大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

戦争中 ウリマルを守った人たち

十五年戦争下の生野区「猪飼野」の町(6)
-平野川、御幸森小学校、そしてコリアタウン-

金性鐘さんへの「愛国者」と勲章

愛国者勲章の写真 愛国者勲章の賞状

勲 章 証

         金性鐘

 あなたは 我が国の自主独立
 国家発展に大きく尽力したので
 大韓民国憲法の規則により  
  勲章を授ける
     1993年8月15日
 建国勲章 愛 国 章
        大統領 金泳三

 

金性鐘さんのこと

 中国や太平洋での戦争をすすめるために、当時の日本政府は朝鮮人に「皇民」化を進めた。日本語の使用や日本の神様を拝むことを強制したり、「創氏改名」といって日本風の名前に変えさせたりした。この頃になると大阪に住む在日朝鮮人は約27.5万人を上回るようになった(1939年)。チョ・ソンヒョンさんにみられるように済州島(チェジュド)からたくさんの朝鮮人が「君が代丸」という直行便に乗って大阪に仕事を求めたり、中高等教育を受けたりするためにやってきた。その子ども達の53%以上は初等教育を受けていない。そのために、地域の公立小学校と併設の夜間学級への入学を強く求めるとともに、日本政府の対策の遅れを逆手にとって、自主的な「民族教育」教育機関=夜学校設置を求めるようになった。(-「民衆時報」第15号 1936年1月21日-「検証・幻の新聞『民衆時報』」金賛汀(キチャンジョン)著 三五館発行 )

 これに先立つ1931年(昭和6年)には、現在の城東区に150名からの在日未就学児童をあつめて私塾「関西共鳴学院」が設置されたが、翌年8月には、大阪府と警察当局によって解散させられている。また当時の東成区中浜町に50名からの在日児童をあつめた夜学校=「瞳礦夜学校」が1935年(昭和10年)5月に設立された。ここでは「文字」の学習、主にハングル文字の習得に重きをおいていた。

 しかし、「朝鮮語の教育は絶対に行はしめざること」(「特高月報」1935年9月分)という警察当局の方針によって4ヶ月もたたないうちに中本警察によって解散命令を受けている(「民衆時報」第6号1935年9月15日)。

 そんな中にあっても李(イ)奉春さんらによって1934年(昭和9年)から1942年(昭和17年)まで長期にわたって生野区では11ヶ所を転々と移動して朝鮮のウリマル(国語)・歌・おどりを20~30名の在日朝鮮人の子どもたちに教え、民族の魂をはぐくんだ「誠心夜学校」が開校されたとされる(「特高月報」1943年3月分より)。その実態については今後の研究を待たざるをえない。

 

夜学校で教えられていたとされる「朝鮮独立唱歌」

同胞等よ 我等は朝鮮の兄弟姉妹
そうだそうだ 然しそうでない
餓と裸体で泣き叫び
我等は憐れな 朝鮮の兄弟姉妹
飯と衣を与へよと叫び戦ふ
飛び廻る 吾等の日常
我等は可愛想な人のため
命を捨てて力強く戦ふ
山と河変転するとも又変わるとも
我等の心は変らない

御幸森神社横の写真
誠心夜学校の1つがあった。天神クラブ(映画館)の辺り(御幸森神社横)

  この「誠心夜学校」の青年教師の一人に金性鐘(キム ソンジョン)さんがいた。「猪飼野」の町の2ヶ所で教えていた。御幸森神社の東にあった映画館「天神館」の横にあった家がその1つであった。しかし国の戦争推進の政治に反対するということで、1942年に他の青年教師3名とともに特高警察によって「治安維持法」違反として検挙・起訴され拘置所に送られた(1943年3月)。その後、ひん死の「重病」に陥ったため仮釈放され、親族にみとられながら30歳を前にして亡くなった。英語ができたのでアメリカのスパイという汚名もあびせられた(※)。彼のオモニ(母親)は「息子は毒をもられて死んだ。」とまわりに話していた。遺体は火葬に付され、郷里の済州島旧左面坪垈里の墓に眠っている(特高月報昭和18年3月分と親族の証言より)

 空襲、日本の敗戦の中で「誠心夜学校」と金性鐘(キム ソンジョン)さんらのことは人々の記憶から忘れられていた。その後、特高の弾圧記録をアメリカで日本人が探し出して本にして出版した。この本が親族の目にとまり、再び彼のことが想い出された。韓国政府は彼の死から50年間を経た1993年、金性鐘(キム ソンジョン)さんの業績を称え、「愛国者」の称号と勲章を授与した。なお、金性鐘さんは御幸森小学校教諭である小生の教え子Y・Kさんの祖父の弟にあたる。

 「朝鮮人はアメリカのスパイ」説は、大阪大空襲にかかわっても広く流布されていたらしい。中田照子さんの手記「御幸森国民学校が燃えた日」のなかにもあった(今回は省略した)。また小生がある先輩S・H(77才男)からこんな話も聞いている。「府立成人病センターあたりにあった(陸軍の)被服廠が空襲を受けなかったのは、その近くに朝鮮人の住む地区(森町南、北中道、中道元町=現「中道」)があった。アメリカ軍はそのことを知っていたから爆弾を落とさなかった、と私は思う。」等
 この説は、アメリカ軍の無差別爆撃方針によって東成区の中本地域や生野区御幸森・中川地域が実際に第4次空襲で被災した(1945年(昭和20年)6月15日)という事実から見ても成り立たない。

 

検挙者の氏名図版 本の写真「昭和特高弾圧史」

 

日本での創氏改名

 朝鮮半島では1939年度から、朝鮮人に対して、学校を通しても「創氏改名」が強制された。中には自殺者も出たといわれる。1940年8月には、80%が日本名を強制された。そんな中にあって、日本での「創氏改名」はほとんど進んでいない。
 1942年(昭和17年)3月の御幸森国民学校の卒業アルバムをあけると柴田先生の男子組44名中、8名の朝鮮人が民族名を名のっていること、また当時、東桃谷国民学校児童であった小山仁示氏(関西大)の体験談が、そのことを教えている。
 1945年以後、日本での定住を余儀なくされた朝鮮人が日本での商売や工場を起こすにあたって本名でなく日本人名(通名)でないとやっていけない差別の結果、通名を名のらざるをえなくなった。

1942年の卒業記念写真

 

写真帳の表紙

 

学ぶということ

 今の時代、生野区にあってもハングルや日本語を学ぶために地域の夜の学校(学級)に通っている人が多くいる。例えば、御幸森小学校の校区にある聖和社会館(キリスト教の聖和教会)は、戦前の1931年頃から大毎社会事業団から引き継いで、保育所とともに在日朝鮮人のための日本語学級「オモニ・ハッキョ」を開いている。ここには小生の教え子K君のお母さんも通っておられる。


案内人 小野賢一(大阪歴史教育者協議会常任委

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