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古い墓地で調べてみよう
先のとがったお墓

   

 昔からある古い墓地へ行ってみましょう。ふつうのお墓は四角いものですが、先のとがったお墓があることがわかります。それは、兵隊として招集され、アジア太平洋各地での戦争で亡くなった人のお墓です。

 

 そのようすを有木一郎さんは次のように書いておられます。(有木一郎さんの「あの日はもう2度と」はこちら

 年を追うに従って「わが大君に召されたる」出征兵士を送る行事が頻繁になる。赤紙を手にした若者が村の神社で武運長久の祈願を受け、「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国」の赤子となったこの若者達を、ぼくたちは、村のはずれの田んぼ道に並んで、見えなくなるまで小旗を振って見送った。やがて、まもなく同じように村のはずれの田んぼ道に並んで、遺族の胸に抱かれた白木の箱を「殉国勇士」と賛美して迎えた。しばらくして、村の2つのお寺には、星のついた長い墓標がいくつも建った。

 

 あるお墓には、次のように刻まれていました。

 昭和9年2月1日、現役ニ服シ、支那事変ニ応召 中支派遣軍ニ属シ各地ニ転戦 長沙右領戦ニ参加シ、攻撃開始ノ際、十数倍ノ敵ト遭遇シ先頭中前頭部ニ敵弾ヲ受ケ、戦死 享年29歳

 お墓はお父さんやお兄さんが建てた場合が多いです。どんな気持ちでお墓を建てたのでしょう。

 

 作家の井上ひさしさんは、招集令状が来た時の様子をこんなふうに書いておられます。

 戦時中、まだ自分が小さいころ、友達のお兄さんやお父さんなど、周りのみんなが出征していく。前の晩なんか大変なんです。家族みんなで抱き合って泣いたりしている。その様子を僕らはみている。でも、次の日たすきをかけて行くときはすごく明るい顔で出て行って、そのまま帰ってこない。あの人たちは決して国のためとかではなく、どうにもならない運命の枠組みから逃れられないという感じで、渋々というか泣きながら出て行った。きっと言いたいことがたくさんあるだろう。そんな気持が影響していますね。

井上ひさし 対談「明治文学への新しいアプローチ」より
岩波書店「図書」2001.12所収

 

 一方、兵士となって訪れたアジア・太平洋の地域では、そこの人々の目には日本軍兵士はどのような人として見えたのでしょう。


案内人 柏木 功

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