大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

戦争に反対した人々
戦旗大阪中央支局(前編)

(戦旗大阪中央支局(後編) 沢上江(かすがえ)町の時代 はこちら)

   

 ↑「戦旗」1928年7月号 表紙と目次

 2008年夏、小林多喜二の「蟹工船」が書店の店頭に平積みされている。新聞、テレビ、週刊誌でも話題になっている。

 小林多喜二は「一九二八年三月一五日」を雑誌「戦旗」1928年、10月号・11月号に発表した。「蟹工船」は雑誌「戦旗」1929年5月号・6月号に発表された。

 雑誌「戦旗」は、全日本無産者芸術連盟(略称ナップ エスペラント訳の頭文字から)の機関誌である。プロレタリア芸術連盟と前衛芸術家同盟が合同し1928年3月25日にナップは結成された。4月28日に創立大会を行い、機関誌「戦旗」を5月号から創刊した。

 これらに先立つ3月15日には小林多喜二が描いたような、非合法下の日本共産党に対する大弾圧があった。

 大阪でも支部創立準備委員会を組織し1928年5月29日に支部創立大会を開催する準備がすすめられた。5月28日の文芸大講演会は天王寺公会堂で開催。弁士のうち片岡貢は検束されたがすぐ釈放、中野重治・壺井繁治は弁士中止とされた。当時の集会は事前許可だけでなく、集会にも警察が臨席し、「弁士中止」や「解散」「検束」を命じることがひんぱんにあった。「戦旗」やナップ各メンバーは可能な限りの表現で戦争反対を訴えた。

(↑「戦旗」1928年7月号 検閲で伏せ字だらけである。)

 

 大阪支部創立大会は官憲の妨害で幾度も延期されたが、6月12日に大江ビルで行われた。

 大阪支部には文学部、演劇部、美術部、映画部、音楽部などがあった。

 劇団「戦旗座」は、プロレタリア芸術連盟大阪支部演劇部がその前身。のちのプロットには戦旗座として加盟している。

 日本プロレタリア芸術連盟大阪支部の事務所として港区の新池田町の空き家が選ばれた。1階は玄関と3畳6畳と台所、2階は4畳半2間の借家であった。 

 この借家がナップ大阪支部(大阪地方協議会、大阪地域協議会)の事務所となり、「戦旗大阪中央支局」となった。

 1階は演劇同盟、2階は作家同盟と分けて使っていた。

 港区に新池田町という町名は今はない。当時の市電停留所「新池田町」(地図の緑で囲んだところ)は今はバス停「三先」にあたる。

 上の地図の黄色い○がナップ大阪支部・戦旗大阪中央支局のあったあたりである。今は、三先公園の北東側あたりになる。港区は戦災で壊滅、その後区画整理も行われ、このあたりは道筋も当時とはまったく違っており、区役所で問い合わせてもこの地番は道の両側に広がる。三先小学校(地図の赤で囲む)だけが当時のままだろうか。

 市電通りから1筋はいったところだった。「戦旗」は一応合法雑誌だから発売禁止にならない限り書店でも買えた。書店になくても「戦旗大阪中央支局」で買えた。市電自助会は「戦旗」を100部購入してくれるお得意さんだったという。

 1928年12月25日、ナップは改組して全日本無産者芸術団体協議会となり、各分野ごとに芸術団体を創立していった。

 日本プロレタリア作家同盟(略称ナルプ)、日本プロレタリア劇場同盟(略称プロット のちに演劇同盟に変更)、日本プロレタリア美術家同盟(略称ヤップ、PP)、日本プロレタリア映画同盟(略称プロキノ)、日本プロレタリア音楽家同盟(略称PM)などが結成された。

 プロット大阪地方支部の主力は戦旗座。

 1929年3月5日には労農党代議士 山本宣治が暗殺された。

 1929年4月16日には日本共産党第2次いっせい弾圧があった。弾圧されても弾圧されても戦争に反対し、闘いつづける人が続いた。

 1930年5月18日、戦旗大阪中央支局は「戦旗防衛三千円基金募集文芸講演会」を実業会館で実施している。入場料30銭。労働者20銭。弁士は小林多喜二、中野重治、久板栄二郎、片岡鉄平、貴司山治、大宅壮一、徳永直、徳島一郎、岩出利、横山芳夫、和田隆、阿部眞二、京山あい子 其他数名。詩の朗読 戦旗座移動劇場部。主催 戦旗大阪中央支局 後援 ナップ大阪地域協議会。実業会館は内本町にあった。天神橋から南へくだった松屋町筋沿い、今のマイドームおおさか・大阪商工会議所あたりになる。

 特高月報昭和5年5月分には、「五月十八日夜大阪市東区本町橋詰実業会館に於いて、戦旗基金募集文芸講演会を開催したるが入場者約八百名あり是又相当の入場料(労働者二十銭、普通三十銭)を得尚現場に於いて基金袋を手交し四十二円二十銭の基金を醵集(きょしゅう)するに至れり。」とある。

 その夜は弁士たちは港区新池田町の事務所へ行った。行った中には小林多喜二はいなかったという。このあと、5月下旬、中野重治、片岡鉄平は逮捕されている。小林多喜二も6月に逮捕された。共産党へカンパすることが犯罪とされる時代であった。

 新池田町の事務所は、その2か月後、家主から立ち退きをせまられ、7月25日立ち退き期限の日、特高警察の監視のゆるんだ間に荷物をタクシーにつんで退去した。立ち退き料50円が、新しい事務所の家賃になった。

 戦旗座の報告によれば「斗争の第三日目に三名検束され、其の間事務所が立ち退きを食って、吾々は連絡をたたれ、八月中旬に連絡がつき始めたが殆ど病身となり」という状態だった(プロット第3回大会での大阪戦旗座の報告)。

  とりあえず美術美術家同盟の使っていた場所に荷物をおいた。北区沢上江(かすがえ)町(現在の都島区都島本通)に事務所を構えるのは8月か9月のことである。(戦旗大阪中央支局(後編) 沢上江町の時代 はこちら)。

 大阪には他に戦旗堺支局があった。

 この頃、1928年6月、関東軍は満州で張作霖を爆殺、1929年田中内閣総辞職、世界恐慌 そして1931年満州事変へと続く時代であった。

参考にした資料

「関西新劇史」大岡欽治 東方出版 1991年
「西灘村の青春」高橋夏夫 風来舎 2006年
「煙」各号 煙同人社


案内人 柏木 功

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