おとしよりの体験談から戦争について考えよう
十五年戦争
下の生野区「猪飼野」の町(3)
-平野川、御幸森小学校、そしてコリアタウン-
N・Mさんのおじいちゃんの話
2001年12月に聞き取り
私のおじいちゃんは、今64才です。日本橋にすんでいて、お父さんは魚屋さんでした。空ばくがひどくなって、松原市の三宅に家族でそかいしたそうです。お父さんは、日本橋の家を守るため、一人で日本橋にのこって、空ばくにあってなくなったそうです。
れんらくがとれなくなったお父さんをさがしに、お母さんは、日本橋に行き、何百とある死体から、体が半分なくなっていたお父さんを見つけたそうです。
それからは、食べ物がない大変な生活だったので、まだ小学校にもなっていないおじいちゃんは、配給されるぞうすいのような食べ物をもらうため、ならぶのが毎日の仕事だったそうです。
そかいした松原市の近くには、八尾飛行場があったので、そこに毎日落とされる空ばくのサイレンがなると、タタミの下にほった小さなぼうくうごうに入り、終わりのサイレンがなるまで、家族みんなでかくれていたそうです。ひどいときは一晩中かくれていた事もあったそうです。空ばくのおちるたびに、じしんのように、ものすごくゆれたそうです。
戦後、小学校に給食などもなく、もっていくお弁当もなかったので、お昼休みの1時間の間に、片道30分ぐらいかかる家まで、走って帰り、5分くらいでおかゆとつけものを食べて、学校にもどっていたそうです。どの家も食べるものがなく、おかゆか、麦飯、さつまいものつるなどを食べていたそうです。
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(案内人 小野賢一(大阪歴史教育者協議会常任委員))