大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

なぜ京橋駅でたった1日前の8月14日に
大勢の人が殺されたのか?

1945(昭和20)年

7月26日 対日ポツダム宣言(せんげん)発表

7月28日 鈴木貫太郎首相、ポツダム宣言黙殺(もくさつ)と発表

8月6日 広島に原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)

8月8日 ソ連が対日宣戦布告(せんせんふこく)

8月9日 長崎に原子爆弾投下

8月10日 国体(こくたい)維持(当時は護持(ごじ)と言った)を条件にポツダム宣言受諾(じゅだく)を決めスエーデン、スイスを通じて連合国に申し入れる。(国体とは天皇制のこと。国民がひどい惨禍(さんか)をこうむっていても、問題となったのは、天皇制の存続だけだった。)

8月12日 アメリカはラジオを通じて「日本の政治形態は、日本国民の自由に表明する意志により決定せられるべきもの」と回答。この回答をめぐって、これでよしとする東郷茂徳外相らと、国体護持困難とする阿南陸相とが対立し、日本政府は回答できず。

8月13日 日本側によって引き伸ばされているとみたアメリカは、「第二次大戦での爆撃作戦の最終シリーズ」の目標として大阪陸軍造兵廠など6カ所を決め、マリアナ基地(グアム島、サイパン島などにある基地)からB29発進。

8月14日 正午頃、宮中防空壕内の御前会議(ごぜんかいぎ)で昭和天皇の決断で、ポツダム宣言受諾を決定。

同日8月14日 1時すぎ、大阪造兵廠に空襲、京橋駅に爆弾が落ち大勢の死傷者が出る。正午、昭和天皇が終戦の「玉音放送」

 この経過については、大阪城戦跡巡りの案内人をするにあたって調べて知ったことである。この京橋駅の惨禍だけを見ても政治に携わる者が、目をどちらに向けなければならないかを、思い知らされる経過である。


案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

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