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8連隊、37連隊の碑

歩兵第8連隊

 1985(昭和60)年刊行の「大阪と八連隊-大阪師団抄史」の「まえがき」は次のような文章で始まっている。

昭和54年秋、『歩兵第8聯隊史』を編纂するにあたって、『また負けたか8聯隊、それでは勲章9聯隊』という俗謡をどのようの取扱うべきかが話題となった。

 私・佐藤も小さい頃、父親からこれとよく似た事を聞き、いまだに憶えている。630ページからなる、この分厚い本の最初130ぺ一ジも使って、この俗謡の実際と、その反論をしている。

 歩兵第8聯隊(れんたい)の兵舎は1874年(明治7)の創設当初は、今の国立大阪病院のあたりにあったが、1897(明治30)年に、今、難波宮跡地となっているところに移転した。第8聯隊は、その後、中部第22部隊と変わったが、第37聯隊とともに第4師団では基幹部隊となり、15年戦争中は、中国、南方方面を転戦した。最後は、タイのランパンで軍旗を焼いた。兵舎は1969年(昭和44)頃まで残っていたと言う。表門付近に、1975年(昭和50)4月「歩兵第8聯隊跡」の碑がつくられた。

 大正年間に、この八聯隊の兵舎の東の陸軍被服廠の倉庫建設工事をしていたときに.奈良時代の蓮華紋と童圏紋の瓦が2枚発見された。話題になったが、なにしろ軍用地なのでその時はそれ以上は進まず終わりとなった。昭和28年(1953)市営法円坂住宅の建築現場から、鴟尾(しび)の破片が出土した。戦時中から幻の宮殿跡はこの辺りだろうと研究を続けてきた大阪市立大学教授の山根徳太郎氏が、多くの困難や批判にもくじけず発掘作業に取りかかり、昭和32年(1957)築港深江線の道路工事下から内裏回廊を発見した。現在、この地に2度にわたって難波の宮が造られたことが判明している。
630年  難波長柄豊碕宮を造り始める(前期難波宮)。686年焼失。
726年  難波宮の再建に着手(後期難波宮)。784年長岡京に移築。

 この地が、国有地であったため、このような大きな史跡公園にすることができた。NHKを西に移し、更に大きな公園にする予定と言う。

 

 歩兵第37連隊

  この聯隊は、日清戦争後、対露戦争をにらんで、1896(明治29)年11月につくられた。兵舎は、8聯隊が新兵舎が出来て向かいに移ったので、明治31年この場所、今の国立大阪病院の南部分にあたるところに置かれた。後に中部23部隊と名前を変える。第8聯隊と同じく、中国、フィリピン・タイ方面に転戦し、タイの北部のモンレンで軍旗を焼く。この部隊は、野間宏の「真空地帯」のモデルにもなったところである。 

三つの碑が建てられている。
中央には「歩兵第37聯隊跡」裏「昭和61年11月歩37會建立」
北側には「歩兵第37聯隊創立100周年記念碑」その裏には「明治31年3月24日歩兵第37聯隊が創立されて本年を以て100周年に当たるため由緒あるこの地に記念として建立した所以であります。平成10年3月吉日 歩37会建立」
南側には「克忠」(ごくちゅう)碑 裏には「此碑は元営門築山に在りし物にして終戦後撤去されおりしも北庭園を増築するに当たり37会此を再建せしものなり。」

(案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員))

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