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戦災日記

中平 昭和

 「昭和20年3月13日」この日は一生の中で強く記憶すべき日だ。

 就寝間もなく、11時20分警報発令、またかと寝たままサイレンを聞く。

 何だか気になりラジオのスイツチを入れる。紀州半島南方海上より北上中という。続いて数機だと放送。これは起きなければと武装する。

 其の内に大編隊だと言い出した。これは大変いよいよ大阪へも編隊で来たかと急いで用意をする。巻脚絆をするのにぶるぶるふるえる、気を落ち着かせて2階を活動できる様に整理し窓ガラスをはずす。階下へ降り皆を待避壕に入れ階下をかたづける。水の用意も充分出来外へ出る。

 間もなく先頭機が侵入するとラジオの情報、皆表へ出てわいわい話をして居る。編隊というのでやはり緊張して居る。

 間もなく敵機来襲、待避もせずに軒下より空を仰ぐ。雲は低く垂れ雲に探照燈が当たり一面昼のように明るい。見事敵機を捕捉、高射砲は一斉に射撃を開始する。砲声は今までになく激しい。2番機3番機続々侵入してくる。南方にあたり空一面が赤くなる。落としたなというだけで敵機にむかって飛来するエイ光弾様の新兵器の射撃ばかりに見とれる。

 其の内に火災はだんだん大きくなるようだ。東の方にも落下したらしい。南東一面空は紅に映え、今迄の暗がりは昼のように明るい。

 どれぐらい騒いでいたか、空は弾幕と煙、それに探照燈と火災の明かりが反射してさながら戦場を思わす。高射砲は続けざまにうなり、それに敵機の低空で高い爆音がまじりすざまじい有様だ。

 どれくらい時間が経ったか其の内に来た奴がばっと落とした焼夷弾、たしかに市岡だ、そら近いぞ、九条も間もなくやられるぞと人々は叫ぶ。

 はっと我に帰りこれはぐづぐづして居られぬ、早く荷物を埋めなければと思い父に呼びかけると、そうだ入れようとぱっと土足のまま座敷に飛び上がり常に考えていた順番に布団着物などからどんどん穴倉に投げ込む。工場の横座へも2階のタンスの物や穴倉に入らぬ物を入れる。その間にも焼夷弾は落ちはせぬかといらいらしながら土をかぶせ終る。汗が流れだす。父の方も入れ終わったらしい。

 もっと持ち出せるものはと思いながら外へ出て空を見上げたと同時に飛来した敵機から落とした、まさしく焼夷弾、打ち上げ花火のように空一面に広がり主な部分は東の方へ落ち、末端が家の付近へ落下した。そら焼夷弾だと軒下へ入ったと同時に「どんばりばりがらがら」と色々の音響がした。ぱっとあたりが明るくなる、自分の目の前でもぱっとなる。外へ飛び出すと2階のひさしや電柱に火がついて居る。すぐ注水をする。2、3杯で忽ち消し止める。家を見回したが異常なし。

 「森正」の前で鉄板の下に火が入り、格子等に移る。それも4、5人が寄ってすぐ消火。気が付くと十六組の長谷川の2階が大分広がって居る。皆が口々に叫びつつ寄る。十六組はもちろん十二、十三、十五も皆かかるが、一向に静まらず益々激しくなる一方だ。すると十七組の裏からも発火して一層火勢を増しどうにも手の付けようがなく引き下がる。その間も敵機はどんどん上を通過する。後続機が又投下せぬかと心配する。どこからか手押しポンプが来てそれで又消火にかかる。水がなくなりだした。植田の井戸より運ぶが皆どこへ行ったか人数はわずかしかいない。自分一人でポンプまで運搬、相当疲れた。はじめ東風で安心していたが、だんだん激しくなりだし北風に変わりだしたので急にあわてだした。もうこれ迄と壕内の者を呼び出し取るものもとりあえず裏から逃げ出す。

 火が廻り逃げ道をふさがれていけないと思ったので、自然心が焦ったのだ。中通を東へ向ったが追い風なので北へ向きを変え、安治川電車道路へ出て源兵衛渡しの広場へ逃げる。もう大勢が集まって居る。風は益々強く成り、立つ人を動かすほどだ。母、祖母、弟妹を一枚の布団の下に入れ、木材で囲いをして風の当たらぬ様にしてあたりの様子を見る。川向かいは西の方で煙が見える。油らしいその火さえ大きくならねばここは大丈夫と思い皆に手ぬぐいで顔をおおわせゴミの入らぬ様に言い聞かす。

 火は一層大きくなり三方は火の海だ。付近が明るくなり昼のようである。家の方向はもう火の海だ。今盛んに燃えておるのは学校らしい。大きな木造建てだ。一本細い火柱が見える。よく考えると国旗掲揚台の柱だ。なんと無惨なものだ。この調子では九条は全滅かと思われた。

 自分等の傍へ三、四組のNさん等が避難してきた。皆武装して非常持ち出し物を持って布団を一枚づつかぶっておる。うち等の者は何一つ持たぬ着の身着のままだ。あの火勢では穴倉もとても助かりそうもない。もしその時はどうしようかと心が暗くなる。そこへSの印刷屋の奥さんが自転車に荷物を積んでこられる。母に寒いからと純毛のコートを貸してくださる。

 もう父もどこかへ避難し、自分等を探しておることだろうと心配して現場へ行ってみる。もうすでに二町会一町会は全滅、南通りの方もきれいに燃えつくし二丁目あたり迄燃えひろがっておる。吉岡の散髪屋の辺りは中通を火が乗り越して三町会へ移り、大分大きくなり皆必死になって消火しておる。応援にきてくれと叫んでおるが、焼け出された者は茫然と焼け跡を眺めて動こうともしない。

 焼け跡は1尺余りの層で火の海だ。これを見てああもう穴倉は駄目だとあきらめた。父の姿はその辺にない。近所の知人に聞くとさっきまでここにいたという答えだ。UさんがMさんの所へ行った様だというので急いで行く。北の学校の辺では学校を守る為家屋を破壊しておるが、なかなか倒れぬらしい。疎開地には避難の荷物や人でいっぱいだ。Mさんの所へ着いてみると父は今迄いたが皆を探しに出たという。

 仕方がないのでその辺を探しながらもとの所へ帰ってみると父は来ていた。少し頬に火傷しただけで怪我はなく元気だった。予想どおり心配して大分探したそうだ。靴は一番悪いのをはいていた為かかとはすりへって釘が出ていて歩きにくいと言う。どうもぬれて寒いので火に当たりにいこうと二人で焼け跡へ服を乾かしに行く。

 Nさんも居り共に乾かす。Uさんなんか自分の所は焼いても惜しいものはないから少しも活動をせぬので水も撒いていない。あんな奴が利己主義という奴だ。それにひきかえ同じ身一つのNさんは活躍して怪我している。しかしあとでUさんの会社で世話になったのも皮肉なものだ。Mさんが家へ来るようにと言って下さったが隣組(十五組)の者を多く収容しておるので気の毒だからUの会社の世話になる。家の者を皆会社へ連れていく。会社の関係の家族等も同じく世話になっていた。すぐ現場へ引き返し壕を見ようと思うが電柱が倒れそうで危なくて路へは入れない。父は十七組の方から横断し苦心して家の所迄たどり着き壕の非常口ヘふたをした。これが後で大いに役立ち壕内の物品が沢山助かった。これ以上手が着けられず朝になり明るさが変ってきた。

 その辺にあるバケツで水を運んで穴倉の上へかける。Mさんも出てきて跡を探したりする。そのうちMさんの家からにぎり飯を持って来た。自分等も御馳走になる。とてもおいしかった。

 その後大分水をかけたがもう疲れたので帰る。装備会杜でもにぎりがありよばれる。玄米のような黒い飯だったがおいしかった。それより又元気を出して現場へ行き水を掛けて工場の横座より掘り出す。土をはねのけて行くと、あっ、木のふたがそのままあるではないか。思わず「お父さん助かった。木が燃えていない。」と叫ぶ。よかったよかったと喜びあったがその時は本当に何とも言えぬ喜びだった。

 カマスをのけると、ぱっと湯気が上がり下からは布団やぼてこや2階のタンスの入れた物が全部何の事もなく出てきた。タンスの物は良い物はないが、日常着る子どもの肌着などが多かった。ぼてこからは布地が出てきた。近くに居る人々は口々に良かったねと言う。奥の方の穴倉はどうかと心配して掘ってみると入れ損ねたぼてこの着物地が出てき、カマスが出てきたのでこれも大丈夫と勢いよく掘る手も軽くなる。

 一方口からあけるとこれも無事だ。もう大丈夫、布団も助かったのだ。ずんずん引き出すと暗闇でわからず入れた品物がどんどん出てくる。焼けたと思ったリュックサックも助かり国民服も無事だ。全部掘り出し広げて乾かす。壕の方はまだ煙が出る。すき間から水をかけるが駄目である。

 非常口の方をしっかりふたをして少しづつ口を開ける。ここには炊事道具や米等が入っている。茶碗、釜、鍋、傘。米も無事だ。針箱も少し焦げただけだ。カーテンは一枚助かりオーバーは駄目だった。表の壕は煙で入れない。水を中へ向けてどんどん掛け少し煙も少なくなり無理に入り金や證書をつつんだ風呂敷を取り出した。金庫、位牌も皆少し焼けている。證書や通帳の番号ひかえは取ってあるが重要書類は半分焼けている。現金も丁度半分になっている。金庫の中の金は焦げているが、使用できそうなものもあった。中の布団や毛布は駄目であった。非常口さえふさいであったら皆助かったにと残念でならない。4時頃雨が降りだしたので布団は会社へ運び、着物類はかますにつめてTさんの所へあづける。炊事道具に針箱にボロのつまったかますは穴倉へ又つめ込み少々の米と茶碗の入用数だけ持って帰る。雨は本降りになり翌日は半日雨だった。晩は自分の布団でゆっくりと寝られた。丸一日半続けて活動したのでぐっすり眠る。夜半に警報鳴り待避した。

 翌日は雨だったが水がたまるといけないので穴倉の物を掘り出し奥の炉に入れ替えた。夕方には壕などにはいっぱい水がたまった。翌日(16日)今里迄歩き、自転車を借り堺の尾崎方で車を用意してもらい翌17日住吉へ荷物を移す。祖母は今里へ帰ってもらい、母等と西成線で阿倍野へ出て、上町線で住吉へ避難する。31日の帰る日まで住吉よりあちこちへ毎日のように通った。よく動けたものだと後で自分で感心する。

筆者当時 満18才
当時住所 九条中通4丁目
(現在の九条南4丁目14番地か15番地辺り)
文中の…燃えている学校は九条中国民学校 (現在の九条北公園が学校跡地)
      北の学校は九条北国民学校(現在の北小学校)

 

 資料の提供は中平定春さん。お父さん・お兄さんから引き継がれた日記や「戦時貯蓄債権」「保険証券」などを平和展に展示してくださっています。絵もお兄さんの日記から。掲載に当たり、旧仮名づかいを新仮名づかいに、個人名はイニシャルに変えました。段落は編集部がつけました。原文は段落わけせずびっしりと詰めて書かれています。

「戦禍に追われて(3) 戦後50年に寄せて 1996年夏」所収
戦争はいやや西区平和展実行委員会編集刊行

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