大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)表門と守衛詰め所

 


表門付近

 


守衛詰め所と表門付近

 


アーチ門 表門の左側

 


鉄のかたまり


 大阪砲兵工廠にはいくつかの門があったが、ここが正門である。入った横に守衛詰め所が当時のまま残っている。正門前に明治天皇が来たという碑が建っている。

 大阪砲兵工廠は1870(明治3)年、造兵司として大阪城三の丸米倉跡に設立された官営軍需(ぐんじゅ)工場である。大阪造兵司、大砲製造所、陸軍造兵廠大阪工廠などと、何度も名称を変えたが、一貫して陸軍直営の兵器工場として大砲など重量兵器の製造にあたり、その金属工業技術は高く評価されていた。その敷地は、当初は現在の大阪城公園の一部に限られていたが、戦争の拡大とともに大幅に拡張され、旧城東練兵場の全域、すなわち、現在の城東区にあるJR・地下鉄車庫、森の宮公団住宅、ビジネスパークのすべてを含む約40万坪(つぼ)をしめ、最高時の従業員数は68000人にも及んだ。ついには外堀まで埋め立てて工場を建てた。(この外堀の部分はラグビー場として使われていたが、最近、掘り戻し外堀になった。) 技術もすばらしく、創立時代、技師や機械は長崎製鉄所から移し、富国強兵策にのっとって新技術を取り入れ、莫大(ばくだい)な投資で明治15年には早くも反射炉が備え付けられ、日清日露の戦いの頃には拡張に次ぐ拡張で自家発電も用い、ニッケル、クロームを使った特殊鋼製造工場としては日本唯一といわれた。大正の頃からは水道用鉄管、橋梁(きょうりょう)、信管(しんかん)、馬具なども作りロシア、ポルトガル等外国からの注文も増え、大阪の金属業界の旗手ともなった。

 しかし労働条件が厳しすぎたので、ついに不満が爆発し、明治39年12月、労働者たちは「賃金引き上げ」「時間外手当増額」「待遇の公平」を要求して、ストを計画、玉造稲荷(いなり)の境内(けいだい)に代表800名が集まった。驚いた政府は大弾圧に乗り出し、代表全員が逮捕され結局ストは不発に終わるが、参加労働者は1万人を超え、戦前の大阪のスト計画としては最大のものであった。政府も譲歩(じょうほ)せざるを得なくなり、「職工扶助(ふじょ)令」という一種の共済(きょうさい)組合を作ったが、これが現在の諸官庁共済組合の先駆けとなる。

 この砲兵工廠はどういうわけか、数回にわたる大阪大空襲のときにも被害を受けず、終戦前日の8月14日に徹底的に攻撃を受け破壊された、どのくらいの死傷者があったのかははっきりしないが、多数の女子学生が学徒動員ということで動員されており、そのうち、かなりの生徒が死傷したのではないかと、教育に携わる私たちとしては心が痛む。戦後、焼跡地は不発弾が多く危険だという理由で放置され、見るも無惨な有様であった。けれども生活に困った人々は残骸(ざんがい)の鉄屑(てつくず)を奪い合い、これを追う警官との間に小さな市街戦を繰り広げた。開高健が昭和34年発表した小説「日本三文オペラ」は、当時アッバチ族と呼ばれたこの人々を描いたもので、「アパッチ族」が有名になった。

 この「砲兵工廠」の表門付近の煉瓦造りの塀と正面の煉瓦造りの平屋は、昔のままのものである。色の不ぞろいのレンガが往時のレンガ造りの未熟さを物語っている。  なお、「砲兵工廠」の碑は、大阪城ホールの南西側の外と、森ノ宮団地の中にもある。

案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

靖国神社に残る大阪砲兵工廠製の鳥居・大砲


靖国神社・青銅製の第2鳥居
「大阪砲兵工廠鋳造」とある。


↑大阪砲兵工廠で造られた大砲(靖国神社)

 


大砲につけられた銘板
「大阪陸軍造兵廠」と読める

 

名古屋に残る大阪砲兵工廠製の大砲

 

名古屋にある日清戦争の第一軍戦死者記念碑。碑のまわりは24基の大砲で囲まれている。すべて大阪砲兵工廠で作られた大砲である。大阪砲兵工廠がいわば「大量破壊兵器」の製造所であったことを示す。

 

名古屋 第一軍戦死者記念碑。
大阪砲兵工廠で作られた大砲


案内人 柏木 功

 

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