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陸軍大阪衛戍 ( えいじゅ ) 刑務所

えいじゅ(衛戍):軍隊が永く一つの土地に駐屯すること(広辞苑)


戦前の地図桜門と玉造口の間に「衛戍監獄」があります。

 新しい歴史博物館から見る大阪城堀の側の緑の屋根が豊国神社
「衛戍監獄」はその東(右)側にありました。

 陸軍大阪衛戍(えいじゅ)刑務所は、軍法会議で判決を受けた軍人が服役した所である。場所は豊国神社の東にあった。

 1930(昭和5)年ごろ『金沢第7連隊赤化事件』に連座した陸軍二等兵の反戦川柳作家の鶴彬《つる・あきら》が収監されていた。鶴彬は石川県の出身で、大正末年ごろから川柳に志し、1938(昭和13〉年、29歳で獄死するまで数々の反戦句を作った。 代表的な句に『手と足をもいだ丸太にしてかへし』がある。 (この刑務所の資料は、あまりなく、何人ぐらいの人が、どういう理由で、どのような刑に、そして、どうなったのか、佐藤は知りたいと思っている。)

案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

2008年2月 衛戍監獄跡地に鶴(つる)彬(あきら) 顕彰記念植樹が行われました。

 兵営内での差別に抗議して、陸軍大演習のときに天皇に直訴した北原泰作二等卒(岐阜の第三師団陸軍歩兵第六十八聯隊)は軍法会議で1年の刑とされ、大阪のこの衛戍刑務所に収監された。そのようすは北原泰作『賤民の後裔』(筑摩書房 1974年)に詳しい。収監は1928年1月14日から12月11日まで。天皇即位の礼にともなう恩赦で残り刑期が2分の1に減刑された。釈放後は、原隊でなく姫路の教化隊に入れられた。「釈放のよろこびはなかった。牢獄から牢獄への移動にすぎなかった」(『賤民の後裔』p177)

 北原がいたときに、中村甚哉も入れられてきた。中村甚哉も水平社、労農党、青年同盟などで活動していた。伏見の工兵隊に入営していたが、脱走。1928年4月28日に大阪市港区九条会館で行われた労農党演説会に軍服のまま登壇して「軍隊内の差別を撤廃せよ」と演説し検挙され、第4師団の軍法会議で懲役1年の刑を受けた。中村は治安維持法違反にも問われていた。

案内人 柏木 功

 

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