大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

京橋駅爆撃慰霊碑

 

京橋駅南口の出た所にあります。/はじめは右側の南無阿弥陀仏碑だけでした。

 

大阪城東ライオンズクラブが平和像を建立されました。1984年8月創設20周年記念に釈迦牟尼仏尊像と共にJR及び遺族会に対し寄贈されたものです(京橋駅南口の正面)(2016.8.16.訂正)

 

 

駅長さんによる説明板/毎年8月14日には慰霊祭が行われています。

 京橋駅南口の出た所、南西の道路に面したところにある。以前は片町線(今の学研都市線)の下りホームのそば、今のコンビニの所にあったが、10年近く前に、今の場所に移された。

 

 

駅長室の裏の道に、お地蔵さんもまつられている(左=南側)。右(=北側)は東西線(学研都市線)のホーム

 

 終戦の前日(前日ですよ)、1945(昭和20)年8月14日の午後1時過ぎに空襲があった。きめられたように京橋に止まった電車(当時は4両連結で上りと下りの両方から電車が入ってきていた)の大勢の乗客は、城東線(当時 今の環状線)の下にある片町線ホームに逃げ込んだ。700~800名もの人数がいたのではと思われる。B29約145機が、現在の大阪城公園の全域にわたってあった大阪陸軍造兵廠(「砲兵工廠」)を空襲するためにやって来て、2000ポンド爆弾(1トン爆弾、大人の身長以上の大きさ)をばらまいたのである。そして「砲兵工廠」のそばにあるこの京橋駅にも4つの爆弾が落ちた。そのうちの一発が多数の乗客が避難(ひなん)していた片町線ホームに城東線のガードをつききって落ちて来たのである。地獄(じごく)図のようになったに違いない。氏名の判明した者は210名、無縁仏(むえんぼとけ)となった者は500~600名。

 当時は外出着の胸に住所、氏名、血液型を書いたハンカチ4分の1大の布を付けるように強制されていたのに、この数字であるから、遺体(いたい)の損傷(そんしょう)がいかにひどかったかが想像できる。

 

 この遺体の始末も大変だった。この京橋駅爆撃の遺体救出と医療救護にあたった人の座談会を載せた「礎 いしずえ」によると、遺体は京橋駅の東側の広場や桜ノ宮小学校などで茶毘(だび)にされたとのことである。

 もう1日、たったの1日、終戦が早かったら、この人達の命は助かったのに。残念でたまらない。この慰霊碑は1947(昭和22)年8月14日に私費でつくられ、毎年、鴫野にあった妙見閣寺や遺族らによって慰霊祭が行なわれている。(妙見閣寺は、現在は旭区中宮5丁目に移転)

 私は今津中学校に勤めていたとき、この片町線で、この時、血糊(ちのり)がベったり付いたであろう環状線下の石垣を見ながら電車を待っていた。一発の爆弾によって大勢の人が死傷されたと思うと、本当に平和を念じられずにはおられない。

 

国鉄京橋駅長による説明板

大阪大空襲
京橋駅爆撃被災者慰霊碑

太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された慰霊碑である。

 

納経塔

戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年8月慰霊碑の前で鴫野・妙見閣寺によって行われているが、37回忌を機に写経による供養をと、遺族及び当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他多数の市民からの基金、協力を得て建立した納経塔である。

昭和58年2月 国鉄京橋駅長


(案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員))

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