御幸森小学校の学童疎開
十五年戦争下の生野区「猪飼野」の町(2)
-平野川、御幸森小学校、そしてコリアタウン-
空襲で猪飼野の町とともに御幸森国民学校(小学校)と「朝鮮市場」(今の御幸森中央商店街=コリア・ロードの南裏の筋にあった通り)もほぼ全焼しました。たった数時間で御幸森小学校の校舎が全焼し、学校の記録や卒業アルバムなど失われました。玄関の一部と講堂の鉄骨だけが残りました。
戦火を逃れて1944年(昭和19年)9月から奈良の猿沢池畔の吉田屋旅館などに学童疎開していた子どもたちと湯浅義一校長や梅澤静子先生ら60名からの職員の帰るべき学校がなくなってしまいました。
当時、生野区内の11の小学校の子どもたちは親元から離れて奈良県に集団疎開していました。御幸森国民学校の子どもたちは奈良市の猿沢池を中心とした7つの旅館に分かれて集団生活を送り、5・6年生は正倉院西側にある「鼓阪国民学校」に、3・4年生はなら町の南にある「飛鳥国民学校」に通っていました。
旅館では「しらみ」が大量発生し、かまれるために夜もゆっくり眠られず、また食べ物も不足し学校で野菜を作ったりするような生活でした。
↑当時3年生の渡辺さんらが生活した「大文字屋」(当時)/時刻を知らせる「飛鳥の鐘 」
↑3、4年生の通った飛鳥国民学校(当時)
↑5、6年生の通った鼓阪国民学校(当時)
1945年(昭和20年)2月10日の深夜、子どもたちの泊まっていた宿舎の「日の出旅館」と「玉屋」が火災にあい、2人の4年生男子が不幸にも焼死しました。
御幸森国民学校4年梅澤学級の子どもたち1945.1.1.
右側にある「御幸森国民学校旗」は今も残っている。
子ども2人を疎開先で死なせた責任 を感じていた当時の湯浅校長は病に倒れ8月下旬に亡くなられました。
あれから45年たった1990年(平成2年)、梅澤 先生とその教え子たち(昔の遊びや話を教えに来校 される渡辺洋一さんもその一人)は、「戦争 の小さな犠牲者達の面影」を胸によみがえらせて「学童集団疎開同行記」(編集工房ノア)を出版しました。
そして今も5年に1回は学童疎開で泊まった大文字屋で再会されているそうです。
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(案内人 小野賢一(大阪歴史教育者協議会常任委員))