大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

空襲で焼かれた 姫島神社 大楠

 樹齢900年ともいわれる大楠がありました。空襲で焼かれ根と幹だけになりました。

 1945(昭和20)年6月15日8時44分~10時55分(約2時間)大阪を攻撃したB29は449機 高度5000~8200メートル(第4回大阪大空襲)。
 アメリカ軍の爆撃計画では平均着弾点の一つが、西淀川区神崎大橋南詰付近でした。大阪市の中心部はすでに燃えていたので、「東方および南方ならびに都心から北西の多数の小地域を破壊」しました。大都市への大量焼夷弾攻撃はこれで終了し、以後、大阪へは軍需工場への爆撃が繰り返されることになりました。

 神社の境内に掲げられている「姫島神社の由来」には次のように書かれています。

 祭神は阿迦留姫命と住吉大神が鎮座されている。神崎川と中津川との間のデルタの一つで難波八十島の比売島(ひめじま)の産出(うぶすな)神をまつったと考えられる。その「ひめ」がなまって「ひえ」(稗島)とよばれ「へじま」と発音していた。

 姫島は「摂津国風土記」逸文には、新羅の国に姫島があり、彼女は夫のもとを遁れててきて、しばらく竹斯の国の伊波比の比売島にすんだ。やがて彼女は「この島はまだ遠くない。もしこの島にいれば、夫(アメのヒボコ)が尋ねてくるだろう」いって、また移り難波の比売島にとどまったちある。

 当社の祭神「阿迦留姫命」はアカルヒメ信仰をもつアカルヒメ族とでも呼ぶべき部族が朝鮮半島から おそらく伊都を経へ国東(さき)の姫島さらに難波の姫島へ移動して大阪湾一帯はこの部族の渡来によって開け始めていったとされている。

 万葉集の当地に関する歌があり、明治33年に歌碑を建立したものである。
 “妹(いも)が名は 千代に流れん 姫島の
     小松がうれに こけむすまでに”


案内人 柏木 功

↑上へ