法が制定されました」と書いています。教科書は部落問題の克服・解消が進んだと書かないのです。

 公民の教科書に被差別部落の歴史を簡潔に書こうとしていますが、どの教科書も不正確で、問題のある記述をしています。詳しいことはここでは触れません。柏木さんの論文を見てください。
3.歴史的分野の記述も改善されず

 新中学校教科書の歴史的分野は八社の教科書が検定合格しましたが、中味は改善されたのでしょうか。学習指導要領はそのままですから、大きく改訂しなければいけないという個所はないはずです。検定基準の改悪などによって、現行版を守ることすら難しいことはすでに触れましたが、執筆者・編集者の努力で改善された個所もあることはあります。しかし、前近代の身分制・近現代の部落問題記述は、依然として特殊化・肥大化されたままです。ほとんどの教科書は現行版のままで、改訂されたものも改善されたとはいえません。その詳細は、のちに見てみます。それでも、学び舎の教科書が一度不合格になりながら、再提出で検定合格したことはたいへん大きな意義があると思います。学び舎も前近代の身分制・近現代の部落問題についてふれてはいますが、他の教科書に比べて記述量が少ないし、記述内容も違っています。詳細はのちにふれます。

 私は中学生にも前近代の身分制のうち河原者やかわた(えた)・ひにんについて教える必要はないと思っています。日本の歴史を学ぶときに、江戸時代の賤民について学ばねばならないわけではありません。大事なことは武士と百姓、町人の身分の別とそれによって暮らしがどうだったのかがわかればよいと思っています。1974年の中学校教科書に、江戸時代の賤民について記述され、その後の改訂で詳しい記述がされるようになりました。そんなことは必要ないのです。中学での歴史学習の際、そんなことは無視すればよいのです。ところが、いまだに詳しく記述され、教えられています。近現代の賤称廃止令(いわゆる「解放令」)、全国水平社の結成についても、中学生に教える必要があるとは思いません。そして、現代の課題で同対審答申を引用し、いまだに部落差別が残存しているかのように書くのは誤りです。それでも書くとすれば、部落差別が克服・解消され、同和対策が終了したことを書くべきです。歴史学習の最後を、部落差別やアイヌ差別、在日外国人差別などが厳然と残っているという学習で終わらせてはならないと思います。

 8種類の教科書すべてがふれている個所は、江戸時代の身分制、近代の賤称廃止令、全国水平社の結成の三個所ですが、そのほかの身分制・部落問題に関わる記述内容についても見てみましょう。

1)室町時代の「河原者」

 室町文化で、なぜ、「河原者」だけが特別扱いされるのでしようか。他の技術者や芸能者、被差別民については記述しないで、なぜ庭園づくりに携わった河原者だけを詳しく記述するのでしょうか。観阿弥・世阿弥の人名は書かずに善阿弥を記述する重要性があるのでしょうか。それなのに、「河原者は差別をうけ」と書くから、「けがれ」観についての説明が必要になるのです。子どもたちに理解できるでしょうか、死などについての偏見が強まるだけではないでしょうか。「河原者」について、もっとも詳しいのは、帝国です。本文は「龍安寺禅宗寺院では,砂や岩などで自然を表現した枯山水の庭園がつくられ,こうした庭園づくりには河原者がすぐれた手腕を発揮しました。」(p.82)と書き、「コラム人権」の「庭園づくりに活躍した河原者」の題で「この時代には龍安寺などで庭園がつくられ,天下一と賞賛された善阿弥をはじめ,庭園づくりの名手が登場しました。その名手の多くが河原者とよぱれた人々でした。昔は,天変地異・死・出血・火事・犯罪など,通常の状態に変化をもたらすできごとにかかわることを「けがれ」といいました。「けがれ」をおそれる観念は,平安時代から強まり,「けがれ」を清める力をもつ人々が必要とされていきました。しかし一方で,清める力をもつ者は異質な存在として,差別を受けるようにもなりました。河原者もそうした差別を受けた人々でした。彼らは井戸掘リや死んだ牛馬から皮をとってなめすことも行っていました。彼らはおそれられましたが,その仕事は社会にとって必要であり,すぱらしい文化を築いていきました。なお「けがれ」は,近代以降に生まれた不衛生という考え方とは異なるものです。」と書き、龍安寺の写真の説明に,「龍安寺の石庭(京都市)制作にたずさわった河原者の名前が残っています」。さらに,「法然上人絵伝」の写真の説明で,「死刑に処される僧侶と河原に集まる人々 川はけがれなどさまさまなものを浄化してくれると考えられていました。そのため刑の多くは河原で行われました」(p.83)と書いています。私は、庭園づくりに活躍した河原者について書く必要はないと思いますし、けがれについての説明も江戸時代の身分制のコラムと重なっています。両方とも必要はないと思います。  教出は「コラム 歴史の窓 庭園づくりに活躍した人々」、東書も「歴史のアクセス 河原者たちの優れた技術」の詳しい説明を書いています。育鵬社、日文、学び舎は「河原者」の語は出していますが、詳しい説明はありません。自由社と清水は、「河原者」の記述はありません。

2)江戸時代の身分制

 日文は現行版を改訂せず「幕府は、武士と、百姓・町人という身分制を全国にいきわたらせました。治安維持や行政・裁判を担った武士を高い身分とし、町人よりも年貢を負担する農民を重くみました。さらに百姓・町人のほかに、「えた」や「ひにん」などとよばれる身分がありました。「えた」身分の人々の多くは、農業を営んで年貢を納めたり、死んだ牛馬の処理を担い、皮革業・細工物などの仕事に従事したりしました。また、「えた」や「ひにん」の身分のなかには、役人のもとで、犯罪人の逮捕や処刑などの役を果たす者、芸能に従事して活躍する者もいました。これらの人々は百姓・町人からも疎外され、住む場所や、服装・交際などできびしい制限を受けました。こうした身分制は武士の支配につごうよく利用され、その身分は、原則として親子代々受けつぐものとされました」と書いています。2001年版以来少しずつの変化ですが、「死牛馬の処理」を仕事と書くのではなく、はっきり「役」とは書いていませんが、「担い」と幕府や藩によって強制されたもののように書いています。これは、学び舎が「「かわた(長吏)」「えた」とよばれた人びとは,農業や皮の加工などに従事し,死んだ牛馬の処理を役としました。「ひにん」は,村や町の番人・清掃などの役を負担しました」(p.117)と書いているのとともに重要なことです。仕事と役の区別をしっかり書いているのは、学び舎だけです。学び舎が「かわた(長吏)」の語を使ったのもよいことだと思いますが、使うとすれば、用語についての説明も注釈もないのは不親切だと思います。

 他の教科書は死牛馬の処理を権利としたり、仕事のひとつと書いていますが、それは誤りです。教出は「えたの身分のなかには,農業を営んで年貢を納める者も多く,死んだ牛馬を処理する権利をもち」(p.113)と書き、東書は「えた身分は,農業を行って年貢を納めたほか,死んだ牛馬の解体や皮革業,雪駄作り,雑業などをして生活しました。…」(p.115)と、生業と役を区別していません。帝国は、「コラム 人権」で、「差別された人々」を扱っています。「近世の社会にも,中世と同じように,天変地異・死・犯罪など人間がはかりしれないことを「けがれ」としておそれる傾向があり(→p.83),それにかかわった人々が差別されることがありました。もっとも、死にかかわっていても,医師・僧侶・処刑役に従事した武士などは差別されなかったので、差別は非合理的で,支配者につごうよく利用されたものであるといえます。差別された人々は,地域によってさまざまな呼び名や役割で存在していました。えたとよばれた人々は,農林漁業を営みながら,死牛馬からの皮革の製造,町や村の警備,草履や雪駄づくり,竹細工,医薬業,城や寺社の清掃のほか,犯罪者の捕縛や行刑役などに従事しました。ひにんとよばれた人びとは,…」(p.117)と、「庭園づくりに活躍した河原者」で説明したことを再び書いていますし、死牛馬の処理を役と位置づけていません。こんなに詳しい説明をする必要がどこにあるというのでしょうか。幕藩体制によって、百姓、町人、えた、ひにんは、がんじがらめに縛られていたということを印象づけたいのでしょうか。

3)身分制の強化、渋染一揆など

 江戸中期の身分制の強化についてふれているのは日文だけです。日文は現行版そのままで「近世史プラスα」のカコミ「豊かになる人々と身分制のひきしめ」で、「「えた」身分の人々のなかにも,広い田畑を経営する者や,雪駄づくりの仕事を行って豊かになる者も出てきました。村の人口も増え,他地域との交易も広まりました。これに対して幕府や藩は,身分制のひきしめを強め,特に「えた」や「ひにん」などの身分の人々に対しては,人づきあいや髪型・服装について,さらに統制をきびしくしました。…」(p.135)と、「えた」身分のなかに豊かになる者があらわれ、身分制がゆるんだので、差別が強化されたという問題のある書き方です。豊かになるものがあらわれたのは、えただけでなく、百姓、町人にもいます。えたを強調する必要はありません。

 蘭学の項で人体解剖をして説明をした「差別された人々」についてふれているのは、帝国(「解体新書」の側注,p.132)と東書(挿絵の説明p.130)だけです。学び舎は「人体解剖の驚き」という項をもうけていますが、「90歳になる老人が腑分けをはじめました」とあるだけで、「差別された人々」とは書いていません。もし書くとしても、賤民にふれる必要はないでしょう。  「渋染一揆」は、教出は本文と発展で、東書と帝国はカコミで、日文は発展で扱っています。日文は発展ページ「新しい世の中をめざした人々」で、「差別の撤回を求めた人々」として渋染一揆について書き、そこでは、「19世紀のなかばころから、社会の枠組みをこえて、自由な経済活動や平等な社会を求める動きが盛んになりました」(p.164)と「世直し一揆」の位置づけをしていますが、他はそうした位置づけになっていません。

4)四民平等、賤称廃止令

 四民平等については、表題は違いますが、すべての教科書に記述されています。清水が「国民の平等」を見出しにしていますが、新しい身分制がつくられたのですし、この段階で「国民」になったわけではないので、不適切だと思います。教出の「残された差別」の見出しも改革の面よりもマイナス面を強調するので不適切だと思います。学び舎が「古い身分の廃止と新しい身分」の題で書いているのと、「解放令」と書かずに、「「えた」「ひにん」などの呼び方を廃止して、平民としました」(p.173)は、これまでなかった表現で、身分制の改革と賤称廃止の布告内容を正しく伝えるものになっています。

 「生活が苦しくなった」「社会的差別は根強く残りました」と書くのは、育鵬社、自由社、清水、帝国、学び舎です。

 日文は、「職業・結婚・居住地などをめぐる差別が根強く残りました」と書いたあとに「そこで,「解放令」をよりどころに,山林や用水の平等な利用,寄合や祭礼での対等な交際の要求など,差別からの解放と生活の向上を求める動きが各地で起きました。」(p.167)と書いているのは妥当なことです。さらに、側注で「明治以降のこの問題を部落差別とよんでいます(→p.217)。こうした身分の人々は,改善策も受けられず,それまでもっていた職業上の権利を失いました。」と書いています。「部落差別」の位置づけはこれでよいと思いますが、「職業上の権利」はこれまでどこにも書いてなかったことです。江戸時代の身分制で、死牛馬の処理は「役」に位置づけていました。どこで、どうして「職業上の権利」になったのでしょう。その説明なしには、この文章は理解できません。そして明治になって、死牛馬の処理権を失ったのは被差別部落のごく一部の豊かな人だけです。

 育鵬社は「政府は身分制度を改めるため,四民平等の方針を打ち出しました。新しくつくられた戸籍には,旧武士は士族、大名や公家は華族,それ以外の人々は平民として,新たな身分が記載されました」(p.168-9)と、皇族についての記述がありません。大事なのは、天皇と皇族、家族、士族、平民の新しい身分と書くことです。

 東書は、発展で「「解放令」から水平社へ」と題して2ページつかっています。内容は現行とほとんど同じで、「解放令」とその後、部落解放運動の始まり、島崎藤村の「破戒」を扱っています。このページにあるカコミも含めて、こんな文章や図版が必要とは思えません。

5)全国水平社の結成

 大正デモクラシーと社会運動の高まりで、多くの教科書が全国水平社が創立(組織)されたと書いています。育鵬社も、日本労働総同盟、日本農民組合の結成と全国水平社が組織されたと書き、そのすぐあとに、「ロシア革命の影響で共産主義の思想や運動が知識人や学生のあいだに広がっていきました。ソ連と国交を結んだこともあり,…君主制の廃止や私有財産制度の否認をめざす活動を取りしまる治安維持法を制定」(p.217)と、日本共産党の結成にふれずに書いています。水平社宣言と山田孝野次郎少年の演説の写真を載せています。自由社も水平社創立宣言の一部を掲げていますが、全国水平社以外の具体的な団体名や主張にほとんどふれていません(p.219)。東書、日文、教出、帝国、清水、学び舎は日本農民組合や全国水平社、新婦人協会、日本共産党の結成などを書いています。教出は、本文で、「ロシア革命や米騒動などの影響も受けて,社会運動が活発になりました。」と書いたあと、労働争議、メーデー、日本共産党の結成(1)、小作争議にふれ、「女性を社会的な差別から解放し… ,また,厳しい部落差別に苦しんでいた人々は,1922年に全国水平社を設立し,差別からの解放と自由・平等を求める運動を進めました。」と書いたあと、側注(1)で「私有財産制度や君主制の廃止,8時間労働制などを主張して活動しました」と明記しています。そして、つぎのページに「水平社宣言」の一部と山田孝野次郎の演説する写真を載せています。日文も「無産政党」についても書き、団体や政党が何をめざしたのかを書いています。重要なことだと思います。

6)現代の課題

 東書の現行版は、「日本社会の課題」の部落差別に関わる側注で「…特別措置法にもとづく対策事業は終了しましたが,引き続き,教育の充実,職業の安定,産業の振興といった面での改善,人権教育や人権啓発などの推進が図られています」(p.242)と同和対策事業の終了を書いていましたがが,新版では本文で「まず重要なのは,人権の尊重です。部落差別の撤廃は,国や地方公共団体の責務であり,国民的課題です」(p.262)と書き、側注で「部落差別の問題(同和問題)は,長い間の部落解放運動(→P161)の発展を基礎として,1965(昭和40)年に国の同和対策審議会の答申がなされて以来,特別措置法によって改善されてきました。現在は,引き続き,教育の充実,職業の安定,産業の振興といった面での改善,人権教育や人権啓発などの推進が図られています。」と特別措置法にもとづく同和対策事業の終了を削除してしまいました。大きな後退です。

 同和対策事業の終了は、他の教科書でも書かれるようになるのかと期待したのですが、残念ながらどの教科書にも書かれていません。それどころか、教出、清水は「差別や偏見が残っており」と書き、日文は「部落差別の撤廃は、国や地方自治体の責務であり、国民的課題です」(p.271)と本文で書き、側注で、人権擁護施策推進法にふれています。私には、どうしていつまでも、このような記述を続けるのか理由がわかりません。

 学び舎が歴史学習の最後を「平和という言葉」の表題で、「戦場の生きものたち」「北の川のほとりに住む人」「あなたの夢は」で構成し、「人は,健康で,楽しく遊んだりして,自分の夢をかなえていく,そんな平和な世界を思い描きます。平和は,戦争によって破られるだけでなく,貧困や差別,人権の抑圧,環境の破壊などによっても、その実現が妨げられます。平和を実現したいと望むなら,どのようにして平和が壊され,失われてきたのか,過去の歴史から学ぶことが必要です。…」と書いています。現代の課題をどう書くかは、たいへん重要です。そこに部落問題の解決を国民的課題と書く時代は終わりました。差別や人権の抑圧が問題だと書くだけで十分です。東書、日文、教出、清水のように部落差別を特別扱いするのはやめるべきです。

 (帝国や教出の側注の番号表記は、黒丸の中に白抜きで数字ですが、インターネット掲載にあたっては文字化けを避けるため(1)などのように表示しました。)

中学校公民教科書の部落問題記述の問題点

中学校公民教科書の部落問題は大問題
-部落問題解決の到達点を無視、認識は同対審答申のまま-

2011.9.24.
柏木 功(大阪教育文化センター「人権と教育」部会)

1.はじめに

 中学校教科書の部落問題記述の問題点は、2005年8月に小牧薫さん(大阪歴教協委員長)が論評されている。
 今回、2012年から使用される中学校教科書の採択が行われたが、社会科公民(中学校3年生が学習)教科書の部落問題記述は、なんら変化なく、大きな問題がある。 “中学校公民教科書の部落問題記述の問題点” の続きを読む