北野高校
校舎に残る弾痕と殉難碑
旧制北野中学校の本館西側の壁面であったところに空襲による弾痕が28ヶ所残されている。
1945年3月14日の空襲により4年生1名死亡、6月1日の空襲により4年生1名死亡、6月7日昼の空襲では職員・生徒の奮闘で本館への類焼を阻止したという。
6月15日の空襲により、2年生の中島要昌、池田彰宏さんが学校防衛中、焼夷弾の直撃をうけ死亡、その殉難の碑が建てられている(1986年建立)。
弾痕の残る壁面は「戦争の生き証人」を残そうという北野高校の教職員・同窓生らの保存要望により、1984年の工事では設計を変更し剥落防止のために接着剤を施工。2001年度の改築工事にあたっても壁面はそのまま保存された。横の説明板には次のように書かれている。
空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」
太平洋戦争中、大阪は昭和19年12月以降同20年8月15日の終戦までに、50回を超える空襲を受け、多大の惨禍をこうむった。
昭和19年夏には、空襲の危難を避けるため、学童疎開がはじまり、大阪でも国民学校(現在の小学校)の児童たちは地方に疎開して行った。この頃、中学校や高等女学校(現在の高等学校。当時は男女共学生ではない)ではほとんど授業は行われず。生徒たちは軍需工場に動員されたり、食糧増産のため農場で働いたりしていた。
旧制北野中学校では、昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
この壁に残る28個の弾痕は、同年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmあり、機銃掃射の激しさを物語っている。
戦後50周年の憶いをこめて、これを残す。
平成7年12月
大阪府立北野高等学校
案内人 柏木 功