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鶴見緑地のはじまりは防空緑地

 花博で市民農園などはなくなりましたが、市民の緑地として親しまれている鶴見緑地。遠足にもたくさんの子どもたちが来ています。

 鶴見緑地は、もともとは「防空緑地」として設定されました。1941(昭和16)年1月、「国土防空強化に関する件」閣議決定が行われ、防空上必要なる緑地、広場及び大道路の建設がうたわれました。1941(昭和16)年11月25日の防空法改正により防空空地の指定が行われました。

 大阪では服部緑地、鶴見緑地、久宝寺緑地、大泉緑地とそれをつなぐ疎開地帯が決められました。鶴見緑地の北西には高射砲陣地もつくられました。このとき買収された農地は、鶴見で49万坪、服部で42万坪、久宝寺で40万坪、大泉で38万坪。国は食糧増産をかけ声にする一方でこのように軍用地などのために農地をつぶしました。1937(昭和12)年に大阪府全体で56600haあった農地は1945(昭和20)年には43130haに減少していました。(農地の数字は「大阪府農業史」1984)

 1943(昭和18)年にはさらに、重要都市の人員、施設、建物の疎開もすすめられました。

 戦後、防空緑地は緑地公園として、疎開地帯は中央環状線(道路)として整備されました。鶴見緑地に接してゴミ焼却場がつくられ、その残灰と土を積み上げて大阪市内で一番高い山、鶴見新山ができました。できた当初は標高45m、現在は市の広報紙によると39m。高さ2番目の山は大正区の昭和山(写真で遠くに見える山は生駒山 鶴見新山は木の間に)。

 親しまれている鶴見緑地ですが、広い芝生の真上を高圧線がとおり、鉄柱に「タコあげ 電線に注意」とあるのはなんとも無粋ですね。蛇足ですが、この大芝生あたりは守口市の市域です。


案内人 柏木 功

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