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炎に包まれた清水谷高校

 玉造にある府立清水谷高校は前身が清水谷高等女学校であった。清水谷高女時代の1945年6月1日の空襲により、清水谷は炎に包まれた。

 この日の清水谷高女教務日誌によると、
6月1日 天候 晴後小雨
 8時55分警戒警報発令、次イデ空襲警報。第2回目焼夷弾攻撃ヲ受ク。来襲敵機B29約400機、主力ヲ以テ大阪市ニ焼夷弾ヲ投下ス。本校ノ被害次ノ如シ。死者2名 重軽傷者16名
校舎 講堂・公民教室・倉庫1棟全焼、体育館・門衛室半焼、焼夷弾ノ屋根ヲ貫キシ所9ヶ所

 当時、3年生は勤労動員で枚方の陸軍造兵廠天ノ川工場に行っていた。校内には1・2年生などがいた。校内には10か所あまりの防空壕も掘られていた。警戒警報とともに防空壕に入った生徒達の上に火のついた焼夷弾の雨が注いだ。防空壕も運動場も火の海になった。飛び散った油に火がついて学校は炎に包まれた。

 同窓会の手で碑が建てられている。

友よ 永遠に 安かれ

昭和20年6月1日
校庭で被爆された
方々のご冥福を祈り
33回忌にあたって
これを建立する
         清苑会


案内人 柏木 功

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