大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

戦争にふりまわされた大学
大阪市立大学

 大阪市立大学は「大阪商業講習所」(1880(明治13)年にはじまる。その後、1889(明治22)年に大阪市発足に伴い「市立大阪商業学校」となる。1901(明治34)年、「市立高等商業学校」へ昇格。1928(昭和3)年、単科大学ながら学部・予科・高商部をもつ市立「大阪商科大学」となり杉本町に学舎が建設された。
 1949年(昭和24)年に新制総合大学として「大阪市立大学」が発足した。

 太平洋戦争中、この大阪商大で若手教員や学生たちによって反戦のサークルがつくられた。1943年「治安維持法違反」ということで教員・卒業生・学生ら約50人が逮捕投獄された。32人が起訴されたが、拷問、栄養失調などで獄死3名、精神異常3名を出した。被告の多くは堺市の刑務所で終戦を迎えた。これが「大阪商大事件」である。

 太平洋戦争の末期、学徒出陣で在校生が減少した大阪商大の学舎を軍施設にあてようと海軍から要求がきた。1944年(昭和19)年1月、予科・高商部、体育館、武道館など建物の半分を使って大阪海兵団が設置された。1945年4月には学部の一部まで接収され、研究室と図書館のみが残った。

 敗戦後、10月6日に海軍は撤収したが、翌7日、進駐してきた米陸軍に占拠されることになった。図書館も含め1週間以内に退去を求められるという乱暴な接収であった。

 市内の焼け残った国民学校校舎に移転先を求め学部予科は南区道仁国民学校(今の島之内図書館など)、工業経営専門学校は浪速区桜川国民学校(今の公団桜川住宅)、図書館・研究室は南区大宝国民学校(今の南小)などに移転した。

 1949年の新制大阪市立大学も、商・経済・法文の3学部と事務局は道仁校舎に、旧商大学部・予科・高商は西区旧明治小にあったが、翌年には明治小から靱商業学校跡に移転。理工学部は北野校舎(もと北野国民学校 今の北税務署)、家政学部は西長堀校舎(旧西華高女 今の西区民センター)という、全学借り物の校舎であった。

 1950年、朝鮮戦争の中で、杉本町校舎は米軍の軍事病院に転用、朝鮮からの負傷兵の収容や遺体後送の基地となった。サンフランシスコ講和条約後も「朝鮮戦争の見通しがつかないかぎり返還不可能」という態度であった。

 返還運動の結果、1952年、旧学部本館、図書館、研究室等一部が接収解除され返還された。学生自治会は全面返還を求めて活動し、大阪市会も請願を採択した。1954年、教職員も「杉本町全面返還促進実行委員会」をつくり学長を先頭に政府・国会・府市・市民に働きかけた。市大の名をあげた衆・参議院決議も行われ大阪市会も意見書と請願書を採択。1955年9月10日、返還式が行われた。


案内人 柏木 功

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