大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

大阪と進駐軍

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して戦争が終わった。ポツダム宣言にもとづいて日本軍国主義を解体し平和国家とするために連合軍が日本を占領することになった。連合軍といってもほとんどアメリカ軍であった。「進駐軍」と呼ばれた。

 9月26日、アメリカ軍第6軍は和歌山に上陸、陸上から大阪市内に入った。大阪湾はB29によって機雷がまかれて、船が通行できないからであった。(和歌山から大阪市内へと米軍が進むようすは、佐藤泰正さんが目撃している→「大阪大空襲を見た私」)。

 


住友ビル

 大阪都心の焼け残った建物がアメリカ進駐軍に接収された。アメリカ第6軍第1軍団の司令部は住友本社ビルにおかれた。大阪は第1軍団の第98師団の占領下となった。(今のビルは戦後のもの)


安田ビル 日生ビル

 1945年12月に第6軍司令部は朝鮮に移動、第1軍団の司令部は京都に移り、大阪は第25師団が担当することになった。

 実際に大阪を統治したのは1946(昭和21)年6月に設置された大阪軍政部があたり、これは近畿軍政部に属していた。近畿軍政部は1949(昭和24)年2月に京都から大阪に移転していた。近畿軍政部は御堂筋に面した安田ビルにあった。淀屋橋周辺の焼け残ったビルには進駐軍のさまざまな施設がおかれた。

進駐軍から府民への通告

 1946(昭和21)年の新聞には進駐軍から大阪府民への通告が掲載されている。

1.進駐軍の自動車がサイレンを吹鳴す場合は、その自動車が通過するまで、諸車および通行者は必ず通路の片側に停止すること。
2.進駐軍の士官が諸車および通行人に対し停止を命じた時は必ず停止すること。
3.以上の命令に従わない時は、射撃されることがあるからよく注意すること。

1945(昭和20)年10月8日現在の米軍進駐状況

1945(昭和20)年10月8日現在の米軍進駐状況は次のようであった。

司令部 住友本社 東区大川町(今の住友ビル)
主力  大正飛行場 中河内郡大正村(今の八尾空港)
    八尾中学校 中河内郡八尾町
    中部第22部隊(今の国立大阪病院)
    中部第23部隊(今の難波宮跡)
その他 上宮中学校 天王寺区上之宮町
    電気専修学校 大淀区中津浜通
    海洋道場   貝塚市二色ヶ浜
    新大阪ホテル 北区中之島3丁目
    桃ヶ丘国民学校 天王寺区北山町
    石原産業    西区江戸堀上通1丁目
    長野国民学校  南河内郡長野町
    佐野町青年学校 泉南郡佐野町
    日本航空機工場 城東区蒲生町
    十三産教会館  東淀川区十三西之町
    大阪師団司令部 東区大手前之町(前の市立博物館=大阪城天守閣横)

1949(昭和24)年ころの市内中心部の占領軍施設

1.拘置所 2.上級将校宿舎(新大阪ホテル)3.民間検閲班(朝日ビル) 4.大阪軍政部(石原産業ビル) 5.軍教会 6.近畿軍政部(安田ビル) 7.キャンプ大阪司令部(安田ビル) 8.犯罪捜査班 9.第25師団司令部(日本生命ビル) 10.第1文民宿舎 11.第2文民宿舎 12.SCAP CIE図書館(東綿ビル) 13.軍事裁判所 14.第2宿舎(ガスビル) 15.兵員情報教育部 16.経理部 17.飛行場 18.衛生大隊 19.憲兵司令部(貯金局ビル)

(市内中心部の占領軍施設地図にもどる)

 この他には第25師団第27連隊司令部(大阪商科大学=今の大阪市立大学) 対敵諜報部隊(国防婦人会館=今の大阪府警上町ビル) PX(購買部 心斎橋そごう百貨店)などがあった。

今の靱(うつぼ)公園はアメリカ軍の飛行場であった。

 

心斎橋のそごう百貨店はアメリカ軍のPX(購買部)となった。
1935(昭和10)年建築の心斎橋そごうビルは
2003年4月に解体工事がはじまった。

進駐軍による主要接収物件(全部または一部)

事務所や宿舎用はもちろん、病院、公園、映画館、プール、グラウンドまで確保していたことがわかる。(数字)は接収解除年度である。

北区
北野病院(24・25) 山内内燃(21) 旧扇町高女プール(25) 日本電気協会(26・27) 朝日ビル(27) 北野劇場(27) 新大阪ホテル(27) 江商ビル(27) 中之島公園(27) 同和火災(27) 大和生命(27)

東区
三越(22) 大林組(21) 東洋棉花(24) 岩井産業(27) 大阪中央放送局(随時・27) 朝日生命(27) 日本生命(27) 安田生命(27) 大阪クラブ(27) 有恒クラブ(27) 大阪ガス(27) 綿業会館(27) 伊藤万ビル(27) 新日本汽船(27) 電気クラブ(27) 丸紅(27) 野村建設(27) 平和不動産(27) 大阪金属(22・25) 住友ビル(27) 国防婦人会館(27) 又一ビル(27) 中之島公園(27) 東京銀行大阪支店

西区
大阪YMCA(21) 石原産業ビル(28) 大桐生命(21) 靱公園(27)

南区
そごう(27) 千日土地(25) 南海ビル(23)

浪速区
松坂屋(23) 日本冷蔵(24) 今宮中学プール(26)

都島区
桜宮野球場(24)

天王寺区
天王寺公園グラウンド(22) 音楽堂(23) 上之宮中学(27) 夕陽丘会館(27) 市立美術館(22) 大阪赤十字病院(30) 真田山プール(27)

福島区
東京生命(25) 日産自動車(22) 宝船冷蔵(25)

東淀川区
タイガー計算器(21) 北海道バター(25)

城東区
寿重工業(27) 椿本チェーン(27)

阿倍野区
久保田権四郎邸(27) 田附政治郎邸(27)

住吉区
市立大学(27・30) 沢之町公園(31)

1952(昭和27)年当時の米軍利用状況

そして講和条約発効の年、1952(昭和27)年当時の米軍利用状況は次のようであった。

日生ビル     米軍南西司令部
安田ビル     キャンプ・オオサカ司令部
北浜教会     チャペル・センター
東銀ビル     軍事郵便所
ガスビル     下士官宿舎
伊藤万ビル   女子部隊宿舎
内外綿ビル   大阪米軍経理部
大和ビル    大阪米軍教育部
江商ビル    大阪米軍補給部
新大阪ホテル 米軍将校宿舎
住友ビル    PRセンター
石原産業ビル 国警予備隊顧問団
北野劇場    米国専用映画館
青年塾堂    アメリカン・スクール
日赤病院    大阪米軍病院
綿業会館ビル MP・CID司令部
又一ビル    CIC
靱飛行場    軍連絡飛行場
堂島取引所跡 米軍拘置所
そごう百貨店  大阪PX

日赤病院と大阪市大の校舎は朝鮮戦争の中、米軍の病院として使われて講和条約発効後も返還されなかった。市民の運動によって1955(昭和30)年になってようやく返還された。大阪の占領はここで終わると言える。

参考にした本
「昭和大阪市史続編 第2巻」大阪市役所 1965
「占領下の大阪」三輪泰史 松籟社 1996


案内人 柏木 功

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