大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

大阪城天守閣

  
改修前の天守閣/現在の天守閣

 豊臣秀吉が築いた天守閣は1615年の大阪夏の陣で焼失。江戸幕府の命令で1626年に2代目の天守閣が完成。(大阪城全体の構造は江戸時代のもの)1665年落雷によって天守閣焼失。それから260年間天守閣はなかった。

 昭和になって大阪では商都大阪の象徴としての天守閣の再建が悲願だった。そこで昭和天皇の即位記念事業として天守閣と大阪城公園の設立を計画、総費用150万円の寄付を募ったところ、現在以上の不景気だったが、太閤はんにあやかって不景気を吹っ飛ばそうと寄付があいつぎ、またたく間に集まった。当時の黒田家に保存されていた大阪夏の陣図屏風を参考にして、わが国初の鉄筋コンクリートの天守閣が築かれた。

 地鎮祭は昭和5年5月、翌6年11月外観5層内部8層、上下はエレベーターという、当時としては超モダン天守閣が誕生した。費用は約47万円。大林組が工事をする。

 市民に開放されるが、それも束の間、1940年、天守閣から写真撮影禁止。やがて展望台、窓すべて閉鎖。1942年天守閣閉鎖。やがて軍の機密ということで一切立入禁止になった。

 戦争で京橋門、二番櫓(やぐら)、三番櫓、伏見櫓、坤(こん)の櫓の5棟が焼失した。破壊された石垣は約70カ所。天守閣そのものは破壊をまぬかれたものの、屋根には焼夷弾が命中し、土台の石垣には1トン爆弾が2発落ち、南西隅と北西隅の積み石の一部が吹き飛ばされたために石垣にずれが生じた。1954年から修復されているが、今も北東隅の天守閣台の石垣にずれた跡がみられる。

 戦後はアメリカ軍が接収し、紀州御殿を焼く。大阪市の消防車が楼門より中に入れず、治外法権の状態だった。1948(昭和23)年、大阪市に返還。翌1949(昭和24)年7月、やっと天守閣が一般に公開されるようになった。

 1997(平成9)年、平成の大修理が終わり、美しくなった。天守閣は戦国時代に戦争のために造られたものだが、戦争には似合わない。平和がよく似合う。

 威厳と脅しのための虎も、今見ると愛嬌があってよろしい。虎君、天守閣を平和のためにしかっり守るんやで! 1980(昭和55)年、天守台石垣の一部が修理工事された。

(案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員))

 大阪城天守閣の再建にあたっては、当時の時代背景を考えておくことも必要だろう。大阪城天守閣元館長の中村博司さんは次のように指摘されている。慧眼である。(案内人 柏木 功)

 こうして見てくると、大阪城天守閣の復興と豊臣秀吉の顕彰は、そもそもの計画開始当初から強く結び付けられていたことが明らかだが、それには、前述したような徳川時代の大坂城と大坂町民との関係の希薄さが昭和になっても影響していたのかもしれないとも思うところである。しかし、こうした風潮の背景にはそれだけではなく、この年九月に柳条湖事件によって勃発した満州事変に象徴されるように、この頃の日本が、満州国建国を含む中国大陸への大規模な軍事侵略へと、大きく舵を切っていく時期であったことを忘れるわけにはいかない。その意味で、日本政府と軍部にとって、約三百五十年前、朝鮮半島に大規模な派兵を行ない大陸進出を果たそうとした秀吉は、偉大な先駆者に他ならなかった。
 その秀吉の本拠地である大坂城に復興される秀吉創建の天守は、その「偉業」を称えるとともに、今後のあるべき日本の進路を称える象徴でもあったに違いない。「陸軍省当局ガ本丸一円ノ開放ヲ快諾サレ」た背景には、こうした思惑があったことも疑いない。また、これを受けた大阪市の側においても、「大礼記念事業計画書」のなかの「一世ノ英傑豊太閤ノ壮図」の文言に、秀吉の朝鮮侵略を「有史以来の壮挙」(渡辺世祐『安土桃山時代史』)と捉える近代日本の歴史観が色濃く反映されているのを見ることは難しくない。この後、一九三七年(昭和十二)の慮溝橋事件を経て広くアジアの民衆を巻き込むこととなるアジア・太平洋戦争に突入する暗い世相のなかで、大阪城公園開設と天守閣復興が明るく夢のある事業だったことは確かであろうが、一方で軍国主義を背景とした国威発揚の一翼を担った側面があったことも忘れてはならないと思う。
                         (中村博司『大坂城全史』ちくま新書 筑摩書房 2018年)

 
 

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