城北公園 の千人塚
この「千人つか」はもともと、城北公園後方の淀川堤防中腹にありました。
そのわけは「由来記」にかかれています。
1945(昭和20)年6月7日11時9分から12時28分の約1時間半のあいだにアメリカの飛行機(B29)409機が大阪市に爆弾を 落としました。また、B29をまもってきた戦闘機P51 138機もいっしょに機関銃で地上の人をうちました。
爆弾で燃えた まち から 城北公園に にげてきた人たちが 戦闘機の機銃掃射(=機関銃をうつこと)の ぎせいに なりました。
城東貨物線・赤川鉄橋 城北公園
淀川河川敷に1トン爆弾のあとが見える [1948年8月31日 米軍撮影]
(「千人つか」のできたわけ)
大阪大空襲でなくなられた数万の人々の中で、どこのだれかが分からない千数百のなくなられた方の体をここに集め、戦争のためにつぶした家の木を使って燃やしました。
浮かばれないたましいが泣くように黒いけむりが天にのぼり、3日3晩もえました。市民のみなさんの協力によって、その遺骨はそのままここに埋められました。
声もない罪のない国民が残念な思いのまま、むなしく土に埋もれ、草におおわれて世の人々に忘れられてしまうことに心をいため、心ある人 東浦栄二郎さんが 庭石にただ「千人つか」とだけ刻んでここにおきました。
それはアメリカ軍の占領下であったことと、この場所が建設省近畿地方建設局という国の管理する土地であったからです。
それから30年あまり、お参りの線香の煙が絶えることはありませんが、人々がこの塚のわけを知らなくなりました。
ここに、そのいわれを刻み、この地下に眠る人々の冥福をいのり、国の無事でやすらかなことと、軍隊や政府の悪い政治で国民がたいへんな苦しみにあうことをくりかえさせないで、世界の人々の平和を願う日本国民のすべての気持ちを世界に示すものです。
1980年5月5日 後世正亮記
(ホームページ作成者が由来記を子ども向けに書き直しました。意の不十分なところはお許しください)