鶴見緑地のはじまりは防空緑地
鶴見緑地には遠足や遊びにたくさんの子どもたちが来ています。
鶴見緑地は、もともとは「防空緑地」としてつくられました。1941(昭和16)年1月、政府は「国土防空強化に関する件」を決め、「防空上必要 なる緑地 、広場および大道路」がつくられることになりました。1941(昭和16)年11月に防空空地が指定されました。
大阪では服部緑地、鶴見緑地、久宝寺緑地、大泉緑地とそれをつなぐ疎開地帯が決められました。鶴見緑地の北西には高射砲陣地もつくられました。
1943(昭和18)年にはさらに、大きな都市の人間や建物 の疎開もすすめられました。
戦後、防空緑地は緑地公園に、疎開地帯は中央環状線(道路)になりました。鶴見緑地のすぐ近くにゴミ焼却場がつくられ、その灰と土を積み上げて大阪市内で一番高い山、鶴見新山ができました。できたときは高さ45m、現在は39m。