大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

おばあちゃんの話から戦争について考えよう

十五年戦争下の生野区「猪飼野」の町(3)
-平野川、御幸森小学校、そしてコリアタウン-

 

S・Tさん(在日4世)のおばあちゃんの話(在日韓国人。この方も集団疎開児童。)
   聞き取りは2001年12月

 「大東亜戦争は昭和16年12月8日に始まり、昭和20年に終わりました(太平洋戦争のことを当時は「大東亜戦争」といっていました)。勤労奉仕をしました。戦争は悲惨なものでできれば平和なくらしをしたいです。2度と戦争はあってはならんことです。つねに平和であってほしいと思います。学童疎開で奈良県生駒郡平群(へぐり)町に疎開しました。畑の仕事やにわとり、ぶたの飼育をして、農家のお手伝いをしました。生野小学校へ終戦で帰ってきたときは、焼け野原になって何もなかった。バラックの小屋を建てて雨風を防いでいた。それから昭和22年ぐらいからアメリカ軍の軍需物資を配給でもらう。じょじょに食べ物がでまわっていた。昭和25年ぐらいからじょじょに世の中がおちついてきました。」

 

N・Mさんのおじいちゃんの話
   聞き取りは2001年12月

 私のおじいちゃんは、今64才です。日本橋にすんでいて、お父さんは魚屋さんでした。空ばくがひどくなって、松原市の三宅に家族でそかいしたそうです。お父さんは、日本橋の家を守るため、一人で日本橋にのこって、空ばくにあってなくなったそうです。れんらくがとれなくなったお父さんをさがしに、お母さんは、日本橋に行き、何百とある死体から、体が半分なくなっていたお父さんを見つけたそうです。

 それからは、食べ物がない大変な生活だったので、まだ小学校にもなっていないおじいちゃんは、配給されるぞうすいのような食べ物をもらうため、ならぶのが毎日の仕事だったそうです。そかいした松原市の近くには、八尾飛行場があったので、そこに毎日落とされる空ばくのサイレンがなると、タタミの下にほった小さなぼうくうごうに入り、終わりのサイレンがなるまで、家族みんなでかくれていたそうです。ひどいときは一晩中かくれていた事もあったそうです。空ばくのおちるたびに、じしんのように、ものすごくゆれたそうです。戦後、小学校に給食などもなく、もっていくお弁当もなかったので、お昼休みの1時間の間に、片道30分ぐらいかかる家まで、走って帰り、5分くらいでおかゆとつけものを食べて、学校にもどっていたそうです。どの家も食べるものがなく、おかゆか、麦飯、さつまいものつるなどを食べていたそうです。 

 

(案内人 小野賢一(大阪歴史教育者協議会常任委員))

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