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大阪市立美術館に高射砲第3師団司令部が置かれた

 

 天王寺公園の大阪市立美術館では毎年、8月に平和美術展が行われている。2003年は8月5日(火)~10日(日)。(写真は2002年)

 大阪市立美術館は1936年5月1日に落成式が行われた。美術館創設の議案が市会に提出されてから16年が経っていた。
 大正6年に市会が可決してから森林太郎(鴎外、東京帝室博物館長)らを調査委員会に迎えて設計、陳列方法等の検討に入った。大阪城内本丸の師団司令部が移転するというのでその跡地を美術館にと考えられていたが、なかなか移転せず、次の候補地の輜重隊兵舎跡地も大阪府庁の敷地となり場所が決まらなかった。

 大正10年12月、住友家茶臼山本邸の敷地と茶臼山が大阪市に寄贈され敷地問題が解決した。しかし関東大震災後の財政事情で建設は中断、昭和3年に地鎮祭、基礎工事、昭和4年上げ棟を完了、昭和5年にコンクリート工事完了、6・7年度中断、昭和8年度に外装・屋根を完了。9年室戸台風で遅れ、昭和10年にようやく完成した。

 この美術館に高射砲第3師団司令部が置かれた。通称「炸12410」といい、兵力843名。傘下の高射砲第121連隊本部は住吉区に、第122連隊本部は守口市にあった。高射砲連隊は中心に高射砲大隊、その前面に照空隊、次に聴測中隊、最前面に監視哨をおいた。高射砲第121連隊の監視哨は和歌浦・粉川・五条の線に及んだ。1個大隊は4個中隊で編成し、1個中隊には高射砲6門があった。

 高射砲陣地は大阪市内では次のところにあった。
 淡路(現 東淀川区)
 緑(現 鶴見区)
 真田山公園(天王寺区)
 巽公園(現 生野区)
 住吉公園(高射砲第121連隊本部)
 長居公園
 平林   (現 住之江区)
 浪速駅  (現 港区)
 住友岸壁 (現港区)
 野田   (現 福島区)
 島屋  (現 此花区)
 歌島   (現 西淀川区)

 

 高射砲1個中隊は、八八式7センチ高射砲6門及び重機関銃2挺を装備する。照空1個中隊は照空灯6基、聴音機6基を装備する。照空灯(サーチライト)でとらえたアメリカ軍の飛行機を聴音機で聞いた音で高さ、速度、進行方向を観測し、高射砲陣地に連絡する高射砲陣地では砲の向き、高さ、何秒後に弾を爆発させるかを計算して弾を撃つ。

 砲弾が飛行機の高さに20秒後に達するとすると、その間に飛行機が6000m移動している場合もある。B29の巨大さに低空を飛行していると誤認し、飛行機の下の方で爆発するように設定したという例もあるという。日本軍の高射砲の砲弾は時限信管といって何秒後に爆発させるか目盛りをあわせていた。

 米軍の高射砲の砲弾はVT信管といって砲弾の頭に真空管を使った金属探知機が組み込まれていて、飛行機の近くを通過すると感知して爆発するようになっていた。このため特攻機は撃ち落とされる確率が高かったという。

 とはいえ、爆弾と燃料を満載したB29の搭乗員にとっては、サーチライトと対空砲火は恐怖であった。
 アメリカ第21爆撃機軍団戦術作戦任務報告書には次のように記載されている(7月10日第6回大阪大空襲)

 「目標上空で高射砲は、概して貧弱で不正確、そして重砲であった。いつものようにサーチライトで照らされた飛行機のみが、砲火を受けた。1分間以上照らされた飛行機が、中程度の高射砲火を報告した。高射砲で損害を受けたすべての飛行機は命中された時、サーチライトを照らされていた。」


案内人 柏木 功

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