大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

十五年戦争下の生野区「猪飼野」の町(1)

-平野川、御幸森小学校、そしてコリアタウン-

アメリカ軍の爆撃

 今からおよそ70年前から、日本はアジアと太平洋で15年にわたって戦争をしていた。その戦争も日本の敗戦を迎えようとしていた頃、1945年(昭和20年)6月15日の朝8時40分~11時、アメリカ軍のB29爆撃機約400機が3000000kgの爆弾で大阪府下をおそった。第4次大阪大空襲といわれ、平野川沿いの東成区・生野区の工場・家・店に焼夷弾が雨のように降り注ぎ燃えた。東洋最大の軍需工場=日本陸軍の大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう。今の大阪城公園やビジネスパーク、JR森ノ宮電車区を中心とした一帯。6万人から働いていた)の兵器生産(飛行機以外は何でも作っていたといわれる)に協力する関連工場がねらわれていると、当時の人々はそう思っていた。しかし、アメリカ軍の方針は無差別爆撃であった。そのために、平野川を兵器とその部品を運ぶ水路として利用していた生野区の光洋精工第1工場、第2第3工場、力身鋳鋼所(現ネオコーポ。戦禍をまぬがれた)などの軍需工場とその周辺だけでなく、家、店、田畑、学校、保育園など広範囲に焼夷弾が落とされた。
 この時に「御幸森国民学校」(1941年~1947年の間の学校名)も玄関と講堂の骨組みを残して、子ども達の使っていた机やいす、子どもたちの学習の様子を示す学籍簿や写真アルバム等ほぼすべてが焼けた。

三 御幸森国民学校が焼けた日

-病気で集団疎開から帰阪していて-

内田 照子(御幸森国民学校)

 今日は、日曜日、母は、仕事が休みで、兄も、学校が休みだ。

 「照子、そこの荷物を、早く玄関まで持っておいで」の声で、私は、昨夜から、家族で、荷造りした、柳ごうりなどを、引きずって、玄関まで運んだ。それを兄が、荷車の上に乗せていった。
 荷車の前や、後を回り、ローブを、掛けていきながら、
 「今日は、空襲は、ないやろうね。早うせんと」と、母は、口の中で、ぶつぶつ言っていた。
 「積んだでー」兄の声に
 「向こうに着くのは、昼過ぎるから、ちょっと休憩して、お茶でも、飲んでいこう」と祖父は、家の内に入った。九時前に、なっていた。

 「ウー、ウー、ウー」サイレンが、鳴った。
 空襲警報だ。皆、顔を、見合せた。
 「お祖父さん、照子連れて、先に、避難して下さい。私と巌は、荷物も、表に、出したままですし、様子を見て、危ないと思ったら、逃げますから」の、母のことばに、防空ズキンを、頭から、かぶり、水筒を、肩から掛けて、二人家を出た。

 あの柳ごうりの、内には、私や、妹たちの、お正月の、晴着が入っている。
 (どうしよう)
 (助かるだろうか?)
 (お母ちゃん、持って、逃げて、くれるだろうか)……。
と、思いながら、疎開道路へ走った。

 飛行機が頭の上を飛んでいる。疎開道路の側の、防空壕に入った。
 もう、が、いっぱいで奥に、入れない。
 入口で、体が半分、外へ出ている。爆弾の落ちる音がする。耳と目を、手で押さえる。体を丸める、音が遠のくと、顔を上げる。

(略)

 少しずつ、飛行機の音も、遠のいてきたので、
 「もう、いいやろ。帰ろうか?」
 「ウン」
 一人は、腰を上げて、家の方を、振り返った。
 真っ黒なのだ。炎も見える。
 周りの家が、燃えているのだ。

 「照子。もう、家は、燃えて、ないかも、しれん。もうのうなったやろ。危ない。ここに、おったら、焼け死ぬかもしれん。家は、めきらめて、逃げヨ」
 防空壕から、出てきた人たちも、
 「アーこらあかん。逃げなぁ」と走り出した。
 つられて、私たちも、走った。疎開道路を、まず、南の方向に、走った。男の人、女の人、大人も、子どもも……。皆、だまって、走った。

 パチパチと音を立て、ごおーと風が、おこり火と水が、巻き合いながら、家が燃える。
 三軒、四軒ぐらいの、二階建の長屋は、十五分ぐらいで、燃え落ちる、つぎつぎと、疎開道路側の家々が、燃えていった。

 そのとき、私は、一、二年前に、家がつぶされて、疎開道路が、でき上がっていったときのことを、ほんやりと、想い出していた。
 「早ョ、歩き」
 祖父の声に、うなずいて、足早に歩いた。
 辺り一面、煙と砂ボコリで、真っ黒だったが、南の方、一カ所、ポッカリ、丸く、穴があいたように、明るい方を頼りに、歩き続けた。
 飛行機から、バラバラと、焼夷弾が落ちる。爆発すると同時に、油が散り、火が出るような仕組になっているようだ、と兄は、後に言っていた。
 兄も卒業し、私たち姉妹が、通っている、御幸森国民学校を、中心にして、学校とそのまわりの家が、焼けた。

 兄が仲よしの、一つ年上の友人と、焼夷弾に、砂置場から、何回も砂を運び、油から出る火を、消してまわった。ふと、気がつくと、普段、防空演習のとき、張り切って号令を、かける、大人たちは皆、逃げて、隣組の人間は、少年二人だけだった。

 母は疎開荷物が乗ったままの、車を、表に残して、向かいの家の治子姉ちゃんと、一緒に逃げた。

(略)

「大阪の学童疎開」(赤塚康雄著 クリエイティブ21刊 1996年)


案内人 小野賢一(大阪歴史教育者協議会常任委員)

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