戦争のつめあと 疎開道路と生野区の誕生
十五年戦争と生野区「猪飼野」の町(5)
-平野川、御幸森小学校、そしてコリアタウン-
戦争体制をより強つよめるために、37万人からの人口、約10平方kmの広さをもつ当時の東成区にあっては、いろいろな点で「区民にとって不便」なので、1943年(昭和18年)に生野区が誕生しました。
御幸森小学校の校門の前の道をまっすぐ西にいくと「ピーマン」という自転車屋さんがあり、そこを5m通りすぎると、道幅10mの道路があります。
この広い南北に走る3500mものバス通りは「疎開道路」と呼ばれています。戦争中、アメリカ軍の爆撃による火災が町中に広がるのを防ぐためにということで、つくられた空き地だったところです。「お国のために」ということで昨日まで住んでいた家や店などが取りこわされ、そこにすんでいた人も強制的に「疎開」(たちのき)させられました。ロープと大槌を使った手作業で1944年2月から6月の間に行われました。
その後、小学生の学童疎開が続きます。疎開道路と生野区の誕生は、いわば戦争の「生き証人」です。
(案内人 小野賢一(大阪歴史教育者協議会常任委員))