まさしく作文教育の出番

まさしく作文教育の出番

土佐いく子 (なにわ作文の会)

 三年目の若い先生から電話です。

「今日、懇談会で親にいっぱい言われて明日学校に行くのが恐いです。『うちの子が時計わからんで”算数がキライだ”と言ってるのに、なんで先生は先々進むんですか』と言われて…。私も必死にやってるんですよ。ていねいにやってたら『あんたのクラスは進度が遅れてる』って主任に言われるし…。もうどうしたらいいかわかりません…。」と泣くのです。

 その電話を置いたとたん、また別の方から相談メールです。

「子どもが立ち歩いたり私に暴力ふるったりするのは、私の指導が甘いからだ。『あなたは優しすぎる!もっとシメなあかん』と言われ、これからどう指導していけばいいかわからなくなりました。」  なんと、いま学校の帰りだと言うのですが、夜の十時半です。こんな若い先生方だけでなく、みんなくたくたヨレヨレ、疲れ果てていて、異常な教育現場になっています。

 それでも子どもたちは、今日もランドセルを背負って学校へやって来ます。

「なあなあ先生!あの歯やっと抜けたで」と大事そうにティッシュでくるんだ歯をポケットから出して見せてくれます。

「先生、げじげじっていう虫、知ってる?私きのう見つけたで。げじげじしてたわ。」

「きのうな、妹お母さんにめっちゃ怒られて、髪の毛つかんで風呂につっこまれてたわ。」

 聞いてもらいたい話をいっぱい持って、子どもたちは学校にやって来るのです。どの子も自分を表現したい、そしてそれを受け止めてほしいと願っています。

 毎日宿題はしてこない、またまた朝からケンカが始まる三年生のまあちゃん。久しぶりに日記帳を出してくれてありました。

「日よう日、夜の十時ぐらいになったら赤ちゃんが泣いてこまった。それでミルクの作り方がわからんかったから、だっこをして一時間かかってやっとねた。けど、つかれてふとんに入ったら、また泣きそうになって、トントンしてやった。しんどかったです。」

 夜の十時になっても仕事から帰らぬ両親を待ちながら、三年生の子が八ヶ月の弟の面倒をみている暮らしがここにあります。

「一人で弟の世話ようがんばったなあ。さすが兄ちゃんや。えらかったね。」 と頭をなでてやると、満面の笑み。

 こんな日記を教室で読むと、にぎやかな教室が静かになって、友だちの暮らしと言葉に耳を傾けてくれるのです。そして、朝の教室に共感の空気が流れます。

 子どもたちは、ランドセルの中に教科書やノートだけでなく、こんな暮らしを背負って学校にやって来るのです。それを受け止め、わかってくれる先生や仲間がいたら、子どもたちはどんなにか生きやすくなるだろうかと思うのです。仲間と夢中になってエスケンやドッジボールに興ずるまあちゃんは、”今日も学校に来てよかった”と満たされた笑顔でした。

 子どもたちは、こんな生きにくい時代にあっても、明日に向かってけなげに生きています。

 学校はその子どもたちを励まし、生きる希望を届けるところなのです。だからこそ、先生たちは親と子の願いに耳を傾け、子らの明日のためにいい仕事がしたいと必死に学び、命を削る思いでがんばっているのです。そんな真面目な教職員の力で、今の日本の教育は支えられているのです。

 しかし、この仕事、そうそううまくはいかない今日です。子どもがかわいいと思えなくて、キレてしまう自分に落ち込みます。

「ぼくなんか生まれてこんかったらよかったんや」と叫ぶ子の心に何があるのか、あの子はなぜあんな行動をとるのだろうかと、毎日悩み続けます。やればやるほど学級が空回りしてうまくいかなくて…。勉強がわからなくて騒ぐ子らを前に、教材研究をしたいと思うのにその時間がないのです。毎日湧いてくるように次々と出てくる仕事に終われます。ひとつひとつ目の前の仕事を消化するだけで必死で、何が大事なのかを見失いかねない現場です。

 私たちに今何がこそ求められているのでしょうか。

 一つ目は子ども観が問われています。今日の子どもをどうとらえるのか、どうしたら、子どもの本当の姿が見えてくるのか。

 二つ目は、子どもたちの人間関係をどう作っていくのか、そして学級という集団をどう創造していくのか。

 三つ目は、人間形成と学力の鍵を握っている言葉の力と自己表現力をどう豊かにつけていくのか。

 四つ目は、親を「モンスター」などと敵対視せず、共同でどう子育てをすすめていくのか。

 そうです、まさしく作文教育の出番なのです。戦前から営々と積み上げられてきた生活綴方教育(作文教育)は、今日求められている子ども観を豊かにしてくれます。現象面では攻撃的で不安定な姿を見せる子どもたちの中に、まっとうに育ちたい、大事にされたい、かしこくなりたい、友だちと仲良くしたいという人間的な願いをきちんと読み取るということなのです。

 子どもは今も子ども心を失わないで、この時代を懸命に生きているのです。

 そして、作文を書き、読み合うことを通して自分の生活を振り返り、自分の生き方を見つめ直します。同時に友だちのくらしや生き方に共感し、理解を深めます。そして人として結び合い学級という集団が創られていくのです。作文教育は、集団作りに大きく寄与してきた教育なのです。さらには作文教育は、ことばで自己を表現し、コミュニケーションし、ことばで思考・認識し、自己をコントロールしながら、人を人として育て学力の礎を築くのです。

 そして、きびしい暮らしの中で汗と涙を流し、子育てに悩む親たちとの共同を可能にしてくれるのです。親もまた子どもの作文の中に子ども発見をし、元気をもらいます。そして学校が好きになり、友だちと楽しく遊び、学ぶことに意欲をみせるわが子の成長を真ん中に、親と教師の問に共同と信頼の関係が生まれるのです。

 この実践集は、どの先生も子どもたちと格闘しながら、しかし作文教育に元気をもらって自らも成長している実践の記録です。

 読み終わったときには、“ああわかるわ、一緒だ”と安心もし、きっとわがクラスの子どもたちを見つめ直し、いとおしくなることでしょう。そして、こんな作文教育なら私もやれそう、やってみたいと元気が湧いてくるにちがいありません。

 若い仲間もベテラン教師の実践もいろいろ紹介されています。小学校低学年、中学年、高学年、そして思春期、詩、障害児教育、さらには子どもの作文をどう読むのかを語り合った「作品研究」と多様な実践記録が紹介されています。どこからでも読み進めてください。きっと明日からの実践にあかりが見えてくるにちがいありません。

この文章は「“ぼくも書きたいことあるねん”-どっこい生きてるなにわの子-」(なにわ作文の会編 本の泉社2010年)の序文「はじめに」の文章です。タイトル「まさしく作文教育の出番」はWeb人権教育事典の管理者がつけました。
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