大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

城東区と戦争  国技館 関目学園付近

1.城東区の終戦前夜

 第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)、旭区と東成区から分離して城東区が発足しました(現在の鶴見区も含む)。城東区内10校の疎開先は福井県。1945年(昭和20年)5月まで5次にわたり行われました。

 大阪市内の空襲は1945年(昭和20年)1月に始まりましたが、幸い城東区は周辺に位置していたため、空襲の被害は比較的に少なかったようです。

 しかし、森之宮の大阪城周辺には、大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう 武器をつくる工場)があったために西部地区(鴫野、天王田、放出地区)は軍需工場に対する空襲の余波でかなり被害を出しています。

 また、8月14日の空襲では、京橋駅に1トン爆弾が命中し200人以上の死者がでました。京橋や鴫野に慰霊碑が建っています。

 城東区は、他の区に比べて被害は少なかったものの空襲によって人口が減りました。(36%)
 被災家庭では電灯も水道もない壕舎の中で、家族が肩を寄せ合って苦難に耐えました。

 

空襲前後の人口移動  (空襲後の人口は1945年(昭和20年)10月現在)

大阪市 (空襲前)2,735,954人 (空襲後)1,0493,937人 (減少率)62% {減少理由(罹災)963,398人 (疎開)722,198人}

城東区 (空襲前) 123,481人 (空襲後)  78,579人 (減少率)36% {減少理由(罹災) 7,271人 (疎開) 37,631人}

 

2.戦前 古市付近に大阪国技館があった

  

現在はルミエール関目/お茶屋さんが一部残っている(一部画像処理)

 1935年(昭和10年)~ 1940年(昭和15年)に城北運河がつくられ、1937年(昭和12年)には国技館が建てられました。今の古市2丁目、ルビエール関目のある場所です。国技館は4階建てのドーム式で今の国技館よりも大きいものでした。

 そして、その北側の木造の家の並びは国技館に見学に来たお客さんが休憩するお茶屋さんが建ち並び、にぎわいをみせたそうです。

 また、城北運河の川沿いには石炭が積み上げられ、船でその石炭を運んでいました。運河の両側には鉄工所や砂糖工場が建ち並んでいました。

 信愛女学院の北側には軍の倉庫が建ち並び、軍の被服などが置いてありました。

 鶴見緑地のあたりは高射砲陣地として使われ、一面原っぱで大砲の薬きょうなどが落ちていたそうです。

 

3.国技館が軍の倉庫に使われた

 戦争中は、国技館の近くに立ち並ぶ相撲茶屋は日本軍の志願兵の宿舎や訓練所になっていました。国技館は大きいので空襲の的になると思われ、4~5年で残念ながら休館となりましたが、鉄かぶとや被服、高射砲の倉庫として利用されました。

 戦後、アメリカ進駐軍が接収、1951年(昭和26年)頃まで倉庫として使われていました。進駐軍は近くの住民を集め、倉庫の中のものを全部焼き払わせました。2度と戦争に使わせないためです。

4.戦時中の関目寮

 日本陸軍が大阪砲兵工廠に隣接する城東区に民有地10万坪を借り上げて、材料置き場とし、そこに全国から集められた徴用工の技術養成所共同宿舎として関目寮が建てられました。関目寮は、関目合同宿舎(家族寮と呼ばれた)3棟、技術養成所宿舎(独身寮、生徒舎とも呼ばれた)3棟、および付属施設で成り立ち、敷地1万坪ありました。

 戦後はアメリカ進駐軍の強力な浮浪者対策により、軍用の建物を改造使用して、生活保護法の更生施設として「関目学園」は開設しました。

 当時の資料によると「この土地に学園が設置されたことは、酒屋へ3里、豆腐屋へ2里という辺境で好適な住宅地ではないから、ちょっと用をたすというわけにいかず、一切の欲望を引き離して更生街道を進むものにとってはまことに適した土地である」と述べられています。


案内人 並川 一明さん(執筆当時 すみれ共同作業所)

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