大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

学徒勤労動員 1945年6月7日

森 孝一さん(泉佐野市在住)

 旧制大阪府立住吉中学校の学生だった森さんは勤労動員で 大阪砲兵工廠(当時の名称は大阪陸軍造兵廠)にも行かされ、第3次大阪大空襲を経験されました。その当時の日記に解説を付け加えられました。(写真は当サイト編集部)

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6・6 水 廠内の航空省発送部にて働く。4時離廠。

 動員に計画性がなかったのか、実によく動員先が変更された。廠内とは大阪城の裏手にあった陸軍造兵廠のことである。この日は木製の砲弾ケースを通路わきに積み上げ整理する仕事であった。城東線へ(今の環状線)の堤防がすぐ横を走っていたのを覚えている。今のメーデー広場の辺りであったと思う。

6・7 木 本日は大宮に行く。昼食時11時頃より敵の空襲に会い、須藤負傷す。大分重いらしい。教師たる家森の無責任なるを痛感し大いに激す。案外人間は死なず。鳥潟へ運んだ。


城東貨物線・赤川鉄橋     城北公園
淀川河川敷に1トン爆弾の跡が残る
[1948年8月31日 米軍撮影]

 一たん造兵廠に行ったあと、クラスのうち数名(十名程だったかも)がトラックに乗せられ、大宮(都島区)へ行った。そこはひろびろとした草原で、木製の砲弾ケースが乱雑に野ざらしになっていた。仕事の指示をするとトラックは帰って行き、生徒だけが残った。作業をはじめた。空襲警報は出ていたが、警報なれもあってどこにも行かなかった。無蓋の防空壕はあったが、水がいっぱいたまり、はいる気はしなかった。爆音が聞こえてきた。一機ではない。突然爆弾の落下音が聞こえた。(落下音の聞こえるときは自分のところには落ちない。)耳を澄す。瞬時静寂。とたん地面をつき上げてくる爆発音。家並みのさらに向こうの方にある工場の長い屋根が、建物がゆっくりゆっくり空へ上がって行き、分かれ、分かれ、分かれ、やがて私たちの頭上の空一面を覆ったかと思うと、土と木と鉄とがボテ、ボテ、ボテと降って来た。とび、はねて、みんな走った。誰いうとなく近くの茂みを見つけ、ころがり込み、伏せた。

( ※編集部注 旭区大宮)

 とたんに第二波が来た。今度は落下音は聞こえない。突然爆発音がする。さっき私たちが談笑していた辺りに火柱が上がる。いくすじも上がる。両手で両眼球を仰え、おや指で両耳を仰える。口を思いきりあける。なぜかそうしろと教えられていた。爆風から身を守るためだと聞いていた。

 至近距離に一ぱつ落ちたらしい。サーッと熱い爆風が体の上と下とを通りすぎ、しばらく空中に浮かんでいたと思ったら、地面にそのままの姿勢でたたきつけられた。伏せの姿勢のとき、頭の前に並べておいてあった大事な下駄(はくものがないので自分で作った下駄)が、どこかに飛んで行った。どれほどの時間がたったか、まだ爆発音は続いている。「オイ、タレカ、タオレテイルゾ」ひとりの男が、まさに悠然と広場を横ぎっていく。頭を上げて見ると、須藤があおむきになり、もがいている。とび起きて須藤の方に行こうとした。柴崎も近くにいた。また落下音、爆発。みんな走った。私も走った。まさに脱兎の如く、見さかいもなく八方に逃げた。そのとき柴崎が「須藤をホットクのか!!」と叫んでいた。なぜか私は立ちどまった。

 まだ空爆は続いている。もうもうたる爆煙に青空はすっかり覆われているのだが、その爆煙の切れめを、何機も何機もB29が通りすぎる。まさに超低空を飛んでいく。胴体の真下の爆弾倉のふたを、ポッカリ開けて飛んでいく。

 柴崎と私は、何本もころがしてあった木製の電信柱を持ち上げ、地面との間に30㎝~40㎝の空間を作り、そこに須藤を引きずり込んだ。彼にはまったく外傷はない。あとで聞いたことだが、至近距離で爆発した爆弾の爆風が通りすぎるとき、肺の中が瞬間、真空になり肺内出血をおこしていたとのことだ。

 やがて空襲は終った。須藤を引きずり出した。意識ははっきりしている。とにかく近くに見える小学校まで行くことにした。須藤は自分で歩こうとする。が、歩けない。柴崎と二人で肩をかす。須藤の足がズルズルと地面をすっていた。

 小学校は関目小学校であった。教室の床にごろごろと人間がころがしてある。泥と血でネバネバの床に須藤をころがす。昼すぎだと思うが夕闇のような教室にうめき声と泣き声とどなり声と……医者らしい人はどこにもいない。みんな何かを待っている。無為に、ひたすら、何かを待っている。

 多くの負傷者の中でも、この人のことだけは忘れられない。男の人である。ころがしてあるが、右脇腹が右腕のつけ根のところまでえぐりとられ、多分肺だと思うが、息をするたびにふくれたりちぢんだりする。横に奥さんらしい人が子供を負ぶったままへたりこみ、オロオロと誰かれかまわず救助をたのんでいる。家の前に立っていた男の人のすぐ横で焼夷爆弾がさくれつしたのだという。自分は防空壕の中から、それを見上げていたと。

 もう夕方だった。だれがどう連絡してくれたのか、造兵廠のトラックが来た。散らばっていた仲間もそこにいた。教室のドアをはずし、須藤を載せ、トラックの荷台に上げると、トラックは走り出した。須藤が指示したのだと思うが天王寺の島潟病院へ運びこんだ。すっかり夜だった。どうも担任の先生はそこにはおられなかったらしい。多分負傷のことをご存じなかったのだろう。


60年目の千人つか慰霊祭

6・8 金 今日、全員無事なるを喜ぶ。昼より作業して後帰る。須藤大分重し。

 学校へ行ったのだろう。行ってみてはじめて、須藤以外の全員が無事であることがわかったのだ。お互の心の中で、彼以外だれかもやられていると思いつつ登校したのだろう。

 阿倍野の島潟病院へは一度見舞いに行ったが、彼には会えなかった。面会謝絶だったのだろう。彼の姉さん(?)がなぜか黒い服を着て、涙をいっぱいためて病室の前まで出て来られたのをまぶしい思いで見たのをはっきり覚えている。

(中略)

6・27 水 今日森小路より大宮町を通って淀川堤防へ行き、破損箇所を修す。5時半帰宅。

 六月七日の空襲によって破壊された淀川の堤防を修復しなければ梅雨の大雨が降れば大阪市内が水没するおそれがあるため、つるはしと、シャベルともっことで、まさに人海戦術で修復につとめていたようである。


今の淀川河川敷

6・28 木 今日、兄貴は入営の為に出発す。故に欠席す。大勢に見送られてゆく。レールの真中で旗を振る。next I go.

 高野線北野田駅を電車が出て少しすれば、両側ははたけであった。見はらしのよい田園地帯をまっすぐに貫ぬくレールの上に立ち物干竿につけた日の丸の旗を大きく左右に振って見送っている少年の日の私が、今でもはっきりと思い出される。

 母は送りに来なかった。

6・29 金 淀川へ行く。大分穴もうずもれり。孤軍奮闘、人一倍大いに働き暮す。

 

 旧制 大阪府立住吉中学校 21期 同窓会誌「すみよし外史」より

 須藤も、柴崎も、担任の家森先生も、ここ10年程の間に、あいついで他界された。ただ、私だけが老残の身をさらしている。(2006.2.)

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