大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる大阪市内で せんそう と へいわ を かんがえる

 

連隊(れんたい)、37連隊(れんたい)の ()

歩兵(だい) 連隊 ( れんたい)

 

※「聯隊(れんたい) 」はむかしの漢字(かんじ)です。いまの漢字(かんじ)では「連隊(れんたい)」と書きます。

 歩兵(ほへい)(だい)聯隊(れんたい)は1874年(明治(めいじ)7)につくられました。そのころは、(いま)国立(こくりつ)大阪病院(びょういん)のあたりにありました。1897(明治(めいじ)30)年に、(いま)難波宮(なにわのみや)跡地(あとち)となっているところにかわりました。(だい)聯隊(れんたい)は、その()中部(ちゅうぶ)(だい)22部隊(ぶたい)と変わりました。戦争中(せんそうちゅう)は、中国(ちゅうごく)南方(なんぽう)方面(ほうめん)戦争(せんそう)をしました。最後(さいご)は、タイのランパンというところで終戦(しゅうせん)になりました。

  建物(たてもの)は1969年(昭和(しょうわ) 44)(ころ)まで(のこ)っていたそうです。

 

歩兵(ほへい)(だい)37連隊(れんたい)

 

  この聯隊(れんたい)は、日清戦争(にっしんせんそう)のあと、ロシアとの戦争(せんそう)をにらんで、1896(明治(めいじ)29)年11月につくられました。兵舎(へいしゃ)は、8聯隊(れんたい)新兵舎(しんへいしゃ)ができて向かいにうつったので、明治(めいじ)31年この場所(ばしょ)(いま)国立(こくりつ)大阪病院(びょういん)南部分(みなみぶぶん)にあたるところにおかれました。のちに中部(ちゅうぶ)23部隊(ぶたい)と名前をかえました。(だい)聯隊(れんたい)と同じく、中国(ちゅうごく)、フィリピン・タイ方面(ほうめん)戦争(せんそう)し、タイの北部のモンレンで終戦(しゅうせん)をむかえましたく。
この部隊(ぶたい)は、野間宏(のまひろし)小説(しょうせつ)真空地帯(しんくうちたい)」のモデルにもなったところです。 

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三つの()がたてられています。

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