大阪市内で戦争平和を考える大阪市内で戦争平和を考える

満州開拓物故者の碑(一心寺 内)

用語解説
「満蒙」……「満」は「満州」で今の中国東北地方、遼寧(リャオニン)省、吉林(チーリン)省、黒龍江(ヘイロンチャン)省のこと。「蒙」は「蒙古」(モンゴル)のことだが、今の内モンゴル自治区を指す。
「五族協和」……五族とは大和(日本のこと)民族 、漢民族、満州民族、朝鮮民族、蒙古(モンゴル)民族。
「王道楽土」……天皇制のもとのパラダイスをつくろうという意味。

 

「満蒙開拓団」

 1931(昭和6)年9月18日の満州事変まで、日本からの農業移民は1000人足らずだった。ところが、支配者の考えの中には「満州は日清・日露戦争などで日本が手に入れたもの」というのが強かった。こういう状況の中で、「内地の不況回避」「対露国防」などの名目で、東宮鉄男(とうみや かねお 「満州移民の父」といわれたが、張作霖爆殺の直接指揮者)、石原莞爾(かんじ)、加藤完治(農民指導者)らが、満州移民を主張する。

 1932(昭和7)年3月1日、満州国成立した後より具体化していき、1932(昭和7年)8月、閣議で第1次1000人移民が決まり、 同年9月「拓務省第1次武装移民団」(492名)が佳木斯(チャムス)に行く。現地人約500人から4万5000町歩(45000ha)を買収。農民一人あたり、たった5円くらいしかならず、現地人は立ち退かされた。これらの人々は当然のごとくゲリラ化していくわけである。このあとも同じで、結局、現地人を立ち退かせて入植するというわけで、中国人らからウラミを買う移民政策だった。

     1933(昭和8)年7月 第2次武装移民団
     1934(昭和9)年9月 第3次武装移民団
               10月 第4次武装移民団

 いろいろあった。ゲリラ・パルチザン(当時、日本側は「匪賊」と言った)の襲撃(現地人の土地を奪っているのだから当然)(大きいものとしては1934(昭和9)年の土龍山事件がある)、移民の内の「屯墾病」(とんこんびょう)(一種のノイローゼと思う)、「大陸の花嫁」(1934(昭和9)年9月が最初とのことで、日本から30名の花嫁さんが銃を持って馬車に乗った)。4次までは「試験移民」といわれる。

 1936(昭和11)年 2.26事件
 1936(昭和11)年8月25日、廣田弘毅内閣が7大国策の一つとして「20カ年で100万戸500万人移民計画」を発表。(第1期として1937(昭和12)年11月~1941(昭和16)年 10万戸の計画)

(1)対ソ戦略の関係もあって。ソ連国境に近いところに送られる。
(2)「送れ送れ」と一方的で受入体制が十分整っておらず、移民当人達は全く大変だった。国が「開拓団供出指定県」を決めた。
(3)土地取得は「満州拓殖公社」(満拓公社)が主としてやったが、現地人の恨みを買っていた。だからいつも武装しておかねばならなかった。が武器が足りなかった。
(4)軍から食料供出の割合が年々厳しくなり、それに加えて男子に招集がかかり、「匪襲」の度数が激しくなってきた。

 大阪市は現在の交野市私市の地に大阪市立興亜拓殖訓練道場をつくり、満州へ送る拓殖民に職業と軍事の訓練を行った。

 

「満蒙開拓青少年義勇軍(隊)」

 1934(昭和9)年の第3次開拓団に14名の青少年の一団があった。

 1937(昭和12)年 日中戦争勃発 新京(今の長春チャンチュン)で関東軍が中心となる会議で青少年による開拓が出され、第1次近衛内閣が決定。拓務省が「満州青年移民実施要綱」を発表。 数え年16才~19才の青少年が対象。

 茨城県の内原訓練所で2ヶ月間の訓練(日輪校舎とよばれるパオのような建物。日本体操(やまとはたらき)などに代表される国粋的なもの)。中心人物は加藤完治。その後、満州にある7カ所で3年間、現地訓練を受け、「義勇開拓団」に移行。

 各府県に目標数が割り当てられ、学校教員が説得とおどしで「義勇軍」に入れた。

府県別割当数と内原訓練所入所数
全体割当人数(入所実数) 大阪割当(入所実数)
1938(昭和13)年 3万1300(2万4365) 200(198)
1939(昭和14)年 3万2050( 9508) 500(225)
1940(昭和15)年 3万2200( 9618) 700(321)
1941(昭和16)年 1万2600(1万3335) 350(278)
1942(昭和17)年 -   (1万2631) - (342)
1943(昭和18)年 1万5000(1万1510) 350(240)
1944(昭和19)年 1万3500(1万1640) 350(313)
1945(昭和20)年      ( 3848)  
  計(9万6455) 大阪計(1917)
全国19位

 

1945(昭和20)年8月10日、開拓団はラジオでソ連軍の侵入を知った。しかし、軍が移動を認めたのは数日後だった。開拓団は「棄民」とされ、関東軍の防弾堤とされたのである。

 その後はソ連軍の侵入と現地人による掠奪、暴行と避難となる。

 満州全土の開拓団についてみると、1932(昭和7)年の第1次から1945(昭和20)年の第14次まで10万6000戸、31万余人のうち、敗戦による死者8万余人ということになる(厚生省調べ)。

 一心寺にある満州開拓物故者之碑に書かれていることは、開拓団の当時の人々の気持ちとしてはわかるが、今日では納得しがたい面もあるが紹介しておきます。

 

満州開拓物故者之碑の由来

 この碑には満蒙の昿野で無惨にも散った8万余人の満州開拓者とその関係者の御霊が合祀されています。

 昭和7年(1932年)に始められた満州開拓事業は現在の中華人民共和国東北地区に五族協和の王道楽土創建を目的として、広大な沃野を開拓し、食料の増産と北の護りに備える為、当時の重要国策として推進された大規模な農業開発事業を完遂するために行われました。

 大阪府においても、官民一致の勧奨により、府、市の転業開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍をはじめ、その他あわせて、4600人が満州の地に送り出されました。

 昭和20年8月15日、祖国日本の敗戦とともに満州国は崩壊し、世界に比類なき王道楽土の建設は夢と消え失せ斃れた者8万人余、うち本府出身者は1600余に及び、実に世界開拓史上、例のない悲惨な結果を遂げました。

 幸いに一命を得て生還した我等は、直ちに大阪府開拓自興会を組織して再起を誓うとともに、昭和26年9月、7回忌を期して、元農林大臣石黒忠篤氏に揮毫をお願いし、「満州開拓物故者之碑」を一心寺に建立いたしました。

 当時は連合国軍に占領下とのこととて、これらの建碑は非常にむずかしい時でしたが、当寺住職前田聽瑞師の一方ならぬご理解と大阪府引揚開拓民援護会のご協力をいただいて出来たのであります。

 我等は今ここに異郷の昿野で悲惨な最期を遂げられた本府関係物故者の氏名を本碑の下に奉納し、そのご冥福を永久に祈るとともに、祖国と民族のために身命を捧げられた。満蒙開拓団と満蒙青少年義勇軍の業績を顕彰し、併せて人類永遠の平和を祈念するものであります。

昭和55年9月
 社会福祉法人 大阪自興会
 一心寺59世  真誉恭行 書

(原文縦書き そのため漢数字を算用数字に変えています。)

 

一 心 寺

 創立当時は四天王寺僧坊の一つであったが、1185(丈治元)年、法然上人が庵をつくってから浄土宗の旧跡となった。慶長年間に、三河の僧がここで一千日の念仏修法を行ったので、その一心称名をもって一心寺というようになった。
 この寺は「納骨寺」として有名で、全国から納められた骨で阿弥陀如来をつくっている。お骨佛とよばれ、1851(嘉永4)年から始められて、10年を1期として、一骨佛をつくって来たが戦災で消失した。今、第7期(昭和22年以前)から第12期(昭和62~)が祭られている。
 酒封じの本多忠朝の墓(大きい)も有名である。

案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員)

↑上へ