大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる

 

大阪砲兵(ほうへい)工廠(こうしょう)表門(おもてもん)守衛(しゅえい)()(しょ)など

 



表門(おもてもん)があったあたり

 



むかし、使(つか)われていた建物(たてもの)

 



アーチ門

 



(てつ)のかたまり

 大阪砲兵(ほうへい) 工廠(こうしょう)にはいくつかの門がありましたが、ここが正門(せいもん)です。入った(よこ)守衛(しゅえい)()(しょ)当時(とうじ)のまま(のこ)っています。正門(せいもん)前に明治天皇(めいじてんのう)が来たという()がたっています。

 大阪砲兵(ほうへい)工廠は、1870(明治3)年、大阪城 三の(まる) 米倉跡(こめぐらあと)につくられた武器(ぶき)をつくる国の工場です。名前もいろいろ()わりました。戦争(せんそう)が終わる前は「大阪造兵廠(ぞうへいしょう)」という名前でした。

 東京では鉄砲(てっぽう)弾丸(だんがん)をつくり、大阪では大砲(たいほう)砲弾(ほうだん)(=たいほうの たま)をつくっていました。その技術(ぎじゅつ)水道管(すいどうかん)(はん)ごう、トラックなどもつくりました。

 戦争(せんそう)がすすむにつれて、今の城東区(じょうとうく)にあるJRや地下鉄(ちかてつ)車庫(しゃこ)、森の(みや)公団住宅(こうだんじゅうたく)、ビジネスパークのすべてを(ふく)(ひろ)工場(こうじょう)になりました。

 ここでつくられた大砲(たいほう)中国(ちゅうごく)をはじめアジア太平洋(たいへいよう)各地(かくち)戦争(せんそう)のために使われました。

 太平洋(たいへいよう)戦争(せんそう)の終わり(ころ)、アメリカ(ぐん)飛行機(ひこうき)はくりかえし、砲兵(ほうへい)工廠(こうしょう)爆撃(ばくげき)しようとしました。1945(昭和(しょうわ)20)年6月7日にはねらいがはずれ、その爆弾(ばくだん)淀川(よどがわ)付近(ふきん)にたくさん()とされ、(おお)くの人が()くなりました。

 1945(昭和(しょうわ)20)年8月14日、戦争(せんそう)がおわる前の日の空襲(くうしゅう)でほとんどこわされました。

 戦後(せんご)、ながいあいだ、()(のこ)った鉄骨(てっこつ)だけがたっていました。

 なお、砲兵(ほうへい)工廠(こうしょう)」の()は、大阪(じょう)ホールの南西側(なんせいがわ)(そと)と、森ノ(みや)団地(だんち)の中にもあります。

靖国神社に残る大阪砲兵工廠製の鳥居・大砲


靖国神社(やすくにじんじゃ) 青銅(せいどう)でつくられた(だい)鳥居(とりい)
「大阪砲兵(ほうへい)工廠(こうしょう)鋳造(ちゅうぞう)」とあります。

↑大阪砲兵(ほうへい)工廠(こうしょう)でつくられた大砲(たいほう)靖国神社(やすくにじんじゃ)


大砲(たいほう)につけられた名ふだ
「大阪陸軍(りくぐん)造兵廠(ぞうへいしょう)」と()めます。
(いま)とちがって右からの横書(よこが)きです)

 

名古屋に残る大阪砲兵工廠製の大砲

 

名古屋にある日清戦争の第一軍戦死者記念碑。碑のまわりは24基の大砲で囲まれている。すべて大阪砲兵工廠で作られた大砲である。大阪砲兵工廠がいわば「大量破壊兵器」の製造所であったことを示す。

 

名古屋 第一軍戦死者記念碑。
大阪砲兵工廠で作られた大砲

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