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淀川区の忠魂碑

 日露戦争以後も日本は、朝鮮・台湾を植民地として支配し中国とのはじめ中国・アジア太平洋諸国への侵略を広げていった。

1914(大正3)年 第1次世界大戦参戦
1918(大正6)年 シベリア出兵
1931(昭和6)年 「満州事変」
1932(昭和7)年 第1次上海事変 「満州国」建国
1937(昭和12)年 廬溝橋事件 日中全面戦争(「支那事変」)の発端 上海事変 南京事件
1940(昭和15)年 日本、北部仏印(フランス領インドシナ)侵入
1941(昭和16)年 真珠湾攻撃 太平洋戦争
それに伴い、兵士として命を落とす人も増えていった。
 国にあっては靖国神社、大阪府にあっては護国神社、地域では忠魂碑が祭祀の場とされていった。

 大江志乃夫氏の「靖国神社」という本では次のように解説されている。
「忠魂碑建設の主体は、日露戦争直後においては、このように多様であったが、1910(明治43)年に帝国在郷軍人会が結成されると、以後は在郷軍人会の各町村分会が建設主体となったものが多くなった。」

 「忠魂碑の主要な建設主体であり、所有・管理・祭祀主宰の主体は帝国在郷軍人会の各地の支部分会であった。帝国在郷軍人会は、国民皆兵の徴兵制のもとで、予備役後備役退役将校・同担当官、予後備役下士卒、帰休兵、第一補充兵、海軍予備員、第一国民兵役にある者および六週間(短期)現役を終わって第二(一)国民兵役にある者(=師範学校を卒業して義務教育つまり小学校教師の職に従事している者、カッコ内は制度改正による変更)を強制加入の正会員とし、一部の現役将校・同担当官を特別会員とし、陸軍大臣および海軍大臣の監督下にある軍事組織である。」

 「忠魂碑は国家レベルでの靖国神社と同様に、公的な軍事組織の所有する公的な祭祀の対象であり、招魂祭という靖国神社祭祀に固有の宗教儀式の対象としての宗教施設であったということができる。

 帝国在郷軍人会は、敗戦直後の1945年8月30日に解散し、帝国在郷軍人会令は、同年11月25日に廃止された。その本部財産は収公され、忠霊塔・忠魂碑等については、翌年11月27日に撤去の通牒が内務省から出された。」

-「靖国神社」大江志乃夫 岩波新書-

北中島の「忠魂」碑


「忠魂」碑
(北中島小学校 前庭)

 今は、北中島小学校内からしか行くことができないが、学校とは別の地らしい。碑の前にある誌には次のように経緯が記されている。

昭和3年11月  帝国在郷軍人会北中島分会之を建立す
昭和21年   連合軍の命に依り之を倒す
昭和28年 北中島忠魂碑後援会以て再建す
昭和51年4月 北中島東三国遺族会並びに地区有志以て大改修す

 

神津神社の「忠魂碑」


忠魂碑(神津神社)

 大正10年5月、旧西成郡神津村役場(今の神津小学校横)に建立。大正14年、大阪伊丹線道路拡張のため十三公園に移転。敗戦でGHQの命令により撤去。そのとき自宅庭に埋めて保管する人があり、昭和49年11月 現在地に再建という。


案内人 柏木 功

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