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炎上し破壊された学校廃校跡をたずねて(西区)

 昭和20年(1945年)の初め、西区には、14の国民学校がありました。昭和17年(1942年)と同19年(1944年)にそれぞれ転用された学校があったので、戦前には、16の小学校があったと言えます。ところが、現在、西船場、日吉、九条南、九条東、九条北、本田、堀江、明治と8校、戦前の半分しか小学校がありません。廃校の跡地をたずね、経過と様子を調べてみました。

S.21.3までの校名
(国民学校)
西船場
江戸堀
広教
西六
明治 日吉 堀江
高台
九条南 九条東 九条中
九条北
本田
現在の学校(小学校) 西船場 明治 日吉
堀江 九条南 九条東 九条北 本田
花園

靱国民学校…昭和17年廃校
  安治川国民学校…昭和19年廃校

 

九条中国民学校

 九条南4丁目にある九条北小学校の裏(南側)に九条北公園と九条北会館があります。ここが平和展実行委員の中平さんが通っていた、九条中国民学校の跡地です。
 九条北小学校と北公園は20メートルも離れていないので、実行委員の中平さんによれば、中小と北小は、何かにつけよく喧嘩したそうです。
 九条中小学校は、明治39年(1906年)に九条第三尋常高等小学校として創立されました。明治の終わり頃には、1000人を超える子供たちが通っていたそうです。
 明治45年(1921年)に九条第4尋常小学校が開設され、大正時代は、市内でも珍しい女子のみの学校でしたが、昭和6年(1934年)から再び男女共学となりました。
 昭和19年(1944年)に学童集団疎開が始まり、西区は疎開先が京都府から島根県に変更になり、最後の9月11日に出発しました。中国民学校3年生以上160余人の子供たちは、島根県八束郡佐太村、恵曇(えとも)村へ疎開しました。この時の生活は、第13回の平和展の中で、中平さんが話されました。

 昭和20年(1945年)3月14日未明の大空襲で学校も校下も全焼した様子は、中平昭和さんの「戦災日記」に詳しく書かれています。
 同11月に疎開していた子供たちは、帰って来て、まもなく九条北国民学校の教室を借りて授業が再開されたが、登校してきた子どもたちは、90名しかいなかったそうです。
 昭和21年3月末で、九条中国民学校は九条北国民学校に統合され、なくなりました。

 

安治川国民学校

 九条商店街を北に抜けた所に、安治川の下を通る安治川隧道-安治川トンネルがあります。このトンネルの南側に大阪倉庫の看板が目につき、倉庫が並んでいます。ここが明治7年に開校された、北大組第二十区小学校-後の安治川小学校の跡です。
 大正14年にこの地域は、港区に編入されましたが、昭和18年に西区になりました。
 戦時教育体系の改編が図られ、昭和19年(1944年)にこの安治川国民学校は、廃校になり、子供たちは、九条北、波除(港区)、本田各国民学校へ転入していきました。
 ここに2年制の安治川女子工業学校が設置されました。女子の工業学校というのは、何か変な感じがしますが、この頃「撃ちてし止まむ」が日本国民の合い言葉になったころで、戦局は悪化の一途をたどっていました。こうした状況下、教育もそれに合わせ、学徒出陣、学徒の勤労動員などとともに「工業学校、農業学校、女子商業ハ之ヲ拡充ス」という政策の一環として設置されたのです。女性が男性の仕事、職場に進出する、何か男女平等思想に基づいたように感じられますが、あくまで、男性が戦場に赴いた後、その代替労働力として、女性を動員したのにすぎないのです。昭和20年(1945年)3月の大空襲では、校舎は焼けなかったのですが、6月の空襲では、焼失してしまいました。

 

花園国民学校

 大阪ドーム球場のすぐ近くに西中学校があります。ここが東谷先生が勤めておられた花園国民学校の跡です。戦争中の様子については東谷先生が詳しく書いておられ(「大阪大空襲50周年」)、昭和22年(1947年)戦後の教育改革により、西一中、後に西中学校に転用されました。

 

高台(たかきや)国民学校


 南堀江3丁目にある、堀江中学校の北東の端に「高台小学校跡」の立派な碑があります。この現在の堀江中学校が、明治5年(1872年)に西大組第十八区小学校、のちの高台小学校の跡地です。
 明治17年、近くの橘小学校と幸小学校が高台小学校に統合されました。
 昭和19年(1944年)9月に島根県出雲市の9つのお寺に10数名から40数名、合わせて200数10名が集団疎開しました。(西区の学童集団疎開

 昭和20年(1945年)3月14日未明の大空襲では、高台国民学校の校舎も校下も焼き尽くされ、鉄筋校舎がわずかに残りました。残った鉄筋校舎に空襲でなくなった人、1000とも2000とも言われる遺体が安置されました。運動場でだびにふされたが、その煙は10日あまりも立ちのぼったと言われています。

 戦後、日吉国民学校の校舎を借りて、残った子供たちは、授業を受けていましたが、昭和21年(1946年)3月末に高台国民学校は日吉国民学校に統合されました。残った校舎は、昭和30年に修理され、花乃井中学校高台分校として使われていましたが、昭和35年(1960年)に堀江中学校として独立し、現在に到っています。

 

西六(さいろく)国民学校

 地下鉄西長堀駅北側の出口をあがったところに、日本交通というタクシー会社があり、その前は、新なにわ筋の道路になっており、そこが西六国民学校の運動場だったところです。今は、丁度、高速道路の入り口になっている所です。
 この西六小学校は、明治6年(1873年)に西大組第十一区小学校として開校されました。のちに立売小学校、支留寺小学校と名前が変わりましたが、明治18年(1884年)に、砂場小学校、鰹座小学校の3校が統合され、西六小学校となりました。

 昭和20年(1945年)3月の大空襲で学校も校下も焼け尽くされ、多数の人が犠牲となりました。(西六国民学校の空襲の様子は、「がんばれ いたちぼり」というサイトに詳しく紹介されています。→西六国民学校と空襲【リンク】
 学校は、校舎の骨格だけ残りましたが、昭和21年に堀江国民学校に編入され、西六国民学校は、なくなりました。高速道路の高架下に西六会館が新しく建っています。

 

 靭(うつぼ)国民学校

  

  

うつぼ公園は戦後米軍が飛行場として利用した

 靭本町の1丁目に靭幼稚園があり、その裏に大阪市幼児教育センターがあり、その北側に大きなマンション「靭パークサイドコーポ」が建っています。 このマンションの北西の隅に「靭尋常小学校跡」の石碑と校章らしき紋の入ったカワラが並べられています。この石碑でわかるようにこのマンションが靭小学校の跡です。
 この靭小学校は、明治6年(1873年)西大組第六区小学校として開校され、明治10年、近くの靭西小学校(第7小)と合併し、靭西小学校となりました。
 「大東亜共栄圏建設の人材養成のため」昭和17年(1942年)に靭国民学校は、東江国民学校(後の西船場小学校)に統合され、校舎は、靭商業学校となりました。
 昭和19年に靭工業学校に転換され、昭和20年3月の大空襲で町は焼き尽くされ、鉄筋校舎にも火が入りました。戦後は、火の入った校舎を修理し、大阪商業大学(現大阪市大)や盲学校として使われました。
 その後、昭和30年になり、市立自然史博物館や大阪市教育研究所として使われました。その時、屋外に大きなクジラの骨が展示されていたのを記憶されている方も多いでしょう。

 

江戸堀国民学校

 江戸堀二丁目にある花乃井中学校の東北の隅に名水「此花乃井」という井戸の跡が保存されています。この井戸の横に「江戸掘尋常小学校跡」の石碑があります。
 この花乃井中学校が小説や映画で有名になった「ボクちゃんの戦場」のモデルの江戸堀国民学校の跡です。この江戸堀小学校は、明治5年(1872年)西大組第四区小学校として開校され、後に花乃井小学校となりました。明治17年(1884年)に江西小学校(第5小)と江北小学校(第2小)を統合して江戸堀小学校となりました。

 昭和20年(1945年)3月の大空襲で木造校舎は全焼し、鉄筋校舎も半焼してしまい、校下民家も95%が焼失してしまいました。

 戦争が終って、9月1日の始業式に登校してきた子供たちはたった2人だったそうです。昭和21年(1946年)3月末で江戸堀国民学校は、西船場国民学校に統合され、昭和24年(1949年)4月より、跡地に西第2中学校が開校され、後に、花乃井中学校となりました。

 

 広教国民学校

  

 地下鉄阿波座を出たところにある大阪市阿波座センタービルが跡地で、一角に碑が建てられている。3月14日の空襲で全焼した。

参考にした図書
・「消えたわが母校 なにわの学校物語」 赤塚康雄著、柘植書房
・「百年の歩み 大阪市立西船場小学校開校百周年記念事業委員会
・本田創立百周年記念」 大阪市立本田小学校
・「新編大阪市史」5、6、7巻
・「大阪大空襲」 大阪大空襲の体験を語る会 大和書房
・「わたしたちの町九条北」
・「教育大阪」1995年7月号

案内人 青木勝美
「戦禍に追われて(3) 戦後50年に寄せて 1996年夏」所収
戦争はいやや西区平和展実行委員会編集刊行

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