大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる

 

今津(いまづ)()ちた1トン爆弾(ばくだん)

信管(しんかん)をぬきとったあとクレーンでひきあげられる爆弾(ばくだん)(8日午後0時10分)
毎日新聞社(まいにちしんぶんしゃ)提供(ていきょう)

 

 1979(昭和(しょうわ)54)年3月8日(水)、小雨(こさめ)の中、大阪市鶴見区今津(いまづ)南でみつかっていた不発弾(ふはつだん)(爆発(ばくはつ)しなかった1トン爆弾(ばくだん))3(ぱつ)処理(しょり)されました。不発弾(ふはつだん)はいずれも民家(みんか)(にわ)などに()ちて34年間処理(しょり)されずに(のこ)っていたものでした。

 1945(昭和(しょうわ)20)年、アメリカ(ぐん)は日本(ぐん)大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)(そのころの名前は「大阪造幣廠(ぞうへいしょう)」)をねらって爆撃機(ばくげきき)B29は何度(なんど)も1トン爆弾(ばくだん)()としました。

 6月26日、B29、173機が住友金属(すみともきんぞく)(今のユニバーサル・スタジオ・ジャパン)と砲兵工廠(ほうへいこうしょう)をおそいました((だい)()大阪大空襲(だいくうしゅう))。鶴見区(つるみく)今津(いまづ)()ちた1トン爆弾(ばくだん)もこの時のものである。

 地域(ちいき)の人は昼前(ひるまえ)とおぼえています。米軍(べいぐん)資料(しりょう)では9時18分~10時22分の1時間。今津(いまづ)の人々は空襲警報(くうしゅうけいほう)の中を家に作った防空壕(ぼうくうごう)にはいっていました。

 1(ぱつ)は家の屋根(やね)をかすめて(にわ)()ちました。(にわ)のすみには防空壕(ぼうくうごう)がつくられ、近所(きんじょ)の人もいっしょに入っていたそうです。ズズーンという()びあがるような大きい音がして、(つち)がもうもうと()い上がりました。防空壕(ぼうくうごう)も土の中に()もれました。「(たす)けてー」と土の中から声が聞こえるので、かけつけた人が土をほり、(たす)け出しました。不発弾(ふはつだん)でなかったら死んでいたところでした。

 1(ぱつ)(べつ)の家のこれも庭に()ちました。

 1(ぱつ)は家の(よこ)防火用水(ぼうかようすい)として池にしていたところに()ちました。

 地域(ちいき)人々(ひとびと)不発弾(ふはつだん)があるのではと地面(じめん)()って(さが)したが見つからず、34年たってやっと調(しら)べて3(ぱつ)不発弾(ふはつだん)が見つかり()り出すことになったそうです。

 当日(とうじつ)半径(はんけい)300メートルは()ち入り禁止(きんし)とされ、人びとは今津(いまづ)小学校・楠根(くすね)公民館(こうみんかん)などに避難(ひなん)、市バスは遠回(とおまわ)りし、片町線(かたまちせん)((いま)学研都市線(がっけんとしせん))の住道(すみのどう)放出(はなてん)(かん)はストップしました。そして無事(ぶじ)()り出して海に(しず)められました。

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