全国人権教育研究協議会を批判する(2014)

基本的人権の尊重(憲法)を歪める全人教
―全国人権教育研究協議会を批判する―

編集・発行/大阪教育文化センター「部落問題解決と教育」研究会

(全人教全国研究大会報告冊子から引用する場合は、大会開催年と報告県名のみ明記した。報告に地名が書かれていても、引用では○○と表示した。)

1.教育に運動を持ち込んだ全同教

(1) 部落解放同盟の別働隊に転落
 参加した研究会は多様な組織だった

 全国人権教育研究協議会(略称 全人教)は、1953年、全国同和教育研究協議会(略称 全同教)として発足した。当初から参加県市の研究会は多様で、自主的な研究団体として活動していた県、官製団体であった県、運動団体によりかかっていた県などがあった。

 全同教は多様な実態を尊重し、自主的な研究や地域に根ざす実践を大切にし交流していた時期もあった。
解同の別働隊に転落

 しかし、1960年代後半から1970年代にかけて、部落解放同盟が暴力と利権追求にのりだした。次ページに紹介するように、全同教もまた部落解放同盟の運動を教育に持ち込む団体に転落し、自主的な教育研究団体とはいえない状態になった。

 15兆円をかけて同和対策事業が行われ、環境は激変し差別解消へ大きくすすんだ。一方、事業を継続する限り問題が解決しないというジレンマを抱えていたこともあり、2002年、特別法は終了した。「同和」と名のつく特別な教育は終わらせようと解散した組織もある(和歌山県同教99年、広島市同教01年)。

 全同教は2009年、一般社団法人への移行とともに全人教へ名称変更、2011年に公益社団法人の認可を受けた。全国大会は「人権・同和教育研究大会」としている。

(2) 「解放教育」という運動の持ち込み

 全同教は1966年の第18回全国大会アピールで「解放運動と同和教育の結合」を掲げた。

 同和対策審議会(同対審)答申が1965年にだされたが、答申は「同和教育を進めるに当たっては、『教育の中立性』が守られるべきことはいうまでもない。同和教育と政治運動や社会運動の関係を明確に区別し」と、教育に運動を持ち込むことを戒めていた。

 これに対し「子どもたちの学習権保障のためにはいっそう教育と運動を結合すべき」「自己の社会的立場の自覚」などの「解放教育」が提唱されはじめた。全同教も「解放運動と同和教育との結合をさらに強め」ようと決議した。

(3) 「狭山事件」を教育に持ち込む

 1970年の第22回全国大会では狭山事件の石川一雄氏の「訴え」が読み上げらた。翌1971年の大会では「大会アピール」に「無実の石川青年を釈放させる運動と行政糾弾の闘い」と書いた。

 1972年の「大会アピール」は「『矢田教育差別事件』を通じて…部落解放運動と結合していくことなくして部落解放の教育創造はありえないことを全同教は明らかにしてきました。」「司法権力の予断と偏見によって、石川青年は獄窓に」などと書いていた。(※「矢田事件」は次項参照)

 1976年の大会アピールでは「権力裁判を糾弾する『狭山』同盟休校闘争を、教育への介入とし、部落大衆と労働者、父母、国民を敵対させる、私達の内部にある一部の傾向は、早急に克服されねばならない」とまで書いていた。

 2012年の研究課題では「狭山事件をとりあげ、石川一雄さんの生きざまに学ぶことができます。」としていた。2013年の研究課題から「狭山」は消えたが、記念講演の注や報告では取り上げている。

▼ ○○は今年の校内人権集会(「狭山」現地調査報告集会)で「狭山事件は殺人事件ではありません。部落差別事件です」と力強く語った。(2013年 熊本県)

▼ 職員室には「○○中学校から第2の石川さんを出すな」という「狭山」の教訓を継承し、すべての子どもたちの学力を保障しようという教師の姿勢を確認するため「石川一雄さん逮捕」の写真が貼られています。(2012年 奈良県)

 まだこんな学校がある。堂々と大会で報告し、全人教も平気で冊子に収録している。その大会を文科省や各県が後援している。

(4) 全同教は「部落解放同盟」の暴力を容認してきた

矢田事件 解同の暴力を容認

 1969年に引き起こされた「矢田事件」は、労働条件改善を訴えた大阪市教員の文書を部落解放同盟(解同)が「差別」と決めつけて教員を拉致糾弾し、市教委に首切りを要求、市教委は教員に長期間の研修を命じた事件である。最高裁は拉致糾弾した解放同盟員に有罪の判決、大阪市には損害賠償を命令する判決をくだした。1986年の最高裁判決は「差別文書」だとする大阪市の主張を退け、研修命令は裁量権の範囲を逸脱したものと明確に認定している。全同教が「矢田教育差別事件」と表現するのは解同の認識であり、すでに断罪されている。教育委や解同と異なる考えを表明しても差別ではない。

八鹿高校事件 解同の暴力を容認した警察・行政・マスコミ・そして全同教

 1974年11月、兵庫県立八鹿高校教職員58名が、解同による集団リンチを受けて重軽傷を負うという事件があった。(最高裁で解放同盟員は有罪、兵庫県と解同は損害賠償を支払えとの判決が確定している。)。

 全同教はこの時、京都出身の副会長らの反対にかかわらず正副委員長見解を発表。翌年2月の全同教委員会でそれを全同教見解とした。見解は八鹿高校教職員に非があるように描き「解同」の集団暴力を正当化するものであった。当時、三重・滋賀・和歌山・京都・岡山の5府県同教が見解の採択強行に抗議した。全人教は今日にいたるまでも、暴力容認の決議を撤回していない。

2013年全人教大会でも、特別分科会で講師が教育の中立性確保を非難

 2013年11月に徳島で行われた全人教全国大会でも運動の持ち込みは続いている。

 徳島大会の特別分科会第1講の講師(元全同教委員長)は、「激しかった同和教育攻撃」として、地域改善対策協議会の文書や総務庁地域改善対策室の通知を例にあげている。その文書は下に紹介するように民間運動団体の教育介入を厳しく批判している。教育に介入する民間運動団体とは部落解放同盟である。

 教育の中立性確保という当たり前のことが通用しないのが全人教の「同和教育」である。「公益社団法人」として認可されたという全人教のどこに「公益性」があるのか。

 地域改善対策協議会基本問題検討部会報告書

 同和教育については一般住民の批判的な意見も多いが、この背景には、地域によっては民間運動団体が教育の場に介入し、同和教育にゆがみをもたらしていることや同和問題についての住民の理解が十分でないことが考えられる。同和教育の推進に当っては、住民の理解と協力を得るよう努めるとともに、教育と政治・社会運動との関係を明確に区別して、教育の中立性が守られるよう留意し、行政機関は毅然たる姿勢で臨むこと。指導に当たっては、教育の中立性を確保する方策が明確に示されるべきである。(1986(昭和61)年8月5日)
 (地域改善対策協議会は総務庁(当時)のもとに設置された審議会)

2.教育で「部落」を分けへだてする全人教

(1) 学校が「部落」を意識させている

 大阪府の調査では「同和問題をはじめて知ったきっかけ」が「学校の授業」というのが20代、30代、40代で過半数(2010年府民意識調査)。埼玉県中高生意識調査では初めて知ったのは学校が82%(2010年調査)。

 全人教は基調提案などで「部落の子ども」「部落外の子ども」などと子どもを色分けしている。各地の報告も依然として「同和地区」「被差別部落」「ムラ」と呼称し、子どもたちを「部落出身かどうか」を意識している指導者のまなざしがうかがえる。

▼ ○○さんと語る中でわたしは、部落の子どもたちがいつか部落差別と向き合う日が来ることを意識するようになりました。(2013年 鹿児島県)

▼ 3年生で再びAの担任になった。今度こそは部落問題の話もしていきたいと思い、4月早々、家庭訪問を申し入れた。お母さんから「なぜ、うちなのか」「点数稼ぎのためか。」と返ってきた。(2013年 三重県)

▼ 6年生のA子は、普段から、「なんで○○の子どもだけ、学習会にいかんばいかんと?」と言って半ば強制されることに対して明らかにいやがっていた。(2013年 佐賀県)

▼ Bの母親は同和地区出身である。母親は他地区の男性に嫁いだが、Bが幼少の時離婚し、実家に戻った。(2012年 岡山県)

▼ ○○地区・○○地区・○○地区と三つの地区公民館があり…。…○○地区・○○地区には部落があります。…ムラ出身でない私はなじめていませんでした。(2012年 鳥取県)

▼ 願い出て「ムラの子が顔を上げられる授業」を目指して江戸時代身分制の授業をさせてもらった。しかしその後の授業の後で差別発言があった。本校の課題は、ムラ以外の子どもたちがともに反差別の仲間になる授業だと気付いた。 (2012年 宮崎県)

▼ 私は「部落出身であるAこそが部落問題を学ばなければならない」と考え、Aに部落出身であることを伝えた。(2011年新潟県)

 大阪からの報告には、「同和地区」や「被差別部落」という言葉は出てこない。それは大阪における部落問題解決の到達点や府民の批判の高まりを反映した結果である。

大阪府教委「ムラ」などは使用しない

(民権連)府教委とすでに決着ずみの「ムラ」「むら」“むら”などをやめさせること。

(府教委)ご指摘のような表現による誤解や偏見を避けるため、教材の見直しを行いましたが、今後とも、使用しないように取り組んでまいります。(2012.3.13 民権連の府教委交渉での回答)

 「民権連」は「民主主義と人権を守る府民連合」の略称(全国人権連に加盟)

※府教委は人権教育指導資料を配付しているが、その小学校向け教材では「部落」「同和地区」などの言葉はいっさい使用していない。

(2) 展望でなく恐怖を育てる全人教

 半世紀以上前のごとく、全人教は「差別がある」「差別される」と不安をあおっている。その結果、「学習経験を積むほど、『就職差別や結婚差別は将来もなくすことは難しい』という悲観的な意識が広がったということも指摘しておかなければなりません。」(大阪府民意識調査分析編p73・74)という事態を招いている。地域の状況は激変し、国民の融合も大きくすすんだ中に子どもたちは育っている。差別をする人がいれば周りのみんなが「それはあかんやろ」とたしなめる時代である。が、全人教は展望を語らず決意を促す教育をする。

▼ 前任校では、学習会が補充学習だけでなく、解放学習会としての取組がいろいろあった。それをとおして、子どもたちが社会的な立場を自覚する。勉強を重ねていくなかで、子どもたちは『なぜこのような差別があるのか』『将来、結婚する時に差別されるのか』という不安をもつ。(2012年 香川県)

▼ 僕は差別をまだ受けたことはありません。だから差別に実感がわきませんでした。けど話を聞いて、自分の近くにこんな差別があることがわかりました。(2013年 大阪府)

▼ ある生徒は「人権を語り合う中学生交流集会」に参加し、初めて部落問題の厳しさを知った。今まで同和問題を他人事としかとらえていなかった自分を反省した。(2013年徳島県)

▼ 今私達は社会で部落差別のことについて調べているけど、二人の方の話を聴いてとても役に立ちました。今も部落差別があると聞いてとてもショックでした。(2013年 福岡県)

 しかし、全人教大会での報告も、よく読めば国民融合に向かって着実に前進していることがわかる。「今の差別の現実は見えづらい」(2012 岡山県)というが、それは差別が解消に向かっていることを意味する。

総務庁文書も出自にこだわる誤りを指摘

 憲法第14条は,「すべて国民は,法の下に平等であつて,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない。」と規定している

 これは,直接的には法の領域の問題ではあるが,私人間の道徳的領域の問題としても,この原則は,国民の間に広く浸透し定着しつつある。

 江戸時代の身分制度に今日こだわることの非合理性,前近代性は広く一般の人々の受け入れつつあるところであるので,「なぜ同和問題についてのみ,あなたは,昔の身分制度にこだわるのですか」という問いかけは,人々の反省を呼び起こすのに有効であろう。

 また,同和関係者も自ら同和関係者であるか否かにこだわらないという信念を固めることが重要である。

(「地域改善対策啓発推進指針」1987(昭和62)年3月18日 総務庁長官官房地域改善対策室長通知) (全文はホームページ「人権教育辞典」で紹介している)

3.「人権教育」は解釈改憲の先取り

(1)  憲法の基本的人権を歪める教育

 2008年3月、文科省の人権教育の指導方法等に関する調査研究会議が「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」を報告した。全人教はその活用を訴えている。

 全人教としても、3次にわたる[とりまとめ]を活用し、同和教育の理念と教訓を踏まえた人権教育が全国すべての学校・地域・家庭において着実に進められるために、各地の具体的な実践交流を通した発信を続けていかなければなりません。(2012年度研究課題)

 基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利である(憲法97条)。人権は自由を侵害する権力者との対抗でつくられてきたものであった。ところが、政府・文科省・全人教の「人権教育」は、「人権尊重の理念についての正しい理解やこれを実践する態度が未だ国民の中に十分に定着していない」と国民の責任に転嫁し、人権を国民の意識の問題にすり替えている。上からは権力者が、下からは暴力と利権の集団が国民や児童生徒に「人権尊重」を迫る構図である。

 [第三次とりまとめ]は憲法について「世界人権宣言、児童の権利条約、憲法などの条文化された法規への理解を深める」と1行あるだけで、憲法をもとに人権を具体化させる指導はない。「国連人権教育のための世界計画」や世界人権宣言はあっても日本国憲法はない。

 全人教のすすめる「人権教育」は、憲法の保障する権利実現を権力者に求めるのでなく、私人の間の関係に矮小化するものである。これは、人権における「憲法の解釈改憲」ということができる。

人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]

はじめに
 我が国も(中略)全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の下で人権に関する各般の施策を講じてきた。(中略)このような人権尊重社会の実現を目指す施策や教育の推進は、一定の成果を上げてきた。しかしながら、「人権教育・啓発に関する基本計画でも指摘されているように、生命・身体の安全に関わる事象や不当な差別など、今日においても様々な人権問題※が生じている。
(中略)(基本計画は)「より根本的には、人権尊重の理念についての正しい理解やこれを実践する態度が未だ国民の中に十分に定着していないこと」等を挙げている。

※(引用者注)「人権教育・啓発に関する基本計画」(平成14年3月閣議決定)の様々な人権問題とは、女性、子ども、高齢者、障害者、同和問題、アイヌの人々、外国人、HIV感染者・ハンセン病患者等、刑を終えて出所した人、犯罪被害者等、インターネットによる人権侵害等

(2) 人権教育に数値目標? どうやって評価?

 2011年全人教大会の特別分科会では全人教副代表理事が講演している。この人は文部科学省人権教育の指導方法等に関する調査研究会議委員でもある。

 資料を見ると「小学校マニフェスト」では「『部落問題は被差別部落の友達の隣に座っている自分の問題』として捉え、自らのくらしと重ねて考えたり発言や行動できる6年生の子ども、五〇%をめざす」、「中学校マニフェスト」では「人権・部落問題学習で学んだことを、自分の暮らしや家族、友だちとの関係や自分の将来と結びつけて考えることができる子ども八〇%をめざす。」と数値目標を掲げている。

 数値目標を掲げた人権教育のどこが「人権」の教育と言えるのだろうか。子どもの内心をどうやって評価するのか。文科省がすすめようとしている道徳教育の教科化の先取りである。

 子どもの心や行動を数値目標にするのは、かつて学校が「満蒙開拓義勇軍」や「予科練」への志願の数字を争い子どもに迫ったことと同じ過ちを繰り返すことになるのではないだろうか。

 文科省[第三次とりまとめ]は「学校は、公教育を担う者として、特定の主義主張に偏ることなく、主体性を持って人権教育に取り組む必要があり、学校教育としての教育活動と特定の立場に立つ政治運動・社会運動とは、明確に区別されなければならない。」としている。全人教のような「特定の主義主張」に行政の後援・公費出張などは停止すべきだ。

中学校新教科書の身分制・部落問題記述(2015)

中学校新教科書の身分制・部落問題記述(2015)

小牧 薫 2015年7月

■参考

1.2014年度の中学校教科書の検定について 

 文部科学省は2015年4月6日、中学校教科書の検定結果を公表しました。この教科書は2008年版学習指導要領にもとずく2回めの検定です。来年から4年間使われる教科書の採択作業が今年の8月までの間行われます。安倍首相らの推薦する歴史修正主義、憲法「改正」をねらう育鵬社版と自由社版の歴史と公民教科書を教育委員会によって採択させない(子どもたちに渡さない)ための運動がいっそう重要になっています。

 文部科学省は、今回の中学校教科書の改訂に向けて教科書検定基準と検定審査要項(検定審議会内規)を改めるという大改悪をおこないました。それは日本政府の統一見解を書かせることや近現代の歴史事項のうち、通説的な見解がない場合にはそれを明示し、児童生徒が誤解の恐れがある表現はさせないというものです。その具体例はのちほど見てみます。

 検定では、申請点数104点のうち102点が合格しました。不合格となったのは、学び舎と自由社の社会科歴史的分野の教科書です。両社は指摘された欠陥箇所などを修正して再提出して合格しました。新たに社会科歴史的分野で検定申請した学び舎は、現場の教員などが中心になって組織した「子どもと学ぶ歴史教科書の会」が設立した出版社です。しかし、学び舎の歴史的分野の申請図書は「細かいことに入りすぎて通史的学習ができない」などの理由で、いったん不合格となりました。また、「新しい歴史教科書をつくる会」がつくる自由社版は公民的分野の教科書は改訂せず、歴史も最初の申請であまりにも誤りが多く不合格となり、再提出後合格しています。この結果、公民的分野は、教育出版(教出)、清水書院(清水)、帝国書院(帝国)、東京書籍(東書)、日本文教出版(日文)、育鵬社の6種類、歴史的分野はそれに学び舎、自由社が加わって8種類となりました。

 文科省の検定によって、学び舎の申請本にあった「慰安婦(日本軍性奴隷)」については最初の申請本にはつぎのような記述がありました。「朝鮮・台湾の若い女性たちのなかには、『慰安婦』として戦地に送りこまれた人たちがいた。女性たちは、日本軍とともに移動させられて、自分の意思で行動できなかった」(p.237)と、「日本政府も『慰安所』の設置と運営に軍が関与していたことを認め、お詫びと反省の意を表し」たこと、政府は「賠償は国家間で解決済みで」「個人への補償は行わない」としていること、そのため「女性のためのアジア平和国民基金」を発足させたこと、この問題は「国連の人権委員会やアメリカ議会などでも取り上げられ、戦争中の女性への暴力の責任が問われるようになって」いることなどの客観的事実を述べた記述(p.279)です。しかし、検定ではこれを「欠陥箇所」の一つにあげ、不合格にしました。その結果、合格した教科書では、「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地に送られた人たちがいた。この女性たちは、日本軍とともに移動させられ、自分の意思で行動することは許されなかった」という記述(p.239)になって、「問い直される戦後」の項の側注資料(p.281)には「河野談話」の一部要約が記述されています。

 政府見解を押しつける教科書づくりは、領土問題で顕著です。社会科の「学習指導要領解説」の改訂によって、2016年度用では全社が取り上げ、2ページの大型コラムを設けたのが3社あり、その他にも小コラムで扱っています。地理や公民では領土問題の記述を軒並み増やし、政府見解通りに、北方領土・竹島・尖閣諸島は「日本の固有の領土」、北方領土はロシアが、竹島は韓国が「不法に占拠」と横並びに書き、尖閣諸島には領有権問題は存在しないと政府見解を丸写ししています。そして韓国や中国の主張にふれたものはありません。

 通説がないときは通説がない旨を明記せよとの新設された検定基準が文字通り適用されたのが、清水書院の関東大震災における朝鮮人虐殺事件についての記述です。「警察・軍隊・自警団によって殺害された朝鮮人は数千人にものぼった」との現行版記述をそのまま検定提出したのに対して、通説的な見解がないことが明示されていないとの検定意見が付され、「自警団によって殺害された朝鮮人について当時の司法省は230名あまりと発表した。軍隊や警察によって殺害されたものや司法省の報告に記載のない地域の虐殺を含めるとその数は数千人になるともいわれるが、人数については通説はない」(P.221)と必要以上に詳細な記述に変更されてしまいました。

 今回の検定では従来よりいっそう書かせる検定という性格があらわになり、歴史でさえ政府見解に基づいて書かせるということになってしまいました。

 育鵬社版・自由社版の教科書は、国際常識や国民世論に反して歴史修正主義を大きく変えないで、検定意見による修正も含め基本的には現行版の枠組みを維持しています。そのことは同時に、育鵬社版・自由社版が、神話と神武天皇の扱いなどの歴史歪曲、近代日本がおこなった侵略戦争と植民地支配や韓国併合の美化、天皇制賛美、日本国憲法の敵視と歪曲等々の点で、これまでと本質的にまったく変わらないことを示しています。こうした教科書を中学生に手渡すことができないことは何度強調してもしすぎることはないと思います。

2.公民の部落問題記述は改善されていない

 大阪歴史教育者協議会のホームページ(http://osaka-rekkyo.main.jp/archives/105)には、柏木功さんの「中学校公民教科書の部落問題は大問題-部落問題解決の到達点を無視、認識は同対審答申のまま-」の論文がアップされています。また、亀谷義富さんは、「中学校公民教科書の部落問題記述の問題点」を季刊「人権問題」2011冬号(兵庫人権問題研究所)と『国民融合通信』№457(2012年5月発行)に書かれています。これらは、2008年学習指導要領改訂にもとずく教科書(2012~2015年度使用)についての批判です。この批判を受けて、今回の改訂でどれだけ改善されたかと期待を持って見ましたが、記述内容は、ほとんど変わりがなく、期待はずれに終わりました。  「部落問題」とは何かがわかるように記述されていないし、部落差別の克服・解消は進んでいるのか、同和対策特別法は終了したとを書いているのかなどの点で、どの教科書も不十分で、改善されているとは言いがたいものとなっています。

 部落問題とは、江戸時代までの日本の社会が身分制の社会であり、明治以後も地域社会の中で江戸時代の賤民身分につながりがあるとされた一部の地域集団が差別されていました。それが近現代の社会問題としてつづいてきたものであり、封建時代の残りかすなのです。しかし、教科書はそのようには書いていません。

 「部落差別とは,被差別部落の出身者に対する差別のことで,同和問題ともよばれます。すでに江戸時代には,えた身分・ひにん身分という差別がありました。明治にはいって身分解放令が出され,そのような差別はないこととされましたが,実際の生活では,差別が根強く残りました」(帝国・公民P.44)などと不十分なことを書き続けています。もっとも問題なのは、育鵬社が「部落差別は憲法が禁止する門地(家柄・血筋)による差別のひとつに当たります」(P.69)と、部落差別は、門地による差別のひとつで帝国憲法下では許されていたが日本国憲法によって禁止されるようになった。だから、憲法で禁止されているが現在も家柄や血筋による人権侵害(差別)が残っているがやってはいけないことだと認識させようとしています。部落差別の起源も現状認識も間違ったものです。

 部落問題の解決とは、社会生活の中で出自を意識しない、出自など関係ないわ、という状態になることです。「同和地区」の指定もなくなり、「同和地区」出身かどうかを意識することも問題にすることもありません。現在では、社会問題としての部落問題は基本的に解決しています。まだ偏見や誤解を持つ人がいたとしても、社会としてそれが受け入れられることはなく、みんなで克服して国民融合をすすめていくという段階にまで達しています。ところが、小学校の教科書には、4社とも同和対策特別法が終了したことを書いていません。中学校の教科書は現行通り、帝国が以下のように書いているだけで、他社は触れていません。帝国は本文で「同和地区の生活改善や,差別をなくす教育などが行われてきました(1)。しかし,現在もまだ,さまざまな場面で差別や偏見があります」と書き、側注で(1)「その結果,生活環境の格差が少なくなり,教育・啓発が進むなか,2001年度で特別対策は終了しました」と記述しているにすぎないのです。そのあとの「部落差別をなくすためには,私たち一人ひとりも,部落差別がいかに人間的に許されないかに気づき,差別をしない,させない,許さないことが大切です。」と差別をなくす心がけを説いている点も改善されていません。

 教出は本文で,東書は側注で、2000年の人権教育・啓発推進法を取り上げていますが、「現在でも差別は根強く残っている」と書いています。日文は本文で「対象地域の生活環境はかなり改善されてきました」と書き、側注で「2000年には、人権教育・啓発推進法が制定されました」と書いています。教科書は部落問題の克服・解消が進んだと書かないのです。

 公民の教科書に被差別部落の歴史を簡潔に書こうとしていますが、どの教科書も不正確で、問題のある記述をしています。詳しいことはここでは触れません。柏木さんの論文を見てください。
3.歴史的分野の記述も改善されず

 新中学校教科書の歴史的分野は八社の教科書が検定合格しましたが、中味は改善されたのでしょうか。学習指導要領はそのままですから、大きく改訂しなければいけないという個所はないはずです。検定基準の改悪などによって、現行版を守ることすら難しいことはすでに触れましたが、執筆者・編集者の努力で改善された個所もあることはあります。しかし、前近代の身分制・近現代の部落問題記述は、依然として特殊化・肥大化されたままです。ほとんどの教科書は現行版のままで、改訂されたものも改善されたとはいえません。その詳細は、のちに見てみます。それでも、学び舎の教科書が一度不合格になりながら、再提出で検定合格したことはたいへん大きな意義があると思います。学び舎も前近代の身分制・近現代の部落問題についてふれてはいますが、他の教科書に比べて記述量が少ないし、記述内容も違っています。詳細はのちにふれます。

 私は中学生にも前近代の身分制のうち河原者やかわた(えた)・ひにんについて教える必要はないと思っています。日本の歴史を学ぶときに、江戸時代の賤民について学ばねばならないわけではありません。大事なことは武士と百姓、町人の身分の別とそれによって暮らしがどうだったのかがわかればよいと思っています。1974年の中学校教科書に、江戸時代の賤民について記述され、その後の改訂で詳しい記述がされるようになりました。そんなことは必要ないのです。中学での歴史学習の際、そんなことは無視すればよいのです。ところが、いまだに詳しく記述され、教えられています。近現代の賤称廃止令(いわゆる「解放令」)、全国水平社の結成についても、中学生に教える必要があるとは思いません。そして、現代の課題で同対審答申を引用し、いまだに部落差別が残存しているかのように書くのは誤りです。それでも書くとすれば、部落差別が克服・解消され、同和対策が終了したことを書くべきです。歴史学習の最後を、部落差別やアイヌ差別、在日外国人差別などが厳然と残っているという学習で終わらせてはならないと思います。

 8種類の教科書すべてがふれている個所は、江戸時代の身分制、近代の賤称廃止令、全国水平社の結成の三個所ですが、そのほかの身分制・部落問題に関わる記述内容についても見てみましょう。

1)室町時代の「河原者」

 室町文化で、なぜ、「河原者」だけが特別扱いされるのでしようか。他の技術者や芸能者、被差別民については記述しないで、なぜ庭園づくりに携わった河原者だけを詳しく記述するのでしょうか。観阿弥・世阿弥の人名は書かずに善阿弥を記述する重要性があるのでしょうか。それなのに、「河原者は差別をうけ」と書くから、「けがれ」観についての説明が必要になるのです。子どもたちに理解できるでしょうか、死などについての偏見が強まるだけではないでしょうか。「河原者」について、もっとも詳しいのは、帝国です。本文は「龍安寺禅宗寺院では,砂や岩などで自然を表現した枯山水の庭園がつくられ,こうした庭園づくりには河原者がすぐれた手腕を発揮しました。」(p.82)と書き、「コラム人権」の「庭園づくりに活躍した河原者」の題で「この時代には龍安寺などで庭園がつくられ,天下一と賞賛された善阿弥をはじめ,庭園づくりの名手が登場しました。その名手の多くが河原者とよぱれた人々でした。昔は,天変地異・死・出血・火事・犯罪など,通常の状態に変化をもたらすできごとにかかわることを「けがれ」といいました。「けがれ」をおそれる観念は,平安時代から強まり,「けがれ」を清める力をもつ人々が必要とされていきました。しかし一方で,清める力をもつ者は異質な存在として,差別を受けるようにもなりました。河原者もそうした差別を受けた人々でした。彼らは井戸掘リや死んだ牛馬から皮をとってなめすことも行っていました。彼らはおそれられましたが,その仕事は社会にとって必要であり,すぱらしい文化を築いていきました。なお「けがれ」は,近代以降に生まれた不衛生という考え方とは異なるものです。」と書き、龍安寺の写真の説明に,「龍安寺の石庭(京都市)制作にたずさわった河原者の名前が残っています」。さらに,「法然上人絵伝」の写真の説明で,「死刑に処される僧侶と河原に集まる人々 川はけがれなどさまさまなものを浄化してくれると考えられていました。そのため刑の多くは河原で行われました」(p.83)と書いています。私は、庭園づくりに活躍した河原者について書く必要はないと思いますし、けがれについての説明も江戸時代の身分制のコラムと重なっています。両方とも必要はないと思います。  教出は「コラム 歴史の窓 庭園づくりに活躍した人々」、東書も「歴史のアクセス 河原者たちの優れた技術」の詳しい説明を書いています。育鵬社、日文、学び舎は「河原者」の語は出していますが、詳しい説明はありません。自由社と清水は、「河原者」の記述はありません。

2)江戸時代の身分制

 日文は現行版を改訂せず「幕府は、武士と、百姓・町人という身分制を全国にいきわたらせました。治安維持や行政・裁判を担った武士を高い身分とし、町人よりも年貢を負担する農民を重くみました。さらに百姓・町人のほかに、「えた」や「ひにん」などとよばれる身分がありました。「えた」身分の人々の多くは、農業を営んで年貢を納めたり、死んだ牛馬の処理を担い、皮革業・細工物などの仕事に従事したりしました。また、「えた」や「ひにん」の身分のなかには、役人のもとで、犯罪人の逮捕や処刑などの役を果たす者、芸能に従事して活躍する者もいました。これらの人々は百姓・町人からも疎外され、住む場所や、服装・交際などできびしい制限を受けました。こうした身分制は武士の支配につごうよく利用され、その身分は、原則として親子代々受けつぐものとされました」と書いています。2001年版以来少しずつの変化ですが、「死牛馬の処理」を仕事と書くのではなく、はっきり「役」とは書いていませんが、「担い」と幕府や藩によって強制されたもののように書いています。これは、学び舎が「「かわた(長吏)」「えた」とよばれた人びとは,農業や皮の加工などに従事し,死んだ牛馬の処理を役としました。「ひにん」は,村や町の番人・清掃などの役を負担しました」(p.117)と書いているのとともに重要なことです。仕事と役の区別をしっかり書いているのは、学び舎だけです。学び舎が「かわた(長吏)」の語を使ったのもよいことだと思いますが、使うとすれば、用語についての説明も注釈もないのは不親切だと思います。

 他の教科書は死牛馬の処理を権利としたり、仕事のひとつと書いていますが、それは誤りです。教出は「えたの身分のなかには,農業を営んで年貢を納める者も多く,死んだ牛馬を処理する権利をもち」(p.113)と書き、東書は「えた身分は,農業を行って年貢を納めたほか,死んだ牛馬の解体や皮革業,雪駄作り,雑業などをして生活しました。…」(p.115)と、生業と役を区別していません。帝国は、「コラム 人権」で、「差別された人々」を扱っています。「近世の社会にも,中世と同じように,天変地異・死・犯罪など人間がはかりしれないことを「けがれ」としておそれる傾向があり(→p.83),それにかかわった人々が差別されることがありました。もっとも、死にかかわっていても,医師・僧侶・処刑役に従事した武士などは差別されなかったので、差別は非合理的で,支配者につごうよく利用されたものであるといえます。差別された人々は,地域によってさまざまな呼び名や役割で存在していました。えたとよばれた人々は,農林漁業を営みながら,死牛馬からの皮革の製造,町や村の警備,草履や雪駄づくり,竹細工,医薬業,城や寺社の清掃のほか,犯罪者の捕縛や行刑役などに従事しました。ひにんとよばれた人びとは,…」(p.117)と、「庭園づくりに活躍した河原者」で説明したことを再び書いていますし、死牛馬の処理を役と位置づけていません。こんなに詳しい説明をする必要がどこにあるというのでしょうか。幕藩体制によって、百姓、町人、えた、ひにんは、がんじがらめに縛られていたということを印象づけたいのでしょうか。

3)身分制の強化、渋染一揆など

 江戸中期の身分制の強化についてふれているのは日文だけです。日文は現行版そのままで「近世史プラスα」のカコミ「豊かになる人々と身分制のひきしめ」で、「「えた」身分の人々のなかにも,広い田畑を経営する者や,雪駄づくりの仕事を行って豊かになる者も出てきました。村の人口も増え,他地域との交易も広まりました。これに対して幕府や藩は,身分制のひきしめを強め,特に「えた」や「ひにん」などの身分の人々に対しては,人づきあいや髪型・服装について,さらに統制をきびしくしました。…」(p.135)と、「えた」身分のなかに豊かになる者があらわれ、身分制がゆるんだので、差別が強化されたという問題のある書き方です。豊かになるものがあらわれたのは、えただけでなく、百姓、町人にもいます。えたを強調する必要はありません。

 蘭学の項で人体解剖をして説明をした「差別された人々」についてふれているのは、帝国(「解体新書」の側注,p.132)と東書(挿絵の説明p.130)だけです。学び舎は「人体解剖の驚き」という項をもうけていますが、「90歳になる老人が腑分けをはじめました」とあるだけで、「差別された人々」とは書いていません。もし書くとしても、賤民にふれる必要はないでしょう。  「渋染一揆」は、教出は本文と発展で、東書と帝国はカコミで、日文は発展で扱っています。日文は発展ページ「新しい世の中をめざした人々」で、「差別の撤回を求めた人々」として渋染一揆について書き、そこでは、「19世紀のなかばころから、社会の枠組みをこえて、自由な経済活動や平等な社会を求める動きが盛んになりました」(p.164)と「世直し一揆」の位置づけをしていますが、他はそうした位置づけになっていません。

4)四民平等、賤称廃止令

 四民平等については、表題は違いますが、すべての教科書に記述されています。清水が「国民の平等」を見出しにしていますが、新しい身分制がつくられたのですし、この段階で「国民」になったわけではないので、不適切だと思います。教出の「残された差別」の見出しも改革の面よりもマイナス面を強調するので不適切だと思います。学び舎が「古い身分の廃止と新しい身分」の題で書いているのと、「解放令」と書かずに、「「えた」「ひにん」などの呼び方を廃止して、平民としました」(p.173)は、これまでなかった表現で、身分制の改革と賤称廃止の布告内容を正しく伝えるものになっています。

 「生活が苦しくなった」「社会的差別は根強く残りました」と書くのは、育鵬社、自由社、清水、帝国、学び舎です。

 日文は、「職業・結婚・居住地などをめぐる差別が根強く残りました」と書いたあとに「そこで,「解放令」をよりどころに,山林や用水の平等な利用,寄合や祭礼での対等な交際の要求など,差別からの解放と生活の向上を求める動きが各地で起きました。」(p.167)と書いているのは妥当なことです。さらに、側注で「明治以降のこの問題を部落差別とよんでいます(→p.217)。こうした身分の人々は,改善策も受けられず,それまでもっていた職業上の権利を失いました。」と書いています。「部落差別」の位置づけはこれでよいと思いますが、「職業上の権利」はこれまでどこにも書いてなかったことです。江戸時代の身分制で、死牛馬の処理は「役」に位置づけていました。どこで、どうして「職業上の権利」になったのでしょう。その説明なしには、この文章は理解できません。そして明治になって、死牛馬の処理権を失ったのは被差別部落のごく一部の豊かな人だけです。

 育鵬社は「政府は身分制度を改めるため,四民平等の方針を打ち出しました。新しくつくられた戸籍には,旧武士は士族、大名や公家は華族,それ以外の人々は平民として,新たな身分が記載されました」(p.168-9)と、皇族についての記述がありません。大事なのは、天皇と皇族、家族、士族、平民の新しい身分と書くことです。

 東書は、発展で「「解放令」から水平社へ」と題して2ページつかっています。内容は現行とほとんど同じで、「解放令」とその後、部落解放運動の始まり、島崎藤村の「破戒」を扱っています。このページにあるカコミも含めて、こんな文章や図版が必要とは思えません。

5)全国水平社の結成

 大正デモクラシーと社会運動の高まりで、多くの教科書が全国水平社が創立(組織)されたと書いています。育鵬社も、日本労働総同盟、日本農民組合の結成と全国水平社が組織されたと書き、そのすぐあとに、「ロシア革命の影響で共産主義の思想や運動が知識人や学生のあいだに広がっていきました。ソ連と国交を結んだこともあり,…君主制の廃止や私有財産制度の否認をめざす活動を取りしまる治安維持法を制定」(p.217)と、日本共産党の結成にふれずに書いています。水平社宣言と山田孝野次郎少年の演説の写真を載せています。自由社も水平社創立宣言の一部を掲げていますが、全国水平社以外の具体的な団体名や主張にほとんどふれていません(p.219)。東書、日文、教出、帝国、清水、学び舎は日本農民組合や全国水平社、新婦人協会、日本共産党の結成などを書いています。教出は、本文で、「ロシア革命や米騒動などの影響も受けて,社会運動が活発になりました。」と書いたあと、労働争議、メーデー、日本共産党の結成(1)、小作争議にふれ、「女性を社会的な差別から解放し… ,また,厳しい部落差別に苦しんでいた人々は,1922年に全国水平社を設立し,差別からの解放と自由・平等を求める運動を進めました。」と書いたあと、側注(1)で「私有財産制度や君主制の廃止,8時間労働制などを主張して活動しました」と明記しています。そして、つぎのページに「水平社宣言」の一部と山田孝野次郎の演説する写真を載せています。日文も「無産政党」についても書き、団体や政党が何をめざしたのかを書いています。重要なことだと思います。

6)現代の課題

 東書の現行版は、「日本社会の課題」の部落差別に関わる側注で「…特別措置法にもとづく対策事業は終了しましたが,引き続き,教育の充実,職業の安定,産業の振興といった面での改善,人権教育や人権啓発などの推進が図られています」(p.242)と同和対策事業の終了を書いていましたがが,新版では本文で「まず重要なのは,人権の尊重です。部落差別の撤廃は,国や地方公共団体の責務であり,国民的課題です」(p.262)と書き、側注で「部落差別の問題(同和問題)は,長い間の部落解放運動(→P161)の発展を基礎として,1965(昭和40)年に国の同和対策審議会の答申がなされて以来,特別措置法によって改善されてきました。現在は,引き続き,教育の充実,職業の安定,産業の振興といった面での改善,人権教育や人権啓発などの推進が図られています。」と特別措置法にもとづく同和対策事業の終了を削除してしまいました。大きな後退です。

 同和対策事業の終了は、他の教科書でも書かれるようになるのかと期待したのですが、残念ながらどの教科書にも書かれていません。それどころか、教出、清水は「差別や偏見が残っており」と書き、日文は「部落差別の撤廃は、国や地方自治体の責務であり、国民的課題です」(p.271)と本文で書き、側注で、人権擁護施策推進法にふれています。私には、どうしていつまでも、このような記述を続けるのか理由がわかりません。

 学び舎が歴史学習の最後を「平和という言葉」の表題で、「戦場の生きものたち」「北の川のほとりに住む人」「あなたの夢は」で構成し、「人は,健康で,楽しく遊んだりして,自分の夢をかなえていく,そんな平和な世界を思い描きます。平和は,戦争によって破られるだけでなく,貧困や差別,人権の抑圧,環境の破壊などによっても、その実現が妨げられます。平和を実現したいと望むなら,どのようにして平和が壊され,失われてきたのか,過去の歴史から学ぶことが必要です。…」と書いています。現代の課題をどう書くかは、たいへん重要です。そこに部落問題の解決を国民的課題と書く時代は終わりました。差別や人権の抑圧が問題だと書くだけで十分です。東書、日文、教出、清水のように部落差別を特別扱いするのはやめるべきです。

 (帝国や教出の側注の番号表記は、黒丸の中に白抜きで数字ですが、インターネット掲載にあたっては文字化けを避けるため(1)などのように表示しました。)

中学校公民教科書の部落問題記述の問題点

中学校公民教科書の部落問題は大問題
-部落問題解決の到達点を無視、認識は同対審答申のまま-

2011.9.24.
柏木 功(大阪教育文化センター「人権と教育」部会)

1.はじめに

 中学校教科書の部落問題記述の問題点は、2005年8月に小牧薫さん(大阪歴教協委員長)が論評されている。
 今回、2012年から使用される中学校教科書の採択が行われたが、社会科公民(中学校3年生が学習)教科書の部落問題記述は、なんら変化なく、大きな問題がある。 “中学校公民教科書の部落問題記述の問題点” の続きを読む

大阪における同和教育終結への課題(1998)

大阪における同和教育終結への課題(1998)

 矢田事件以来吹き荒れた大阪における解放教育、運動団体と行政が加担した誤りの責任は余りにも重い。すべてを差別という視点に矮小化したところに誤りの根源がある。

「どの子も伸びる」1998年4月掲載

1.「解放教育」の発生と大阪

 1969年に引き起こされた大阪の矢田事件、それは部落排外主義の台頭のもと、「同和教育」を「解放教育」と改称し始めていた「解同」中央本部の方針のもとで、必然的に引きおこされた事件と言えるのではないだろうか。

 矢田事件とは「組合員の皆さん、労働時間は守られていますか。進学のことや同和のことなどで……」という組合役員選挙での挨拶状が一方的に差別文書とされ、記載者が「解同」府連幹部等二百人以上から脅迫、つるし上げを受けるといった事件である。

 裁判の結果は、結局、最高裁で「解同」幹部に有罪、また、差別と断定し強制配転、研修を押しつけた大阪市教委にも賠償命令が確定した。この事件の引き起こされ方一つを見ても、「解放教育」が、部落排外主義の部落解放運動の忠実な僕であったことがわかるのではないだろうか。

 それでは、裁判の結果が示したように、教育の分野で「解放教育」は正されているのだろうか。決してそうは言えない。大阪市教委はなお、矢田事件に対する謝罪を行っていないし、大阪府教委は解放教育研究会の編集による解放教育読本「にんげん」の無償配布を続けている。

2.解放教育読本「にんげん」と大阪

 雑誌「部落解放」第10号(1970年10月発行)は、解放教育読本「にんげん」の出発点を特集していて興味深い。まず、その中のいくつかの文章を紹介する。

 「にんげん」は全国解放教育研究会の編集によるものである。この「会」は部落出身教師と部落解放運動にかかわる教師・活動家によって組織されており、部落解放同盟中央本部教育対策部に属した研究組織である。だが、編集・作成にあたっては多様な要求が結集され、多くの組織が関係してすすめられてきた。

 現在の教育の内容と体制が、部落差別に全く無関心であるばかりではなく、明らかに差別を容認し、さらにこれを助長するものであることは繰り返し述べてきたところである。それは検定教科書のいずれを取り上げてもただちに指摘できる。学習指導要領はその内容において差別性をもち、その拘束性において解放教育創造のための教育現場 の闘いを圧迫し続けてきた。

 「にんげん」は権力によって他律的におしつけられたものではなく、逆に権力による不当な教育支配を打ち破る武器として積極的に活用できるものであり、すでにのべた通り、解放教育をすすめるために私たちが作成に参加し、その無償配布を要求したものである。  「にんげん」の内容は、教科の領域、集団指導の領域、部落問題、部落解放運動にかかわるものによって構成されている。それは、いずれも今日の解放教育の諸課題と解放運動の状況を、子どもの発達に即して教材化されたものである。

 これらの文章は、解放読本「にんげん」がつくられた出発点をよく表している。

 しかし、そもそも、部落解放の武器として行政に読本の無償配布を要求することが正しいことであったのだろうか。しかも、運動団体に所属する研究部によって編集されたものを。いくら教科書検定や指導要領に差別性と拘束性があったとはいえ。

 部落排外主義の糾弾路線は、府教委を屈服させ、無償配布をさせたのだが、これこそ教育の自由と自主性を奪っただけでなく、以後推進された「にんげん」実践は、部落問題の特殊化、肥大化の大きな要因をつくり出し、かえって部落問題解決への障害を生み出したのである。大阪ではまだ、それが是正されていない。

3.不公正・乱脈の同和行政と大阪

 同じ雑誌「部落解放」(第10号)のグラビアは、学校建設運動の成果として、○○○中学校の写真を掲載している。35人学級の普通教室、廊下は幅3・5メートル、LLの施設のついた英語教室、そして冷房付の講堂、その下に食堂という具合である。

 果たして、学校建設運動の成果と言えるのだろうか。同じ時期、77億円をかけてつくられた大阪市○○区○小学校には、1000人収容の大食堂やプラネタリュームまでがつくられている。(当時、普通の小学校の建築費は5億円前後)言うまでもなく、このあまりにも異様なコントラストを生みだしたものが、「窓口一本化」行政であった。

 「原罪論」「償い論」を武器に、「解同」が同和行政を自らの管理下においていった結果であった。

 それでは現在、そうした窓口一本化行政は是正されたのかと言えば決してそうではない。大阪府同和対策促進協議会(府同促)、各市同和対策促進協議会(市同促)方式のもとで、補助金、助成金、交付金が湯水のごとく使われているのである。

 1995年度の大阪府の教育にかかわる同和予算を以下紹介すると、同和加配人件費(約62億円)、「にんげん」購入費(約1億円)、府同教補助金(約1000万円)、全同教大会補助金(約1000万円)、部落解放研究所運営補助など研究事業費(約4000万円)である。

 市町村へいけば、市同和教育研究会への交付金、人権啓発協議会への交付金とあげればきりがない。
4.解放教育推進の大阪府同教と各市同教

 「差別の現実かち深く学ぶ」と称して運動を学校教育へと結合させ、「差別の現実に立ち向かい、それを変革していく子ども」と称して、解放の戦士を育てる取り組みが「にんげん」の配布とともに、大阪府同教と各市同教によって推進されている。

 大阪府同教は毎年、「にんげん」実践研究集会や府同教研究大会、そして夏期一泊研を開催し、月一回府同教通信を府下の教職員全員を対象にして配布している。その内容たるや、「同和教育を軸に、教育改革の大展開を」とか、「出会いとつながりを求めて」とか、これまでの「同和原点論」ひきずりながら、反差別だけでなく多文化、共生という視点を加えている。

 最も茶番に思えるのは、すべての研究費を大阪府に依存しながら、その府に対して「同和加配」交渉にのぞんでいることである。府同教通信には、「法のあるなしにかかわらず、差別があるかぎり施策は必要」という府教育長の答弁をかち取ったとはずかしげもなく写真入りで報告している。

 各市同教も府同教とほとんど同じ方針で運営され、法が切れた今年3月以降も、「人権教育の重要な柱として同和教育を推進する」としているところが多い。

 いずれにも共通して言えることは、人的にも財政的にもすべて府や市に依存しながら、府教委や市教委に自らの主張を押しつけているのである。府教委や市教委も心得たものでそれを活用しているのである。府教委から毎年出される「同和教育のための資料」や各市で発行されるパンフレットは府同教や市同教で報告された実践がそのまま載せられているのを見ても一目瞭 然である。

5.「人権教育」への転換と大阪

 1995年、第49回国連総会で「人権のための国連の10年」が採択された。それを受けた日本政府はいち早く反応し、翌年国内行動計画を策定した。この背景には、言うまでもなく、1997年3月末の同和事業法の期限切れから人権擁護施策推進法の成立へと移行する政府の動きがあった。一言で言うなら、解同の要求してきていた「部落解放基本法」の落としどころとして、国連十年、人権擁護施策推進法に軟着陸させたのである。

 文面を比較すればわかるが、国連10年の内容は人権に関する情報提供や包括的な人権について述べているが、国内行動計画では人権概念を差別意識の問題に倭小化し、しかも啓発や特別な人権教育を強調しているのである。つまり、国連の提起を、人権擁護施策推進法と似たものに歪曲したのである。

 この国内行動計画を全国に先がけて実施に移そうとしているのが大阪府であり、昨年三月に大阪府は行動計画を策定した。そこでは、学校や職場における人権教育の推進としてより体系的、実践的な人権プログラムの必要性と、対象者がより主体的に参加できる手法を求めている。  現に今、それに沿って「人権教育」を特別なものとしてカリキュラム化してきている学校が現れている。

 国連の人権10年は1995年から2004年である。国連の提起する人権の拡大のためにも、歪められた行動計画を批判し、同和教育の終結の取り組みをすすめることこそが大切である。

身分制度・部落問題の授業にどう取り組むか(2005年)

身分制度・部落問題の授業にどう取り組むか
  - 新中学校教科書の部落問題記述を批判する -

小牧 薫 2005年8月

1.2006年度用中学校用教科書の問題

 身分制研究の進展と部落問題の解決、同和教育の終結をうけて、教科書の記述は変わったのでしょうか?

 1972年の小学校教科書に「その他の身分」として「賤民」についての記述がなされ、74年の中学校歴史教科書には、「えた・ひにん」について詳しく記述されるようになりました。それから30年以上たつのですが、小・中の教科書は基本的には変わっていませんでした。その間、鈴木良さんが『教科書のなかの部落問題』(初版1989年、改訂増補班90年,部落問題研究所)で、小・中学校の教科書批判を展開されました。私たち歴史教育者協議会の会員も旺盛に教科書批判を続けてきました。そうした甲斐もあってか、2006年度用の教科書のなかには大きく改善されたものもあらわれました。しかし、まだ旧態依然たるものもありますし、政治起源説を払拭しきれないものもあります。帝国書院の教科書は、2002年度用で「ケガレ」説を書きましたが、今回の改訂でも、その内容は変わっていません。また、いくつかの教科書が「現代の課題」で、いまだに同対審答申を引用し、「部落差別は根強く残されている」というような記述をしています。

 現行の学習指導要領(99年版)の問題点については、すでに多方面で批判されています。なかでも社会科の内容は、科学性・系統性を無視して、「国土と歴史に対する愛情を育てる」ことが目標に盛り込まれたように、いっそうの改悪がすすみました。そのうえ、歴史修正主義者たちの攻撃や文部科学省による教科書記述に関する介入・干渉によって、教科書会社の自主規制もおこなわれ、日本の侵略戦争の実態、なかでも日本軍慰安婦、南京大虐殺、沖縄戦などの記述はおおきく後退させられました。97年以来、教科書問題というと、「つくる会」などの攻撃による教科書記述の改悪、「つくる会」の扶桑社版中学教科書の採択問題があげられますが、いまだに近代以前の身分制と部落問題についての記述は捨ておけない重要問題です。

 2006年度用の中学校教科書採択が終わり、「つくる会」の扶桑社版『新しい歴史教科書』の採択率は0.4%にとどまりました。市民の良識の勝利ではありますが、5000冊近くが子どもたちに手渡されます。日本の侵略戦争肯定、天皇中心の教科書で学ばされる問題もありますが、この教科書の身分制度と部落問題の記述も大きな問題をもっています。そして、採択率51.2%の東京書籍(以下「東書」)も、身分制度と部落問題に関する記述内容に大きな問題があります。

 本稿では、部落問題・民族問題についての記述がどう変化したのを明らかにするとともに、中学校の歴史や公民の授業でこの問題をどう扱うべきかを提起してみたいと思います。

2.2006年度用中学教科書の身分制度と部落問題についての記述

 前近代の身分制度と賤民身分に関わる記述は、「中世の文化」での、「河原者」、「江戸時代の身分制度」、「身分制のひきしめと差別撤廃を求める動き(多くは「渋染一揆」を記述)」の三ヵ所です。記述量の多いのは、大阪書籍(以下「大書」)と帝国書院(以下「帝国」)の二社のものです。一方で、日本文教出版(以下「日文」)は「河原者」について、扶桑社は「身分制のひきしめと差別撤廃を求める動き」について触れていません。

 「戦後の部落解放運動」も帝国と扶桑社は触れていません。「現代の課題」で部落差別について扶桑社と日本書籍新社(以下「日書」)は書いていません。

 このように教科書がとりあげる事柄についても、今回の改訂で大きな違いが出ました。それは執筆者の考えも反映しての結果とも思いますが、文科省による規制強化のせいだと思われます。文科省は、「つくる会」などの要求もあって、あらたに「検定結果の発表以前に白表紙本(検定申請本)を漏出させてはならない、もし、漏出が判明すれば教科書検定事務を中止する」という規則を、各教科書会社に通知しました。そのため、以前は、他社の白表紙本を検討し、書き直しをしていたことができなくなり、各社の判断で改訂作業をおこなった結果だと考えられます。また、文科省が、いわゆる「横並び」を求める検定をやめたことで、大きな違いが出てきたものと推測されます。

 いずれにしても、現在発行されている小・中学校の教科書の賤民身分についての記述は、分量が多すぎることと、内容も科学的な歴史研究を反映したものは少ないという問題を残しています。97年度用の教科書はどの社のものも300ページを超える分量でした。02年度用からは、200ページほどに薄くなりました。たしかに判型が大きくB5版となりましたが、写真や図表が大きくなり、左右に側注が付けられたため、1ページの文字数はどの社のものもほとんど変わっていません(扶桑社は06年度用からB5判に改訂)。ですから、文章は三分の一に厳選されたのです。ところが、身分制や部落問題についての記述量はまったくと言っていいほど変わっていません。「部落問題記述の特殊化、肥大化」と批判したことが改善されていないのです。特定の運動団体の要求や憲法・教育基本法に反する文科省の指導や検定が大きな原因だとは思いますが、教科書会社の営業政策や執筆者の自己規制も原因だと考えます。

3.身分制度・部落問題学習をどうすすめるか

 東上高志氏は「社会科と部落問題学習」(『別冊 教師のはぐるま 2』1975年)に、「部落問題学習の基本構想」を書かれています。そこでは、「教科書通りに、しかも資料を補強しながら、学習していきます。それが『封建社会の確立』まで進んだと仮定します。その学習のすんだ時点で、5時間か6時間を設定し」て、「部落は、いつ、誰が、何のためにつくったか」を教えることを提案されています。私自身も、「部落は、いつ、誰が、どのような必要性から、つくったのか、を科学的にとらえさせることはたいへん重要な課題である」と書いたことがあります(『部落』 366号 78年5月)。この考えが克服されるまでに長い時間がかかりましたが、今ではそうした教育実践が誤りであることがはっきりしています。

 東上氏も雑誌『部落』(554号 92年9月)で、「部落問題を正しく理解することは、本来、青年期教育や成人教育の課題であったにもかかわらず、それがストレ-トに子どもたちの学習課題にもち込まれたのである。ここから部落問題学習は新しい段階に入った」。しかし、その誤りが克服され、「小学校では部落問題を教えることはしない。教科書には部落問題を記述しない。現行教科書の記述を無視する。中学校においては部落問題だけをとりだした『特設単元』的なやり方はしない。ましてクラス担任がホームルームで特別な指導をすることは誤りである。」と書かれるようになりました。そして、私も出席した雑誌『部落』562号(1993年4月)の「部落問題学習をめぐって」の座談会で、勝山元照氏が「今日の部落問題は数学でいうたら微積分ぐらいむずかしい学習課題です。小学生は四則計算、中学生は関数というふうに習って微積分に進むわけでしょう。小学生にいきなり微積分教える人いてないでしょう」と述べ、前近代の賤民身分、近現代の部落問題についての学習は、義務教育段階で完結させる課題ではなく、高校生が社会問題について充分考えられるようになった段階で学習すべき課題だということで一致しました。

 部落問題という複雑な社会問題を学習するのは、青年期教育や成人教育の課題であるということをふまえたうえで、近世社会の学習において賤民身分のことをどうするかがつぎの課題です。

 私は、このことも小学校では教えない、教える必要がないと考えます。南部吉嗣氏は、「小学校社会科の部落問題学習について」(『どの子も伸びる』 1984年3月号)で、「とりたてて被差別部落の成立、歴史的経過、現状といった部落史を明らかにするということは目標にしない」としたうえで、小学校の歴史の授業の目標をつぎのように述べています。「(1)日本史全体をそれぞれの時代区分に従って大きくまとめ、その時代の具体的なイメ-ジを豊かに描き出させる。そのための教材の組み立てに工夫をする。(2)各時代を大まかに比較して、それぞれの時代のちがいがわかるようにさせる。(3)そのことを通じて、民衆のくらしやたたかいの方法が時代の発達とともに、進歩、発展していることが確認できる」と。

 小学校では、近世社会の成立で賤民身分については教えない。教科書の記述も無視する。秀吉の検地・刀狩によって、武士と農民が分けられ、住いも固定されたが、農民たちは長い間願っていた土地に対する権利を獲得し生産を高めることによって生活を向上させる道がつけられたことを教える。幕府や諸藩にとっても、生産が高まることは年貢収入が確実になるので、農業振興策をとるとともに、農民(本百姓)が没落しないようにさまざまな制限を加えたことを理解させる。これが近世封建社会成立期の目標です。

 中学校の歴史教育は、はじめて日本の歴史を世界の歴史と関連させながら学びます。人類の誕生から現代までを通して社会の変化・発展を学ぶ機会でもあります。

 ですから、階級とか身分ということを前近代の学習でつかみとらせることが大切です。日本民族の形成ということについても学ぶ必要があります。また、幕府権力が北海道から沖縄までを支配するようになったことも欠いてはならないことです。織豊政権から幕藩体制のもとで、百姓たちはどんなくらしをしていたのか、どんな願いをもって、どう行動したのか、それに対して権力は支配体制を維持するためにどんな政策を実施したのか、基本は、武士と百姓を中心にしてとらえさせることが目標です。そのためには、身分制社会についてわかることが条件になります。身分制度とは何かということは中学生にとっては、むずかしい課題ですから、そんなことは抜きにしてよい問題です。しかし、武士と百姓、町人、賤民というように身分ごとにわけて支配されたこと、そのおのおのがどんなくらしをしていたのか、身分と職業・居住地は一体のものとして固定されたこと、それに対するたたかいが日常の生産活動を含めて展開された事実を知ることが中学で学習するなかみだと考えます。このことを地域の資料をもとにして具体的に学びとらせるのが、中学の歴史教育です。

 高校では、はじめて被差別身分の成立についてより具体的に学習することになります。中世賤民のなかで非人と呼ばれた人々の一部がかわた・さいくなどという呼称で、百姓とは区別されて権力によって把握されたこと、かれらの職能と役務がどういうことであったのか、結婚・交際が禁じられたというが、百姓・町人との間に差別があったのか、なかったのか、事実に則して学びとらせるようにしなければなりません。そして、けっして時代をとびこえて、江戸時代の中・後期の身分差別を混同して教えないようにすることが重要です。また、身分制にこだわるあまり、基本的な生産関係である武士と百姓の関係を軽視して、賤民身分の学習に重点をおくような誤りも犯してならないことです。

 「部落差別の歴史的な起源、分裂支配という政治的目的でつくられたことを避けようとし、あるいは歴史的起源をあいまいにしようとするとして」「部落差別を残してきた行政の責任」を追及するために、いまだに政治起源説を主張したり、時代を越えた「ケガレ観」「差別観」などという意識や観念などを主軸にして「差別・非差別」の歴史をそのまま「部落史」に置きかえる考えなども出されています。

 「ケガレ観」「差別観」が、いったいだれのどのような観念なのかを解明せずに、「被差別民衆の歴史」を描き出そうとするのは、科学的な態度ではありません。

4.近代以前の身分制度の記述について

(1) 刀狩りと江戸時代の身分制度について

 新中学校教科書のなかでもっとも大きく変わったのは、大阪書籍(以下「大書」)です。「刀狩」と「江戸時代の身分制度」の記述は、つぎのようになりました。

※ 2006年度用 大阪書籍 『中学社会』〈歴史的分野〉

 刀狩 (前略)刀狩と検地によって、一揆などの百姓の抵抗を防ぎ、武士と百姓とを区別する兵農分離を進めました。さらに、百姓が田畑をすてて武士・町人(商人・職人)になることや、武士が百姓や町人になることなどを禁止し、武士と町人は町に、百姓は村にというように、住む場所も固定しました。こうして、武士と百姓・町人との身分をはっきりさせて、武士が支配する社会のしくみを整えていきました。

 江戸時代の身分制度 幕府は、武士と、百姓・町人という身分制を全国にいきわたらせました。治安維持や行政・裁判を担った武士を高い身分とし、町人よりも年貢を負担する農民を重くみました。

 さらに百姓・町人のほかに、「えた」や「ひにん」などとよばれる身分がありました。「えた」身分の人々の多くは、農業を営んで年貢を納めたり、死んだ牛馬の処理を担い、皮革業・細工物などの仕事に従事したりしました。また、これらの身分のなかには、役人のもとで、犯罪人の逮捕や処刑などの役を果たす者、芸能に従事して活躍する者もいました。このように社会や文化を支えながらも、これらの人々は百姓・町人からも疎外され、江戸時代の中ごろからは、住む場所や、服装・交際などできびしい制限を受けました。

 こうした身分制は武士の支配につごうよく利用され、その身分は、原則として親子代々受けつがれました。

 また、しだいに「家」が重んじられるようになりました。女性の地位は低くおえられるようになり、特に武家では、子どもを産んで「家」をたやさないことが役目とされました。

上の記述を下の97年版と比較してみてください。

※1997年版 大阪書籍 『中学社会』〈歴史的分野〉

検地と刀狩

 (前略)刀狩と検地は、農民による一揆などの反抗をふせぎ、武士と農民とを区別する兵農分離を進めるうえで、大きな役割を果しました。さらに秀吉は、農民が田畑をすてて武士・町人(商人・職人)になることや、武士が農民や町人になることなどを禁止し、武士と町人は城下町に、農民は農村に、というように住む場所も固定しました。こうして生活のすべてにわたり武士と農民・町人との身分をはっきりさせて、武士が支配する社会のしくみを整えていきました。

江戸時代の身分制度

 幕府は、武士の支配をいつまでも続けるために秀吉の身分制をひきついで、武士(士)と、農民(農)・町人(工・商)という身分制を全国にいきわたらせました。武士は、農民・町人よりもきわだって高い身分とされました。いっぽう、農民・町人のなかでは、年貢を負担する農民を重視し、町人と区別しました。農民のなかには、土地を持ち、年貢納入の義務を負った本百姓と、土地を持たない水呑百姓との区別がありました。町人には、地主・家持と、地借・店子との区別があり、また職人の親方と弟子、商家の主人と奉公人、そして奉公人にも、番頭・手代・でっちなどの序列がありました。

 さらに農民・町人の下に、「えた」や「ひにん」などの身分がおかれました。この人々は、生活条件の悪い所に住まわされ、服装や交際まで差別をうけました。「えた」身分の人々の多くは、わずかの田畑や小作地で農業をいとなみ、死んだ牛馬の処理や皮革業・細工物などの仕事も行いました。また、これらの身分の人々のなかには、役人の下で、犯罪者の逮捕や処刑などの役を課された者もありました。

 このような身分制は、原則として親子代々うけつがされ、農民や町人が、力を合わせて武士のきびしい支配に反抗しないようにするとともに、自分よりまだ下の者がいると思わせて、その不満をそらす役割をはたしたと考えられます。またしだいに「家」が重んじられるようになり、女性の地位は低く押えられるようになりました。

 大書は、90年代以後近代以前の身分制度の記述を部分的にですが改善してきました。それが、今回の改訂でさらに大きく変化しています。

 「検地・刀狩」 は、02年版とまったく変わっていません。97年版でも、「百姓」の用語を使わず、「農民」としたところだけの違いです。

 「江戸時代の身分制度」は、「百姓と村」「町人と町」の項の後に配置しています。たしかに賤民についての記述量が多すぎますが身分制度全体について書いています。本文では、秀吉の身分制をうけついだことを書いたうえで、基本的な身分である武士と百姓・町人について記述し、「えた」「ひにん」の記述につづきます。そして、「幕府は、武士と、百姓・町人という身分制を全国にいきわたらせました。治安維持や行政・裁判を担った武士を高い身分とし、町人よりも年貢を負担する農民を重くみました。えたやひにんなどとよばれる身分がありました」と、農工商の下に置かれた身分という位置付けではなく、それぞれの身分を幕府や藩が把握したというとらえ方に変わり、権力設定説・政治起源説を克服した記述になっています。

 また、97年版にあった「生活条件の悪い所に住まわされ、服装や交際まで差別をうけました」が「これらの人々は百姓・町人からも疎外され、江戸時代の中ごろからは、住む場所や、服装・交際などできびしい制限を受けました」に変わったことは、身分差別が社会的差別であることを明確にしていますし、部落差別が江戸中期以降のものであること、権力によって条件の悪いところに住まわされたのではないという記述に変わっていることは大きな変化です。さらに、仕事のなかに「死んだ牛馬の処理」も含めていたものが、「死んだ牛馬の処理を担い」と役負担であることが推測できるようになり、「役人のもとで、犯罪人の逮捕や処刑などの役を果たす者」とはっきりと役負担であることが書かれたことも肯定できます。

 もう一点、重要なことは小・中に共通するのですが、なぜこのような身分制度を定めたかについて、「分断して支配する」ことで、「不満をそらす役割」をという記述がなくなりました。他のほとんどの教科書はまだこの記述を残しています。そういうことから見て、大阪書籍の02・06年度の改訂は大きな改善だと考えます。

 上の教科書と最も大きくちがう3種(帝国と東書、扶桑社)の2006年度用教科書の記述は以下のようになっています。

※ 2006年度用 帝国書院 『中学生の歴史』日本の歩みと世界の動き

室町・戦国時代の 「いまにつながる生活・文化」の欄外コラム

● けがれと差別はどんな関係があるのだろう

 むかしは,天変地異・死・出血・火事・犯罪など,それまであった状態に変化をもたらすようなできごとにかかわることをけがれといいました。けがれをおそれる観念は,平安時代から強まり,けがれを清める力をもつ人々が,必要とされるようになりました。しかし一方で,かれらは異質な存在として,のけ者あつかいされるようになりました。

 なかでも,河原者とよばれた人々は,死んだ牛馬から皮をとってなめすことや,井戸掘り・庭園づくりなどを手がけていました。これらは必要な仕事でありながら,死や自然の驚異にかかわったり,特別な技能を発揮したりするためにおそれられ,差別されました。「天下第一」と賞賛された善阿弥をはじめとする,庭園づくりの名手も現れ,活躍しました。

 江戸時代の身分制度

 身分制度 江戸幕府や藩の支配が安定したもう一つの理由は、幕府が、豊臣秀吉の時代の武士と農民を区別する政策をさらに進めて、身分を武士と百姓と町人とする制度をかためたことです。そのため、百姓や町人が武士になることはできなくなりました。この過程で、百姓・町人に組み入れられなかった一部の人々が被差別身分とされました。

 〔コラム〕差別された人々 近世の社会にも、中世と同じように、死をけがれとするなど、人間がはかりしれないことをおそれる傾向が強くあり、それにかかわった人々が差別されました。もっとも、死にかかわっても、僧侶や処刑役に従事した武士などは差別されなかったわけですから、差別が非合理的で、都合よく利用されたものであるといえます。

 差別された人々は、地域によってさまざまに存在していました。このうち、えた・ひにんとよばれた人々などは、江戸時代中期から幕府や藩が出す触などにより、百姓・町人とは別の身分と位置づけられました。これにより差別は、さらに強化されました。

 えたとよばれた人々は、農林漁業を営みながら、死牛馬からの皮革の製造、町や村の警備、草履つくり、竹細工、医薬業、城や寺社の清掃などに従事しました。ひにんとよばれた人々は、町や村の警備、芸能などに従事しました。これらの人々も社会的に必要とされる仕事や役割・文化をになってきたのです。

さしえに「雪駄づくり」(大阪人権博物館蔵)を配置

 2002年版であらわれた「ケガレ」観にもとづく差別の発生という記述は改められていません。政治起源説が否定されるなかで、「ケガレ意識根底論」ともいうべき論がたてられ、一部で広まっています。この考えにもとづいた教科書があらわれたのです。

 この記述が2006年版でもそのまま残っています。この論は、ケガレ観念が差別の根底であるとして、社会的・政治的・経済的にみようとするのではなく、意識のみに着目して、ケガレ意識が根底にあって差別が発生したとするものです。

 この論では、支配者だけでなく一般民衆が差別者であり、今日でもキヨメ塩などの慣習と結びつけて死を忌みきらうなどのケガレ意識は、今なおなくなっておらず、部落差別が根強く存在しているという論に導こうとするものです。たしかに、「キヨメ」役を負わされた人々が存在したことは事実ですが、それが生業であったわけではありませんし、中世賤民の共同体からの排除を「ケガレ意識」だけで説明することはできません。また、中世以降「死穢観念」が広められるなかで、一部の賤民が共同体から排除されたことがあっても、「『天下第一』と賞賛された善阿弥」が「」特別な技能を発揮したりするためにおそれられ,差別されました」というのは無理があります。これでは、いつまでたっても「差別」の克服・解消は不可能です。(参考:井ヶ田良治「部落史学習をどのようにすすめるかー『ケガレ論』批判ー」雑誌『部落』676号2001年6月号を参照)

※ 2006年度用 東京書籍 新編『新しい社会 歴史』

 きびしい身分による差別 百姓・町人とは別にえた身分、ひにん身分などの人々がいました。えた身分は、農業に従事して年貢をおさめましたが,それだけでは生活できず、死んだ牛馬の解体や皮革業,雪駄生産,芸能,雑業などで生活しました。そして,役目として犯罪者の捕縛や牢番など役人の下働きを務めました。ひにん身分も,役人の下働きを務め,雑芸能や雑業などで生活しました。

 これらの身分の人々は,他の身分からきびしく差別され,村の行政や祭礼への参加もこばまれました。また,幕府や藩により,住む場所や職業も制限され、服装をはじめさまざまな束縛を受けました。これらのことは、えた身分,ひにん身分とされた人々への差別意識を強める働きをしました。

 東書も、「さまざまな身分とくらし」の節を「武士と町人」「村と百姓」「きびしい身分による差別」と配列しています。「士農工商」の身分差別の記述は消えましたが、その記述は旧態依然たるものであるだけでなく、いくつかの誤りを含んでいます。「えた身分,ひにん身分などの人々がいました」ではなく、かわた(のちに「えた」)やひにんが幕府や藩によって、身分として把握されたのです。そして、農業だけで生活できないから「死んだ牛馬の処理や皮革業,雪駄生産・・・」に従事したのではなく、斃牛馬の処理は役務であり、以前から従事していた皮革業や雪駄生産などの生業とは区別すべきです。後半部の「住む場所や職業も制限され」たのは、賤民身分の人たちだけではなく、この時代には武士も百姓・町人も制限されていたのです。「服装をはじめさまざまな束縛を受けました」ともありますが、江戸時代初期からこうした束縛があったわけではありません。藩が「触」を出すようになるのは江戸中期以後のことです。「これらのことは,・・・差別意識を強める働きをしました」もあわせて、明確に区別して記述すべきです。

※ 2006年度用 扶桑社『新しい歴史教科書』改訂版

 扶桑社本は、「35 平和で安定した社会」2ページで、「身分制度」「村と百姓」「城下町と町人」の3項目とコラムで「身分制度と百姓・町人」の説明をしています。この配列も不適当です。この節で大切なのは、江戸時代の村や町にはどういう人々がくらしており、まず、その人々の関係がどうだったのかを明らかにすることが順序です。支配者によって、強固な身分制度がしかれ、安定した社会が成立したと認識させたいために、このような記述にしたとしか思えません。そのうちの「身分制度」は、つぎのように記述しています。

 身分制度 秀吉の刀狩は、戦乱をおさえる効果をもたらしたが、江戸幕府はその方針を受けつぎ、武士と百姓・町人を区別する身分制度を定めて、平和で安定した社会をつくり出した。武士は統治をになう身分として名字・帯刀などの名誉をもつとともに、治安を維持する義務を負い、行政事務に従事した。▼ こうした統治の費用を負担し、武士を経済的に養ったのが、生産・加工・流通にかかわる百姓と町人だった、このように、異なる身分のものどうしが依存し合いながら、戦乱のない江戸期の安定した社会を支えていた。ただし、武士と百姓・町人を分ける身分制度は、必ずしも厳格で固定されたものではなかった。このほか、公家や僧侶、神官などの人々がいた。▼ こうした身分とは別に、えた・ひにんとよばれる身分が置かれた。これらの身分の人々は、農業のほかに牛馬の処理、皮革製品や細工物の製造にもっぱら従事し、特定の地域に住むことが決められるなど、きびしい差別を受けた。

 コラム 身分制度と百姓・町人  江戸時代には,「士農工商の4つの身分があった」といわれることがある。しかし,「工」(手工業者)と「商」(商人)のあいだには身分上の区別はなかった。

 「士農工商」は中国の古い書物にあるいい方にすぎず,江戸時代に実際に行われていた身分制度は,武士,百姓,町人の3つの身分を区別するものだった。

 江戸時代の身分制度は,職業による身分の区分であり、血統による身分ではなかったから,その区別はきびしいものではなかった。百姓や町人から武士に取り立てられる者も,反対に武士から町人などになる者もいた。武士の家でも,長男が家をつげば、二男・三男らは農家の養子になることもあった。

 町人は,城下町に住んでいる,武士以外のさまざまな職業の人をさし,百姓は,村に住んでいる人々をさした。したがって,城下町で営業する鍛冶屋は町人である一方,「村の鍛冶屋」は手工業者でも百姓でもあり,漁業や林業に従事する人々も百姓だった。だから,「百姓=農民」では必ずしもなかった。

 扶桑社も、文章がやさしくなり、中学生が読みこなせるものにはなりました。しかし、江戸時代を「平和で安定した社会」と見るのは一方的な見方ですし、えた・ひにんだけが「特定の地域に住むことがきめられ」と、事実に反する間違った記述をしています。また、「武士と百姓・町人を分ける身分制度は、必ずしも厳格で固定されたものではなかった」という記述をしていますが、それは百姓や町人が身分制度を切り崩していく動きを示したからで、幕府や藩がそうしたわけではありません。ですから、身分制度がゆらぎだした江戸中期以後身分制のひきしめがおこなわれ、民衆の間での差別が生じるのです。この点からも誤りです。

 中世賎民が存在し、そのなかの「えた」身分などが、近世社会になって権力によって賤民として把握され、武士と百姓・町人の身分制度が確立したのであって、江戸幕府が農民や町人の不満をそらすために賤民身分をつくったというのは、事実に反することで、目的と結果を混同しています。

(2) 渋染一揆の記述について

 渋染一揆については、扶桑社以外のすべての教科書に記述されています。しかし、江戸時代の身分制度の動揺については、大書以外は記述していません。70年代以降、この時期の記述にはえた・ひにんに対する身分差別の強化が強調されていました。また、封建支配の過酷さが強調され、子どもたちは、「江戸時代=悲惨な時代」との認識を植えつけられることになってしまっていました。90年代後半からは、そういった記述はなくなりましたが、一部には渋染一揆を特別に取り出して、賤民の人権獲得のたたかいを強調するものもあらわれてきました。いずれも不適切だと思います。

 生産と流通の発展によって人々のくらしが向上し、身分をこえた交流も含めて、封建的な身分制度が揺らいできたことをおさえたうえで、幕府や藩の反動的な支配政策に抵抗する百姓一揆や打ちこわしが頻発するようになることを学習します。これに対して、身分制度引き締め策の一環として賤民身分にたいする差別政策の強化が打ち出されてきます。ですから、渋染一揆を取り上げるとしても、江戸時代後期の百姓一揆のひとつとして学ぶこと、倹約令に付け加えられた5カ条が認められないというかわた(えた)身分の要求行動(平等の主張)によって、別段御触書の法令を空文化させたことを教えるべきです。中学校の学習で、差別への怒りや憤りをもたせるとか、立ち上がった人々に共感するなどのねらいはまちがっています。一揆後の逮捕者の処遇や人々の交流のなかで自然となされた「茶店のふるまい水」を「身分をこえた連帯」として強調することも必要ないと思います。そういう視点で新教科書を見てみると、大書の記述は渋染一揆でおさえるべき点を簡潔に記述していますが、清水の記述は大きな問題があると思います。

 大書は身分差別強化と渋染一揆について、107ページと136ページの2ヵ所に分けて書いています。

「幕府政治の改革と農村の変化」の欄外

 豊かになる人びとと身分制のひきしめ 「えた」身分の人々のなかにも、広い田畑を経営する者や、雪駄づくりの仕事を行って豊かになる者も出てきました。村の人口も増え、他地域との交易も広まりました。これに対して幕府や藩は、身分制のひきしめを強め、とくに「えた」や「ひにん」などの身分の人々に対しては、人づきあいや髪型・服装について、きびしく統制しました。その結果、人々のあいだに差別意識がいっそう浸透していきましたが、こうしたなかでも、これらの身分の人々は互いに助け合い、結束して生活を向上させていきました。

 (さしえに「雪駄づくり」〈大阪人権博物館蔵〉の写真)

 そして、「江戸幕府の滅亡」のあとの「歴史を掘り下げる」で、「幕府や藩の支配をゆるがした人々」の題で、大阪の国訴、渋染一揆、高杉晋作、久下玄瑞、坂本龍馬を取り上げています。そのなかの渋染一揆の部分は以下のように書いています。

渋染一揆の嘆願書

 わたくしどもは「えた」とはいえ、一般の百姓と同じように田畑を耕して、年貢もきちんと納めています。それなのに、衣服まで差別されては、農業にはげむ気持ちさえなくしてしまいます。わたくしどもは、一般の百姓たちがすててしまった荒れ地までも耕し、女どももぞうりづくりなどの内職にはげみ、少しでも年貢を多く納めるようつとめてきました。紋付の着物を着てはいけないといわれますが、わたくしどもは、新しい着物ではなく、安い古着を買って使っているから紋がついているのです。それなのに、なぜこのようなきびしい倹約令を出されたのでしょうか。ほんとうになげかわしく思います。(一部要約)

 差別の撤回を求めた人々

 1855年,岡山藩は,財政難を解決しようとして倹約令を出しました。とりわけ,「えた」身分の人々に対しては,「新しくつくる衣類は木綿で,しかも無紋・渋染・藍染のものに限る」など,きびしい風俗差別の命令になっていました。そのため,53か村の「えた」身分の人々が団結して反対し,翌年,嘆願書を出しました。しかし,嘆願書が差しもどされたため,20か村あまりから1500人以上の人々が集まって一揆を起こし,3日にわたる交渉の末,藩に嘆願書を受け取らせました。藩は,その後,これらの人々に対する風俗の規制を実施することができなくなりました。

 このように,19世紀の半ばごろから,社会の枠組みをこえて,自由な経済活動や平等な社会を求める動きが盛んになりました。

 清水は、「幕府政治のゆきづまり」に、欄外のカコミで、つぎのように記述しています。

 渋染一揆

 幕府の支配力が弱まってくると,身分差別が強められました。岡山藩では,農民に倹約令を出し,それを徹底させるために「えた」身分とされた人びとに対し,藍染めや柿渋で染めたもの以外の衣類を着ることを禁じました。

 人権をまったく無視した条文に対して藩内50あまりの「えた」身分の人びとが何度も話しあって嘆願書をまとめ上げましたが,期待に反して嘆願書は差し戻されました。話しあいを重ねるなか,ようやく嘆願書を受けとらせることができましたが,この行動は法度を犯すもので,藩の取り調べの結果,12人が入牢となり,そのうち6人も獄死しました。その後,牢内外の「えた」身分の人びとの嘆願運動により,6人は2年後に釈放されました。これは封建制度の時代にあって他に例を見ない人権獲得のたたかいであり,この人間としての尊厳を守りぬいたたたかいの精神は,いまも部落解放運動のなかに生きつづけています。

 清水は、岡山藩の倹約令の全体について触れていませんから、えた身分のものだけに倹約を強いたようにも読めます。そして、えた身分に対する倹約令を空文化させたことは書いていません。それなのに、きびしい刑罰について書き、この一揆を「他に例を見ない人権獲得のたたかいであり,この人間としての尊厳を守りぬいたたたかいの精神は,いまも部落解放運動のなかに生きつづけています」と最大級のほめ言葉でしめくくっています。渋染一揆のとらえ方の問題といい、その扱い方には大きな問題があります。

5.近現代の部落問題記述について

 部落問題は、近代日本の大日本帝国憲法体制の確立とともに成立し、戦後の社会に残存した社会問題です。天皇制絶対主義体制を支える縦系列の支配体制の一貫として、身分差別も温存されたのです。被差別部落民は、賤称廃止令を積極的に受けとめ水利権や入会権、祭礼参加などを実現し、部落改善運動から部落解放運動へと自覚的にたたかいを発展させました。そして、日本国憲法体制のもとで、労働者や農民と結合したたたかいによって部落差別を克服・解消させることができたのです。

 中学校の歴史学習で、とくに限られた時間のもとで、これらのことをすべて学ばせるのには無理があります。しかも、さきにも述べましたように、部落問題は複雑な社会問題で、中学生の学習課題としては無理があります。教科書に記述するとしても、その時々の社会問題と関連づけて、かんたんに触れる程度であるべきです。そして、なによりも大事なことは、長年の運動によって部落差別が克服・解消されたことを認識させることです。その観点から見ると、新教科書の記述内容にはまだまだ問題のある記述が残っています。

(1) 明治政府の身分制度改革について

 明治政府は、天皇を神格化し、1869年の身分制度の改革で、天皇の一族を皇族、公家と大名を華族、武士を士族、百姓と町人を平民としたことをまずおさえます。そして、1871年の賤称廃止令によって、「えた」「ひにん」の呼称と身分・職業・居住地の制限をなくし、平民同様としたことに触れます。さらに、この布告をよりどころにして、旧賤民の人びとが用水権や入会権、祭礼への参加や対等な交際を求める運動をすすめたことを学ぶべきです。不徹底な身分制度改革によって、旧賤民に対する差別がいっそう強まったというとらえ方はまちがっています。

 明治政府の改革では、どの教科書も身分制度改革について触れています。しかし、天皇・皇族・華族や平民について書いているのは、東書、大書、日文の3社で、他社のものは天皇・皇族について記述していません。

 扶桑社と清水の記述には大きな問題があります。

 扶桑社は、明治政府の政策を肯定する立場で、華士族平民だけでなく、旧賤民も平等な権利を保障されたかのように書きながら、旧賤民にたいする「社会的差別は、そののちも長く消えず,さまざまな形で残った」と、天皇制政府は善政をおこなったが、国民が差別を強化したととらえさせようと、具体性のない、差別を強調する問題の多い記述をしています。

四民平等の社会へ

 いっぽう政府は,四民平等をかかげ,人々を平等な権利と義務をもった国民にまとめあげていった。まず,従来の身分制度を廃止し,藩主と公家を華族,武士を士族,百姓や町人を平民とした。そして,平民も名字をつけることを許し,すべての人の職業選択,結婚,居住,旅行の自由を保障した。さらに, 1871年には解放令が出され,えた・ひにんとよばれた人々も平民となり,同等な地位を獲得したが,これらの人々への社会的差別は,そののちも長く消えず,さまざまな形で残った。

 清水は、「身分制度の廃止」を2ページで扱い、「四民平等」「徴兵令」「家禄の廃止と廃刀令」「残された差別」の4項目の記述をしています。天皇・皇族についての記述がないだけでなく、「四民平等」で「江戸時代に『えた』『ひにん』とされていた人びとを身分解放令によって平民とした」と書きながら、「残された差別」で、つぎのように書いています。

 残された差別 こうした一連の改革は、それまでの支配身分の特権をおおはばにけずり、廃藩とともに、社会のありかたを大きくかえるきっかけとなった。ただし、完全に平等な社会ができたわけではない。華族は国家の手厚い保護を受けつづけた。いっぽう、幕藩体制のなかでつくられてきた身分差別の観念は,身分制度の廃止後も人びとのあいだに根強く残った。とくにそれまで,『えた』『ひにん』とされていた人びとは,新しい職業についたり、住所を移したり,教育を受けたりする自由を,江戸時代とかわらず強く制限され差別されつづけた①。政府による公的な経済援助などがなかったこともあり,この差別問題は,いまも同和問題として残され,その解決の取り組みがつづけられている。

 (側注)① 差別されてきた「えた」身分(被差別部落)の人びとの生活をそれまで支えてきたしごとでも,その利益に着目した実業家などによってそのしごとがうばわれた。それに徴兵などの義務もくわわり,より生活に苦しむようになった。また,一部の農民のなかには,これらの人びとが自分たちとおなじ身分になったことで不利益をこうもると考え解放令反対一揆をおこす地域さえあった。

 上の文は、天皇と皇族について書いていないだけではなく、「身分差別の観念は,身分制度の廃止後も人びとのあいだに根強く残った」と、近代における部落差別を「観念」によるものとし、明治の身分制度改革の記述にあわせて戦後のことまで書き、「いまも同和問題として残され,その解決の取り組みがつづけられている」と問題のある記述です。それだけでなく、特殊な事例として、他社の教科書が書いていない「解放令反対一揆」についてまで言及しています。明らかな特殊化・肥大化です。

 それに対して、東書と大書は、皇族について書き、「解放令」をよりどころにした旧賤民の人々の動きについても書いています。

 大書の記述をつぎに掲げます。

江戸時代の身分制の廃止

 新政府は、江戸時代の身分制を改め、天皇の一族を皇族,公家と大名を華族,武士を士族,百姓と町人を平民としました。1871年には,「えた」や「ひにん」などの身分についても,これを廃止するという布告(「解放令])を出しました。また政府は,身分による結婚・職業・居住地の制限を廃止し,すべての国民は,名字(姓)を名のることができるようになりました。こうした政策を四民平等といいます。四民平等は,民衆の願いにこたえるものであるとともに,政府にとっても,納税や兵役などで,すべての国民の協力を得るために必要なことでした。

 しかし,もとの「えた」や「ひにん」などの身分の人々(4)に対しては,職業・結婚・居住地などでの差別も根強く残されました。そこで,「解放令」をよりどころに,山林や用水の利用,寄合や祭礼への参加,対等な交際の要求など,差別からの解放を求める動きが各地で起こりはじめました。

 (側注)(4)こうした身分の人々は,生活改善の施策も受けられず,これまでもっていた職業上の権利を失ったうえに,他の人々と同様兵役や教育費の負担を加えられていました。

 大書の記述も、百姓や町人も生活改善の施策が受けられなかったことについては触れていませんし、「職業・結婚・居住地などでの差別も根強く残されました」と協調していることなど問題は残っていますが、よりましな記述だと思います。

(2) 全国水平社について

 全国水平社の結成についても、全八社とも記述しています。ここで重要なことは、第一に、水平社の結成や水平運動を特別に強調して扱わないことです。第二は、民主主義的意識の高まり、社会主義思想も広まるなかで、全国的な労働組合や農民組合が結成され、小作争議や労働争議がおこされたこと、婦人解放運動が展開されたこと、日本共産党が創立されたことなどと結びつけて全国水平社を扱うことです。第三に、これらの運動が生活のなかに民主主義を実現しようとしたものであったことを位置づけることだと思います。

 全国水平社の結成については、各社とも、1920年代の社会運動の項で扱っていますが、ここでも、配列や記述内容、図版に問題があります。帝国は、「民衆が選ぶ政党による政治」で、「護憲運動」「政党政治と男子普通選挙」「女性参政権を求めて」「治安維持法の成立」のあとに、「都市の発展と社会運動」の節を設けて、「都市の発展と環境問題」「さかんになる社会運動」「解放を求めて立ち上がる人々」という構成で、全国水平社を扱っています。しかも、全国水平社の名前は出しても、日本労働総同盟や日本農民組合、日本共産党の創立は書いていません。男子普通選挙や治安維持法を学習したあとで、労働争議や小作争議、水平社の運動を学ぶのでは混乱してしまいます。

 本文に、日本共産党の結成を書いているのは、東書、日文、日書の三社で、大書、清水は側注にしか書いていません。扶桑社は、「第二次世界大戦の時代」の最初の節の「共産主義とファシズムの台頭」の側注に「コミンテルン日本支部としてひそかに創立された」と書いています。東書の「広がる社会運動」の記述は、先に述べた各界各層の社会運動が組織的に展開されたことを記述していますが、具体性に欠けます。それなのに、「水平社宣言」(部分)、「全国水平社創立大会のビラ」、「全国水平社青年同盟の演説会で、差別とのたたかいをうったえる山田少年」の三枚もの図版を配置しています。あきらかに肥大化・特殊化といわねばなりません。

(3) 戦後の部落解放運動と現代の課題

 戦後の部落問題について詳しく学習することは中学の歴史学習の課題ではありません。日本国憲法を暮らしにいかす運動の展開によって、同和対策のための特別法を制定させ、部落の環境改善が実現し、市民的交流もすすみ、部落内外を分け隔てていた障壁も取り除かれていきました。そうしたなかで、いまでは部落差別が克服・解消の段階にまで到達したのです。このことは、公民の平等権の学習で、具体的に学ぶにしても難しい問題です。ですから、戦後の社会運動の高まりを学習する際に、部落解放運動が再建されたことについて触れることはあっても、詳しく記述する必要はないと思います。

 戦後の部落解放運動と現代の課題の記述は、大きな違いがでました。帝国と扶桑社は戦後の部落解放運動について書いていません。現代の課題で部落問題について触れていないのが扶桑社と日書です。

 大書の「また、全国水平社の伝統を受けついで,部落解放全国委員会がつくられました」は他の運動の記述との関係でバランスを欠いたものだと思います。

 現代の課題で、扶桑社と日書は記述していませんが、他社はつぎのように記述しています。どの社も、「解決しなければならない課題」として、現代の状況を正しく反映した記述にはなっていません。それだけではなく、教出や清水の記述は「意識の問題」として取り上げるという問題を含んでいます。

 東書「部落差別の撤廃は,国や地方公共団体の責務であり、国民的な課題です。」(側注あり)

 大書「国内にも解決しなければならない問題があります。市民と自治の連帯を強め,部落差別,障害者や女性,在日外国人,アイヌの人々などへの偏見をなくし,あらゆる人々に公正で人権を尊重する社会を築くことが,21世紀を生きる私たちに求められています。」(側注あり)

 教出「人類は,長い歴史を通して,差別をなくし,人権と民主主義の確立を求めてきました。しかし、日本にはまだ差別や偏見が残っており,部落差別の撤廃は,国や地方自治体の責務であるとともに,国民の課題です。」

 日文「部落差別をはじめ、アイヌ民族や在日韓国・朝鮮人に対する差別,あるいは,障害者,男女差別の問題もなくなっていない。」

 清水「しかし,人権をたてまえではなく、実質的に保障するためには多くの課題が残されている。近年,物質的に豊かな社会にあって他人の痛みや権利をかえりみない風潮もある。同和問題の解決は,国および地方公共団体の責務であり,国民的課題として,長い間の部落解放運動の発展を基礎としながら, 1965年の同和対策審議会答申を受け,生活改善のための法律が制定されてきた。しかし,いまだ差別はなくなっていない。部落差別は,結婚や就職の機会均等などの市民的権利が保障されていないことにある。この日本固有の人権問題である部落差別解消の取り組みを礎として,実生活に残る性差別をなくすとともに,心身障害者や高齢者,在日外国人などの人びとが豊かで安心してくらせるための具体的な施策が求められている。とくに在日韓国・朝鮮の人びとについては,これまでの歴史の正しい認識をふまえて,差別や偏見をなくすことが必要である。アイヌの人々については,新たにアイヌ文化振興法が制定されたが,偏見をなくし,少数民族固有の伝統を守ることが重要である。」

 帝国「その一方で,日本国内にも解決すべき問題が多くあります。部落差別、アイヌの人々や在日コリアンへの差別,男女共同参画社会の実現などは、基本的人権にかかわる重大な問題です。」

6.中学校公民教科書の記述について

 中学校社会科公民的分野の教科書での部落問題の扱いも大きな問題があります。現に、同和対策(地域改善)の特別法が廃止され、部落問題が克服・解消された段階であるにもかかわらず、各社とも、40年前の「同和対策審議会答申」そのままの文章を残しています。公民教科書では、この部落問題記記述をなくすことが当面の課題だと思っています。

 中学校の公民の学習で、部落問題を取り上げるかどうかについても、十分検討する必要があります。私は、江戸時代の身分制度のなりたちから現代の部落問題解決の状況までを、概説するようなことはすべきではないと考えます。もし、取り上げるにしても、国民の運動によって、環境改善などの部落対策がすすみ、部落内外の交流の進展で、部落差別を許さない社会が築かれたことを学ばせるべきだと考えます。私は、和歌山県白浜町の同和教育読本を参考にしながら、「獅子舞ができるようになった」の資料を作成しましたし、就職差別や結婚差別がどのように克服されてきたかを具体的に学ばせることが大切だといってきました。日本国憲法の平等権学習で、子どもたちにとっての身近な問題は、性差別であったり、民族差別、障害者差別ではないでしょうか。教科書には、そうした問題をどのように解決してきているか、今後どういう問題を解決していかなくてはならないかを記述すべきだと思います。歴史教育者協議会や全国民主主義教育研究会の会員の実践でも、憲法第14条に示された平等権を実現してきた事実を学ぶことによって、憲法を暮らしにいかすことが可能になっていることを教えています。その点で、各社の記述を見てみると、どの社のものも問題の多い記述となっています。

 東書は「人権と共生社会」で、読み物資料をあわせて6ページの扱いです。下の本文にあわせて、側注に「部落差別をなくそう」のポスター、次ページに「読み物資料」として「義足の三塁手と義肢装具士」「友達が教えてくれたこと」(在日コリアンの作文)「アメラジアン」と、「差別をのりこえてー詩 お姉さんへ」で、結婚差別を克服していった姉のことを書いた中学生の詩をのせています。部落問題にかかわっての本文は、つぎのように記述しています。

 差別をなくすために 今日の社会でも,日本社会に固有の部落差別,アイヌ民族差別,在日韓国・朝鮮人への差別が根強く残っています。これらの差別は,根本的には人間の尊厳の原理に反するものです。このような理由のない不当な差別は,一日も早くなくさなければなりません。

 部落差別からの解放 歴史で学習してきたように、江戸時代のえた,ひにんという差別された身分は、明治になって法律で廃止されました。しかし明治政府は,差別解消のための政策をほとんど行わず,その後も、就職,教育,結婚などで差別は続いてきました。

 1965年の同和対策審議会の答申は,部落差別をなくすことが国の責務であり、国民の課題であると宣言しました。そして,対象地域の人たちの生活の改善が推進されてきました。また, 1997年からは、同和対策事業をさらに進めて,人権擁護の総合的な施策が行われています。人権教育などを通じて、差別のない社会が求められています。

 いまだに、部落差別を民族差別と同等に扱い、国の政策を列挙しています。これでは、部落問題が克服・解消の段階に達したことはわかりません。

 大書は、「等しく生きる権利(1)」で、「平等権とは、男女共同参画社会をめざして、障害者とともに生きる社会」について書き、「等しく生きる権利(2)」で、「部落差別をなくすために」「アイヌ民族への差別」「在日韓国・朝鮮人差別」について記述しています。  最初に、下の文章の上に、北九州市の高校1年生が書いた詩(「なぜ、なぜ、なぜ」)が掲げられています。その詩では、「なぜ私たちだけが差別されるのか 就職,結婚,いろいろなことに なぜ私たちだけが 苦しみ,傷つかねばならないのか」とあり、差別を固定的に見ています。そして見開き2ページには、「昔から伝わるアイヌ民族の祭り」(写真)、「全国高校ラグビー大会に初出場した大阪朝鮮高校」(写真)、「国立大学の受験資格が広がることを報じる新聞」(コピー)をのせています。

 部落差別をなくすために 部落差別とは,職業選択の自由や結婚の自由などの権利や自由が,被差別部落の出身者に対して完全に保障されていないことをさします。

 1922年に全国水平社が創設されて以来,被差別部落の人々を中心とする差別からの解放を求める運動がねばり強く進められてきました。その結果、政府の同和対策審議会は, 1965年,同和問題が人間の尊厳にかかわる問題であり,緊急な解決が国の責務であり,国民の課題であるという答申を出しました。この答申に基づき,同和対策事業特別措置法など(1)が制定され,対象地域の生活環境はかなり改善されてきましたが,就職や結婚などで差別がみられます。いっぽう,差別を許さない運動や,学校や社会において差別をなくす教育が進められて,差別に立ち向かう人々も増えています。

 (側注)(1)1982年に地域改善対策特別措置法が制定されるなど,さまざまな施策を経て,1996年には,人権擁護施策推進法が制定されています。

 「差別を許さない運動や,学校や社会において差別をなくす教育が進められて,差別に立ち向かう人々も増えています」と、他社にはない文章でしめくくっていますが、前半部分は同対審答申と特別措置法の説明であり、「就職や結婚などで差別がみられます」と問題のある記述をしています。

 扶桑社は、「29 基本的人権2〈平等権・社会権〉」の「法の下の平等」(1ページ)と「32 私たちの社会に潜む差別」(2ページ)の「社会に残る差別」の部分で扱っています。「社会に残る差別」は、【部落差別】【男女平等】【外国人】【障害者】からなっており、コラムで「『外国人』お断りの店」、「男女の賃金格差」のグラフ、「アイヌの人々」の写真、「DVの新聞記事」を配し、本文ではつぎのように書いています。

 法の下の平等 人間は顔や体格はもちろん,その能力も性格も千差万別である。しかし法はそのようなちがいをこえ,すべての国民に等しく適用されなくてはな らない。▼ 憲法は「すべて国民は、法の下に平等」(14条)であり,人種や性別,社会的身分などによって差別されてはならないと定めている。それは「すべて国民は,個人として尊重される」(13条)という憲法の精神に沿ったものでもある。▼ さらに憲法は,華族などの貴族の制度を否定するとともに,勲章などもあくまで個人の功績を認めるものであり,家柄などにつながるものではないとしている (14条)。▼ しかし,平等権は社会を秩序づけている役割分担や,個人の立場までなくそう としているのではない。▼ また,行き過ぎた平等意識はかえって社会を混乱させ,個性をうばってしまう結果になることもある。憲法が保障しているのは,絶対的な平等ではなく,不合理な差別は許されないということである。

 【部落差別】憲法が禁止する家柄や血筋による差別のひとつに部落差別がある。1965 (昭和40)年には同和対策審議会答申が出され, 1969年には同和対策事業特別措置法が制定された。これらにより同和地区に住む人々の生活はしだいに改善されてきた。また全国の学校や職場の多くでも人権・同和教育が進められてきた。しかし,今日でも結婚などに際して偏見に苫しめられたり,心ない落書きがあるなど,完全には解消されていない。

 社会に残る差別 これまで見てきたように基本的人権の考えに基づいた法や制度により,多くの差別や偏見が取り除かれてきた。しかし,国内には今なおあちこちに不平等なあつかいや不合理な差別に苫しむ人々かおり,その解決は国民的な課題となっている。

 まず、平等権と社会権を2ページで並べて扱うことが問題です。平等権というのは、自由権と社会権の両方にかかわるのに、そういう基本的なふまえないで、並列していることが問題です。しかも、華族制度の廃止以外具体的なことは何も書いてありません。それだけでなく、「社会秩序」の大切さを書き、「行き過ぎた平等意識はかえって社会を混乱させ,個性をうばってしまう結果になることもある」と、平等権の実現を求める動きを抑えにかかっています。これでは、人権学習は成り立ちません。

 もうひとつ、「アイヌの人々」の題で写真を掲げていますが、この写真については、旭川チカップニ・アイヌ民族文化保存会と同会会長の北川シンリツ・エオリパック・アイヌさんらが、「断りもなく本人と特定できる写真を無断で載せることは許せない。差別の項目に掲載するのはアイヌ民族を侮辱し差別する行為だ。」「行事は、実行委員会の要請で行われたもので、アイヌの伝統的なまつりではない」と、扶桑社に抗議と訂正要求をしました。ところが採択終了後も話し合いに応ぜず、ようやく12月になってからの協議で、写真の差し替えと謝罪文の掲示をおこなうという問題もありました。

 日書は、「平等なあつかいを受ける権利」で、「法の下の平等」「ほんとうの平等を求めて」の文と、写真と資料で絵画「フランス革命前の社会」、「女権宣言」について説明し、フィンランドの男女平等法、ノルウェーの「男女平等の本」の表紙を掲げています。さらに、「差別をなくしていく努力」で欄外に、「部落差別をなくしていくために」のコラムを掲げ、「現代社会と差別」「女性差別」「障害者差別」「まだある差別」の記述をしています。 

●部落差別をなくしていくために

 話は少し古くなりますが, 1975年に,全国の同和地区の所在地をのせた『部落地名総監』という差別図書が会社に出回り,入社の採用選考に利用されていることが発覚し,大きな社会問題となりました。

 大阪府では,この『部落地名総監』の売買を契機にして,部落差別につながる悪質な調査などをなくし,同和問題を解決するために, 1985年から「大阪府部落差別事象に係わる調査等の規制等に関する条例」を施行しています。この条例は,同和地区出身という理由で,結婚差別をしたり就職差別をしたりすることを防ぐためにつくられたものです。

 しかし,条例がすべてではありません。わたしたち一人ひとりが,あらゆる差別を「しない、させない,許さない」という人権意識を築きあげていく不断の努力をしていくことが,だいじなことです。

 本文はつぎのように書いています。

 まだある差別 法の下の平等にもかかわらずなお残っている差別も少なくない。日本で長く生活している韓国人,朝鮮人,中国人など定住外国人への差別はその一例である。彼らのなかには,かつて日本が植民地とした朝鮮,台湾から強制連行などで移住させられた人々の子孫もいて,日本で生活を続けているが,就職などで依然として差別を受けている。また,定住外国人には,選挙権をあたえられていないとか公務員になれないなどの制限もある(1)。こうした差別をなくし,制限についてもその実態を検討していく必要がある。

 部落差別 江戸幕府の身分政策でかためられた部落差別は,明治以後になっても残った。1922年の水平社結成以来,部落解放運動によって差別撤廃の運動が進められてきた。戦後は1965年に「同和対策審議会答申」が出され,69年には同和対策事業特別措置法」が制定された(2)。これによって、国や地方自治体の責任で被差別部落の環境改善がかなり進められてきたが,部落への偏見は,結婚や就職の際に依然として残っている。

 ◎話しあってみよう 差別したこと,されたことを,思い出して話しあってみよう。

 (側注)(1)最高裁判所は,日本に永住している外国人の選挙権については,地方自治体の選挙権では肯定的な見解をとり,国政選挙については否定的な見解を示している。

     (2)2003年をもって,この法律は失効し,国としての特別対策は終了した。

 カコミの「部落差別をなくしていくために」でとりあげている、大阪府のいわゆる「興信所条例」=「大阪府部落差別事象に係わる調査等の規制等に関する条例」は、「差別」の認定者、規制対象、解決方法などの点で問題が多く、条例反対運動があったものですし、制定後も差別克服に役立っているものとはいえない条例です。それなのに、内容についての批判抜きにこのように肯定的に扱うのは問題です。また、「部落への偏見は,結婚や就職の際に依然として残っている」という事実に反する記述をしています。

 以上、歴史と公民の身分制と部落問題の記述について詳しくみてきましたが、まだまだ問題の多い記述ばかりといっても過言ではありません。子どもたちに、身分制と部落問題についての正しい認識をもたせるためにも、いっそうの教科書批判が必要だと考えます。

(教科書本文・側注の○数字はJIS外字ですのでホームページ掲載にあたっては(数字)に変えています。)

児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについて

児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについて

1982年3月21日 全解連大阪府連第7回大会決定より

子どもの発言などを口実とした教育介入をやめさせる

 吹田・高槻・松原・大阪市内にみられた解同の子どもの発言や落書きを口実にした教育介入は、自由な教育と学校の自主性を守るうえでも、子どもの健全な成長のうえからも絶対に容認できないものです。

 子どもたちの発言やブラク民などの落書きは、そのほとんどが学校における部落問題学習や狭山などの偏向教育のおしつけなどを背景になされたものであり、もともと学校教育と一体のものです。しかも、子どもたちが発達過程の未熟な理解度にあることを前提にしての同和教育になっていることです。

 そこには、未熟な理解や未熟な発言などは当然起りうるものであって、その発言だけを子どもの発達段階や理解度を無視して、とりあげ、解同のように「差別」と断定するなら、小・中学校における同和教育自体が成りたたなくなる(*1)ものです。  これを「差別」ときめつけて事件視して、子ども、親、教師、教育委員会の責任を追求する解同の「確認会」や「糾弾会」は、学校教育を破壊するものであり、学校や市教委がこれに荷担・協力することは、自殺行為に等しいものです。

教育として正しく対処する

 全解連大阪府連は、この間の児童・生徒の発言、落書きを口実にした解同の教育介入をやめさせる闘いに全力をあげるとともに、児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについて、どう正しく対処するかについて検討を重ね、これを次の四つの点にまとめました。

① 小学生・中学生など義務教育過程(*2)にある児童・生徒の部落問題にかかわる発言や落書きについては慎重に対応する。
② 基本的には未発達な子どもの未熟な発言(表現)としてとらえ、軽々に差別と断定すべきではない。
③ 同時に発言内容については、それを事件視して子どもや親、教師の責任を追求する態度はとらない。あくまでも教育対象として位置づけ教育的観点で部落問題の科学的な認識を深める方向で指導にあたる。
④ 指導にあたって教育と運動を明確に区別し、”確認会”や”糾弾会”に出席したり、これに加担しない。いかなる場合も外部団体からの介入を認めず、学校の自主性、主体性のもとに解決していく。

解説と補足

 こうした全解連の原則的で教育的な立場は、多くの父母、教育関係者の支持と共感を得るとともに、その後の解同による教育現場への直接介入の足を止めるという状況をつくりだしました。しかし一方では、教育委員会や一部「解放教育」派教師と”連携”したたくみな介入・干渉はいぜん強まる傾向にあります。

 解同一部幹部が指向する運動と路線は、すでに破たんずみの「部落排外主義」を基盤に、部落差別の「拡大再生産」論にしがみつき、「部落解放基本法」の制定をめさすことを最大の課題としています。最近では、彼らのいう「拡大再生産」論証明の根拠を「落書き」「文書」「発言」などに求め、「糾弾」と介入をくりかえすという事態が深刻化しています。八二年の「児童・生徒の……」の見解をその後の二つの「落書き」問題見解とあわせて、「解同」の教育介入とたたたかう武器にすることが大切です。また、八二年見解では、その対象を「小学生・中学生など義務教育過程」としていますが、今日の学校教育における歴史学習の現状からみて、高校生を含めて考えるべきことは自明です。

 つけ加えていうなら、高校、さらに大学生の場合は、生徒会や自治会による自主的で自発的な啓発活動の組織化も問題解決の重要な要素となってくるはずですから、解同や「解放研」による介入が問題の正しい解決の障害になることは明らかです。

(*1) この方針が出された当時は、特別措置法があり、特別対策や同和教育の終結を提言する以前であった
(*2) 「解説と補足」にあるように、高校生も含め教育を受けている世代すべてが該当すると考える

再び「差別落書き」問題について

再び「差別落書き」問題について

1983年10月 大阪府部落解放運動連合会 (全解連)

 私たちが発表した「いわゆる『差別落書き』問題について」(=「落書き見解」、6月15付「解放の道」)が大きな反響を呼んでいます。

 ひとつは、「落書き見解」を歓迎、支持する声で、同和地区住民はもとより郵政をはじめ自治体労働者や教育関係者から広く寄せられています。いまひとつは、「見解」の真意や「見解」で示した事実に目をつぶり、よこしまな立場から非難、中傷するというもので、おもに解同一部幹部とそれに迎合する一部の労働組合などからしかけられています。

 「見解」を発表して4ヵ月、「解放新聞」「主張」(9月12日付)に代表される”反論”なども出されている状況をふまえて、ふたたび「差別落書き」についての全解連の立場を明らかにします。
「落書き」は保存・流布するものか?

 解同府連は、ことし(1983年)5月に開いた大会で「落書き事件などが起これば、すぐ消してしまうのではなく、(雨ざらしにしておくことはよくないのでカバーをつけるなどして)大衆的な見学会を組織するなど、日常ふだんに差別に対する怒りを組織することである」との方針を決めました。

 この方針のもと、ことしの四月に大阪市浪速区の栄小学校前で発見された「落書き」を、ベニヤ板でかこい鍵をかけて”保存”しています。そして、「差別落書き事件パネル展」を開催、「周辺地区のパトロールと街宣活動を実施」(大浪橋差別落書事件糾弾闘争本部のビラ)しました。

 解同幹部は、「落書き」を”保存”したり、「見学会」を組織するなど流布・宣伝することでほんとうに差別をなくせると思っているのでしょうか。非常識で人権をふみにじる無法を放置せず、発見したらすみやかに消去できるような体制をつくること、府民がもっている正義感と民主主義、人権意識を高めつちかってゆくことこそ「差別落書き」を根絶する最大の保障です。

 しかも重大なことは、こうした解同の方針に迎合して、一部労組が機関紙などをつかって全解連へのひぼう、中傷をあびせるばかりか、「差別落書き」そのものを流布していることです。

 「大阪総評」(1983年9月11日付)や「自治労大阪」(1983年9月28日付)は、「エスカレートする『差別落書き』」などと大見出しで報道するとともに、「差別落書きの発生状況」をまとめ、府下各地の「差別落書き」多数を日付、場所を明記して原文のまま列挙、打撃的でぶべつにみちた「落書き」を組合員に流布しました。事実にもとづくことが報道の使命とはいえ、こうしたやり方は非常識きわまりないもので、部落差別を拡散・助長することになりかねません。
「糾弾」の事実はないか?

 私たちが先の「見解」で、「落書き」の対象となった施設や場所の設置者や管理者が、「解同」の幹部らにしばしば「糾弾」され、「差別」の「確認」を迫られるとともに無法・不当な要求に屈服させられている実態を重視してきびしく批判したことにたいし、解同の「主張」は、「事実を歪曲」しているなどとあたかも暴力的「糾弾」や無法な要求をしていないかのようにのべています。

泉佐野市役所トイレの落書きで市長を無法な糾弾

 「糾弾会への出席を拒む向江(泉佐野)市長に対し、夜10時ごろ自宅ヘバスにいっぱいの50名の支部員が出席をもとめて闘争を展開し、午後10時40分に、市長を会館にひっぱり出し、差別事件への煮えきらない無責任な態度を怒りをこめて追及していった。深夜2時半までかかる闘争の中で、①差別落書きは泉佐野市に責任があり、加害者は泉佐野市であることをはっきりと認めさせた」(解同樫井支部ニュース、1982年12月20日付)。

 これが暴力、無法でないというのでしょうか。

 「糾弾」のすえ、市長は、市役所地下トイレに書かれた「差別落書き」の”犯人”にしたてられ、「『今後このようなことのおこらないよう反省し、対策をたてて真剣にとりくみたい』と自己批判と決意をのべ」(「解放新聞」大阪版、1983年2月14日付)させられました。この「落書き」の発見者は、解同の事実上の下部組織「泉佐野市役所職員同和問題研究会」の会員、そして「確認」→「糾弾」→「反省」という私たちが指摘したとおりの経過をたどっています。

 また、昨年末に大阪東郵便局でおこった「差別手紙」事件では、数回にわたる「糾弾」のすえ、①「解放研」の育成強化、②部落出身者の雇用促進③勤務解除の追補充、など10項目にわたる要求を認めさせています。(解同飛鳥支部「解放ニュース」、1983年8月1日付)

 こうした一連の事実は、解同の”反論”なるものが無法な「糾弾」をおおいかくす苦しい弁明にすぎないことを証明しています。

 部落差別をはじめとする差別をなくす条件づくりは、他人をはずかしめたり差別することが自らの人権と人格をおかすことになるという社会的環境を府民と手をたずさえてつくり上げること、政治的にも、経済的にも高度な民主主義を達成することです。

 解同一部幹部がさけぶ「差別落書き」にたいする闘争方針は、部落差別の解消に役立つどころか、大きな障害となっています。全解連は、先に示した「見解」の立場で広範な府民のみなさんとともに、今世紀を”部落差別最後の時代”にするために全力をあげるものです。

■関連する記事

いわゆる「差別落書き」問題について 1983年6月 大阪府部落解放運動連合会(全解連)

解放教育体験記(狭山同盟休校など)

解放教育体験記

 これは1980年に大阪府部落解放運動連合会(全解連)の地域支部(*1)が作成した冊子です。

 解放教育を受けてきた当事者たちの手記です。(冊子は実名で書かれていますが、ネット掲載にあたり、イニシャルにしました。見出しは当サイト編集部がつけました。)

はじめに

 1969年の矢田事件以後、町にも「解同」による不当な教育介入、教育支配が行なわれ、1974年の「○中事件」を頂点として町の教育荒廃は大きな問題となってきました。このような中で、今年(1980年)1月28日、3度目の 「狭山同盟休校」が行なわれました。

 私達、全解連支部青年部の部員の多くがこのような解放教育を受けてきた当事者です。

 そこでこの同盟休校をきっかけに、町の教育荒廃をなくすために自分達が受けてきた解放教育がどのようなものであったのかをもっと考え、その正しい受けとめ方をひろめようということになりました。そして2月14日、青年部とつながりのある青年にも呼びかけ「自分達が受けてきた解放教育についての座談会」をもちました。このなかで青年部から、それぞれが受けてきた解放教育についての手記を残すことが提起され、後日参加者の中から製作委員会を結成し、本手記の発行にとりくむにいたりました。

 記載された手記は座談会の参加者と、青年部とつながりのある他の青年による「解放教育についての体験とその感想」です。自分達が受けてきた解放教育についての正しい受けとめ方としては不十分なものですが、町の教育荒廃をなくすための、さらには真の部落解放達成のための力にしたいと考えています。

1980年4月1日

各クラスで石川さんは無実だと新聞を作る ふるえながら反対したら、みんなも「そうやそうや」

●1979度入学  H・R(13才)

 1月28日の同盟休校のとき、各クラスで石川さんは無実だという内容のポスターや新聞を作ることになっていた。

 1月24日の道徳の時間、ぼくとこのクラスで何をつくるかという話し合いになった。

 その時、ぼくはある友人とはなしをしていた。そのはなしとは、ほくが小学校の2年の時、学校へいけなかったことや、家をとりかこまれたことなど、解放同盟にやられてきたことなどを話していた。するとその友達は 「ヘー。そんなことあったん。解放同盟てわるいねんな。」と言っていた。そんなことを話しているうち、何をつくるかというのはもうきまっていた。

 けっきょく、ぼくらのクラスは新聞を作ることになった。

 そのことを母に言うと、「それは反対せんなあかん。あんたが反対やと言ったら、みんなもあんたにさんせいするはずや。」と言った。ぼくは、そんなもんかな、もしさんせいしてくれなかったら、どうしようかなと思っていた。

 26日の土曜日、学活の時間に新聞をつくることになった。その時みんなの前でいうつもりだった。でも、いざその時になってみると、ガクガクとふるえていた。声をふるわせながら言った。

 「なんで、ぼくらがそんなことせなあかんのや。そんなんは大人がやったらいいねん。」

 すると子ども会に入っているある女の子が、「そうや、そうや。私もそう思うわもうすぐテストもあるのに。」と言ってくれた。

 その後から、みんなさんせいしてくれた。その時、ほくはものすごくうれしかった。ぼくは、日ごろあまり発言しないので、みんなもおどろいていた。

 そんなことがあって、ほくらのクラスは何も作らないことになった。ほんとうによかった。これからぱ、ほかのクラスも、いや同盟休校そのものをやめさせたい。やめさせるべきだ。

同盟休校 にげ出した子どもを、先生が家に行ってまでもどそうとした

●1978年度入学    H・Y(14才)

 同盟休校とは、最初どんなものかわからなかった。でもこの前の同盟休校が終わってから、それに行った友達に聞いてみると、わざわざ遠くまで行ってビラをまいたり、なにかわけのわからないデモをやったと聞いた。そんなことするのだったら、子どもは学校へいって勉強したり、みんなといっしょに遊べばいいのになあと思いました。

 そしてビラくばりやデモをしていてしんどいといってにげ出した子どもを、勉強を教えなければならない先生が、その子を家に行ってまでもどそうとしたということを聞きました。

 そして、学校で勉強していても、みんながいないのでちっともおもしろくありませんでした。どうしてあんなことを学校にいっている子ども達にやらさなければいけないのか、あんなことは、その子どもたちのお父さん、お母さんがやればいいことです。

 ぼくのクラスでも、道徳の時間に石川さんのことをすれば「なんであんなことせなあかんねん」とぼくにいってきます。ぼくも勇気はないですが、先生たちもそんなことは学校ではできません」とはっきりいったらいいと思います。

狭山同盟休校 自習していたら指導員が連れていく

●1978年度入学   T・K(14才)

 私が中学生になってはじめての同盟休校でした。

 小学校の時はおぼえていません。

 私がとても印象に残っているのは、2年の時の同盟休校です。26日は土曜日で、月曜日は、朝礼で30分ぐらい同盟(部落解放同盟)からの話がありました。朝礼台の上にゼッケンをつけた2人の男子が立っていて、後には横に長いポスターがはってあって、各クラスの窓やロッカーにもポスターがひとクラス十枚ぐらいずつはっています。それこそ学校中ポスターだらけ。そのうえ、門前には、立てかん(立てカンバン)が3つぐらいたっていて、帰り気がついたら南門前にも立てかんがあったのです。今でも、門前にたてかん一つ、ポスターはところどころにあります。

 その日の出席は、一クラス20人ぐらいで、その(同盟休校に参加している)ほとんどが○小学校の子でした。同盟休校で、私がふだん一諸にいる子がみんないってしまったんです。

 勉強の方は、いつも同盟にいっている英語の先生は、東京まで集会にいっていたんです。○中で東京にいった先生の数は6人で、1年生の先生2人、2年が2人、3年が2人です。英語の先生がいないため自習をしていると、私のクラスの男子5~6人が、一人の男子をさそいにきたんです。その後には、先生と指導員がいました。2~3時間目、私のクラスのさっきさそいにきた男子5~6人がぬけだしてきました。しばらくの間いましたが、すぐに指導員(*2)が来てまたつれていかれました。

 私も友達が少ないので、買物センターの友達といくことになっていたので解放会館の前を通っていると、大きな声でよばれ、2~3人の女の指導員が信号を渡ってきました。私は逃げました。それからは、おいかけてきませんでした。

指導員を恐れていた

●1977年度入学   N・K(15才)

 僕は、今まで解放運動に参加してみて感じたことは、なぜ僕達が参加しなければならないのかということ、なぜ勉強までやめて参加しなければならないのかということです。学校でそういう「解放運動」についてのことを学ぶ機会が多くなるにつれて、みんながやる気をなくしていくような気がしました。

 僕はいくども解放運動に参加してきて頭に残っていることは、つかれたということと、ばからしかったということだけで、他には何も残っていません。

 それに僕は、体が強い方でないので、気分が悪くなって倒れそうになったこともありました。でもそんな時、指導員に言うことができずに、じっとがまんするだけでした。なぜならば、僕や他の子供達が指導員を恐れていたからです。しゃべり方が悪く、すぐどなりつけるところがその原因でした。

 僕が一番腹立たしかったことは、中学3年の3学期、高校入試を控えた1月28日の同盟休校の時です。僕は参加するのがいやだったので、参加せずに家にいました。

 翌日学校へ行くと、同盟休校に参加した人から「なんでけえへんかった」といわれ腹が立ちました。でも黙っていました。僕は小学校のころ、子供会に行っていましたが、少しも楽しくありませんでした。そして、その子供会から一泊研修というのに行きました。でも車酔いばかりで、早く家に帰りたいたいという気持でいっぱいでした。僕はいま疑問をもっています。それはなぜ小さな子供までが学校を休んでまで解放運動に参加したり、ゼッケン登校したり、ビラまきをしたりしなければならないのかということです。

「同盟休校」を思いだすと腹が立つ

●1977年度入学   K・T(15才)

 私は、今の「解放運動」のやり方は、あまりよいやり方ではないと思う。

 まず学校のやり方は、週1回の水曜の道徳の時間にやっているが、クラスの仲間はほとんど間いていない。それはあたりまえだと思う。いつもおなじことをくり返しているばかりだからだ。いくら先生達が一生懸命やっていても、生徒は聞いていない。

 それをなくすには、週1回ではなく、月1回や2か月に1回にすれば、解放連動の授業も聞いてくれるだろうと僕は思います。

 それにもう一つは、同盟休校のことです。いまだになぜ同盟休校をしたのか、それをしただけで何のためになったのかわかりません。

 そのために、それに参加した仲間は勉強の方が遅れるのはあたりまえだが、その翌日、参加していないクラスの仲間から、プリントばかりしていたと聞いたら、急に腹がたった。なぜ参加していない生徒たちにも勉強ができなかったという被害をあたえたのかということに腹がたった。それきり僕は、同盟などにあまり参加しません。

 しかし今でもあの「同盟休校」を思いだすと腹が立ちます。また来年も同盟休校すると思いますが、しかし僕は参加しません。そして僕は、それを反対していきたいです。

「子供会」での活動は、ごっついおもんなかった

●1976年度入学   O・T(16才)

 まずこの地域では、道路に「石川青年は無実だ!」こんなカンバンがいたるところに立てられている。それに、○○病院にまでごちゃごちゃとワケのわからないことが書かれている。

 それに信号の多いことや、解放会館などでも知らない人が見たらビックリするだろうと思う。これこそ「私はアホです。カンバンや信号などをつける場所、数、効果などは全々わかりません。」と言わんばかりである。

 小学校の時は、1年から3年の時、「子供会」に参加していたと思います。でも、どんな活動していたのかわすれてしまいました。5年生になってからは「子供会」に参加するのも、1年に1~2回友人にさそわれて行くぐらいになりました。

 そのころ「子供会」での活動は、解放同盟の差別がなんたらかんたらと言う本で、ごっついおもんなかったんです。

 友人に聞いた話ですが、「子供会」に行くのがいやで指導員からグループで逃げだして、その内数人がつかまり、つかまった内の一人は地面にたおされ、指導員が馬乗りになり、顔面を平手で数回たたかれていたと言っていました。学校で学芸会などがあると、ぜったい校内を指導員がうろついていました。

 道徳の授業の時などは、実さいには知りませんが、「にんげん」を使って、半分以上の時間、解放教育をしていたと感じています。道徳の時間は、友人に「次は何の時間や」ときいても「道徳の時間や」と答えるより「にんげんの時間や」と答える人の方が多かったと思います。

 中学校に入学して、最初の解放教育の時、ぼくが、「またや」と言ったら先生が「何がまたや、まだ一回もやってへんやないか」といいよったんです。そこで小学校の時からやっているので、「小学校の時もやったからや」と言うと先生は、「そうか」と言ってなっとくしていました。

狭山事件の学習は学校の授業を遅らす大きな原因

●1977年度入学   M・N(17才)

 中学校で3年間解放教育を受けてきたのであるが、まず最初にいっておきたいことがある。

 そもそも解放教育とは何であるのか、仮に説明せよと言われた場合、自分としては、少しも相手に理解してもらえるほど話できない。それほどこのことに対して無知である。

 それでこの作文を書くに当たってこれでは少しまずいのではないかと思い、わたくしの父に尋ねてみたのですが、あいにく時間がじゅうぶんとれなかったため、説明がメモ程度だけになってしまい何のことかさっぱりわからないままこうしてペンをとっているのであります。

(以上のことを前提に書く、そのつもりで)

 現在中学校を卒業して2年以上になりました。中学校に入学するときはもちろん、在学中も自分はいま解放教育を受けているんだという意識などは、とうていありませんでした。学校を卒業してこうして解放教育のことについて書くようになってはじめて自分は、解放教育というものを受けてきたんだなあと言う感覚であります。

 したがって、そのときの僕にとって、狭山事件の映画を見たり本などを読んだりして学習するとき、すなわち(僕白身が)解放教育と言われる時間は、ただの遊びの時問にすぎなかったのである。

 最後に(もうひとこと)解放教育と間係あるかないか解らないが言っておきたいことがある。それは同盟休校のことである。

 僕は貴重であるかどうか知らないが、1年生のときにこの同盟休校を経験している。この日はほとんどの者が学校に出てこれなかったので、授業がまる1日遅れるのである。この同盟休校にしても、前にも述べた狭山事件の学習は学校の授業を遅らす大きな原因となっていることはまちがいない。社会人がこの世の中を生きていくためには労働すなわち仕事をしなければならない。我々学生にとってしなければならないのは、やはり勉強である。その時に解放教育と思われる教育をとり入れ、それが正しい方向で進められて行けばまだよいが、肝心の勉強に悪影響を及ぼすようで絶対にほおっておくべきではないと思う。

幼稚園では、童謡曲と同じように解放歌を歌わされた

●1977年度入学   U・Y(17才)

 私が17才の今までに受けた解放教育とは、いったい何だったのだろうか。

 幼稚園では、何を意味するかも全くわからずに童謡曲と同じように解放歌を歌わされたのを覚えています。

 でも一番思い出深い時間は、小学校の時です。石川さんのことを物語りを語すように、毎日子ども会で聞いたこともありました。はっきりいってしまうと、遊び盛りの私達にとって、毎日そういった内容のことを教えられることは、全然といってもいいくらい興味もなく、楽しい思いもしませんでした。

 私は、解放教育というのが、頭から悪いのだとは決していいません。ただそのやり方に問題があるのだと思います。

 例えば、年齢に応じた教育の仕方があるはずです。確かに、同和地区に住んでいるということだけで、白い目を向ける人もたくさんいます。しかし、そういう風に思わせる何かが私達にあるのではないでしょうか。今、私が思うことは、解放教育に力を入れるのと同じくらい子どもたちに、勉強に、スポーツに力を入れた方がいいのではないかと、中学校に入るとデモ、ビラ配りといった活動が小学校の時よりも増えていったのも事実です。

 黄色いゼッケンをつけて町の中をデモするのもいいでしょう。けれど、町の中をデモすることの意味を十分わかっている生徒ばかりではないから当然、不満の声がでてくるのがほんとうです。「恥かしい」といった内容の言葉が私も含めて多くの友人の口からもれていたのも事実です。もし、自分のしていることが、良い事だったら恥かしいとも思わないはずなのに。

 高校に通っている今では、解放教育というものを全然といっていいくらい受けていませんが、もう今までのような教育なら受けたくないと思っています。今までしてきたことは、何だったんだろう。

こんなことでは逆に自ら差別をしてくださいと言わんばかりでは

●1977年度私立中学入学   K・A(17才)

 同盟休校のことについて書きます。

 小学校1年や2年生の子供達に解放がどうの、差別がどうのと言っても何のことだかさっぱり分からないのにそんな子供達にまでくだらない歌を歌わせて、親は親で金のためか何のためか知りませんが、自分たちが何をやっているのかも十分知らないで黄色いゼッケンをつけて歩いてまわる。

 これじゃ小学校1年や2年生の子供とたいして変りがないようですね。

 差別をなくそう、良い町にしようと運動しているつもりが、子供達には学力の後退を増進させ、親は、ただ同盟に加入しているだけで、ほんとにただ同然の住宅に入れてもらって、朝から晩までぶらぶらし、勤くことを忘れてしまう。こんなことでは逆に自ら差別をしてくださいと言わんばかりではないでしょうか。だから早く、この町内の目をつぶっている大人たちに呼びかけて、これから大きな夢をもって育っていく子供達のためにも、真の解放教育を起していかなければならないと感じています。 

子供会が何んだかわけのわからないことをしだした

●1970年度入学     K・H(22才)

 中学校を卒業して高校に入ったころ、「解同」の教育の介入が大きな問題になってきました。

 そのころに前から疑問に感じていたことがはっきりしてきました。その疑問とは、小学校6年の時に出来た子供会が何んだかわけのわからないことをしだしたのです。

 出来た当初は、自分達であれをやろう次はこれをやろうと民主的に決めて実行してきたのです。ところが、仲間をふやそうということで6年も終りのころいったんつぶして 「解同」の組織で大きくしようということになったのです。たしかに人数は十数名から何百名となったのですが、内容はいったいこんなことがどこで決まったか、だれが段取りをしたのかまったくわけのわからないものでした。

 一番わけのわからないことは、初めて子供会が出来た時いっしよにいた仲間の半数が参加できないということてした。そんなことから私は子供会からはなれて行きました。そして高校に入りいろんなことを見たり聞いたりしていくうちに、「解同」の一部幹部が自分の利権のために子供を利用し、そしてこのことが子供の低学力を生み出してきたのだと分かってきたのです。

「狭山事件」のことを教えこまれテストされた

●1969年度中学入学     Y・T(23才)

 私の中学校時代は、現在のように、「解同」の教育介入はひどくなかった。

 当事、「解同」の組織している子供会に入っていた時のことでは、「狭山事件」のオルグ活動に行くということで、「狭山事件」のことを執ように教えこまれ、指導員の前にひとりづつ呼び出されて、事件の経過をどれだけうまく話し出来るかをテストされたり、盆おどりにおいても、浴衣の上に黄色いゼッケンをつけて署名活動をやらされたり、思い出に残っているのは、はずかしかったことやいやなことばかりです。

 高校では「友の会」も途中でやめ(その後成績が急上昇してきた)。学校で部落研の同好会をつくり、正しい部落問題について学びました。

 私が全解連(当時正常化連)という組織を知ったのが○中学校事件直後で○中をよくする会に誘われたのかきっかけでした。そこでは、生徒が授業中にたこやきを焼いて食べたり、教室の窓ガラスが割られてしまってほとんどないこと、先生は差別者だから、差別者には暴力をふるってもかまわないんだなど、私たちの中学校時代では考えられないようなことが平然と起こっていることを知り「解同」に対して怒りを感じました。そして、自分たちの卒業した中学校をこのままほっておくことは出来ないと、後輩たちが、正しい教育を受けれるよう努力していくことが必要だと感じ、全解連の活動に参加して、現在に至っている訳です。

以上

(*1) 全解連は発展的に解消し、現在は 民主主義と人権を守る府民連合 (民権連)の支部に移行
(*2) 青少年会館の指導員は大阪市の職員

いわゆる「差別落書き」問題について

いわゆる「差別落書き」問題について

1983年6月 大阪府部落解放運動連合会 (全解連)

 最近、「差別落書き」事件が多発しています。

 主に、「部落解放同盟」やその関連団体の手で摘発され、「落書き」の対象となった施設や場所の設置者や管理者が「差別」の「確認」や「糾弾」の当事者となり、「反省」を迫られ、なかには、一部郵政の職場のように、「同和研修」の実施をはじめ「解放研」の事務所設置、活動家の勤務解除などを当局に認めさせるという異常な事態も起こっています。また、教育の現場では、校区や校内で判明した「差別落書き」を”教材”にした「指導」が子どもたちに行なわれています。

 全解連は、こうした動きに深い憂慮をいだいています。以下この問題に対する私たちの考え方と運動のすすめ方をのべます。(*1)

1.「落書き」とは

 「落書き」とは、「書くべきでない所に文字や絵をいたずら書きすること」で、そのほとんどが書いた者を特定することができません。

 多くの人たちが利用する公共物や一般の目にふれる所への「落書き」は内容、形態のいかんにかかわらず禁じられているのは社会的常識になっています。

 一般にこうした「落書き」は、消去もしくは施設や対象を以前の状態に復元することで基本的に解決するものです。

 いわゆる「差別落書き」もその例外ではありません。

2.なぜおこるか

 公表されている「差別落書き」は、どれひとつとっても許しがたい、国民融合を敵視した悪意に満ちた内容になっているのが最近の特徴です。 こうした「落書き」の背景には、

①部落問題にたいする歴史的、科学的な理解の不十分さや基本的人権への無知や認識の欠除

②長年にわたって解同一部幹部らによって持ちこまれた部落解放運動の弱点

③不公正や逆差別を生み出した同和行政のゆがみ

……が横たわっています。

 これらを解消することなしに「落書き」問題の真の解決はありえません。

3.「差別落書き」への対処と全解連の運動のすすめ方

 国民的融合の促進と「21世紀に部落差別を持ち越さない」決意のもとに運動をすすめている全解連は、「差別落書き」をことさら重大な差別事件として扱うことに反対します。

 実行行為者も不明な「落書き」をとらえて「部落排外主義」や独断的な「差別論」に結びつけてキャンペーンし、「組織強化」や利権獲得の道具にするなどは、部落差別解消とは無縁のものです。

 まして、一部郵政の職場でおこっているような異常な事態は一刻も放置することができません。

 また、軽薄で打撃的なことばが並んだ「落書き」を”教材”にして児童・生徒を「指導する」(□□小学校)などは、およそ教育と呼べるものではありません。

〈具体的には〉

 全解連は今日まで、真の部落解放をめざす運動の先頭に立ってきました。

 施行2年目を迎えた、「地域改善対策特別措置法」(地対法)も、そうした私たちの運動を反映して「周辺地域との一体性の確保」や「公正な運営」「広く国民の理解と協力を得る」(地対法施行にあたっての次官通達)ことを明記しています。

 こうした法の精神を生かして、公共施設の公正な使用や周辺地域への開放をはじめ、”差別の垣根”をとりはらう具体的な措置を一日も早く実現して、住民相互の連帯・国民的融合をさらにすすめることが、「差別落書き」を生み出さない条件をつくる道です。

 また、部落差別の解消にとって、旺盛な啓発活動は不可欠ですが、その主体は、私たち自身が担わねばなりません。多くの府民を対象にした啓蒙・啓発が”上からのおしつけ”でなく、理解と共感を広げる運動として、生活や文化を含めた交流を基礎にとりくみを強めることが大切です。

(1)すべての府民を対象に、部落問題の科学的認識や「国民融合論」の啓蒙・普及活動を強力にすすめます。

(2)法務省や地方自治体、公共団体と協力・共同して正しい人権啓発運動をすすめます。

(3)「差別落書き」事件を口実に利権をあさったり、それをとらえてゆがんだ教育をするなどの動きにたいしては、断固としてたたかいます。

(*1) 1983年10月に「再び『差別落書き』問題について」を発表している

■関連記事/再び「差別落書き」問題について

身分制・部落問題の教科書記述と学習のすすめ方(2015)

身分制・部落問題の教科書記述と学習のすすめ方(2015)

小牧 薫 2015年7月

参考

  • 身分制度・部落問題の授業にどう取り組むか (2011)
  • 中学校公民教科書の部落問題は大問題-部落問題解決の到達点を無視、認識は同対審答申のまま-(2011 大阪歴教協HP)
  • 中学校公民教科書の部落問題記述の問題点 (2011)

身分制・部落問題の教科書記述と学習のすすめ方(2015)

(この文章は全国地域人権運動総連合の機関誌「地域と人権」2015年5月号~10月号に連載されたものです。)

1.はじめに

 「民権連通信」(民主主義と人権を守る府民連合機関誌2015年2月)号外の見出しが話題を呼んでいます。府教委生徒から聞かれたとしても、「今、被差別部落なんてないよ」という「誰が『同和地区の人』なのか、誰も説明できない」これは、民主主義と人権を守る府民連合が2015年1月21日、大阪府教育委員会と交渉を行ったときのやりとりを報道したものです。号外の内容をもう少し見てみます。

民権連 「部落」「被差別部落」「同和地区」などの言葉を使うな
府教委 教科書の記述を踏まえて指導

民権連は「部落」「被差別部落」「同和地区」などの言葉を用いた指導をしないように要求しました。府教委は、「教科書の記述を踏まえて指導」と回答しまし.た。これに関連して、次のようなやりとりが行われました。

○民権連 中学校教科書に「部落差別とは被差別部落の出身者に対する差別のことで、同和問題ともよばれます。」と書かれている。生徒から「被差別部落は今もあるのですか」「どこですか」と聞かれたら、先生はどう答えるのか。

□府教委 生徒から聞かれたとしても、そんなん、今、被差別部落なんてないよという言い方になると思います。

○民権連 ないよ、といいますね。

□府教委 被差別部落どこやと聞かれたら答えないです。かつて差別されたところはあるかもしれませんけれど、今はそんなことないよという言い方になります。

◆「民権連通信」2015年2月号外はこちら(民主主義と人権を守る府民連合のサイト)

 『地域と人権』読者の皆さんには、このやりとりは、あたりまえのことだと思います。しかし、学校現場では、それがあたりまえではありませんでした。

 大阪府教育委員会の担当者が述べているように、中学校の社会科、高校の地歴・公民科の教科書には、「部落」「被差別部落」「同和地区」などの言葉(用語)が何の注釈もなく使われています。それだけでなく、中学社会科公民的分野の教科書には、「日本における部落差別の問題は、人権侵害と差別にかかわる重要な問題です。結婚や就職の際に身元を調べられ、部落の出身者であることがわかると、婚約や採用を取り消されることなどが今でもあります。このような実態は、残念ながら依然として人々の間に差別意識が残っていることを示しています。これは、市民としての権利や自由は保障されるという、日本国憲法の精神に全く反するものです。」(教育出版P46)。現在使用中の教科書に、上記のようにまったく事実に反することが記述されています。

 中学校の社会科公民的分野の教科書は8種類が発行されています。わずかに、帝国書院の教科書だけが、2012年度使用分から「その結果、生活環境の格差が少なくなり、教育・啓発が進むなか、2001年度で特別対策は終了しました」と同和対策の終了について書いています。ほかの教科書は自由社を除いて、同和対策の始まりは書いていても終結したことを書いていません。自由社の教科書は、「2002(平成14)年には国の同和対策事業は終了している」と書いていますが、全体としては問題のある記述です(ここでは省略)。

 同和対策事業に国と地方自治体あわせて15兆円もの予算が投入され、かつて「部落」と呼ばれた集落(地域)は一変しました。人口の流出入により、居住する人々も入れかわりました。誰が従来からの居住者かもわからなくなり、結婚や進学・就職の際に身元を調べたり、差別されることもなくなりました。もし、何らかの差別事象が起こっても、それをまわりの人々がただしてくれるような社会になりました。そこまで、地域の民主主義が進んだということです。  本稿は、「身分制・部落問題の教科書記述と学習のすすめ方」と題して、現在の教科書の記述とともに今年の夏に採択される中学校教科書記述の内容と、それをどのように使えばよいのかについてもかんがえていきたいと思います。

2.小学校では、身分制・部落問題を教えない

 東上高志編「『部落問題学習』の考え方・すすめ方」(1993年部落問題研究所)の総論では、浜田博生さんらと何人かで討議して出した結論を、東上さんがつぎのように書いています。「最後に再度強調しておきたい。すでに書いているように、小学校では部落問題を教えることはしない。教科書には部落問題を記述しない。現行教科書では記述を無視する。中学校においては、部落問題だけをとりだした「特設単元」的なやり方はしない。ましてクラス担任がホームルームで特別な指導をすることは誤りである。前近代の賎民身分、近現代の部落問題についての学習は、義務教育段階で完結させる課題ではなく、高校生が社会問題について充分考えられるようになった段階で学習すべき課題であると考える。現代の部落問題については、社会科歴史学習での課題とするのではなく、高校の「現代社会」「政治経済」の学習のなかでとりあげる」と明確に書いています。

 1972年の小学校教科書に「その他の身分」についての記述がなされ、74年の中学校歴史教科書には、「えた・ひにん」について記述されるようになりました。その記述内容については、2015年亡くなった鈴木良さんをはじめ多くの方が批判し続けてきました。そうした甲斐もあってか、2006年度用の教科書のなかには大きく改善されたものもあらわれました。しかし、まだ旧態依然たるものもありますし、政治起源説を払拭しきれないものもあります。また、いくつかの教科書が「現代の課題」で、いまだに同対審答申を引用し、「部落差別は根強く残されている」というような記述をしています。 私は、雑誌『部落』96年9月号の座談会でもつぎのように発言しています。

 「70年代は大阪においても、政治起源説一辺倒だったわけですが、いろいろ批判を受けるなかで、80年代に入ってわりに早く、個別具体的な研究に依拠してそれを生徒に提起し、授業を組みたてていく、という方向にかわりました。…それと14、5歳という中学生の年齢と、17、8歳の高校生とでは、正義感の問題、不合理に対する怒りといっても大きく違うわけで、社会の構造そのものにまでかかわって問題をとらえた上で不合理に気づきながら学ぶというのは、やっぱり高校生だと思います。そして社会にさまざま存在する問題に対して、自分の立場なり生き方を考える、一つのきっかけになるんとちがうかな、と。あるいは解決への展望と自分の未来を重ね合わせることが可能になるのは、やっぱり高校生の学習課題だと思いますね」と述べています。

 その考えは今でも変わりませんし、現代の部落問題については、社会科歴史学習での課題ではないと考えています。それとともに、歴史学習で取り上げるべき内容はなになのかを十分に考える必要があると考えています。どのようにすべきかは後述するとして、小・中・高の歴史学習について考えてみます。

3、小学校の教科書は、中学校の教科書の薄墨

 私は、90年代に入ってからはことあるごとに教科書の身分制・部落問題記述の,肥大化・特殊化について批判してきました。特に小学校では部落問題を教えることはしない、部落問題記述があっても無視するということを主張してきました。しかし、小学校学習指導要領には、身分制・部落問題についてはまったく触れられていないにもかかわらずどの教科書にも書かれています。2012年度用の小学校の教科書は、どの教科書もAB版になり、横幅が広くなり、大きな写真が使われるようになりました。その反面、歴史叙述が少なくなり、絵本と見間違うようなものになっています。人物中心の記述内容で、社会構造についてはほとんど書かれず、民衆運動は無視されたままです。内容をつぶさに見てみると、中学校の教科書をかんたんにしたものが小学校の教科書です。

 小学校では、「えた.ひにん」の記述はありませんが、「身分の上で差別されてきた人々」とか「厳しく差別されてきた人々」などの記述があるのです。

 最も多く採択されている東京書籍の『新編新しい社会』6年上の教科書では、身分制・部落問題について、つぎの箇所で記述しています。室町文化での庭作り、江戸時代の身分制、蘭学で「医学を支えた人々」、渋染一揆、明治の身分制の改革、全国水平社の結成、私たちの課題の7カ所です。

 ほかの教科書でも同じ箇所で記述されています。東京書籍の教科書では、土一揆・国一揆についてまったく書いていませんし、江戸時代の百姓一揆は渋染一揆だけです。それで世の中のようすがわかるはずがありません。小学校の教科書から身分制・部落問題記述がなくなればどれだけすっきりするでしょう。そして、基本的な社会関係についての記述をしっかりするべきです。

4.小学校の教科書記述の問題-憲法と部落差別

 「小学校では部落問題を教えない」、「教科書の記述は無視する」と口がすっぱくなるほど言い続けてきたつもりです。教科書会社にもその要望を出し続けてきました。学習指導要領にも一言も触れられていません。

 ところが、小学校教科書(社会)には、今でも歴史と憲法学習であい変わらず記述されています。しかも、事実をねじまげているのです。小学社会を発行している4社中3社までが、いまだに事実を反映した記述に改善していません。

 憲法学習で部落差別を取り上げていないのは東京書籍だけです。これを全社に広げなくてはなりません。

 日本文教出版「小学社会」6下には、日本国憲法の平等権の説明で「歴史で学んだように、差別を許さない運動や取り組みが広がりつつありますが、まだ、日常生活や結婚・就職などで人権がおかされている事実があります」と、同和対策が終了して10年以上たち、結婚や就職の際の差別事象はどこの統計資料にも現れない状況、部落差別が克服・解消されたといえるようになったにもかかわらず、いまだに記述内容を改善していません。

 教育出版も同じように差別が残っていると書き、光村図書は「私たちの周りには、江戸時代の身分差別がもとで、今でも、結婚や就職のときに差別を受けている人たちがいます。(中略)基本的人権を守るためには、こうした差別や偏見をなくすことが大切です」と書いています。

 日常生活における差別や結婚・就職の際の差別を「江戸時代の差別がもとで」と言い切ることができるのでしょうか?「被差別部落」と言われた地域の住民は、江戸時代以来代々そこに住み続けていたというのでしょうか?人口の流出入により、居住する人が入れ替わったり、旧身分に関係なく結婚する人が増えることによって、国民融合がすすんだことをどのようにとらえているのでしょうか?・ もし、現在もそのようなことが起こるとすれば、それは貧困や生育状況などに起因するのではないでしょうか?社会関係で出自を問題にすることがあるでしょうか? 特別対策が廃止され、「同和地区」はどこにも存在しないし、「同和地区」出身かどうかを意識することもなくなりました。社会問題としての部落問題は基本的に解決したのです。まだ、偏見や誤解を持つ人がいたとしても、社会にそれが受け入れられることはなく、逆にそれを克服して国民融合をすすめていくところまできているのです。

 そうした歴史と現状を小学生に教えることはとうていできません。部落差別の歴史とその克服・解消という社会問題を教えることは、小学生に無理です。日常生活でさまざまな交流を経験し人間性・社会性が育った青年たちにこそ理解できることです。

5.小学校の教科書記述の問題-日本の歴史で-

 歴史学習に関わる部分でも問題の多さを感じます。

 東京書籍の「新編新しい社会」6上の記述を見てみます。

 前回にも指摘しましたが、最初の記述は「室町文化」のところです。「身分」についての説明もないままに、「身分のうえで差別されてきた人々」という記述が出てきます。

 「今に伝わる室町文化」の側注囲みの「石と砂で世界を表す~竜安寺の石庭~」で竜安寺の石庭の写真をつけ、「京都の竜安寺には、枯山水という砂と石で山や水などを表す様式の石庭があります。庭づくりでは、身分のうえで差別されてきた人々が活やくしました。室町時代につくられた数々の庭園は、今も人びとの心をとらえ、季節ごとに多くの人がおとずれます」と書いています。

 現行本には、「庭づくりでは、身分のうえで差別されてきた人々が活やくしました」の一文はありませんでした。

 書院造などとともに枯山水の石庭を室町文化の特色としておさえることには何ら問題はありません。でも、それをつくったのが「身分のうえで差別されていた人々」のひとりだったことをことさら取り出して教える必要があるでしょうか?そんな必要はまったくありません。

 つぎに、書かれているのは、第6節「3人の武将と天下統一」の項で、本文に「検地と刀狩によって、武士と、百姓・町人(商人や職人)という身分が区別され、武士と町人は城下町に住み、百姓は農村や山村、漁村で農業や林業、漁業などに専念するようになりました。武士が世の中を支配する社会のしくみが整えられていったのです」と、側注に「百姓」の用語解説もあります。これが基本的社会関係で、小学生も学ぶべきことです。  第7節「江戸幕府と政治の安定」の「人々のくらしと身分」の項では、身分制と各身分の生業について書き、農業の発展についてもふれ、本文最後に「このほか、皇族や公家(貴族)、僧や神官などの宗教者、能や歌舞伎をはじめとする芸能者、絵師、学者、医者など、多くの身分が見られました。また、百姓や町人とは別に厳しく差別されてきた身分の人々もいました」と書き、側注に「身分」のことばを「江戸時代には、武士や百姓、町人などの身分が固定化し、身分によって職業や住む場所のほか、税などの負担が決められました。親から子へと代々引きつがれていきました」と解説しています。

 これが「身分」のことばの説明になっているでしょうか?「身分」とは、「特定の社会における地位や階層で、個人や集団に対してつけられたもの」というべきだと思いますが、これを小学生に理解させるのはどだい無理なことです。そのうえに、このページの最後に、囲みで「厳しく差別されてきた人々」を詳しく説明しています。「百姓や町人とは別に厳しく差別されてきた身分の人びとは、仕事や住む場所、身なりを百姓や町入とは区別され、村や町の祭りへの参加をこばまれるなど、厳しい差別のもとにおかれ、幕府や藩も差別を強めました。これらの人々は、こうした差別の中でも、農業や手工業を営み、芸能で人々を楽しませ、また治安などをになって、社会を支えました」と。

 事実は、仕事や住む場所はすべての人々が決められており、すべての人々が社会を支えていたのです。こんな記述はまったく不要です。   第8節「町人の文化と新しい学問」の「新しい学問・蘭学」の項は下の通りです。

 杉田玄白、前野良沢の「解体新書」の出版について書くとともに、側注に「二つの解剖図」と「ほん訳の苦労」の漫画、「解剖の様子」(想像図)を示し囲みで「医学を支えた人々」を書いています。「玄白があらわした『蘭学事始』という本には、『解体新書』をほん訳した苦心と、人体の解剖を初めて見たときの感動が記されています。玄白は、解剖を見学したとき、見比べていたオランダ語の解剖図が正確にかかれているのにおどろいた、と書き残しています。

 また、このとき解剖をして内臓の説明をした人は、身分制度のもとで百姓や町人とは別に厳しく差別されてきた人でした。このような人が、すぐれた解剖の技術を生かして、このころの医学を支えていました」と。

 医学を支え、進歩させたのは、玄白や良沢であり、「解剖をして内臓の説明をした」「厳しく差別された人」ではありません。なぜ、ことさらに、解剖をした非人を強調するのでしょうか?

 「国学の発展と新しい時代への動き」の項の後半に「百姓一揆と打ちこわし」についてふれ、グラフと挿絵、囲みで「渋染一揆」を書いています。江戸時代に多かったのは、年貢減免を求める一揆で幕末の世直し一揆である「渋染一揆」のようなものではありません。これも「身分上厳しく差別されてきた人たち」を強調するための記述としか言いようがありません。

 第9節「明治の国づくりを進めた人々」で、「江戸時代の身分制度も改められ、すべての国民は平等であるとされ、職業や住む場所が自由に選べるようになり、身分制度のもとで苦しめられてきた人々も身分上は解放されました」と本文で書き、囲みで「本当の平等を求めて」で「政府は差別をなくすための政策や生活の改善を行いませんでした。そのため、望んだ仕事につくことや教育を受けることは難しく、苦しい生活の中で結婚や就職、住む場所など、日常生活でのさまざまな差別が新しい形で残されました」と、差別の強化について書いています。

 大事なことは明治になって身分のちがいがなくなったことで、差別が強化されたことではありません。

 第10節「世界に踏み出した日本」の「生活や社会の変化」の項で、足尾鉱毒事件と田中正造、米騒動、労働運動と小作争議を書いたあと、男子普通選挙の実現、女性の地位向上運動とともに全国水平社の結成を書いています。そして「演説する山田少年(1924年、大阪市)」の写真と説明を添えています。

 政治参加と社会変革を求める運動の高まりこそが重要なのですが、そのことの記述は不十分で、現行本にあった「社会的な権利を主張する動きがさかんになっていきました。政府は、こうした動きを取りしまるための法律を定めました」の文章も削除してしまいました。

 歴史の最後に「クラスで話し合うために出した問題の例」があげられていますが、現在も部落差別が残っているという前提で、「歴史で学習してきた差別をなくす問題は、解決されたのだろうか」という課題は、現行本のまま残しています。  以上、東京書籍の教科書『新編新しい社会』の記述を取り上げて、批判してきましたが、この批判は、日本文教出版、教育出版、光村図書の教科書についてもあてはまる批判です。

 東京書籍以外は、「蘭学」の項で、解剖をして内蔵の説明をした人のことを詳しく書かないなど、小さな点で違いはありますが、記述そのものは基本的に同じようなものとなっています。

 何度も言いますが、子どもたちが使う教科書は、なによりも事実を正確に記述するものでなければなりません。それとともに、子どもの発達に即して、理解できる内容を叙述したものであるべきです。小学生に身分制や部落問題を教えることはできません。

6.2014年度の中学校教科書の検定について

 文部科学省は2015年4月6日、中学校教科書の検定結果を公表しました。この教科書は2008年版学習指導要領にもとずく2回めの検定です。2016年から4年間使われる教科書の採択作業が2015年の8月までの間行われます。安倍首相らの推薦する歴史修正主義、憲法「改正」をねらう育鵬社版と自由社版の歴史と公民教科書を教育委員会によって採択させない(子どもたちに渡さない)ための運動がいっそう重要になっています。

 文部科学省は、今回の中学校教科書の改訂に向けて教科書検定基準と検定審査要項(検定審議会内規)を改めるという大改悪をおこないました。

 それは日本政府の統一見解を書かせることや近現代の歴史事項のうち、通説的な見解がない場合にはそれを明示し、児童生徒が誤解の恐れがある表現はさせないというものです。その具体例はのちほど見てみます。

 検定では、申請点数104点のうち102点が合格しました。不合格となったのは、学び舎と自由社の社会科歴史的分野の教科書です。両社は指摘された欠陥箇所などを修正して再提出して合格しました。新たに社会科歴史的分野で検定申請した学び舎は、現場の教員などが中心になって組織した「子どもと学ぶ歴史教科書の会」が設立した出版社です。しかし、学び舎の歴史的分野の申請図書は「細かいことに入りすぎて通史的学習ができない」などの理由で、いったん不合格となりました。

 また、「新しい歴史教科書をつくる会」がつくる自由社版は公民的分野の教科書は改訂せず、歴史も最初の申請であまりにも誤りが多く不合格となり、再提出後合格しています。

 この結果、公民的分野は、教育出版(教出)、清水書院(清水)、帝国書院(帝国)、東京書籍(東書)、日本文教出版(日文)、育鵬社の6種類、歴史的分野はそれに学び舎、自由社が加わって8種類となりました。

 文科省の検定によって、学び舎の申請本にあった「慰安婦(日本軍性奴隷)」については最初の申請本にはつぎのような記述がありました。「朝鮮・台湾の若い女性たちのなかには、『慰安婦』として戦地に送りこまれた人たちがいた。女性たちは、日本軍とともに移動させられて、自分の意思で行動できなかった」(P237)と、「日本政府も『慰安所』の設置と運営に軍が関与していたことを認め、お詫びと反省の意を表し」たこと、政府は「賠償は国家間で解決済みで」「個人への補償は行わない」としていること、そのため「女性のためのアジア平和国民基金」を発足させたこと、この問題は「国連の人権委員会やアメリカ議会などでも取り上げられ、戦争中の女性への暴力の責任が問われるようになっている」ことなどの客観的事実を述べた記述(P279)です。

 しかし、検定ではこれを「欠陥箇所」の一つにあげ、不合格にしました。その結果、合格した教科書には、「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地に送られた人たちがいた。この女性たちは、日本軍とともに移動させられ、自分の意思で行動することは許されなかった」という記述(P239)が残され、「問い直される戦後」の項の側注資料(P281)には「河野談話」の一部要約も記述されています。

 政府見解を押し付ける教科書づくりは、領土問題で顕著です。社会科の「学習指導要領解説」の改訂によって、2016年度用では全社が取り上げ、2ページの大型コラムを設けたのが3社あり、その他にも小コラムで扱っています。地理や公民では領土問題の記述を軒並み増やし、政府見解通りに、北方領土・竹島・尖閣諸島は「日本の固有の領土」、北方領土はロシアが、竹島は韓国が「不法に占拠」と横並びに書き、尖閣諸島には領有権問題は存在しないと政府見解を丸写ししています。そして韓国や中国の主張にふれたものはありません。

 通説がないときは通説がない旨を明記せよとの新設された検定基準が文字通り適用されたのが、清水書院の関東大震災における朝鮮人虐殺事件についての記述です。「警察・軍隊・自警団によって殺害された朝鮮人は数千人にものぼった」との現行版記述をそのまま検定提出したのに対して、通説的な見解がないことが明示されていないとの検定意見が付され、「自警団によって殺害された朝鮮人について当時の司法省は230名あまりと発表した。軍隊や警察によって殺害されたものや司法省の報告に記載のない地域の虐殺を含めるとその数は数千人になるともいわれるが、人数については通説はない」(P221)と必要以上に詳細な記述に変更されてしまいました。

 今回の検定では従来よりいっそう書かせる検定という性格があらわになり、歴史でさえ政府見解に基づいて書かせるということになってしまいました。

 育鵬社版・自由社版の教科書は、国際常識や国民世論に反して歴史修正主義を大きく変えないで、検定意見による修正も含め基本的には現行版の枠組みを維持しています。そのことは同時に、育鵬社 版・自由社版が、神話と神武天皇の扱いなどの歴史歪曲、近代日本がおこなった侵略戦争と植民地支配や韓国併合の美化、天皇制賛美、日本国憲法の敵視と歪曲等々の点で、これまでと本質的にまったく変わらないことを示しています。こうした教科書を中学生に手渡すことができないことは何度強調してもしすぎることはないと思います。

7.公民の部落問題記述は改善されたか

 大阪歴史教育者協議会のホームページには、柏木功さんの「中学校公民教科書の部落問題は大問題-部落問題解決の到達点を無視、認識は同対審答申のまま-」の論文がアップされています。また、亀谷義富さんは、「中学校公民教科書の部落問題記述の問題点」を季刊「人権問題」2011冬号(兵庫人権問題研究所)と『国民融合通信』№457(2012年5月発行)に書かれています。これらは、2008年学習指導要領改訂にもとずく教科書(2012~2015年度使用)についての批判です。この批判を受けて、今回の改訂でどれだけ改善されたかと期待を持って見ましたが、記述内容は、ほとんど変わりがなく、期待はずれに終わりました。「部落問題」とは何かがわかるように記述されていないし、部落差別の克服・解消は進んでいるのか、同和対策特別法は終了したことを書いているのかなどの点で、どの教科書も不十分で、改善されているとは言いがたいものとなっています。

 部落問題とは、江戸時代までの日本の社会が身分制の社会であり、明治以後も地域社会の中で江戸時代の賎民身分につながりがあるとされた一部の地域集団が差別されていました。それが近現代の社会問題としてつづいてきたものであり、封建時代の残りかすなのです。しかし、教科書はそのようには書いていません。

 「部落差別とは、被差別部落の出身者に対する差別のことで、同和問題ともよばれます。すでに江戸時代には、えた身分・ひにん身分という差別がありました。明治にはいって身分解放令が出され、そのような差別はないこととされましたが、実際の生活では、差別が根強く残りました」(帝国・公民P44)などと不十分なことを書き続けています。  もっとも問題なのは、育鵬社が「部落差別は憲法が禁止する門地(家柄・血筋)による差別のひとつに当たります」(P69)と、部落差別は、門地による差別のひとつで帝国憲法下では許されていたが日本国憲法によって禁止されるようになった。だから、憲法で禁止されているが現在も家柄や血筋による人権侵害(差別)が残っているがやってはいけないことだと認識させようとしています。部落差別の起源も現状認識も間違ったものです。

 部落問題の解決とは、社会生活の中で出自を意識しない、出自など関係ないわ、という状態になることです。「同和地区」の指定もなくなり、「同和地区」出身かどうかを意識することも問題にすることもありません。現在では、社会問題としての部落問題は基本的に解決しています。まだ偏見や誤解を持つ人がいたとしても、社会としてそれが受け入れられることはなく、みんなで克服して国民融合をすすめていくという段階にまで達しています。

 ところが、小学校の教科書には、4社とも同和対策特別法が終了したことを書いていないと批判しましたが、中学校の教科書は現行通り、帝国が以下のように書いているだけで、他社は触れていません。

 帝国は本文で「同和地区の生活改善や、差別をなくす教育などが行われてきました①。しかし、現在もまだ、さまざまな場面で差別や偏見があります」と書き、側注で①「その結果、生活環境の格差が少なくなり、教育・啓発が進むなか、2001年度で特別対策は終了しました」と記述しているにすぎないのです。そのあとの「部落差別をなくすためには、私たち一人ひとりも、部落差別がいかに人間的に許されないかに気づき、差別をしない、させない、許さないことが大切です。」と差別をなくす心がけを説いている点も改善されていません。

 教出は本文で、東書は側注で、2000年の人権教育・啓発推進法を取り上げていますが、「現在でも差別は根強く残っている」と書いています。

 日文は本文で「対象地域の生活環境はかなり改善されてきました」と書き、側注で「2000年には、人権教育・啓発推進法が制定されました」と書いています。教科書は部落問題の克服・解消が進んだと書かないのです。

 公民の教科書に被差別部落の歴史を簡潔に書こうとしていますが、どの教科書も不正確で、問題のある記述をしています。詳しいことはここでは触れません。柏木さんの論文を見てください。身分制、部落問題の歴史的分野の教科書記述については次回で解明します。

8.歴史的分野の記述はどうかわったか

 新中学校教科書の歴史的分野は8社の教科書が検定合格しましたが、中味は改善されたのでしょうか。学習指導要領はそのままですから、大きく改訂しなければいけないという個所はないはずです。る検定基準の改悪などによって、現行版を守ることすら難しいことはすでに触れましたが、執筆者・編集者の努力で改善された個所もあることはあります。

 しかし、前近代の身分制・近現代の部落問題記述は、依然として特殊化・肥大化されたままです。ほとんどの教科書は現行版のままで、改訂されたものも改善されたとはいえません。その詳細は、のちに見てみます。

 それでも、学び舎の教科書が一度不合格になりながら、再提出で検定合格したことはたいへん大きな意義があると思います。学び舎も前近代の身分制・近現代の部落問題についてふれてはいますが、他の教科書に比べて記述量が少ないし、記述内容も違っています。詳細はのちにふれます。

 私は中学生にも前近代の身分制のうち河原者やかわた(えた)・ひにんについて教える必要はないと思っています。日本の歴史を学ぶときに、江戸時代の賎民について学ばねばならないわけではありません。大事なことは武士と百姓、町人の身分の別とそれによって暮らしがどうだったのかがわかればよいと思っています。

 1974年の中学校教科書に、江戸時代の賎民について記述され、その後の改訂で詳しい記述がされるようになりました。そんなことは必要ないのです。中学での歴史学習の際、そんなことは無視すればよいのです。

 ところが、いまだに詳しく記述され、教えられています。近現代の賎称廃止令(いわゆる「解放令」)、全国水平社の結成についても、中学生に教える必要があるとは思いません。そして、現代の課題で同対審答申を引用し、いまだに部落差別が残存しているかのように書くのは誤りです。それでも書くとすれば、部落差別が克服・解消され、同和対策が終了したことを書くべきです。

 歴史学習の最後を、部落差別やアイヌ差別、在日外国人差別などが厳然と残っているという学習で終わらせてはならないと思います。

 8種類の教科書すべてがふれている個所は、江戸時代の身分制、近代の賎称廃止令、全国水平社の結成の三個所ですが、そのほかの身分制・部落問題に関わる記述内容についても見てみましょう。

(1)室町時代の「河原者」

 室町文化で、なぜ、「河原者」だけが特別扱いされるのでしょうか。他の技術者や芸能者、被差別民については記述しないで、なぜ庭園づくりに携わった河原者だけを詳しく記述するのでしょうか。観阿弥・世阿弥の人名は書かずに善阿弥を記述する重要性があるのでしょうか。それなのに、「河原者は差別をうけ」と書くから、「けがれ」観についての説明が必要になるのです。子どもたちに理解できるでしょうか、死などについての偏見が強まるだけではないでしょうか。

 「河原者」について、もっとも詳しいのは、帝国です。本文は「龍安寺禅宗寺院では、砂や岩などで自然を表現した枯山水の庭園がつくられ、こうした庭園づくりには河原者がすぐれた手腕を発揮しました。」(P82)と書き、「コラム人権」で「庭園づくりに活躍した河原者」の題で「この時代には龍安寺などで庭園がつくられ、天下一と賞賛された善阿弥をはじめ、庭園づくりの名手が登場しました。その名手の多くが河原者とよばれた人々でした。昔は、天変地異・死・出血・火事・犯罪など、通常の状態に変化をもたらすできごとにかかわることを『けがれ』といいました。『けがれ』をおそれる観念は、平安時代から強まり、『けがれ』を清める力をもつ入々が必要とされていきました。しかし一方で、清める力をもつ者は異質な存在として、差別を受けるようにもなりました。河原者もそうした差別を受けた人々でした。彼らは井戸掘りや死んだ牛馬から皮をとってなめすことも行っていました。彼らはおそれられましたが、その仕事は社会にとって必要であり、すばらしい文化を築いていきました。なお『けがれ』は、近代以降に生まれた不衛生という考え方とは異なるものです」と書き、龍安寺の写真の説明に、「龍安寺の石庭(京都市)制作にたずさわった河原者の名前が残っています」。さらに、「法然上人絵伝」の写真の説明で、「死刑に処される僧侶と河原に集まる人々川はけがれなどさまさまなものを浄化してくれると考えられていました。そのため刑の多くは河原で行われました」(P83)と書いています。

 庭園づくりに活躍した河原者について書く必要はないと思いますし、けがれについての説明も江戸時代の身分制のコラムと重なっています。両方とも必要はないと思います。

 教出は「コラム歴史の窓 庭園づくりに活躍した人々」、東書も「歴史のアクセス河原者たちの優れた技術」の詳しい説明を書いています。育鵬社、日文、学び舎は「河原者」の語は出していますが、詳しい説明はありません。自由社と清水は、「河原者」の記述はありません。

私は枯山水にふれても、「河原者」を記述する必要はないと思います。

(2)江戸時代の身分制

日文は現行版を改訂せず「幕府は、武士と、百姓・町人という身分制を全国にいきわたらせました。治安維持や行政・裁判を担った武士を高い身分とし、町人よりも年貢を負担する農民を重くみました。さらに百姓・町人のほかに、「えた」や「ひにん」などとよばれる身分がありました。「えた」身分の人々の多くは、農業を営んで年貢を納めたり、死んだ牛馬の処理を担い、皮革業・細工物などの仕事に従事したりしました。また、「えた」や「ひにん」の身分のなかには、役人のもとで、犯罪人の逮捕や処刑などの役を果たす者、芸能に従事して活躍する者もいました。これらの人々は百姓・町人からも疎外され、住む場所や、服装・交際などできびしい制限を受けました。こうした身分制は武士の支配につこうよく利用され、その身分は、原則として親子代々受けつぐものとされました」と書いています。2001年版以来少しずつの変化ですが、「死牛馬の処理」を仕事と書くのではなく、はっきり「役」とは書いていませんが、「担い」と幕府や藩によって強制されたもののように書いています。これは、学び舎が「『かわた(長吏)』『えた』とよばれた人びとは、農業や皮の加工などに従事し、死んだ牛馬の処理を役としました。『ひにん』は、村や町の番人・清掃などの役を負担しました」(P.117)と書いているのとともに重要なことです。

 仕事と役の区別をしっかり書いているのは、学び舎だけです。

 学び舎が「かわた(長吏)」の語を使ったのもよいことだと思いますが、使うとすれば、用語についての説明も注釈もないのは不親切だと思います。他の教科書は死牛馬の処理を権利としたり、仕事のひとつと書いていますが、それは誤りです。教出は「えたの身分のなかには、農業を営んで年貢を納める者も多く、死んだ牛馬を処理する権利をもち」(P.l13)と書き、東書は「えた身分は、農業を行って年貢を納めたほか、死んだ牛馬の解体や皮革業、雪駄作り、雑業などをして生活しました。…」(P.115)と、生業と役を区別していません。

 帝国は、「コラム人権」で、~差別された人々」を扱っています。「近世の社会にも、中世と同じように、天変地異・死・犯罪など人間がはかりしれないことを『けがれ』としておそれる傾向があり(↓P.83)、それにかかわった人々が差別されることがありました。もっとも、死にかかわっていても、医師・僧侶・処刑役に従事した武士などは差別されなかったので、差別は非合理的で、支配者につこうよく利用されたものであるといえます。差別された人々は、地域によってさまざまな呼び名や役割で存在していました。えたとよばれた人々は、農林漁業を営みながら、死牛馬からの皮革の製造、町や村の警備、草履や雪駄づくり、竹細工、医薬業、城や寺社の清掃のほか、犯罪者の捕縛や行刑役などに従事しました。ひにんとよばれた人びとは、…」(P.117)と、「庭園づくりに活躍した河原者」で説明したことを再び書いていますし、死牛馬の処理を役と位置づけていません。こんなに詳しい説明をする必要がどこにあるというのでしょうか。幕藩体制によって、百姓、町人、えた、ひにんは、がんじがらめに縛られていたということを印象づけたいのでしょうか。

(3)身分制の強化、渋染一揆など

江戸中期の身分制の強化についてふれているのは日文だけです。日文は現行版そのままで「近世史プラスα」のカコミ「豊かになる人々と身分制のひきしめ」で、「『えた』身分の人々のなかにも、広い田畑を経営する者や、雪駄づくりの仕事を行って豊かになる者も出てきました。村の人口も増え、他地域との交易も広まりました。これに対して幕府や藩は、身分制のひきしめを強め、特に『えた』や『ひにん』などの身分の人々に対しては、人づきあいや髪型・服装について、さらに統制をきびしくしました。…」(P.135)と、「えた」身分のなかに豊かになる者があらわれ、身分制がゆるんだので、差別が強化されたという問題のある書き方です。豊かになるものがあらわれたのは、えただけでなく、百姓、町人にもいます。えたを強調する必要はありません。

蘭学の項で人体解剖をして説明をした「差別された人々」についてふれているのは、帝国(「解体新書」の側注、P.132)と東書(挿絵の説明P.130)だけです。学び舎は「人体解剖の驚き」という項をもうけていますが、「90歳になる老人が腑分けをはじめました」とあるだけで、「差別された人々」とは書いていません。もし書くとしても、賎民にふれる必要はないでしょう。

「渋染一揆」は、教出は本文と発展で、東書と帝国はカコミで、日文は発展で扱っています。

日文は発展ぺージ「新しい世の中をめざした人々」で、「差別の撤回を求めた人々」として渋染一揆について書き、そこでは、「19世紀のなかばころから、社会の枠組みをこえて、自由な経済活動や平等な社会を求める動きが盛んになりました」(P.164)と「世直し一揆」の位置づけをしていますが、他はそうした位置づけになっていません。

8.歴史的分野の記述はどうかわったか

(4)四民平等、賎称廃止令

 四民平等については、表題は違いますが、すべての教科書に記述されています。清水が「国民の平等」を見出しにしていますが、新しい身分制がつくられたのですし、この段階で「国民」になったわけではないので、不適切だと思います。教出の「残された差別」の見出しも改革の面よりもマイナス面を強調するので不適切だと思います。学び舎が「古い身分の廃止と新しい身分」の題で書いているのと、「解放令」と書かずに、「『えた』『ひにん』などの呼び方を廃止して、平民としました」(P.173)は、これまでなかった表現で、身分制の改革と賎称廃止の布告内容を正しく伝えるものになっています。

 「生活が苦しくなった」「社会的差別は根強く残りました」と書くのは、育鵬社、自由社、清水、帝国、学び舎です。

 日文は、「職業・結婚・居住地などをめぐる差別が根強く残りました」と書いたあとに「そこで、『解放令』をよりどころに、山林や用水の平等な利用、寄合や祭礼での対等な交際の要求など、差別からの解放と生活の向上を求める動きが各地で起きました。」(P.167)と書いているのは妥当なことです。さらに、側注で「明治以降のこの問題を部落差別とよんでいます(↓P.217)。こうした身分の人々は、改善策も受けられず、それまでもっていた職業上の権利を失いました。」と書いています。「部落差別」の位置づけはこれでよいと思いますが、「職業上の権利」はこれまでどこにも書いてなかったことです。江戸時代の身分制で、死牛馬の処理は「役」に位置づけていました。どこで、どうして「職業上の権利」になったのでしょう。その説明なしには、この文章は理解できません。そして明治になって、死牛馬の処理権を失ったのは被差別部落のごく一部の豊かな人だけです。

 育鵬社は「政府は身分制度を改めるため、四民平等の方針を打ち出しました。新しくつくられた戸籍には、旧武士は士族、大名や公家は華族、それ以外の人々は平民として、新たな身分が記載されました」(P.168~9)と、皇族についての記述がありません。大事なのは、天皇と皇族、華族、士族、平民の新しい身分と書くことです。東書は、発展で「『解放令』から水平社へ」と題して2ページつかっています。内容は現行とほとんど同じで、「解放令」とその後、部落解放運動の始まり、島崎藤村の「破戒」を扱っています。このページにあるカコミも含めて、こんな文章や図版が必要とは思えません。

(5)全国水平社の結成

 大正デモクラシーと社会運動の高まりで、多くの教科書が全国水平社が創立(組織)されたと書いています。

 育鵬社も、日本労働総同盟、日本農民組合の結成と全国水平社が組織されたと書き、そのすぐあとに、「ロシア革命の影響で共産主義の思想や運動が知識人や学生のあいだに広がっていきました。ソ連と国交を結んだこともあり、…君主制の廃止や私有財産制度の否認をめざす活動を取りしまる治安維持法を制定」(P.217)と、ことさら日本共産党の名前を伏せて書いています。そして、水平社宣言と山田孝野次郎少年の演説の写真を載せています。

 自由社も水平社創立宣言の一部を掲げていますが、全国水平社以外の具体的な団体名や主張にほとんどふれていません(P.219)。

 東書、日文、教出、帝国、清水、学び舎は日本農民組合や全国水平社、新婦人協会、日本共産党の結成などを書いています。

 教出は、本文で、「ロシア革命や米騒動などの影響も受けて、社会運動が活発になりました。」と書いたあと、労働争議、メーデー、日本共産党の結成①、小作争議にふれ、「女性を社会的な差別から解放し…、また、厳しい部落差別に苦しんでいた人々は、1922年に全国水平社を設立し、差別からの解放と自由・平等を求める運動を進めました。」と書いたあと、側注①で「私有財産制度や君主制の廃止、8時間労働制などを主張して活動しました」と明記しています。そして、つぎのページに「水平社宣言」の一部と山田孝野次郎の演説する写真を載せています。

 日文も「無産政党」についても書き、団体や政党が何をめざしたのかを書いています。重要なことだと思います。

(6)現代の課題

 東書の現行版は、「日本社会の課題」の部落差別に関わる側注で「…特別措置法にもとづく対策事業は終了しましたが、引き続き、教育の充実、職業の安定、産業の振興といった面での改善、人権教育や人権啓発などの推進が図られています」(P.242)と同和対策事業の終了を書いていましたが、新版では本文で「まず重要なのは、人権の尊重です。部落差別の撤廃は、国や地方公共団体の責務であり、国民的課題です」(P.262)と書き、側注で「部落差別の問題(同和問題)は、長い間の部落解放運動(↓P.161)の発展を基礎として、1965(昭和40)年に国の同和対策審議会の答申がなされて以来、特別措置法によって改善されてきました。現在は、引き続き、教育の充実、職業の安定、産業の振興といった面での改善、人権教育や人権啓発などの推進が図られています。」と特別措置法にもとづく同和対策事業の終了を削除してしまいました。大きな後退です。

 同和対策事業の終了は、他の教科書でも書かれるようになるのかと期待したのですが、残念ながらどの教科書にも書かれていません。それどころか、教出、清水は「差別や偏見が残っており」と書き、日文は「部落差別の撤廃は、国や地方自治体の責務であり、国民的課題です」(P.271)と本文で書き、側注で、人権擁護施策推進法にふれています。私には、どうしていつまでも、このような記述を続けるのかその理由がわかりません。

 学び舎が歴史学習の最後を「平和という言葉」の表題で、「戦場の生きものたち」「北の川のほとりに住む人」「あなたの夢は」で構成し、「人は、健康で、楽しく遊んだりして、自分の夢をかなえていく、そんな平和な世界を思い描きます。平和は、戦争によって破られるだけでなく、貧困や差別、人権の抑圧、環境の破壊などによっても、その実現が妨げられます。平和を実現したいと望むなら、どのようにして平和が壊され、失われてきたのか、過去の歴史から学ぶことが必要です。…」と書いています。現代の課題をどう書くかは、たいへん重要です。

 そこに部落問題の解決を国民的課題と書く時代は終わりました。差別や人権の抑圧が問題だと書くだけで十分です。

 東書、日文、教出、清水のように部落差別を特別扱いするのはやめるべきです。

9.中学での身分制。部落問題学習についてのすすめ方

 私は、中学生にも前近代の身分制で[えた」「ひにん」についての詳しい説明は不要だと思っています。ところが、1970年代に特定運動団体の要求によって、教科書に記述されるようになって 以来、改訂のたびごとに詳しく記述されるようになりました。中学生に江戸時代の身分制について教える場合、武士と百姓・町人の関係がしっかり捉えられればいいのです。

 賎民身分の社会的差別について、中世の賎民身分がどのようにして、江戸時代に幕府や藩に把握されたのか、そのことによって多様な賎民身分がどのような生活を強いられることとなったのか、わからせることはたいへん困難なことです。無理をしなくていいのです。

 それよりも政治起源説や職業起源説に陥らないようにすることが大切です。

 もっと重要なのは、部落問題の克服・解消が進んでいるのに、それを反映した教科書はありません。そのことこそが教えられるべき内容です。これも歴史ではなく公民的分野の課題です。

 学び舎の教科書は、他の教科書にくらべると、扱う項目も少なく、記述量も多くありません。それでも不要な記述があります。歴史的分野だけの教科書ですから、戦後の部落問題や部落差別の解消について書く必要はありませんが、それなら「水平社宣言」でこの問題の扱いを終わるのは問題です。

 まだまだ特殊化・肥大化は続いています。子どもたちにとって、教科書の記述はたいへん重要です。基本的事項についての理解が進むように、簡潔で、わかりやすい記述が求められます。教科書会社にも学習指導要領にもない事項を克明に書けという締め付けはないと思います。教科書の記述内容の改善を求めるとともに、授業でどう扱うかは慎重に検討したうえで実践を進めましょう。

10.高校日本史の身分制・部落問題の記述

高等学校では、地理・歴史科の「日本史B」と公民科の「現代社会」「政治・経済」で、身分制と部落問題について学びます。小学校の教科書について書いたところでも、高校の教科書を薄めて中学校、小学校の身分制と部落問題について記述されていると書きました。その点で改善されているとはいえませんが、一部の教科書で研究成果を反映したり、現状認識を改めたものが現れました。

(1)「部落問題は最終的な解決過程にある」と書く教科書も.

 部落問題が理解できるのは、高校生になってからだと言い続けてきました。江戸時代の賎民身分についても、近現代の部落問題についてもおなじことです。どのような社会的差別が存在したのか、それをどのようにして解消しようと努力してきたのか、そして現在はどうなっているのかを理解できるのは高校生になって、他の科目の学習とあわせてはじめて理解できると主張してきました。

 原始から現代までを叙述している日本史Bの8種類の教科書のうち、2種類が2012年検定で合格、他の6種類が2013年検定で合格しました。

 2013年度に検定合格した実教出版の「日本史B」に、「部落問題は最終的な解決過程にある」という記述が挿入されました。小・中・高を通じてはじめての記述です。

 実教「日本史B」は、「人権・福祉の保障と地域再生の課題」の項で「…アイヌなど少数民族の自治と権利の問題、部落問題の最終的解決の課題⑤、在日韓国・朝鮮人の生活と権利の問題など、日本社会の民主主義の成熟にかかわる重要な課題と考えられている。」(P.356)と本文で書き、側注に⑤「1965年の同和対策審議会答申を受けた1969年の同和対策事業特別措置法の後継の二つの特別措置法により、同和対策事業が実施され、環境・生活の格差是正がすすみ、こんにち部落問題は最終的な解決過程にある。部落住民のいっそうの自立と地域住民との市民的連帯が求められている。」(P.356)と記述するようになりました。

 大きな前進ではありますが、まだ部落問題が解決されたという記述ではありません。「最終的な解決過程」の中味がどうなのか、担当する教員が考えて教えろというのでしょうか?この教科書で、差別の実態を記しているのは、江戸時代の「身分と家」の項で、「彼らは条件の悪い土地に居住させられ、結婚や交際、服装などできびしい差別を受けた」だけですから、現在では居住・職業・通婚の自由が実現し、部落差別はなくなったという見解なのでしょうか?そう考えるのであれば、もっとすっきりとした記述に変えるべきです。

 ところが、他の教科書には、いまだに部落差別は根強く残っているという記述をしているものもあります。山川「詳説日本史」は「高度成長のひずみ」で、「この時期には、部落差別などにみられる人権問題も深刻となった。全国水平社を継承して、1946(昭和21)年に部落解放全国委員会が結成され、1955(昭和30)年に部落解放同盟と改称した。しかし、部落差別の解消は立ち遅れ、1965(昭和40)年の生活環境の改善・社会福祉の充実を内容とする同和対策審議会の答申にもとついて、1969(昭和44)年には同和対策事業特別措置法が施行された②。」(P.401)と本文で書き、側注②で「その後、同和対策事業特別措置法は1982(昭和57)年に地域改善対策特別措置法に引き継がれ、1987(昭和62)年からは財政上の特別措置に関する法律(地対財特法)が施行された。」としか書いていません。

 私には、部落解放全国委員会や部落解放同盟にふれる必要はないと思いますし、「この時期には、部落差別などにみられる人権問題も深刻となった」とは思いませんし、1969年からの同和対策事業によって部落問題がどうなったのかや2002年に同和対策事業が終了したことを書くべきです。この部分の記述がなぜ改善されないのか、よくわかりません。

 東書「新選日本史B」の「現代の社会生活と課題」には、「私たちの回りには、部落差別などさまざまな差別が、いぜんとして存在しており、人権や生活をまもるために解決しなければならない課題となっている。」(P.264)と書いています。

(2)前近代の身分制の記述の改善はすすんでいる

 江戸時代の身分制度についての記述が大きくかわったのは、1995年版の山川出版社「詳説日本史」です。この教科書は、その後も一部を修正しながら改訂しています。この教科書の身分制の記述については、塚田孝さんが「近世身分社会の捉え方|山川出版社高校日本史教科書を通して|」(2010年部落問題研究所)で、詳しく検討されています。

 2012年検定合格本では、「諸身分は、武士の家、百姓の村、町人の町、職人の仲間など、団体や集団ごとに組織された。そして一人ひとりの個人は家に所属し、家や家が所属する集団を通じて、それぞれの身分に位置づけられた」という捉え方をしています。賎民については「そうした中で、下位の身分とされたのが、かわた(長吏)や非人などである。かわたは城下町のすぐ近くに集められ(かわた町村)、百姓とは別の村や集落をつくり、農業や、皮革の製造・わら細工などの手工業に従事した。中には、遠隔地と皮革を取引する問屋を経営するものもいた。しかし、幕府や大名の支配のもとで、死牛馬の処理や行刑役などを強いられ、『えた』などの蔑称でよばれた。非人は、村や町から排除され集団化した乞食を指す。しかし、飢饉・貧困や刑罰により新たに非人となるものも多く、村や町の番人や芸能・掃除・物乞いなどに従事した。かわた・非人は、居住地や衣服・髪型などの点で他の身分と区別され、賎視された。」(P.186)と書いています。

 身分の捉え方やかわた・非人の役務と生業を区別し、賎民の生活の実態ついて迫ってますが、「かわた(長吏)」の説明もありませんし、旧版で「新たに非人とされる」であったのが「となる」に変わって、自らの意思で非人となったのかと推測されるなどの問題があります。

 実教「日本史B」も「身分と家」(P.168)で役務と生業の区別、その生活の実態や社会的差別について記述しています。しかし、実教「高校日本史B」や清水「高等学校日本史B最新版」は役務と生業を区別していませんし、明成社「最新日本史」も「穢多」と表記し、その役務について書いていません。まだまだ歴史研究の成果が教科書に反映されているわけではありません。

11.高校の公民科教科書の記述の問題点

 現状を正しく記述している教科書は残念ながらありません。なんとか、一日も早く改善されるようにせねばなりません。以下に、まず「公民科」の「現代社会」と「政治・経済」の教科書記述内容について検討します。

(1)現代社会の教科書の記述問題

 「現代社会」12冊の教科書すべてで、部落問題について記述しています。教育出版「最新現代社会」は本文の「法の下の平等」の項に「部落差別の問題など、依然としてさまざまな差別が残っている」(P.56~7)という記述ですが、カコミでつぎのように書いています。

◇平等の実現に向けて部落をめぐる問題江戸時代に農民や町人(職人・商人)とは区別され、差別された人々は、明治政府による身分制度廃止以降も「新平民」などとよばれ、就職や結婚や住居などに関して実質的に差別されてきた。このような差別を禁止する日本国憲法の下でも、たとえば部落差別を受けている地区の所在地を掲載した文書が流布されるなど、社会生活のなかでの差別はなくなっていない。このような社会の実態は今なお、市民としての権利や自由が十分保障されていないということであり、人々の間で依然として差別意識が残っていることが考えられる。1965年、政府は同和対策審議会の答申を受け、差別を解消するための法律を制定した。その後、部落解放運動、同和対策事業によって部落差別にかかわる問題の改善が進められてきた③。

 ③2002年3月に、事業を行うための国の財政的援助はなくなったが、その後も地方公共団体を中心として、人権教育や啓発活動など、問題解決に向けた取り組みが引き続き行われている。この教科書は、脚注に「2002年3月に、事業を行うための国の財政的援助はなくなった」と書いていますが、同和対策特別事業が終了したとは書いていません。

 またカコミには、「部落差別を受けている地区の所在地を掲載した文書が流布されるなど、社会生活のなかでの差別はなくなっていない」といつのことをいっているのかを明示せず、克服された問題を現在のことのように書いています。さらに「『新平民』などとよばれ」とありますが、誰が、いつそのような呼び方をしたのでしょうか?これも不適切です。

 現在では、国民融合が進んで、部落差別の克服・解消が実現しているという記述には改まっていません。そうした記述に改めさせることが課題です。

 そのほかの教科書も、巻末資料から同和対策審議会答申を省いたものもありますが、多くの教科書は「それによって居住環境などの改善は大きく進んだが、結婚差別や差別落書き事件などはなくなっておらず、心理的な差別や偏見は根深いものがある」(数研出版「高等学校現代社会」(P.79)のように部落差別が残っているという記述をしています。

(2)政治・経済の教科書の記述問題

 政治・経済の教科書は、8種類発行されています。扱いは、「現代社会」とおなじで、日本国憲法の基本的人権のところで記述しています。

 清水の「高等学校現代政治・経済最新版」は、「平等と差別をめぐる問題」の「部落差別」で、「直接的には江戸時代の身分制度に起因する部落差別は、解消をめざす運動がねばり強く展開されてきたにもかかわらず、日本国憲法施行後も長らく残り、放置されてきた。1965年の同和対策審議会答申は、部落差別の解消を強く訴え、これにもとづき、同和対策事業特別措置法・地域改善対策特別措置法などの立法が講じられ、同和対策事業がすすめられた。その成果もあり、部落差別解消は大幅に前進したが、就職や結婚での差別や偏見は今日も完全になくなっていないといわれる④。」脚注「④同和対策審議会は1965年、同和対策の早急な解決を『国の責務・国民的課題』・と認め、社会的・経済的諸問題を解決するための基本方策について答申した(『同和』とは『同胞一和』の略語)。この答申にもとづき69年に同和対策特別措置法が定められ、生活環境の改善、教育の充実などに関する事業と財政上の措置が講じられてきた。同法の措置は、地域改善対策特別措置法や地域改善対策特定事業財政特別措置法という時限立法によって2002年まで引きつがれた。」(P.50)

 この教科書は、いくぶん改善されたものとなっています。同和対策事情の推進によって、生活環境の改善、教育の充実などが進んだことを書きながら、最後は「就職や結婚での差別や偏見は今日も完全になくなっていない」とかき、それも「いわれる」と伝聞で結んでいます。無責任な記述といわねばなりません。著者が責任をもって、同和対策事業は終了し、部落差別は克服・解消されたと書くべきです。

 ほかの教科書も「こんにちでも職業、居住、結婚などさまざまな面で差別が見られる」(実教「最新政治・経済」P.24)などのように、差別が残っていると書いています。

12.さいごに

 小・中学校の社会科、高等学校の現代社会、政治・経済、日本史Bの教科書の身分制・部落問題の記述について検討してきました。 結論を言えば、一部の教科書に改善は見られるものの、全体としては特殊化・肥大化はそのままですし、小学校の教科書の中には、ますます詳しくなっているものもあります。

 これまで何度も言ってきましたが、小学校では、身分制・部落問題についての記述の必要はありません。学校の現場では教科書の記述を無視して、教えないことが大切です。教えることで、誤った歴史認識を育ててしまうことになり、人権感覚も狂わせることになります。まして、最下層の人々こそが優れた文化を生み出したり、社会を支えていたというような誤ったことを教えてはなりません。

 中学校の歴史や公民でも、身分制や部落問題にこだわる必要はありません。江戸時代の身分制では武士と百姓・町人の基本的な関係を認識させることが重要です。近世の社会が身分制の社会だったことこそが認識すべきことなのです。

 公民学習では、部落差別が根強く残っているということでなく、部落問題は克服・解消されたのですから、アイヌや在日外国人差別と同列に扱うこともやめるべきです。

 高等学校の現代社会、政治・経済の教科書はほとんど改善点がありません。日本史では、一部の教科書は、研究成果を反映した身分制の記述になっています。そして、部落問題は「最終的な解決過程にある」と書く教科書が現れました。こうした改善点を広げていくとともに、歴史教育の場で、研究成果と現状をふまえた科学的な認識を育てる実践が求められます。