大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

国防婦人会館

 

今は大阪府警察本部上町別館になっている。その前は大阪府婦人会館。もともとは国防婦人会館だった。
チリトリだけが、婦人会館だったことを示していた。

 国防婦人会は大阪市港区市岡で生まれた。戦地に送られる兵士たちや、入隊のために帰郷する兵士達が天保山桟橋(第3突堤)から船に乗る。その兵士達の見送りと世話にはたらく白い割烹着(かっぽうぎ)を着た女性達。それが国防婦人会であった。白いかっぽう着に「国防婦人会」のたすきが「制服」であった。

 結成大会は1932(昭和7)年3月18日、大阪・港区・市岡第5尋常小学校(後の魁国民学校 戦災で全焼 廃校に 今の市岡中学校の場所)で行われ、大阪国防婦人会が生まれた。それまで「愛国婦人会」というのがあった。高い会費で、その会費収入をもとに軍を支援する資産家たちの会だった。国防婦人会は安い会費で、そのかわり行動で奉仕した。陸軍の支援のもとに10月には東京で大日本国防婦人会が発会した。12月には大阪国防婦人会は大日本国防婦人会関西本部と改称した。出征兵士の見送り、「英霊」のお迎え、戦地への慰問袋を送る、などの活動を行った。会員から5銭10銭と金を集めて1937年3月1日、国防婦人会館が落成した。

 戦争が激しくなるとともに、国防婦人会(陸海軍省監督)と、愛国婦人会(厚生省監督)、大日本連合婦人会(文部省監督)の統合が提起され、1942年、統合して大日本婦人会が生まれた。和服にかっぽう着では活動できない時代になっていた。モンペ姿で力しごとにも働く時代になっていた。婦人会というよりも町内会・隣組の戦力として頼られるようになり、婦人としての活動は消滅していった。

 戦後、国防婦人会館は米軍が接収。のち、財団法人大阪府婦人会館がスタートした。その後、大阪府は財団から土地を借り、「大阪府婦人会館」とした。教育委員会から企画部に管轄が移り、1982年「大阪府立婦人会館」と改称した。天満橋に新しい婦人会館「ドーンセンター」が完成し、上町の会館は、現在にいたる。


案内人 柏木 功

↑上へ